腹が減る
小さな翼で滑空する鳥を打ち、狸のような狐のような獣を打ち、攻撃的な蜂の群れを打ち、打ち、打ち。
侠龍は足元に傾斜を感じはじめていた。西の山に、登り始めているということか。
オークを倒してからも、侠龍たちは不自然な肉を見掛けた。どれも矢傷で倒れた、この森にはいない、肉の柔らかい小動物だという。奥に入ってから見掛けたものは皮も剥がれてはおらず、矢傷以外は綺麗なものだった。オークが食べていたような血塗れでも、小鬼が食べていたような処理の済んだものでもない。まるで森の深いところから浅いところへ、肉の処理をしながら進んで、処理した肉を捨てたかのようだ。
「目的がわからないね。他の、恐らくは東の森で狩った獣を荷に持ち、西の山に入り麓の樹海に捨てていく。しかも処理をしてまでだ。なぜだと思う?」
「さあ、なんでだろうね? 無意味にやるようなことじゃないから、なにか理由はあるんだろうけど……」
猩々が振り下ろした前肢を折り、頭蓋骨を踏み砕く侠龍の後ろで、ショコラティエとヨシアが話し合っていた。探索を続けた結果、どうも肉はタルゴゴへの街道から放射状に、ほぼ等間隔に配置されているらしいことがわかった。奥に行くほど増えているのだ。何者が、なんの意図で置いているのだろうか。
考えている間に侠龍は二匹目の猩々に止めを刺した。否、二匹目ではない。周囲には十を越える猩々が臥していた。
残るは一匹。最後の一匹。群れのボスだ。緋色の長い毛の隙間から濃紺の目で睥睨し、牙を剥いて喉を鳴らしている。その体躯は他の猩々と一線を画す大きさで、背中には白銀の毛が生えていた。
前肢の拳をついて歩くナックルウォークと相まって、オランウータンのようにも、ゴリラのようにも見える。
「ゴアッゴアッゴアッ!」
先ほどから幾度も聞いた攻撃的な鳴き声をあげながら、猩々が侠龍に肉薄した。半身のように両前肢を引き摺り、勢い良く振り上げたまま力任せに振り下ろす。遠間からの大雑把な攻撃はこれまでの猩々も使ってきた攻撃だ。今さらくらう侠龍ではない。ぎりぎりまで引き付けてから斜め前に踏み込み、交差するように躱した。前肢の叩き付けにより上体が前に傾いだ猩々の、その長い毛を掴む。二の腕とうなじの二ヶ所の毛を。
「ふんっ!」
二の腕とうなじを掴めば、やることはひとつだ。上体を引きながら伸ばした足で猩々のバランスを崩し、腰に乗せて跳ね上げるようにして投げる。本来なら背中から落とすが、うなじを掴む手の操作で頭から落とした。巨体が地面を打つ音とは別に、ボキリと鈍い音が響いた。百五十キロを越えようかという自重に耐えきれず、猩々の脛椎が折れた音だ。
猩々の首があらぬ方向を向いているのを確認し、侠龍は自分の右手を見た。中指と薬指の爪が剥がれ、血が垂れている。握りに力を入れすぎたか、毛に引っ掛かったか。原因を考える間にも掻痒感が走る。この程度の傷なら数秒で治ることはもう間違いがないようだ。
むず痒さを払うように手首を振り、侠龍は歓談中のひとりと一羽に声をかけた。
「情報足りなすぎるし答えはでねえって。それよりそろそろ帰ろうぜ。これ以上は腹がもたん」
魔物や害獣との戦いでいくつかわかったことがある。
侠龍の打撃は獣の毛皮や脂肪、筋肉の上からでも十分な効果を発揮すること。
筋力は上がっているが体重はそれほど増えておらず、木の枝に留まることや泥の上を歩くことができること。
爪や牙で肉を抉られてもどこからかそれを補い回復できること。
