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ブレイブソウル  作者: 竜王零式
第一部【暗黒の賢者】編
8/8

6.あんやくするてき


1.


 神殿区にも酒場はある。

 女官(リルム)崩れの酌婦しゃくふと、濁った酒ばかりだが、仕事帰りの男たちにとっては貴重な憩いの場である。もちろん、それなりの活気があり、いつも野卑た陽気な笑い声に包まれている。

 その喧騒が、一瞬止む。

 入ってきた人物にみな驚いたからだ。淡いシルバーブロンドの艶やかな髪、華奢で優雅、それでいてほのかな色香が漂う肢体。女神も羨む絶世の美貌の中心には、世にも珍しい金睛きんせいが瞬いている。

「おい、黄金の魔女だぞ」

「あれが? 何て美しい人なんだ……」

稀人レウリィがこんなところに何の用なんだ?」

「しっ、眼を合わせるな。魂を抜かれてしまうぞ」

 どよめきの中、それらをまるで歯牙にかけず、エルナリーフはまっすぐカウンター席へ向かった。そこで酔い潰れる、異人の若者に手をかける。

「起きなさい。なんてだらしない格好をしてるの」

「ふあ?」

 わずかに赤みがかった黒い瞳が、虚ろに焦点を定める。そこに映った麗しい女の姿に、異人の若者――ヒコはだらしなく相好を崩した。

「おお、エルナリーフ。わが女神よ」

「ちょ、ちょっと――お酒臭い!」

 いきなり抱きつかれたエルナリーフは顔をしかめて押しのけようとするが、元より彼女にそんな膂力はない。呆れつつも、仕方なく彼の背を撫でてやる。

「まったく、毒には強いんじゃなかったの? どれだけ飲んだらこうなるの」

「一番強いのを一気にやるんだよ。しかもこの量」

 答えたのは、いつの間にか寄ってきた若い酌婦である。手には空のジョッキを掲げている。もう一方の手では、ジョッキのふち部分を指差している。なみなみと、ということだろう。

 妖魔バヌトゥの里で一番強い酒、ということは、葡萄の蒸留酒だ。そもそもジョッキで飲むような酒ではない。

「酔いはすぐ覚めるんだけど、そしたらまたコレを一気呑み。絶対、体に悪いと思うんだけど、あたしらが言っても聞かないから。悪いんだけど、連れて帰ってくれない?」

「なんだあっ、サーラっ。おれに飲ませる酒はねーってのかっ」

「あーもう、うるさいね」

 足元もおぼつかない酔っぱらいを、二人がかりで座らせる。だが、水を飲ませながら、酌婦のサーラと二言三言、言葉を交わすうちには、もうヒコの目に正気が灯っている。

「何てこった。また酔いが覚めちまった。酒を毒にカウントしちゃいけねーだろ……サーラ、もう一杯だ」

 肩をすくめるサーラの代わりに、エルナリーフがいさめた。

「あなたらしくないわ、何があったの? 愚痴なら聞いてあげるから、お酒はもう止めておきなさい」

「いや、イークのやつがな……」

 ヒコは言葉を濁す。彼が件の若者を「この里で一番強い男にしてやる」と宣言して鍛え始めたのは一週間前のことだ。エルナリーフが見る限り、なかなか見どころのある若者で、ヒコのことも良く慕っていたようだが、そこは人と人である。何か衝突なりあったのだろうかと、続きを促すと、ヒコは頭を抱えてこう漏らした。

「あいつは駄目だ。才能が無さ過ぎる……」

 エルナリーフは一瞬言葉に詰まった。彼女はもちろん、ヒコの目論見がそう簡単に行かないだろうと思ってはいた。それはヒコとて同じだったろう。しかし、彼がここまでの言葉を吐くとは意外だった。

「指導が上手く行ってないの? あなた、イークは体捌きの基本が出来ているから、ヴァイユールよりは簡単だと豪語していたじゃない」

「体捌きはな……何なんだよあいつは! なんであそこまで機敏に動けるのに、得物を持った途端スライム並になるんだよ、おかしいだろ! 器用さ0でカンストしてんのか!? それとも武器スキルが上がらない呪いにでもかかってんのか!!」

「ちょっと、落ち着きなさい」

 急に大声を張り上げたヒコを、慌ててなだめる。嘆きの内容は良く分からない。おそらく例の「制限ルール」というやつだろう。

 よくよく聞いてみると、どうもイークという若者は、致命的に不器用な男らしい。体力には目を見張るものがあり、全身を機敏に動かすことは出来るが、四肢を繊細に操るということが出来ず、何か得物を持った途端に戦闘能力が激減するらしい。

「里で教え込まれてる型なんかは綺麗に演舞するんだけどな。実戦で使えなきゃ意味がないし、そもそもこの里の武術はおれの方針に合わん。今からじゃ方向転換するにもどっちに行ったらいいか分かんねーよ……」

 ヒコの口から泣き言が漏れる。それは珍しいどころの話ではなかった。少なくとも、エルナリーフの耳に届くのは初めてのことである。

 エルナリーフはそこはかとない充足感を覚えつつ、優しげな笑みでヒコの背を撫でた。

 そして、ちょっとヒコでは思いつかない、悪魔のような提案を口にした。

「なら、少し追い込んで上げたらどうかしら。あなたも、地下迷宮という地獄で生死の狭間を彷徨いながら強くなったのでしょう。同じような目に――例えば何十という銀狼ルナーグの群れに放り込むとか、皇牙竜エルドナーグの前にひとりで立たせるとか、そういう事をすれば、何かしら開眼するかも知れないわ」

 いつも冷静な稀人レウリィの言葉とも思えない、ガチガチの精神論であった。それに対し、ヒコが何かを返そうとしたところで、第三者の声がかかった。

「これはこれは、勇者どの」

 飄々(ひょうひょう)と隣の席に付いたのは、問題のヴィシャスである。エルナリーフがすぐさま敵意の視線を向けたので、ヒコは目ざとくそれを制し、何食わぬ顔で話し掛けた。

「よう、品行方正なヴィシャスさんじゃねーか。あんたも酒なんて飲むんだな」

「オレがやらんのは賭け事と女だけですよ。このうえ酒まで奪われたら枯れ死んでしまいます」

「ははっ、そりゃいい。おいサーラ、おれにも一杯くれ。ふつうのやつでいい」

 酌婦のサーラは一瞬迷ったが、「ふつうの」酒如きでこの男が酔うことも無かろうと、従うことにした。

「んじゃまあ、お互いの健闘を祈って」

 白々しい台詞を吐きつつ、ジョッキをぶつけ合う。しばらく、ふたりは他愛ないやり取りをしながら安酒を楽しんだ。ヴィシャスは当然、ヒコに臨席するエルナリーフにも話しかけてきたので、彼女は不愉快だったが、膝に置いた手をヒコがずっと握ってくれていたので、それで気分を紛らわせた。

