邂逅する異世界人
ショコラティエの誘導に従い向かった先で、ヨシアはいまだかつてない衝撃を受けた。
眼前には裸の男。岩石を貼り付けたような頑健さを、樹木を束ねたような力強さを感じさせる、筋肉の塊のような男だった。背丈はヨシアと同じくらいだが、体重はヨシアよりもずっと重いだろう。黒く艶めく短髪を揺らし、黄色い肌を筋肉で膨張させ、男は吠える。
「ソォラドッカラデモカカッテキヤガレ!」
異国の言葉だろうか、なんと言っているのかはわからないが雄々しく叫び、信じがたい速さで血色の人形ーー低位の悪魔に肉薄する。
「ゼァッ!」
踏み込み同様、繰り出された攻撃も目にも止まらない速さだった。顔、喉、みぞおち、金的に、突きと蹴りを織り混ぜた連擊は並々ならぬ打撃音を響かせていた。相手が人間であったならたちまち絶命していたことだろう。
血を媒介に喚ばれたのだろう悪魔は打たれた箇所を大きくへこませたたらを踏んだ。男は悪魔の手足をかわし、いなし、拳足を打ち込み続けている。
「ワザワザイドウシテクルッテコトハ、ドウタイガホンタイッテコトダヨナァ! タブン! ソウデアッテクレヤ!」
「あの男、顕現した悪魔を相手に圧倒しているつもりのようだね」
ショコラティエの言葉でヨシアはハッと我に帰った。
「いけない、助けないと!」
剣を握り締め男と悪魔に割って入ろうと駆け出す。悪魔の攻め手は肉弾に限らない。あれほど密着していては危険だ。
男はヨシアと悪魔の間を維持しよう立ち回っている。ヨシアが横に動くとそれを敏感に察知して滑るように移動し常に背中を向け続けていた。その足運びにも感心するが、今はその巧みさがもどかしい。もどかしさに歯噛みしたその時、
ドッ
と音がした。悪魔の体、その前面が爆ぜて無数の血の針が飛び出したのだ。一本一本が腕より長く、虫の這う隙間すらない高密度の針の群生。無音無動作の変身。
先ほどの音は、男がそれをかわすために距離を取り、地面を蹴った音だった。
「フゥ、アッブネェ。ソウイウサプライズハマエモッテオシエテクレヨ」
距離のあったヨシアから見ても不意打ちだったはずの攻撃だが、男は余裕をもって避けきっていた。筋肉だけではない。その目も、反応も、驚愕に値する。
「いや、今はそれどころじゃないか」
意識を悪魔に切り替える。今なら男を巻き込む心配はない。右手の剣を振りかぶり、叫んだ。
「打ち据える雷よ!」
起句によって魔法が行使される。ヨシアが持つ中でも最も出の速い魔法だ。切っ先から青白い電撃が走り瞬きの間に悪魔を包み込んだ。
「■■■■■■■■■■■■!!!」
不出来な楽器のような声で悪魔が叫ぶ。体を灼く電撃に苦しみ身を捩るがヨシアは手を緩めず魔力を込め続けた。視界の端で男がぽかんと口を開けているのが見える。間の抜けた顔が少しおかしかった。
「■■■■■……」
悪魔の苦鳴は不意に途絶えた。ぷつりと糸が切れたように体が崩れ、血溜まりとして地に落ちる。不快な臭いを漂わせて煮立つ血液は、もう動くことはないはずだ。
「ナニイマノ……イチゲキカヨ……」
「呆気ないものだね」
ショコラティエが言う。
「確かに位は低かったけど、それでも悪魔だ。いったいどうしてこんなところに……」
「さてね。どうやら人の血のようだし、野良や迷子ではなく人に喚ばれたのだろうが……。邪教徒が好んで使う術だが、近くに術者はいないようだ」
ショコラティエの探知能力は一級品だ。悪魔に関しては特に鼻が効く。彼が近くにいないというのなら、徒歩で半日の範囲にはいないだろう。
「だが、ここから南に少し行ったところに人の死体が転がっているようだ。悪魔の使役でも企んで失敗したのかもしれないね。もしかしたら彼も生け贄候補かなにかかも」