そして、回復には侠龍が食事をする必要があることだ。受傷と回復を繰り返したためか侠龍は空腹に襲われていた。持ってきたパンや肉は底を付き、狩った獲物の肉を食べ、ちびちびとコーラを飲んでしのいでいる。腹周りの脂肪も、心なしか一回り小さくなったようだ。
「なんだもう限界かね。ヨシアなら日が暮れるまででも戦い続けるぞ」
「限界じゃねえよ。何も食わないでもタルゴゴまで余裕を持って帰れる腹具合だ。こんな森深くで限界まで戦うなんて、ゾンビに囲まれて自決用の弾まで使うような真似はしねえって」
「ふふふ、言われているよヨシア」
「や、やめてよショコラティエ……」
「やったことあんのかよ」
ショコラティエの魔法で焼いた肉を齧りながら帰途に着く。肉やら毛皮やら、行きよりもずいぶんと荷物が増えた。内臓や体の大部分は森の奥に捨ててきた。今頃獣や魔物が漁っているだろう。
「どうせ治ると思って受けを疎かにしちまったけど、こうも腹が減るんじゃ結局気をつけないとスタミナが切れるな」
体の回復が早く凄まじいと知り、侠龍は回避と防御を軽視してできた余裕を攻撃に詰めた。結果被弾は増えたがより早く敵を沈めることが出来るようになった。戦いが早く終えてスタミナと緊張の低減を期待してのことだったが、そう甘くはないらしい。
「なるべく怪我をしないようにする、なんて子どもでも無意識にやってることなんだし、当たり前じゃないか」
「そりゃそうだな。気を付けるよ」
侠龍からすればヨシアはまさに子どもだ。そう諭されれば苦笑も漏れる。もっとも、侠龍よりも過酷な環境で生きてきたであろうヨシアを侮るつもりもないので、指導も忠告も賜るつもりではあるが。
帰り道。索敵はショコラティエに一任し、侠龍は森の歩き方や生活の知恵などをヨシアに教わりながら歩いた。
◯
行きに比べて帰りは穏やかなものだった。出くわした魔物や害獣の数は半分にも満たないだろう。行きとは違うルートを通ったため行きとは別の肉を見付けたが、異常はそれぐらいだ。その頃には侠龍も自分の体に慣れ、受けをしっかり意識したこともあってかすり傷程度しか負っていない。
半日ぶりに見るタルゴゴは斜陽に沈んでいた。切り出した石を積み上げて造った威容は、今は朱色に染まっている。前に並んだ人々が衛兵に税を渡し、順番にタルゴゴへと入っていく。その多くは簡素な鎧に身を包んだ人々だ。皆傭兵なのだろう、衛兵にプレートを見せていた。仕事で出ていた傭兵は出入りの税を免除される。それを利用しての密輸などは厳罰に処されるが。
侠龍一行は行きに比べて大幅に荷物が増えている。おそらく荷物検査が行われるだろうとショコラティエが憂鬱そうに言っていた。早くチョコレートが食べたいらしい。駆除依頼を受けたことは分かっているので、簡単に検めて終わるそうだが。
「シャロンは変わった戦い方をするよね」
順番待ちをしているうち、ヨシアが言った。
「え? そう? 空手ベースにいろいろ入ってはいるけど、そんなおかしなもんかね」
「そうだよ。振りかぶらないし、勢いもつけないのに強いなんて」
こちらに来てからずっと侠龍の戦い方を見ていたヨシアの感想だ。
「そりゃまぁ、振りかぶったり勢いつけたりしたら当たらないしな。準備無しに打っちゃあ返し技の餌食じゃん。強いのは、日々のトレーニング三割神様の加護七割くらいの成果かな」
話ながらヨシアやシュルクとの戦いを思い出す。言われてみればどちらも、剣を振る際に大振りが基本だった。突きもあったが、それも腕を大きく引き絞ってから放たれていたように思う。さらに言うなら、どちらもその拙さにつけこんで勝ちを拾っている(ヨシアには負けたと思っているが)。