「それで、さきほどは何か荒れていたようですが。イークのやつがご迷惑でも?」

 ヴィシャスがそらっとぼけて尋ねる。それこそが本題だろう。

 ヒコも白々しく答えた。

「いやいや、至って順調さ。あいつは筋がいい。もしかしたら、もうあんたより強いかもな」

「ほう、それはそれは。良ければイークの次はオレも鍛えてもらえませんか。いや、おれと言わず防人のみなも。あなたの武術、きっと里の平和のために役立ててみせます」

 エルナリーフが眉をしかめる。ヒコはいたって平然と応答した。

「そうだな。もしあんたがヴァイユールを諦めるなら、考えてやってもいいぜ」

 一瞬、ヴィシャスの表情に険が立つ。だが、すぐさま薄い笑みに戻ってこう答えた。

「それは出来ない相談だ。彼女を手に入れるのは、オレの夢なのでね」

「……そりゃまた、随分とご執心だな。あんたが気に入った頃と違って、だいぶ実っちまったいだが?」

 ヒコの皮肉にも、ヴィシャスの笑みは崩れない。

「何か誤解がありますが。オレが愛してるのは彼女自身ですよ。どれだけ姿形が変わっても、オレの愛は変わらない」

「殊勝なこって。向こうはあんたなんかお断りだそうだぜ」

「オレの過ちで不幸な行き違いを生んでしまったのは知っています。だが、彼女もいつかきっと分かってくれる」

「本当にそう思ってるのか?」

「今のままでは難しいでしょうね。だが、夫婦めおととなれば、いつか必ず」

「順序が逆なんだよ、クソ野郎」

 ヒコは笑顔のまま吐き捨て、立ち上がった。

 ヴィシャスは動かず、涼しげに返す。

「掟は掟だ。オレは誰にも非難されないまっとうな方法で彼女を手に入れる。あなた方も、不穏な手段で決闘を汚さないよう、くれぐれもお願いしますよ。魔法など使われたら敵いませんので」

「安心しろ、まっとうな手段でテメエを叩きのめしてやるよ」

 ヒコはエルナリーフの手を引いて酒場を後にした。

 エルナリーフは無言で従っていた。ヒコの背中から、言い知れぬ憤怒の気が立ち上っていたからだ。むしろ、あそこでヴィシャスを殴り伏せなかったことに、エルナリーフは感心していた。この男は思った以上に我慢強いらしい。

「エルナリーフ」

 不意に名を呼ばれる。彼女を見つめる黒い瞳に、決意の火が灯っていた。

「おまえの案を採用することにした。残り一週間で、イークのやつを仕上げるぞ。力を貸してくれ」

 それを受け、この上なく不敵な笑みが、絶世の美貌に浮かんだ。

「任せなさい。わが魔術アルダーに不可能はないと、思い知らせてあげるわ」

 勇者と魔女は胸元でがっちりと手を握り合った。イークにして見れば、これが地獄の始まりであった。

 さてその頃、当のイーク本人は、実家で身体を休めている。本来なら、独身の防人は宿舎で寝泊まりする決まりだが、彼の身柄は現在、ヒコが預かっている。稽古中以外はなるべく安らげる場所で、という配慮だった。

 しかし実家というのは、イークにとって安らげる環境でもなかった。

「イーク、あんたまたこんなに怪我して。特訓とか言って、実はイジメにあってるんじゃないの? 母さんがガツンと言ってやろうか?」

「いや、そういうのいいから」

 イークはきしむ全身に顔をしかめながら、ひらひらと手を振った。放っておけ、との意だが、得てして母親というものは、息子のそんな意を汲んでくれたりはしないものだ。

「はあ、部屋もこんなに散らかして。あんたが居ない間、母さんがどれだけ苦労して綺麗にしてやってたと思ってるの。それをたった一週間で」

「分かった分かった、あとでちゃんと片付けておくよ」

「そんなこと言って、どうせやらないつもりでしょう。ほら、母さんが掃除してあげるから、少しそこを退きなさい」

「本っ当、そういうのいいから。さっさと出てけって」

「この子は。親に対してなんて口の聞き方を――」

僭越せんえつながら! まことに結構ですから! お願いだからひとりにしてもらえませんかねえ!」

 しつこい母親を無理やり追い出し、うんざりした気分で横になっていると、部屋の扉がノックされた。

 イークは苛立って叫んだ。

「ほっといてくれって言ってるだろ!」

「……私だ、ヴァイユールだ」

 イークは飛び起きて姿勢を正し、「こほん」とひとつ咳払いした。

「どうぞ」

 ヴァイユールは入ってくるなり顔をしかめた。それほど散らかってないんだがな、と思っていると、むすっとしたままこう言う。

「痛々しいな。訓練の成果か?」

「ほっとけ。これでも大分マシになったほうだ」

「私の時は加減してくれていたのかな。身体はきつかったが、怪我をするようなことはなかった」

「俺は才能がないらしいからな。荒療治という奴だろう」

「そ、そうか……」

 それらから、ヴァイユールは気まずそうに近寄ってきて、イークの傷を魔術アルダーで癒やした。イークは多少驚いたが、彼女が黄金の魔女に魔術アルダーを習っているというのは、本人の口から聞いていたので、里の掟がどうこうと騒ぎ立てたりはしなかった。

「ありがとう。痛みも大分引いたよ」

「いや、私にはこれくらいしか出来ないからな」

 イークは少し首をかしげる。何か、いつもの彼女らしくない。問いただそうにも何と聞いていいか分からず、それからしばらく無言の時が流れた。

「……この部屋に入るのも、随分久しぶりだ」

「そりゃあ、俺はずっと宿舎に居たからな。その前から、おまえは神殿住まいだったし」

「そうだな」

 そしてまた、しばらく無言。イークはぽりぽりと後ろ頭を掻きながら質問した。

「なあヴァイユール。何の用だ?」

 ヴァイユールはしばし時を置いてから、ひどく言い難そうにこう尋ねた。

「勝てそうか、ヴィシャスに」

「……難しいな。今日も勇者さまにさじを投げられて落ち込んでいたところだ」

 イークは正直に答えた。ヒコの言葉を借りれば、彼には武器を扱う才能が無い、ということだ。むろん、才能は努力で凌駕できる。だが、その努力を続ける時間が無いのだ。イークもやると決めた以上、簡単に諦めるつもりはないが、いくら気合を入れても一日が長くなるわけではない。

「不甲斐ないことを言うが、おまえも覚悟を決めておけ」

 イークが告げると、ヴァイユールは寂しそうに笑った。それはひどくイークの心をかき乱したが、彼女の内心は、イークの意図とは異なっていた。

「ああ。覚悟なら済ませている。あんなことがあったのに、おまえに頼るのも心苦しかった。私のことなら心配するな。ヴィシャスのやつとも、何とか上手くやるさ」

「違う、何を言ってる。誰がおまえをあんな奴に渡すか!」

 イークは怒鳴った。目を丸くするヴァイユールに、畳み掛けるようにして言う。

「十歳の少女を力づくで手篭めにしようとする奴だぞ。改心したなどと夢にも思わんことだ。俺が言ってるのは、勇者さまと一緒に里を出る覚悟をしろと言うことだ。あの人は何だかんだでお人好しだ。おまえさえ心を決めれば、地獄の業火の中だろうと、きっとおまえを守ってくれる」

「そんなことはできないよ。この里には思い出が、残していく人が多すぎる」

 イークは黙り込んだ。何と言って説得したものか考えていた。彼女がヴィシャスと一緒になって幸せになるはずがない。それだけは確信があった。里の思い出など、彼女の今後の幸せと天秤にかけて良いはずがないのだ。

