侠龍の日常・上
二足の生き物が足を前後に開いたとき、前の足を「前足」、後ろの足を「後ろ足」
四足の生き物の前の足を「前肢」、後ろの足を「後肢」と表現しています。
侠龍がタルゴゴへやってきて半月。侠龍の生活サイクルも定まってきた。朝は日が昇ると共に起き、買い置きの軽食を摂りジョギング。やや遠回りをしながら孤児院に向かう。着く頃には汗だくになっているが、構わず稽古を行う。地面に梯子状に引いた線の内に立ち、ラダートレーニングを一通り。全身から吹き出す汗をシャツで拭い、今度は型を繰り返し繰り返し、力を込めながら。
型が終わったら巻き藁(地面に突き刺した木の板に荒縄を巻いたもの。正拳突きをして拳表面と手首、肘、肩の関節を鍛える)だ。借りた土地に埋めた巻き藁を突く。突く。突く。正拳突きの次はチェーンパンチ。チェーンソーの刃の軌道のように、両の拳をぐるぐる回しながら突いていく。
十分に突いたら、次は蹴り。太い鎖の束を掛けて吊るし、下部には重りをつけて張らせてある。それを蹴る。足の甲で、脛の各所で、踵で、爪先で、丹念に丹念に痛め付ける。手刀、抜き手、肘に膝も、それに放つ。痛めたそばから治る体は、通常では考えられない早さでもって、痛め付けた箇所を分厚く角質化させていく。
「ん」
すべてが終わる頃には朝日は完全にのぼり、相応に腹も減ってくる。全身の汗を拭っていると、侠龍に食べ物を差し出す小さな手があった。ヤジムだ。
「おう、ありがとう」
早朝から行われる侠龍の鍛錬と、それを見学するヤジム。ここ最近で定着してきた光景だ。ヤジムは未だに侠龍を認めてはいないが、聖甲騎士との決闘に勝った事実がある。強聖甲騎士に勝った男が身近でトレーニングをしているのだから、強さに憧れる男として、それを見て自分に活かそうと早起きを始めたのだ。
別に見られて困るものでなし、侠龍もそれを咎めはしない。見物料として院で作った朝食を持ってこさせてはいるが、その程度だ。なお、その分の料金はきちんと院長のジェスキドンに渡している。
ヤジムと並んで下草に座り、固いパンに固い肉とひなびた野菜を挟んだサンドイッチを頬張る。朝の鍛錬の締めに顎を鍛えているわけではない。
「相変わらず固えなこれ」
「……あんたのお陰で院ではもうちょっといいもん食ってるよ」
「俺のお陰ってこたないだろう。感謝は、仕送りしてくれてるタイガーマスクにな」
「そうだな。あんたが仕事をした日には必ず寄付してくれるそいつに感謝だ。なぜか寄付金はあんたが持ってきてくれるけどな」
「仕事帰りにばったり会うんだよ。正体はピザ屋のバイトか記者じゃないかと睨んでる」
ヨシアが仕送りをしているのを知ったからか、孤児院の経済状況を察したからか、侠龍もヨシアに倣うように仕送りをするようになった。侠龍はその目に映った人を衝動的に助けてしまう悪癖を持っている。子どもが貧しているとなると、なおさら弱い。
子どもは金のことなど気にせず、うまくて体にいいものを食べて欲しい。それが侠龍の願いだ。実現させるには、まだ稼ぎが少ないが。金の余裕が無いわけではないが、食事や装備を妥協するわけにもいかず、結局報酬から幾分かの寄付を続けることしか出来ていない。
それでも孤児院からすればこれまでヨシアからだけだった仕送りが倍に増えたわけで、それなりに懐具合は改善された。子どもが遊ぶための遊具も新調されている。
「じゃ、仕事だから」
ヤジムが尻を払って立ち上がる。孤児院からも、子どもたちが出立する元気な声が聞こえた。ミアとシーラが見送っている姿も見える。
「おう、いってらっしゃい。気を付けてな」
見送る侠龍に背中越しに手を挙げて応え、ヤジムは子どもたちの集団に走っていった。