騎士を目指してトレーニングを積むヨシアと、騎士としてトレーニングを積むシュルクのもつ拙さ。両者とも戦闘を生業とする人間でありながら、戦い方はまるで素人の喧嘩自慢だった。この不釣り合いはどこからくるものなのだろう。
「あ、素手だから変に見えるんじゃないか? ヨシアと同じ剣を持ったら似たり寄ったりになると思うぜ」
「そうかな? 素手で戦う人も見たことあるけど、それでもシャロンみたいに、なんていうかコンパクトに戦う人はいなかったよ」
「ああー、加護をもらってるからかもな。振りかぶったり勢いつけたりしなくても、堅い体にダメージを通せることがわかったからだと思う。そうでなかったら俺も、もっと大振りになってたんじゃないかな。俺の戦い方は露皮種対露皮種を想定してウン千年積み重ねられたもんだから、こっちだと奇異に見えるのも仕方ない、かな」
侠龍の知る人類はホモサピエンスだけだ。肌や体毛の色、手足のバランスが多少変わるが、基本的な構造は変わらない。だからカポエイラもパンクラチオンも柔道も、人種を選ばず学べるし、人種の別なく通用する。
「おいおい、露皮種だけを相手にして鍛えたって? それでなにが出来るんだよ」
不意に背後から声をかけられた。張りがあってよく通るが嘲りを多分に含んだ声音に、ヨシアが哀しげに眉をひそめる。侠龍は聞き覚えのあるその声に答えるべく後ろを振り返った。
「そうさね。例えば聖甲騎士団の騎士殿との決闘に勝つとかできるぜ」
振り返った先にいたのは、嘲りを渋面に変えたゴルドだった。後ろにはやはり渋い顔のシルバとカッパもいる。三人とも軽鎧に身を包み、武装していた。森で見たときとは装備が違うようだ。三人とも弓を帯びているが、中でも目を引くのはゴルドで、腰に短弓を吊るし、背中には身の丈より長大な長弓を背負っていた。一見すると和弓のようにも見えるが、より角度がついている。
「チッ……。まぐれの一勝で調子に乗るなよ。シュルク殿は常勝の騎士だ」
「おい、ゴルド……」
忌々しげに舌打つゴルドと、しわがれた声で窘めるシルバ。先日と同様の熱量の差があった。
「調子に乗るつもりはないけどね。なにが出来るかって聞かれたから、直近で一番威張れる事実を言ったってだけ。そっちこそどうしたよ。なんかこの前よりヘイト高くない?」
「当たり前だ。治安維持に日々奔走する騎士殿に不意討ちかまして怪我させるような、公務執行妨害野郎に向ける好意はない」
「ぐうの音もでねえな」
ゴルドもまた騎士を目指していたのだろうか。その言葉からはシュルクへの尊敬が感じ取れた。侠龍へ向ける敵意は、言葉通りそれが原因か。
「やめろゴルド。シュルク殿は気にしていないと仰っていただろう」
地を這うような重い声が諌める。眉間の皺も深く侠龍に噛みつくゴルドを止めたのは、赤い肌の大男、カッパだった。
「怪我も自分の未熟だと言っていただろう。ボクは確かにそう聞いたぞ」
「覚えてるよ。だからこれは決闘の結果への文句じゃねえ。調子に乗ってる新人へ、先輩からの忠告だ」
ゴルドはカッパから視線を切り、切れ長の目を侠龍へ向けた。
「お前の騎士団への攻撃は不問になったが、反感を持ってるやつは大勢いる。オレを含めてな。こんなところでご高説垂れ流していると、無用なトラブルを招くぞ」
最後を吐き捨てるようにして、ゴルドは背中を向けて去っていった。困ったように頭を掻くカッパと、申し訳なさそうに頭を下げたシルバもそれに続いていく。もう日も暮れるが、これから仕事なのだろうか、西の山へ向かっているようだった。