 イークの内心を知ってか知らずか、ヴァイユールはこう言葉を続けた。

「思えば、おまえはいつも私のことを気にかけてくれていたな。あの時だって――」

 ヴァユールは言葉を濁したが、何のことを言っているかはすぐ分かった。

 イークが防人になってすぐのことだ。例の掟のことを知ったイークは、その足でニマス神殿に赴き、ヴァイユールに求婚した。もちろん拒否された。彼女はまだ14歳だったし、祈祷師グリドラの守役で、純潔を守ることが義務付けられていたからだ。

「今では後悔している。あの時、おまえの話を真面目に聞くべきだったと」

「……あんな無茶な話、誰でも断るだろう」

「いや。冷静に考えれば、おまえがあんな突拍子もないことを言い出すはずがないんだ。私はそんな違和感にも気づけなかった。防人になるなと言われた時もだ。おまえはただ、私を守ろうとしてくれていただけなのに……」

「それは買いかぶりだ」

 ヴァイユールは首を横に振った。

「リィンさまから聞いた。このまえ神殿に行ったのは、ヒコを紹介してもらうためだったそうだな。おまえは、その……まだ、なんだろう?」

 イークは何とも言えない表情で黙り込む。ヴァイユールの言う通りだった。彼女の見違える動きを見て、自分も勇者の指導を受ければ、もしかしたらヴィシャスを下せるかも知れない、と。そんなことを漠然と考えていたのも事実だ。

 (くだん)の勇者がちょうど神殿を訪れていたのは僥倖だった。だが、ヴァイユールまで同席する運びになったのも予想外だった。

 何の事はない。最初からイークは、ヴァイユールの争奪戦に参加するつもりだった。あれこれごねてみせたのも、ただの照れ隠しだった。

「私は本当に大事にされているな。おまえだけじゃなく、死んだ母や、父や、里のみんなに、だ。自分が気に入らないことがあるからと言って、里を出ていくのは裏切りだろう?」

「……そうか」

「だから、おまえもそんなに気に病むな。私のために無茶をしなくてもいい。私は大丈夫。大丈夫、だからっ……あれ?」

 気がつけば、ヴァイユールは涙を流していた。「ひくっ」と喉が跳ね、思うように言葉が紡げない。

「おかしいな、違うんだ、こんなはずじゃ――っ」

 ふわっ、と。

 ヴァイユールの全身を温かい何かが包んだ。とても優しくて、力強い何か。

 気がつけば、彼女はイークの腕の中に居た。よく鍛えられた逞しい両腕。厚い胸板が耳元に寄り添い、速い鼓動を打っている。

「イーク……?」

 怪訝に顔を上げるヴァイユールを抑えつけ、己の胸に押し付ける。そうして、イークはようやく覚悟を決めた。

「いいか、よく聞け。おまえは誰にも渡さん。余計なことを考えずに、首を洗って待っていろ」

 今、己の胸からとめどなく湧き上がるこの想いこそが、決意の証だ。もう二度と忘れまい。

「一週間後、必ず迎えに行く。そして必ず、おまえを幸せにしてやる」

 腕の中のヴァイユールが、ふっと身を緩め、イークの背に腕を回した。

「きっとだぞ。今の言葉、死ぬまで忘れないからな」

 それから、ふたりは長いこと抱き締め合い、そして誰からともなく離れた時には、お互い恥ずかしさで死にそうな気分になっていた。ちらりと相手の顔を見やれば、茹で上がったように真っ赤である。それをお互いに茶化し合い、笑い合って、ようやくいつもの調子が戻ってきた頃に、ヴァイユールを神殿まで送っていくことになった。

 そして、家の、ではなく、部屋の入り口で、微妙な顔で突っ立っている勇者と魔女に遭遇したのである。

「……もういいのか?」

「……ええ、まあ」

 イークとヴァイユールは本格的に悶え死にそうになり、まともな会話を進めるのにさらに時間を要した。

「それで、おふたりはどう言ったご用件で……もしや!」

 イークの胸中に暗雲がこもった。勇者はついに自分に見切りをつけ、ヴァイユールを連れ去る覚悟を決めたのだろうか。しかし、イークの頭にはもうその選択肢はない。咄嗟にその場に両手を付き、声を張り上げて懇願する。

「勇者さま、どうかもうしばらくお付き合いください。俺はきっとご期待に添えてみせます!」

 見上げた勇者の顔は壮絶なものだった。何か、人の道を踏み外す覚悟を決めた男の顔だ。

「おう。そうでないと困る。これからおまえを徹底的に鍛えてやる。死なずに着いてこい」

「ありがとうございます!」

 見捨てられなかったことに安堵し、深々と頭を下げた後、イークは勇者の不穏な言葉を反芻して首を傾げた。

(死なずに?)

 その言葉が脅しでも何でもなかったことを、彼はすぐに知ることになる。


2.


 神殿区の防人は、よく決闘を行う。

 賭けるものは様々だ。その日の掃除当番であったり、晩飯のおかずであったり。下らない口論の決着であったり。単純に、己の強さや誇りをかけて決闘する者もいる。

 決闘というからには、大抵は1対1の一戦きりである。だが、不定期に、若い防人が何人も集まり、大掛かりな決定戦をもよおすことがある。この時ばかりは里中の野次馬たちが集まってきて、強者たちの行く末を見守る。

「すごい人だかりだね」

 リュアスが驚嘆した。訓練場の片隅に設けられた舞台を、老若男女数百に及ぶ観客が囲んでいる。彼らはこれが何のための戦いか知らないが、娯楽に乏しい彼らにとって重要なことではない。

「参加者も近年稀に見る人数だそうよ。独り身はほぼ全員参加するらしいわ」

「大人気だねヴァイユール。幼馴染みとして鼻が高いよ。みんなそんなにおっぱいが好きなのかな」

「リュアス……おまえが私のことをどう思っているかよく分かったよ」

「ともあれ、これだけ居れば間違いもあるんじゃないかしら。ヴァイユール、あなたはヴィシャスでなければいいのでしょう?」

「ぐ……エルナリーフまで……。だが難しいな。ヴィシャスの強さは圧倒的だ。あの面子では、どんな間違いが起こっても勝ってしまうだろうさ。それに……」

「それに?」

「私だって、その……イークに勝って欲しいと思っている」

「ヴァイユール、可愛い!」

 頬を朱に染めた幼馴染みを、リュアスはちょんちょんとつついてからかった。そうして取っ組み合いが始まるころ、「ぬ」と大きな人影が現れる。

「何してんだおまえら。目立つから止めろ」

 すっかり保護者が板に着いたヒコの一言で、少女ふたりはあっさり大人しくなり、そして彼の見違えるように「げっそり」した顔を見て唖然とした。

「どうしたのヒコ。目の下とかすごい隈だよ」

「どうもこうもねーよ。イークのやつは駄目だった。あいつは本当に才能が無い」

「えっ!?」

 ヴァイユールが絶句した。ヒコいわく、イークには武器を扱う才能が無いとのことで、一週間前にもさじを投げかけていた。それから「山篭りをする」と言い残して今日まで里を出ていたのだが、それでも成果がかんばしくなかったらしい。