つとショコラティエの視線が男に移る。男は離れた位置からヨシアとショコラティエを、そして血溜まりを眺めていた。その目は丸く見開かれ、口も半開きだ。驚愕を顔中で表していた。
「イヤハヤタスカッタヨアリガトウ。サッキノハマホウテキナサムシング?」
「彼が喋っている言葉、わかるかい?」
「いや、わからないね」
ショコラティエの言葉にヨシアは小さく嘆息する。二万年生きていると豪語するこの悪魔ならもしかして、という期待もあっただけに落胆は大きい。
改めて目の前の男性をみやる。信じられないほどに筋肉のついた体。刺傷、裂傷、擦過傷など、数多の古傷に彩られた全身を駆動し、尋常ならざるスピードで繰り出される兵器のような拳足。彼の尽力で悪魔を退治できたというのに、言葉が通じないのでは礼のしようもない。日焼けが少ないことから普段は服を着ていることが伺えるのに、今は裸だというのも深い事情を感じさせる。その事情が聞ければ少しでも手助けが出来ると思うのだが、様々な人種の集まるタルゴゴでも聞いたことのない言語だ。
「言葉はわからないが、彼が何者なのかは心当たりがある」
「本当かい!」
「私は必要に迫られなければ嘘は吐かないよ。本当だとも」
「できれば常に誠実であってほしいものだけどね……。それで、心当たりとは?」
うむ、と頷きもったいつけるように彼を見つめるショコラティエ。
「発達した筋肉。魔法を見たときの驚き様。なにより私でも理解できない言語。おそらくは異世界人だろう」
異世界人。
「異世界人って、おとぎ話の?」
異なる世界からの来訪者。いまだこの世界に鉄が無かったころ。どこからともなく現れて鉄をもたらしたとされる。異世界人はその後も度々現れ、安全な食事や便利な道具の知識、神の教えや仏の御心といった安らぎを授けていくという。
「あれはおとぎ話ではなく、史実だよ。私も直接会ったことはないが、異世界人が来ると悪魔の間でも話題になるからね」
「え? 異世界人ってひとりじゃないの?」
「ひとりじゃないさ。聞いたところでは異世界には六十億とも七十億ともつかない人間が生活しているそうだよ」
「六十……、億って数字だよね? どれくらい?」
「タルゴゴ百個よりも多いくらいかな」
きっと嘘だろうとヨシアは思った。
「なんでもいいけど、本当に異世界人だとしても言葉が通じないのは困るね。彼の言葉は伝わってないの?」
「さてね。私が辛うじて知っているのは英語とロシア語くらいのものだが、彼の言葉はどちらとも違うように聞こえる」
「うーん、じゃあ状況は変わらないか。彼と同郷の異世界人でも来てくれないと会話は出来ないね」
「そうでもないさ」
得意気に顎を上げたショコラティエがさっと右翼を振るうと、羽根が一枚抜け落ちてヨシアの手に収まった。
「これは?」
「【伝わる羽根】とでも言おうか。君にわかるように言うなら、そうだな。言葉が通じるようになる魔法だ」
「そんな魔法もってたの?」
「いや、今作ったのだよ。雷には【伝わる】性質があるからね」
雷を司る悪魔、蒼電の大公ショコラティエだからこそその場で簡単に魔法を造り出せるのだということをヨシアは知っている。人間の魔法使いでは到底なし得ないことだ。
「即製なので不具合もあるだろうが、なに、じきに世界に馴染んでいくさ」
男はヨシアの手にある羽根をまじまじと見詰めている。目が合うとニコッと笑った。日本人的な曖昧な笑いだったが、ヨシアには友好的な笑みに見えた。警戒はされていないようだと感じる。
「それを彼の耳元へ」
「えっと、こう……?」
ヨシアが羽根を持つ手を男へと伸ばす。男は身を引いてそれをかわしたが、ヨシアが追い掛けると、眉根を寄せながらも受け入れた。
「ウワッエ、ナニ!? キモチワルッ!」
すると青い羽根……【伝わる羽根】はふわりとヨシアの手を離れ、音もなく男の顔にめり込んでいった。