孤児院ではジェスキドンが子どもたちに読み書きと計算を教えているらしい。昔は名の知れた商人だったそうだ。この世界は識字率も四足演算の周知そう低くはないが、手紙の代筆や露天などでの算盤代わりの仕事があるらしい。成長すれば商人としての道も拓けるだろう。
児童労働について想いを馳せられるほど、ここは人心に余裕がないのだ。
◯
ヤジムと別れたあと柔軟をし、軽く走りながら沸き上がる食欲亭へと帰る。まだ日は登ったばかりだが、通りにはもう露天が並んでいた。
食欲亭につく頃には都市はすっかり起床している。宿客と食事客で食欲亭の食堂はそれなりの賑わいを見せていた。食堂内を見回し、ヨシアがいるテーブルを見付けて椅子に座る。
「おはよ」
「……ああシャロン。おはよう」
ヨシアは寝ぼけ眼に寝癖髪で朝食を摂っていた。侠龍が食べたサンドイッチより上等なパンを、野菜の浮いたスープに浸してもそもそと食べている。
「アラドさーん。俺も朝食ひとつー。あとコーラと虫を少々」
「はーい」
注文を済ませるとヨシアが眠そうな声を出した。
「よく朝からそんなに食べられるね」
「ヨシアからしたら寝起きだけど、俺はとっくに起きてひと汗かいた後だからな」
「シャロンは早起きだなぁ」
「ヨシアは朝弱いよな」
雑談を交わして食事を待つ。ショコラティエもテーブルに乗り、無言でチョコを啄んでいた。ほどなくしてアラドが朝食を持ってくる。薄い肉とごろごろした野菜のスープ、パンが数切れ。
「今日はギルド行くんだっけ?」
「うん。ティエが僕に依頼を出してくれているはずだからね。それを受けに」
「ティエの依頼か。山に行くんだっけ?」
「そうだよ」
ティエはよく西の山に入る。鉱石の採掘をするためだ。その際は道中の魔物や動物から身を守るため、ヨシアに護衛依頼を出すのだ。
「あそこって鉱山だったんだな。でもそのわりにここらで炭鉱夫っぽい人を見た覚えはないけど」
「割りに合わないらしいよ」
「というと?」
「ほら、西の山に入るまでに樹海を抜けなきゃいけないし、そこには魔物も出るからね。それに、山には強い魔物もいっぱいいるみたいだし」
「へえ、強い魔物が」
「うん。何年か前に天候のせいで餌が獲れなくなった魔物が降りてきたってことがあったらしいんだけど、その時は聖甲騎士団が駆り出されたって」
「騎士様が。ってことは衛兵や傭兵には荷が重いくらいの魔物がいるのか」
「加えて埋蔵量も期待できないとかで、採掘のために周辺を整えるコストの方が高くなるんだって。だからあの山から採れる鉱石はほとんど手付かずなんだ」
「なるほどねぇ……。なんでティエはわざわざそんなところに採掘に行くんだ?」
侠龍はスープを飲み干し器を置いた。ヨシアはようやく目が覚めてきたのか、食事のペースが上がってきた。ちょうどそこにアラドが皿に盛られたなにかの幼虫の姿焼きとコーラを持ってくる。串は二本用意されているが、ヨシアは食べないだろう。
「ティエはひとりだからね。採掘量が少ないっていっても、それは公共事業としては成り立たないってだけで、個人のお店で使うには十分なんだって」
「なるほど。護衛も少なくて済むしな」
「うん。それにティエには加護があるから」
「加護?」
虫をつまみながら会話を続けていると、足音も大きく大男が入ってきた。大男は沸き上がる食欲亭で食事中の面々を見上げ、胴間声を響かせた。
「素手男のシャロンってのはどいつだ! 拙はクテナ・サウラ。シャロンに決闘を申し込む!」
◯
シュルクとの決闘に侠龍が勝ってから、日ごとに侠龍への決闘の申し込みは増えていった。
初めは断り逃げ回っていた侠龍だが、何度断ってもしつこく闘いたがる者や、闇討ちを仕掛けてくる者が現れると、正面から来てくれているうちに相手をしようという気になっていた。
ここタルゴゴは周辺各国から多くの人が集まり、人も物も激しく流通している都市だ。加護しか持たない露皮種の男が、素手で聖甲騎士との決闘に打ち勝ったという噂は瞬く間に広がり、都市の内外を問わず腕自慢を侠龍の元に集めていた。