 山篭りとやらに度々付き添っていたエルナリーフも、ヴァイユールの泣き出しそうな視線を受けて肩をすくめるばかりだ。

「ここまで来たら祈るしかないわ。神頼みなんて癪だけれど」

「そんなあ……」

「始まるぞ、一番手だ」

 舞台には第一試合の防人が上がっている。

 ひとりは我らがイーク。もう一人は見るからに強者、といった感じの大男である。歓声に包まれる中、ヴァイユールはヒコに掴みかかっていた。

「大丈夫だよな? イークは勝てるよな!?」

 ヒコは渋い顔で答える。

「知らん。でも結果がどうあれ、あいつはおまえのために頑張ってるんだ。しっかり見ててやれ」

 ヴァイユールは自然、胸元で両手を握った。視線の先に立つ幼馴染みの姿は、一週間前と何ら変化がないように思える。静かに槍を構え、開始の合図を待つ。

「始め!」

 戦いが始まった。まず、対戦相手が鋭い突きを放った。イークは飛び退いて躱したが、動きが大きすぎる。相手はすぐに体勢を整えて次の攻撃。これに反撃することも出来ず、イークはひたすら危なっかしく避け続ける。

 この様子に、あちこちから野次が飛んだ。

「逃げ回ってるだけじゃ勝てねえぞ!」

「何だそのへっぴり腰は!」

「この根性なし、いい加減に戦えー!」

 防人連中ばかりでなく、ついに一般観客からも罵声が上がる。

「何やってんだあいつは……」

 ヒコが頭を抱えた。

 その後も似たような展開が続く。ひどい野次と罵声が飛び交う中、イークはまったく手が出せないまま、不格好にぴょんぴょんと飛び跳ねるばかりだ。

 しかし、それが功を奏したのだろうか。

 不意に、相手が地面に足を取られて体制を崩した。「ああ」とどよめきが漏れる頃には、鋭く踏み込んだイークの突きが、相手の顔面に向けて飛び――。

 すかっ、と。

 見事に外れた。だが突進の勢いは止まらず、イークはそのまま体当たりで相手を押し倒した。イークは慌てて跳ね起きたが、対戦相手の方は、打ちどころが悪かったのか、白目を剥いて気絶していた。

「勝者、イーク!」

「ふざけるな!」

「そんな決着、納得できるか!」

「やり直せ!」

 やはり、場内はひどい野次と罵声に包まれた。だが勝ちは勝ちである。イークは目に見えて安堵し、それからきょろきょろと場内を見渡し、ヒコたちを見つけると、嬉しそうに手を振った。

 ヴァイユールはほっとしつつも、思わず目を反らしてしまった。

「あのバカ……」

「いやあ。あいつ何か〝持ってる〟ぜ。おれはもう駄目だと思ってた」

 ヒコが投げやりな感想を述べた。

「貴様は何を教えておったのだ。以前よりなお悪いわ」

「父さん……」

 いつの間にか隣に居たのは戦士長ヴィシャールである。ヒコは彼の肩を叩き、尊崇の眼差しを向けた。

「あんたがあそこまで槍を仕込んだらしいな。心底尊敬するぜ。偉業と言っていい」

「……奴が一番可能性があると思ったのだ。貴様ならもしやとも思ったが、あれではヴィシャスとの対戦も無かろうよ」

 ふたりが話し込む間にも、対戦は次々と進んでいる。話題のヴィシャスは一回戦の最後であった。対戦相手はヴィシャールの言によれば「そこそこの腕前」とのことだったが、ヴィシャスは危なげなく勝利し、一同にため息を吐かせた。

 そして、二回戦第一仕合。再びイークの番が回ってきた。だが、舞台に上がった彼は、槍の代わりに妙なものを手にしている。一尺もない短い棒に穂先がついたものだ。槍、どころか、武器と呼ぶのもおこがましい。

 会場がどよめきと嘲笑に包まれる。その中、何人かの防人が舞台に上がって協議を始めた。

「勇者よ。何のつもりだ。あれは貴様の差し金か?」

「槍だよ。当然認めてくれるだろ?」

「……私なら絶対に認めんが。ふむ、若い連中はよしとしたようだぞ」

 協議が終わり、対戦者ふたりが舞台に残された。問題なく仕合が始まるらしい。

「それで、何をさせるつもりだ?」

「全力で戦ってもらうだけだ。つっても、片手が塞がってる状態じゃ全力でもねーがな」

「何だと……?」

 ヴィシャールが訝しむうちに、仕合が始まった。

「おいイーク、本当に良いんだな? 加減などしてやらんぞ」

「問題ない。どうも俺は、こっち(・・・)の方が得意らしいからな」

 対戦相手の呼びかけに、イークは飄々と答える。

 そして、件の短槍を左手に、しかも逆手に持って構えた。ほとんど丸腰と同じである。対戦相手が呆気に取られていると、イークが発破をかけた。

「どうした。こないならこっちからいくぞ」

「舐めやがって!」

 対戦相手は気合の声と共に鋭く踏み込み、槍を突き出した。軽い牽制で出方を見るつもりだった。

 しかし。

 眼前から、イークが身体ごと消えた。それを不思議に思う前に、対戦相手の意識は闇の底に沈んでしまったのだった。

「しょ、勝者、イーク!」

 会場が静まり返る。皆わが目を疑っていた。イークの身体が一瞬消えたと思ったら、対戦相手が舞台の端まで吹っ飛んでいたのだ。いかなる攻撃で、大の大人、しかも強靭な防人の身体があそこまで見事に宙を舞うのか、誰にも理解できなかったのである。

「……貴様。何を教えた?」

 ヴィシャールは呻く。一度目の問いと字面だけなら似通っているが、意味は大分異なっている。

「体術だよ。武器が使えないんじゃ仕方ねーだろ。なあ、完全無手でやるのを認めてくれねーか? それならヴィシャスのやつも余裕で倒せるんだが」

「馬鹿な……!」

 ヴィシャールはただ驚愕に呻いただけだったが、ヒコは否定と受け取って肩をすくめた。

 実際、ここで戦士長が認めても無意味だった。決闘の際に槍を持つのは防人の慣わしだが、当事者たちにとっては些細な問題だ。対戦相手が圧倒的に有利になる条件を提示されて、あっさりと飲む人間は居ないのだ。

「イーク……一体何をしたのだ?」

 舞台の下では、ヴィシャスが対戦を終えたイークに詰問している。

「ただの体当たりですよ。ついでに拳を乗せただけです。俺は不器用で、武器を使うと動きが鈍ってしまうので」

「そういうことではない。一体何をすれば、たった二週間でこれほどの体術が身につく?」

 イークは遠い目で、生気に乏しい笑みを浮かべた。

「そうですね。勇者さまと守護者グレーガーに代わる代わる半殺しにされ、その度に魔女の魔法で癒され、全快したらまた半殺しに……うっ!」

 突然、イークは口を抑えてうずくまった。大袈裟でも何でもなく、本当に一瞬、胃の内蔵物が逆流しかけたのだ。

「まあ、そういう感じです。あまり思い出させないでください」

「……私との対戦も、そのふざけた武器を使うつもりか?」

「俺とて防人の誇りはあります。なので一回戦はワガママを聞いていただきました。でも、ヴァイユールは命よりも大事なやつです。たかが誇りひとつ、比べるまでもありませんよ」

「貴様が誇りを捨てたところで、オレに勝てるなどと思うなよ」

 ヴィシャスは怒気を含めて吐き捨てた。まったく余裕のない表情だ。イークは肩をすくめてこう返した。

「そりゃあ思いますよ。だってあんた、ただの人間でしょう?」

 ヴィシャスは絶句した。イークも、それ以上なにも言わなかった。

 そこからの対戦は、観客たちにとって退屈であった。ヴィシャスはやはり危なげなく勝ち進んだし、イークも相手を5秒と舞台の上に立たせなかった。このふたり以外の対戦は、もはや皆の眼中になく、そしてやはり大方の予想通り、決勝はふたりがぶつかることになった。