「ちょ、ちょっとショコラティエ! この人痛がってない!?」
「ほうほう、顔に入ってしまうのか。もし皮膚や骨を貫通するなら、これで死んでしまうかもしれないな。なに、次からは改善して死なないように作るさ」
「次からじゃ困るんだよ!」
これだから悪魔は! と心中で毒づき、腰に下げているポーチに手を伸ばす。止血の薬が入っていたはずだ。間に合えばいいが。
「よく見たまえ。血は出ていないよ。皮膚も無事だ」
「…………よかった」
男は羽根のめり込んだ箇所、耳の裏を手でごしごしと擦っている。よくみるとそこには青い羽根の紋章が浮かび上がっているが、怪我をしたわけではなさそうだ。顔も不快そうだが、痛みに絶叫するわけでもない。なにより、そう、
「うーっわ気持ち悪い気持ち悪い。足ワキャワキャ系の蟲に這い回られるくらい気持ち悪い!!」
言葉がわかる。
ショコラティエがヨシアの肩から飛び立ち、男の前に滞空して、言った。
「私の言葉がわかるかな、中国人?」
「中国人ってのが、もう小鳥が喋ったくらいじゃ驚かない鋼の精神を備えた俺のことなら、俺は日本人だよ」
「おや、違うのか。黒髪黒目で最も人口が多いのは中国人と聞いていたんだがね」
「あー、それは合ってるな。多分あってる。ただ俺がそうじゃなかったってだけ。珍しい事もあるもんだな、喜んどこうぜ。言葉もわかるし」
「それはなにより。私の羽根はきちんと作用しているようだね」
「なにより? この辺にも草で編んだ床があるのか」
男が突然おかしなことを言い出した。草で編んだ床。ヨシアは今まで見てきた建物を思い浮かべるが、どれとも違う。
「いや、別に草で編んだ床がある必要はないのか。この鳥に俺の国の言葉を教えた奴が一緒に教えればいいんだし……」
思案顔の男に、ヨシアはつとめて笑顔で話しかける。
「草でできた床にも興味があるけど、僕の小鳥が君の母国語を喋っているわけじゃないってことは伝えておこうかな」
「うおっ、喋った!」
□
「私の言葉がわかるかな、中国人?」
「中国人ってのが、もう小鳥が喋ったくらいじゃ驚かないメンタルを備えた俺のことなら、俺は日本人だよ」
「おや、違うのか。黒髪黒目でもっとも人口が多いのは中国人と聞いていたんだがね」
「あー、それは合ってるな。多分あってる。ただ俺がそうじゃなかったってだけ。レアケースじゃん、ラッキーだったな。言葉もわかるし」
内心の動揺を軽口で誤魔化し応じる俠龍。この数十分で不可思議には大分慣れた俠龍だが、鳥が喋るとは。喉も舌も嘴も、そうは出来ていないだろうに。
「それは重畳。私の羽根はきちんと作用しているようだね」
したり顔(?)でうなずく小鳥だが、その言葉は聞き流せない。
「重畳? この辺にも畳があるのか」
言葉の由来を俠龍は知らなかったが、しかし畳と入っている以上きっと畳に由来するなにかがあるのだろう。
「いや、別に畳がある必要はないのか。この鳥に日本語教えた奴が一緒に教えればいいんだし……」
俠龍が自分の疑問に自分で解答を用意していると、銀髪の青年が口を開いた。
「草でできた床にも興味があるけど、僕の小鳥が君の母国語を喋っているわけじゃないってことは伝えておこうかな」
「うおっ、喋った!」
いや、ずっと喋ってはいたのだ。いたのだが、理解できない言葉など雑音とそう変わらない。だが今は違う。はっきりと日本語として認識できている。
「日本語に聞こえるけど、違うって?」
「うん。僕は僕の母国語を喋っているつもりだし、君の言葉も僕の母国語で聞こえてる。君も同じだろう?」
「っぽいな。テレパシーみたいな? どこかに車イスの超能力者とかいる?」
「いないよ。強いて言うなら、私がその超能力者だ」