多い日は三度四度も決闘を挑まれる侠龍も、初めはうんざりしていたが、今ではそれなりに楽しんでいる。侠龍も所詮は武術格闘技をやる若い男。自分の強さを試したいという欲求は、どうしようもなく存在していたのだ。
そうして決闘に明け暮れるうち、侠龍はあることに気が付いた。
この世界には、武術も格闘技も存在しないのだ。
なにせひとりひとりの体の作りが大きく違う。親子で同じ生き物の特徴を継ぐことはあっても、その生き物の特徴がどの程度濃く出るかがわからないのだ。多くの人はホモサピエンスとなにか別の生き物の混ざったような体の作りを持っている。同一の規格を持っていないのだから、効率を求めようがなく、武術の発展もまた、なかった。
多くの露皮種は闘う職には就かない。当然だ。動物や昆虫がその体の作りを損なわず、自重で潰れるようなこともなく人間大になっているような世界では、戦線に『人間』の居場所はない。就いてもすぐに死ぬか、大怪我をして再起不能になる。
そのため純粋な露皮種は、大体は商人か農家か職人になる。同一の規格を持つ露皮種が闘わないのだから、武術が産まれなかったのだろう。
◯
クテナ・サウラと名乗った男は全身にツナギトゲオイグアナの特徴を備えていた。全長は二メートルの中ほどか。一メートル近くもある尻尾には凶悪な棘状の鱗が生えている。顔の作りと前後の足の骨格が人間で、それ以外がツナギトゲオイグアナだ。背骨がイグアナなため四つん這いだが、前肢と後肢がそれぞれ人間の腕と足の形をしているため、やや尻の上がった極端な前傾姿勢になっている。
「お前が素手男か」
「そう呼ばれるのは不本意だけどな。もっと格好いい名前が広まってほしいよ。キャプテン・侠龍とかどうだろう」
会話をしながらも侠龍はクテナを観察する。人間の手足は四足歩行には向かない。腕は貧弱で短く、足は自由が効かない。素早い取り回しは出来ないはずだ。並みの人間よりよほど太い腕を持ってはいるようだが、それをどう使うのか。
同様にクテナも侠龍を観察していた。縦長の瞳孔で侠龍の全身を舐めるように見ている。左半身の構え。腰を大きく落とし、両手は開手でどちらも臍の高さ。左手は膝に沿わせるように伸ばしている。下段への備えだが、クテナは侠龍が経験した誰よりも低く、どう備えたものか見当もつかない。
「だいたいあんただって素手じゃねえか」
「ああ? どこに眼つけてんだよ、この立派な尻尾が目に入らねえのか?」
「いや手にはなにも……、ああいや、素手の意味が違うのか? なんでもない、忘れてくれ」
こちらの世界において、素手とは武器だけでなく尾や角、牙や爪など、闘いに使える器官を持っていないことを指す。また、尾や角を持っていても、それが闘いに向かない場合も素手と言うことがある。
シュルクとの一戦以降、侠龍はこういった突発的な決闘を多く経験しているが、決闘らしい決闘はシュルクとのものだけだった。それ以外は決闘とは名ばかりの野試合に近い。申し込まれ、受諾し、人混みが円状に捌け、なんとなくはじまり、なんとなく終わる。決闘だなどど行儀よく言ってはいるが、ほぼ喧嘩なのだ。それを誰もが承知している。
だからクテナが開始の合図を待たず猛然とタックルを仕掛けても、誰に咎められるわけでもない。
「シャッ!」
速い。侠龍とて油断していたわけではないが、想像よりずっと速い飛び込みだ。しかも異様に低い。頭の位置は膝と同じか、それより下か。
「うぉっと……!」
咄嗟に前足を上げて回避する。重心を後ろに残していたため姿勢を崩さず避けることができた。クテナの前肢が虚空を掻く。どうやら肩も人の骨格であるらしい。しかしその凶悪な爪の捕獲力は、人とは比べ物にならないだろう。