「ふわ……ようやく本番ね」

 エルナリーフがあくび混じりに呟いた。あまりの態度に、ヒコは恐る恐るヴァイユールを伺ったが、彼女は両手を合わせて舞台を見守るばかりである。

「ヒコ、どっちが勝つのかな?」

 リュアスは目を輝かせつつ尋ねた。すっかりこの催しを楽しんでるようだが、長年、自分の守役を勤めてきた幼馴染みの命運を見守る態度ではない。ヒコは女の本性を垣間見た気がした。

「命の取り合いならイークだろうが、これは仕合ゲームだからな。ヴィシャスの方が勝手は知り尽くしてるはずだ」

「分からんぞ」

 異論を唱えるのは戦士長ヴィシャールである。

防人われらの決闘は槍と槍ばかりだからな。ヴィシャスも相手が丸腰では勝手が違うだろう」

「戦士長さんはイーク推しか?」

「少なくとも私では勝てんな。いや……それはヴィシャスが相手でも同じか」

「正直だなあんた。ま、どっちにしろイークに勝ってもらわんと」

「うむ」

「ふたりとも、随分仲良くなったわね」

 エルナリーフが呆れ声で漏らすころ、ついに最後の戦いが始まった。

 ウォオオオオ!

 割れんばかりの歓声と、観客たちの期待をよそに、極めて静かな立ち上がりだった。

 ヴィシャスは如才なく穂先を揺らし、イークを巧く牽制している。イークは微動だにしていない……ようにも見えるが、じりじりと歩を動かし、一挙に間合いを詰める機会を伺っていた。

 そのまま時が過ぎ、たまりかねた観客たちから野次が飛び始めた。

「何してんだ、さっさと始めろ!」

「野郎同士のお見合いを見に来たんじゃねえぞ!」

 それらはどんどん大きくなる。だが、舞台上のふたりはどこ吹く風だ。

 下手に動いた方が負ける。

 双方ともにそれを良く知っていたのである。

 そんな中、エルナリーフはわずかな魔力の異常を感知した。

(これは……支配系魔術!?)

「ああっ!」

 その時、ヴィシャスが素早く動いた。鋭い突き。しかし、ヒコの見立てでは、イークにとって絶好のチャンスだ。この攻撃を掻い潜って、土手っ腹に掌打でも見舞えば――。

「何してる!」

 ヒコは思わず怒鳴った。イークが棒立ちのまま、相手の突きをまともに喰らおうとしていたからだ。が、間一髪、イークは尻もちを付いて難を逃れ、地面を転がるようにして間合いを取った。

 ヴィシャスもそのままでは終わらない。すぐさま間合いを詰め、執拗に鋭い突きを繰り出す。完全に体勢を崩したイークは避けるだけで精一杯だ。

「足だ、イークっ!」

 ヒコが叫ぶ。聞き届けたのか、イークは半ば地面を転がりながら足払いを放った。ヴィシャスが飛び退いてかわす。イークも素早く起き上がって体勢を整え、再び両者が睨み合う恰好となった。

魔術アルダーよ」

 エルナリーフが忌々しげに呟いた。

「誰かが魔術で、イークの身体の自由を奪った。対抗魔術がもう少し遅れたら危なかったわ」

「何だって……ヴィシャスの仕業か?」

「違うわ。いま術者を探っている」

 再び、ヴィシャスが動く。やはり、イークは一瞬固まったように回避が遅れ、すんでのところでかわす。一度、魔術によって奪われた自由を、エルナリーフの対抗魔術が解いているのだ。

 エルナリーフの額にうっすらと汗が滲む。

「これでは魔力探知に裂く余裕がないわ。ヴァイユール、あなたが術者を探しなさい!」

「わ、分かった!」

 師に促され、ヴァイユールは意識を集中した。

 最近は修練の甲斐あって、だいぶ魔力の流れが読めるようになってきた。

 舞台上。確かに普通でない魔力の流れが読み取れる。しかし、ヴァイユールに分かるのはそこまでだった。いかんせん人が多すぎる。しかもみな興奮していて、そのため、微量ながら体内魔力を放出している。それらが、術の元を辿るのをなおさら困難にしていた。

「だめだ、エルナリーフ。私には読めない!」

「できなくてもやりなさい、イークが負けてもいいの!?」

 師の叱咤に、半ば涙ぐみながら、ヴァイユールは必死で魔力の流れを辿る。イークが負けていいはずがない。彼は自分のために戦っているのだ。

 しかし、分からない。いくら意識を集中させても、群衆が発散する魔力が邪魔をして、肝心の大本が辿れない。ヴァイユールは己の不甲斐なさに口唇を噛み締めた。舞台上では、イークがいつ貫かれてもおかしくない猛攻に晒されている。

「居たよ、あそこ」

 ふと、リュアスが立ち上がった。かと思えば、弾かれたように駆け出している。

「待てリュアス!」

 ヒコが慌てて後を追う。しかし、すぐに人混みの中に見失ってしまった。

(許せない、卑怯なことして!)

 リュアスは義憤に駆られるまま、視界が捉えた人影に迫る。魔力の流れなど読めない。しかし確信がある。観客たちはみな、イークの窮地に目を爛々とさせて興奮している。そんな中ただ一人、身じろぎひとつせず、舞台上を睨む人影があったのだ。

 ただのかん、と言ってしまえばそれだけだった。だが、妖魔の姫たるリュアスのそれは並大抵のものではない。

「捕まえたよ、この卑怯者!」

 ついに目標の腕をつかみ、リュアスは怒声を浴びせた。彼女の「解呪の御手」に確かな手応えが伝わる。魔力の働きを阻害した反動だ。この瞬間、リュアスの確信は、歴然とした事実に書き換わる。

「――っ!?」

 驚きに目を見開くその姿は、女性らしさに溢れた艶めかしい体付きだった。日除けの頭巾がはらりと落ち、豊かな白髪があらわになる。面立ちは三十路前後だろうか。白髪に染まるには早すぎる年齢だ。

 いや、それよりも。初対面のはずのその顔に、見知った面影があった。

「あなたは――!?」

 リュアスが一瞬呆気に取られた隙に、女は手を振り払って逃げ出した。慌てて後を追おうとすると、背後からがっちりと何者かに取り押さえられる。

「何するのっ、放してよ!」

 それは見知らぬ男だった。が、どうも目つきが尋常でない。にわかに恐怖が沸き起こったが、すぐに「ふっ」と拘束が解け、男が地面に崩れ落ちた。

「大丈夫か?」

 次に現れたのはヒコである。彼が助けてくれたらしい。安堵し、さっきの女を探す。

 もうどこにも見当たらなかった。

「顔を見たのか。知り合いか?」

「ううん。でも、似てたんだ」

「誰に?」

 問われ、リュアスはわが目を疑ったまま、こう答えた。

「ヴァイユール」

 ウォオオオオオオオ!