侠龍はゴルドの言葉を噛み砕き、反芻する。よくよく聞いてみるに、本当に普通の忠告だったように思える。
「ゴルドは口と態度は悪いけど、基本的に優しい人だよ」
「私とヨシア以外には、特にね」
ヨシアは、仕方がないなぁ、とでもいうふうに笑っている。それなりに長い付き合いなのだろうか。
「そうらしいな。ようは悪目立ちするなってことだよね今の。普通にありがたい忠告だ。ただでさえ俺は浮いてるだろうし」
悪魔と戦った異邦人。に加えて、騎士と決闘して素手で勝った傭兵。目立つし、やっかみをもらうには十分なネームバリューだった。
これまで絡まれたりしなかったのは、ヨシアのそばにいたからだ。ショコラティエのそばにいたからだ。悪魔憑きのそばにいるだけで、それを畏れる人は道を空け、遠巻きに囁くだけになる。それが厄除けの役を成してくれていたのだ。
そういえば今回の邂逅で、ゴルド一行はヨシアには目もくれなかった。言葉もかけなかった。侠龍はのすぐそばにいるヨシアを、まるで見えていないかのように振る舞った。森やギルド館内とは違い、用がなければ連れ立っていても視線も投げない。そういう存在なのだろうか。
「……さて、そろそろ俺たちの番か。賄賂とか用意した方がいいかな?」
「いらないし受け取らないよ。賄賂を受け取るような人は門番なんて要職にはつけないんじゃないかな」
「受け取る人がいない、とは言わないのな」
「そりゃあ、人によって事情はあるからね」
「事情がなくても欲しいのが金ってもんだろ」
侠龍はつとめて明るい声を出す。この世界の歴史も風俗も知らないが、ヨシアくらいの子どもが周囲の人から疎まれているのを見るのは忍びない。過去の過ちを聞いてはいるが、それでも侠龍にとって、子どもは守られるべき存在なのだ。
「そういえばヨシアって歳はいくつ? 俺は三十五」
「三十五? 結構おじさんなんだね。僕は赤ん坊のころに孤児院の前にいたらしいから正確にはわからないけど、便宜上は十七才だよ」
「十七か……」
日本で言えば高校生。侠龍にとって黄金のような時間だった。
両親は健在で、家族仲もよかった。益体もない話をして笑い合う友人がいて、ともに空手道を歩む友人がいた。同じ道場の女性に焦がれて、しかしなにも出来ずにいて、それをからかわれもして。空手の都大会に出て、汗と涙を流して。父との試合に勝ちが増えてきたのも、それくらいの歳だった。侠龍は延び、父は衰えていた。それを認めたくない父と鍛練を競い、呆れた母は洗濯物を増やすなと苦言を漏らした。
あの頃の侠龍にはすべてがあった。
転じてヨシアは?
肉親はいない。歳の近い友人もいない。恋についてはわからないが。
だから不幸だと決めつけるつもりは、侠龍にはない。価値観はひとそれぞれだし、こちらとは文化も違う。だが、どうしても自分と比べてしまう。これが一方的な同情で、自分に向けられれば眉をひそめてしまうようなものかもしれないと自覚もしている。しかしそれでも、抑えられない。
隣を歩くヨシアを見る。陽光に照らされ黄金色に煌めく銀髪も、笑い細められた鮮やかな紫瞳も、屈託のない笑顔も、寂しさや妬みからは無縁のように美しく見えた。
「……腹が減ったよ。早く食欲亭に帰って飯が食べたい」
「そうだね。今日はなにが入っているかな?」
「魚が食べたいな。新鮮な生魚。寄生虫は神様のご加護になんとかしてもらうとして」
「生魚を食べるの? 凍らせた方が美味しくない?」
「凍らせる? 魚を? ちょっと想像もつかない調理法だな。どんな料理?」
「どんなって、普通に、魚の頭を凍らせて……」