やはり人語を解するらしい小鳥が、青年の肩でパタパタと羽を鳴らして自己主張する。それを聞き、俠龍は自分の右耳の裏を撫でた。なんの感触もないし俠龍には見えないが、そこには青い羽根がタトゥーのように刻まれている。異物感と共に侵入してきたあの羽根が某かの働きをしているのか。
「君の体に埋めた羽根を、私は【伝える羽根】と呼んでいる。発信者の意図を組んで周囲の人間に意思を伝える魔法だよ。そうだな、翻訳の魔法と言い換えてもいい。範囲は声が聞こえる距離程度だがね」
「魔法……」
「そう、魔法。お互いに馴染みのない言葉なんかは、発信者の伝えたい内容に噛み砕いてくれる優れものさ。多少の齟齬はあるかもしれないが、そこはフィーリングで理解してくれたまえ」
翻訳の魔法。俠龍はオカルトにもファンタジーにもそれほど造詣が深いわけではないが、人並みに娯楽を楽しむ。その知識では魔法とは、悪魔と契約を交わした人間が行使できる超常であったはずだ。魔法を使うとされた人間を排斥した歴史を学んでもいる。
「熱心な宗教家じゃなくてよかったよ。もしそうだったら利便性と信仰の間で煩悶しているところだ」
もっとも、言葉が正しく翻訳されているとする根拠もないが。とも思考する。この小鳥か青年かに内容をねじ曲げられている可能性は否定できるものではない。彼らの素性も人となりも、俠龍は知らないのだから。
「何を話すにしてもまずは自己紹介だ。俺は俠龍。ふたりの名前を聞いてもいいかな? てかLINEやってる?」
疑い出したらキリがないことだし、俠龍はとりあえず信用することに決めた。そもそもそう決めたから羽根だって受け入れたのだ。ひとまず人里まで案内してもらい、適当なところで別れる予定を立てる。それまでに襲われでもしたら、せいいっぱい抵抗しよう。
「手紙ならいつでも応じるよ。僕はヨシア・グランデ・ショコラティエ。こっちの小鳥は……」
「ヨシアと契約を交わしている悪魔の大公、ショコラティエだ。どうぞよろしく」
「チョコ職人?」
またしても聞き逃せない単語の登場に、俠龍は今度こそ疑問を表出させる。重畳はまだいい。そういう意味の言葉がそう翻訳されただけだ。だが名前となるとどうだろう。もしそういう意味をもつ固有名詞が翻訳されてしまっているとしたら、いささか不便に過ぎる。「木下太郎」と名乗られて「木の下に居を構える男」と聞こえてしまったのではコミュニケーションが取りづらい。
訝しげな俠龍をよそに、ショコラティエは我が意を得たりと両翼を広げた。
「そう、チョコレート!! 私はチョコレートが大好きなのだよ! 聞くところによると君たちの世界ではチョコレートのスペシャリストのことをショコラティエと呼ぶそうではないか。悪魔だろうと人間だろうと、私ほどチョコレートを愛しているものはおるまいと自負していてね。前の名前は捨ててショコラティエと名乗ることにしたのさ」
「改名しちゃったのかよ……」
悪魔にとって名前の扱いがどういったものなのか知らないが、そんな理由で改名してしまっていいのだろうか。当の悪魔が納得しているのならいいのか。
「ヨシアはチョコレート作りがうまくてね。その手で鮮やかで華やかなチョコ菓子を作り上げる。あまりに見事なのでチョコレートの献上を条件に私の魔法を使わせる契約をしたのさ」
「チョコレートで契約を? 俺が知る悪魔よりずっと穏当なんだな」
ともあれ、どうやら名前が翻訳されているわけではないらしい。そもそも日本語に翻訳されているとしたら「私の名前はチョコ職人です」と聞こえているはずなので、俠龍の心配ははじめから杞憂だったのだが。
「で、なんだ。君たちの世界って言ったか? まるでここがそうじゃないかのような物言いじゃないの」
悪魔やら魔法やら異世界やら、俠龍の疑問はつきない。