 その時、ひときわ大きい歓声が上がった。勝負が決着したのだ。

 最初から尋常な勝負であれば、結果は違ったかも知れない。

 しかし、魔術の影響で絶体絶命だったイークが、いきなり見せた鋭い動きに、ヴィシャスは対応できなかった。

 ヴィシャスが他の対戦相手と違っていたのは、懐に飛び込み拳を突き出すイークの動きが、しっかり見えていた点だ。しかし結局、辿った運命は同じだった。つまり、とてつもない衝撃を受けて宙を舞い、舞台端まで吹っ飛んだのである。

「勝者、イーク!」

 高らかに勝者の名が告げられた。

 大歓声の中、ヴァイユールは一直線に舞台に駆け上がり、激闘を勝ち残った幼馴染みに熱い抱擁と口付けを捧げた。さらに大きくなる歓声は地響きすら立て、会場を包み込んでいく。

「みな、聞いてくれ!」

 そんな中、ヴィシャールが良く通る声で聴衆を引きつけた。

「お集まりの機会にお知らせしたいことがある。此の度、わが娘ヴァイユールと、戦士イークが婚姻を結ぶことになった。式は後日執り行う、ぜひご参列頂きたい!」

 途端に拍手と大歓声が沸き起こる。このタイミングで、ヒコとリュアスが舞台下に戻ってきた。

「ヴィシャスはどこだ?」

「逃げられたわ。術者は分かった?」

「いや、それがな……」

 ヒコの話を聞くなり、稀人レウリィの秀麗な眉目が歪んだ。

「ますます訳がわからないわね」

 舞台上で、若い二人とともに祝福を受ける戦士長を睨む。ヴァイユールに似ているというなら、彼が知らないわけがあるまい。

 ほどなくして、「す」と人混みを抜け出してきたヴィシャールに、ヒコはまず、笑顔で感謝と祝福を。そして厳しい表情で、術者の女について問い質した。

「そうか……」

 ヴィシャールは唸り、それから随分長いこと沈黙を保った。待ちかねたエルナリーフが再三促して、ようやく重い口を開いた。

「私はヴァイユールの実の親ではない。シャイールもな。だが、これ以上は私の一存では話せん。ついてくるがいい」

「ぼくも行く」

 リュアスが先んじて宣言し、ヴィシャールに続く。エルナリーフはヒコに視線を送った。ヒコはただ頷きを返す。リュアスにも知る権利はあるし、ここに置いていくわけにも行かない。

 そうして、人知れず喧騒から離れ、たどり着いたのは里長の館であった。


3.


 招かれざる突然の来訪にも、人払いを求める戦士長にも、ダイヤーンは穏やかな態度を崩さなかったが、ヴィシャールが発した一言が、彼から表情を消し去った。

「ユーリィが戻ってきたぞ」

 この名前に、エルナリーフは聞き覚えがあった。確か先代の祈祷師グリドラの名前だ。そして、亡くなったはずのダイヤーンの妻。

「どういうこと、ダイヤーン。あなたたちは何を隠しているの?」

「とても難しい質問だ」

 ダイヤーンは苦々しくつぶやき、その場の一同をざっと見やった。みな彼に注目している。もっとも鋭く突き刺さるのは、リュアスのまっすぐな視線である。

「難しくても答えてもらうぜ。余所者には話せない、ってのもナシだ。こっちはどっぷりと関係者なもんでな」

「もちろんだ。私が知っていることはすべて話そう。だが、長い話になる」

 深く深く深呼吸してから、ダイヤーンは語り始めた。

 もう十五年以上前のことになる。

 ダイヤーンが里長になる際、彼にあてがわれた祈祷師グリドラをユーリィと言った。

 リュアスほどではないにしろ、天真爛漫で快活な娘だったらしい。

「白状するとね。私は里長になんかなりたくなかった。でも彼女に会って気が変わったんだ。恥ずかしながら一目惚れというやつさ。この娘を妻に出来るなら、多少の困難は乗り越えてやろう、とね」

 そうして、ふたりは夫婦となった。ユーリィの懐妊は、その直後のことだった。

 里は祝福に沸いたが、当時の長老たちはみな複雑な心境だった。というのも、祈祷師グリドラが懐妊、出産ということになれば、その間、里は森の魔獣に対し無防備になるからだ。また、祈祷師グリドラというのは元来の妖魔バヌトゥに輪をかけて妊娠しづらい。成婚から一年以内に子を為した例は初めてだった。

「くだらない雑音だと思っていたよ。私とユーリィの子が無事に生まれることだけが、当時の私の願いだった」

「だが、長老会としてはそうもいかん」

 その意を受け、当時まだ一介の防人だったヴィシャールが極秘に調査をすることになった。そして、ユーリィが臨月を迎えたころ、ある事実を突き止めてしまったのだ。

「……結論から言うと、ユーリィが身ごもったのはダイヤーンの子ではなかった」

「えっ!?」

「ダイヤーンとの結婚以前、それも何年も前から関係を持つ男がいたのだ。忌々しいことに、それが私の兄でヴィシャスの父でもあるヴァーユという男だ」

 祈祷師グリドラは、最初に見初めた男だけを生涯愛するという。

 ユーリィも例外ではなかった。つまり、彼女は元々ヴァーユただ一人を担い手としていて、ダイヤーンの妻としての顔はすべて偽りだったと言うことだ。

「ユーリィはなぜそんなことを?」

「ヴァーユの指示だよ。彼にとっても苦渋の選択だったろう」

「おまえはまだあんな奴の肩を持つのか、ダイヤーン。妻子がありながら、こともあろうに祈祷師グリドラの卵に手を出した男だぞ。しかも責任逃れのために、その娘を他所の男に嫁がせるなど……防人どころか、人の風上にもおけん」

 ヴィシャールは呆れ顔で言った。当時の彼の怒りは凄まじく、みなが止めねば実兄を殺しかねないほどであったという。

「ともかく。事実を知った私は里長を退くことを提案した。ユーリィの手綱を握るヴァーユが里長となるのが一番自然だからね。だが、ヴァーユは固辞した。そして一人で行方をくらましてしまったのさ。ユーリィも、出産を終えるとすぐ居なくなった。今となっては、彼らがどこに行ったのか誰も知らない」

「……生まれた赤ん坊はどうなったんだ?」

 この問いに答えたのはヴィシャールである。

「知っての通り、表向きは母子ともに死んだことにしたよ。だが実際は私が引き取って育てた。それがヴァイユールだ」

「……あいつはそれを知ってるのか?」

「もちろん知らん。この先も知らせる気はない。貴様がどうするかは自由だがな」

 ヒコは黙り込んだ。そんな事実をおいそれと伝えられるわけがない。心配になってリュアスを見ると、彼女も青ざめて絶句している。

 だが、エルナリーフの表情は当初と何ら変わりなく、純粋な疑念だけがある。

「話は分かったわ。わからないのはユーリィの目的よ。いえ、彼女が動いているということはヴァーユとやらの差し金かしら。どちらにせよ、なぜヴィシャスをけしかけてヴァイユールにちょっかいをかける必要があるの? しかも、自分の娘を、腹違いとは言え実の兄にあてがうことになるわけでしょう?」

 その時、ヒコは急にめまいがした。続いて、わけの分からない恐怖が心の奥底から湧き上がってくる。妖魔バヌトゥどもは敵だ。みな自分の命を狙っている。先手を打たねば殺されてしまう。

(って、そんなわけねーだろ! 何なんだこれは!)