「フンッ」
咄嗟の回避から踏みつけを繰り出すが、クテナの回避が早かった。頭から尻尾までをピンと伸ばした姿勢でゴロゴロと転がり、侠龍から距離を取りながら構えの外、左側に移動している。
「シャァッ!」
すかさずの飛び込み。最初の飛び込みは誘いか、侠龍の前足はべた足で重心が真上にきてしまっている。咄嗟に足を動かすことはできない。このままでは足を捕られ、そのまま引き倒されるか、噛みつかれるか。
侠龍は足から重心を抜くことに拘泥せず、体勢を崩した。向かってくるクテナに倒れ込むように体を倒し、目当ての足を上げる。倒れながら体を捻り、クテナの上にうつ伏せに覆い被さることに成功した。
「なにっ!?」
「捕まえたぁ!」
クテナの背面を捕った侠龍は、素早く首に腕を掛けにいく。裸締めで決めるつもりで伸ばした腕だが、それが届く前に侠龍の背中に重く鋭い痛みが走った。
「ぐっ、おぉ……!?」
棘付きのメイスのような形状の尾が、侠龍の背中を叩いていた。棘一本一本が太いため深く刺さりはしないが、鞭のしなやかさでもって繰り出されてはたまらない。
背中の痛みに侠龍が怯んだ隙を逃さず、クテナは侠龍の下から逃れていた。侠龍は後方に跳ねて距離を取る。傷は負ったが、すぐに治る。体勢を立て直して対策を考える。
早いタックルの正体は人間の四肢だ。腕と比べて長尺な足のせいで尻が上がり、頭が下がっている。クテナの場合背骨も長く柔軟。尾で重心の制御も出来る。本来横を向くはずの膝も正面を向いている。四つ這いから繰り出されるタックルに限り、他の生き物よりも骨格的に優れているのだ。
対する侠龍は重心を落とすのをやめ、足のスタンスを狭くした。後ろ足に重心を乗せ、前足の踵を上げる猫足立ち。クテナはジリジリと距離を詰めて来る。タックルの射程に入れようとしているのだろう。棘付きの尾を上げて牽制しているが、背中の中程までしか届いていない。正面に向き合っていれば尾は怖くない。
今度は侠龍から仕掛けた。後ろ足拇趾をスライドしながら放たれる高速の前蹴りが、クテナの顔面を捉える。ベシィッ! と肉を打つ音が響いた。
「ぐはっ……!?」
「チィェアッ!」
すかさず蹴り足を軸にし骨盤を回す。後ろ足を引き寄せやや上方から、足裏全体で踏みつけるようにクテナの顔面を打ち抜いた。前蹴りより湿った音が響く。地面に打った顎も割れた。
「ま、まいった! 拙の負けだ!」
立て直す時間を与えまいとさらに蹴ろうとした侠龍だが、血の泡を飛ばすクテナの声に、構えを解いた。
◯
「いやぁまいったまいった。噂に違わぬ益荒男ぶりじゃねえの。蹴りだよな? 飛んでくるのがわからなかったぜ」
鼻と口から血を流し顔の下半分を赤く染めながら、クテナは笑っていた。
「どんな噂か知らねぇけど、眉唾だよ。タックルに捕まらなかったのは運がよかったからさ」
正直な所感だ。もし初手のタックルをくらっていれば、そのまま爪で腱や首を掻かれていたかもしれない。あまりにも低いそれは膝での迎撃すら許さない。恐ろしい攻撃だった。
「拙にも商売がある。ここは顔を立てられておいてやろう」
勢いよく鼻を吹き、地面に血を噴き出しながらクテナが言った。
「拙はジアン国の闘技場で闘士をやってんだ。これでも結構稼いでるからよ、来ることがあったら声かけてくれ。飛び入りも歓迎してるぜ」
「闘技場? そんなものもあるのか。よその国なんていつ行くかわかんねえけど、そんときは頼らせてもらうわ」
「おう! 闘技場でやるときは、拙も本気を出せるしな」
ニヤリ、と笑うクテナ。闘う様で金を稼ぐ闘士として、野良試合で手の内を見せるような真似はしない。強いと噂の露皮種とひと当てし、名を上げての集客でも目論んでいたのか。
クテナの獰猛な笑みに、侠龍は苦笑を返しながらクテナの本気を想像していた。