「ヒコ!」

 リュアスがすぐさまヒコに駆け寄り、肩に触れた。すると、目眩ははまたたく間に失せ、わけの分からない疑念も消え去った。

 だが、危機はまるで去っていなかった。

 ――ずぶり。

 鈍い音がした。

 その光景に、誰もが目を疑った。

 戦士長ヴィシャールが、手にした短剣で、ダイヤーンの胸を深々と突き刺していたのだ。

 ヒコがヴィシャールを突き飛ばしたのと、ダイヤーンが地面に崩れ落ちたのはほぼ同時だった。ヴィシャールは頭を振って状況を確認し、みるみるうちに青ざめた。

「ダイヤーン! 馬鹿な!」

「支配系魔術よ。リュアス、その二人を捕まえておきなさい!」

 エルナリーフが鋭く告げ、ダイヤーンの治療を始める。だが、絶望的な状態だった。心臓を一突きにされている。この状況で命をつなぎとめるほどの魔術アルダーを、エルナリーフは知らない。

「ダイヤーンさま!」

 この最悪のタイミングで、警護の防人たちが駆け込んできた。血を吹いて倒れ込む里長と青ざめた戦士長、必死に治療を施しているらしい魔女。そして、苦々しい表情で立ち尽くす余所者の男。

 防人たちがどう判断するかは明らかだった。

「何ということを!」

 激昂してヒコを取り囲む防人たちを、ヴィシャールは何とか諌めた。が、この事態をうまく説明できない。

「待ってくれ、親父さん。あんたの立場を悪くすることはねえ。ここはいったん俺を牢にでも入れてくれ。小難しい説明よりも、里長の治療が先だ。頼んだぞエルナリーフ」

「ええ。何とかしてみせるわ」

 みな苦渋の顔をしつつ、ヒコの提案にしたがった。

 そうして、ヒコは地下牢で拘束されることになった。

 もう何年も使われてないということで、カビと埃にまみれた酷い空間だったが、存外に頑丈な鉄格子を有する立派な牢だった。もっとも、ヒコが出ていこうと思えばいつでも出ていける程度のものだ。

「あんたにしちゃ頭の悪い選択だね」

 ほどなくして訪ねてきたのは女官長のリィンである。

 ヒコは肩をすくめた。

「里長はどうなった?」

「生きてるよ。なんだかんだで頑丈な子だからね」

「――で。あんたはどう思う? ユーリィってやつはなんでこんなことをする?」

「事情は聞いてるけどね。これ以上余計なことに首を突っ込むじゃないよ。いや、今すぐにでもリュアスを連れて森から出ていきな。ついでにあの稀人レウリィも引き取ってくれると助かるね」

「ああ、そのうちそうするさ。で、あんたは何を知ってる?」

 リィンは深々とため息を吐いた。

「仮に何か知ってたとして、何であんたに教えてやらなきゃならない?」

「教えてくれるさ。あんたはい女だし、おれは役に立つ男だ」

「ハッ!」

 リィンは不意に顔をそむけ、その場に「どん」とあぐらをかいた。

「生意気言うんじゃないよ小僧。ほんっと、うちの家系はろくでなしに惚れる血筋なのかね」

「男を見る目には自信があるんだろ。もうちょっと自分を信じてやれよ」

「あんたに言われるまでもないよ」

 リィンは鼻を鳴らし、それから語り始めた。


 まずこれは話しておこうかね。

 リュアスは祈祷師グリドラになんかなりゃしないよ。稀人レウリィの言う通り、あれは冥王が残した魔術アルダーさ。呪い、というべきかね。リュアスみたいな「先祖返り」を、神殿の地下に刻まれた大規模魔法陣の働きで、徐々に作り変えていくのさ。強力な支配系魔術を操り、生涯ただ一人の男に付き従う、そんな恐ろしい人形にね。

 でも、あれはもう二十年以上も前に破壊したんだ。あたしと旦那でね。だから、本当の祈祷師グリドラはユーリィが最後だよ。

 ああ、そりゃ里の連中は何も知らないよ。初代さまの言いつけを律儀に守ってただけだからね。今じゃ事実を知ってるのはあたしとダイヤーンだけさ。

 ――いや。もうひとり居たんだったね。

 それがユーリィさ。

 魔法陣を破壊した時、あの子はまだ5つだったかね。でも、手遅れだった。あたしも手をつくしたけど、解呪できなかったのさ。だから代わりに贈り物をしたんだ。質素な首飾りでね。祈祷師グリドラの呪いを抑える魔道具さ。あんたがふつうの女として生きたいなら、これを外すんじゃないよ、ってね。

 でも、それが間違いだったのさ。もちろんあたしの間違いだ。あの子にそんなものを贈って、自由の身にしてしまった私のね。

 どういうことかって?

 成長したユーリィは、自ら首飾りを外して祈祷師グリドラの呪いに身を委ねた。そして、適当な男でさっさと処女を散らせて覚醒したのさ。その後、首飾りをした状態で相手を殺した。これで晴れて自由の身だ。関心したよ。そんな使い方、あたしはちっとも思いつかなかったからね。


「――ちょっと待ってくれるか」

 ヒコは頭を抱えた。予想以上の情報の奔流に整理が追いつかない。リュアスが祈祷師グリドラでない、というのもそうだし、リィンがどうやら魔術アルダー……しかも冥王の秘術と呼ばれる類のものに精通しているらしい、というのもそうだ。

 だが、いまこの場でどうしても確認すべきはこれだ。

「あんたの話が本当なら、ユーリィってのは実質、担い手がいないわけか?」

 だとすれば、人心を掌握し、魔獣をも思いのままに操る、そんな人間が、なんの制約も受けずに動き回っていることになる。里人たちが最も危惧していた事態だ。

「その通りだよ。ヴァーユってのも哀れな奴さ。自分じゃ担い手のつもりで居たかも知れないけど、実際はユーリィの操り人形だったよ。そうやって、他に何人も手玉にとって、里を手中に収めようとしたのさ。いや、正確には冥王の遺産を、かね」

「……じゃあ、あんたがその野望を人知れず阻止した、ってところか?」

「そうとも言えるね。でも、実際に動いたのはダイヤーンだよ。あの子も特異体質でね、祈祷師グリドラの力が効かないんだ。冥王の血筋にたまーに生まれるんだけどね」

「食えねえ奴だな、里長も。行方をくらましたなんて言ってたが嘘か」

「長老会じゃそういう話になってるからね。実際は、魔道具の枷で能力を封じた上で追い出したんだよ。簡単に壊せるような代物じゃないはずなんだけど……外の世界にも、それなりの魔術師アルダールブが居たってことだろうね」

「なら、今回の件はその復讐か、そうじゃなきゃ続きってところだろうな。ヴァイユールはどう絡む?」

「相手がヴィシャスってのも重要だよ。詳しい説明は省くけど、あのふたりの子どもは降霊術アポストロスじゃ色々と使い道があるのさ。例えば、ちょっとした軍隊なら殲滅できる人間兵器が作れるよ。〝魔人ガウリィ〟なんて名前がついてるけどね」

「……それがユーリィの目的か?」

「だろうね。そうじゃなきゃ、あの子が自分のお腹を痛めてまで子どもを生むわけがないよ。自分の血を引く魔人ガウリィは思うがままに動かせるんだ」

 ヒコはしばし絶句した。リィンが語るユーリィの人物像が、想像を絶して邪悪だったからだ。というか、本当に彼女の話を鵜呑みにしていいものかどうか。色んなことを知りすぎている。

「いちおう確認していいか。リィン、あんた何者だ?」

「あたしはリュアスの祖母でニマス神殿の女官長だよ。それ以上のことを知りたいなら、もっと役に立って見せるんだね。ひとまずは――」

 そこまで言って、リィンはすくっと立ち上がった。階段を降りる複数の足音があったからだ。

「これはこれは、リィンさま。このような場所でお会いするとは」

 現れたのはヴィシャスと若い防人たちだ。リィンは彼らはざっと睨みつけた。

「人払いをしておいたはずだけどね。何の用だい?」

「そこの余所者の処刑が決まったのです。いまこの場で執行します。リィンさまもご覧になりますか?」

「はっ、そんな話は聞いてないよ。誰の差し金だ?」

 リィンの凄みを聞かせた問いかけに、若い防人たちはやや怯んだが、ヴィシャスは目を見開いて怒鳴った。

「誰の差し金でもよろしい! 邪魔をするならあんたもただじゃすまんぞ!」

「いい度胸だ。仕事だよヒコ。蹴散らしてやりな」

 リィンが吐き捨てると、ヒコが「す」と鉄格子から手を伸ばした。

 そして、がしっとリィンの手を掴み、思い切り引き寄せた。

「がっ!?」

 そのまま、ヒコの豪腕がリィンの細い首にかかる。またたく間の出来事だった。まるで小枝を折るように、いとも簡単に女官長の首が折れ曲がる。

 リィンはそのまま、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

「あはははははは!」

 途端、カン高い笑い声がこだました。女性のものだ。それで、ヒコは正気を取り戻した。

「リィン……くそ、何てこった……!」

「無様ってこういうことを言うのね。本当に無様だわリィン! あー、胸がスッとしたわ。今まで生きてきて本当に良かった!」

 声の主は白髪の妖魔バヌトゥ女である。確かに、ヴァイユールに良く似ている。だが、浮かべる邪悪な笑みは、ヴァイユールとは似ても似つかない。

「あんたがユーリィか。本当にいい性格してんな?」

「あら、お褒め頂いたのかしら? ありがとう、勇者さま。でも、あなたも意外とだらしないのね。あの忌々しい孫娘が傍にいなければ、簡単に私のお人形になってくれるんだもの」

 からん、と。ユーリィは何かを投げてよこした。見れば、足元に転がっているのは鋭い短剣である。

「さ、勇者さま。それで自分の心臓を一突きになさい。それで終わりよ。サヨウナラ!」

 ヒコは不思議に思いながらも、自分の意志で短剣を手にとった。

 そして、ごく自然に、やはり自分の意志で、ユーリィに向かってそれを投げつけた。

 とすん。

 間抜けな音を立て、それは狙い違わず、ユーリィの右肩に突き刺さる。きょとん、とした顔が印象的だった。ヒコは首を傾げて問う。

「おかしいな、あんたの言う通りにならないぞ。どうしてだ?」

「ぎゃああああああああ!」

 ユーリィは悲鳴を上げてのたうちまわった。

「うるさい子だね」

 そう言って立ち上がったのはリィンである。首をこきこきと鳴らしつつも平然としている。

「おい、どういうことだ。あんたしっかり首折れてたろ」

「回生呪、って言ってね。そう簡単に死ねない身体なんだ。首と胴が綺麗に離れない限りね」

「あー、地下迷宮にもいたぜそういうの。なんだあんた、実は人間じゃなかったのか?」

「失礼なやつだね。れっきとした魔術アルダーだよ、禁呪だけどね。それより、いつまでそんなとこにいる気だい? さっさと出てきな」

「へいへい」

 ヒコは鉄格子の扉に手をかけ、いとも簡単に剥ぎ取った。

「ば、化け物め!」

「何をしているの、早くそいつらを取り押さえて!」

 弾かれたように、防人たちが一斉に動く。よく訓練された連携攻撃だ。ヒコは内心で称賛した。

 とは言え、彼の障害とはなりえない。

 ヒコはものの数秒で防人たち全員を叩き伏せた。しかし、その時すでにユーリィの姿はなかった。

「ぐずぐずしてんじゃないよ。逃げられたじゃないか」

「無茶言うな、これで精一杯だよ。あんたは何とかできなかったのか?」

「それこそ無茶だよ。あんたのせいで一回死にかけたからね。対抗魔術もギリギリの線さ」

「お、おい」

 ふらりと倒れかけたリィンを、ヒコは慌てて抱き支えた。表情は青ざめ、全身はだらりと力ない。魔力切れの症状に良く似ている。

「ったく、やられたよ。当分は思い通りに動けない。いいかいヒコ、よく聞きな。こうなったらユーリィはなりふり構わないはずだよ。祈祷師グリドラの真骨頂は単純な支配系魔術じゃない、馬鹿げた扇動力なんだ。その気になりゃ、この里まるごと味方にできるんだよ。そうなる前に殺すんだ」

「物騒だな。他に方法はねーのか?」

「甘っちょろいことを……仕方ないね、なら縛り付けて猿ぐつわと目隠しをしな。手と視線と口を封じるんだ。そうすりゃ、あとであたしが始末をつけるよ」

「……分かった。任せろ」

 ヒコはリィンをそっと横たえ、階段を駆け上がった。表情には明らかな笑みが浮かんでいる。ようやく「分かりやすい」展開になったと、勇者はそんなことを考えていた。


4.


 すでに日はどっぷり暮れている。

 追跡するには不利な条件だ。しかしこの場合、利があるのはヒコだろう。里人に見つかると面倒なのは彼の方だ。

「さて。どこに行きやがった?」

 民家の屋根から周囲をざっと見渡す。相手がそれほど健脚だとは思えない。そう遠くへは行ってないだろうし、現実的なところでどこかに身を隠しただろう。彼女に限り、そのどこかは実質無制限だ。例えばこの民家の住人を虜にし、かくまってもらうこともできる。

「お手上げだな。こういうのは出来るやつに任せよう」

 ヒコは小さな笛を取り出し、思い切り吹いた。音はない。が、それは人の耳に届かないだけだ。誰の耳に届くかと言えば、頼りになる彼の義弟である。

『お呼びでござるか、兄者』

 シリウスは数分とせずに現れた。いくらなんでも早すぎるので、さすがのヒコも驚く。なんでも、先んじてリュアスが召喚していたらしい。いま、館の周囲はエルナリーフによる対魔術結界が張られ、数頭の銀狼ルナーグが固めているという。

「ヴァイユールはどうした。それがヤツの狙いだぞ」

『リィンどのがお引き受けしたと伺っておりますが……』

 ヒコは舌打ちをし、状況の説明を後回しにした。とにかく元凶の身柄を押さえるのが先だ。

「シリウス、この短剣の血の臭いを辿れるか。そいつが諸悪の根源だ」

『承知』

 シリウスは本当に頼りになるおとこだった。ものの数秒で方向に「あたり」を付け、一分も立たずに潜伏先を特定した。やはり、一介の民家のようだ。シリウスによれば、血の主のほか、二人の気配があるらしい。

 さて、どうしたものか。

 なにせ相手は祈祷師グリドラだ。まともに相対すればシリウスも危ういだろう。むろんヒコとて、ユーリィの支配に抵抗できる自信はない。

 だから一瞬で勝負を着ける。

 相手の完全な意識外から、不意打ちで気絶させるしかない。が、難題である。相手の索敵能力も未知数だし、屋内の構造も分からない。

『兄者、面倒事は手早く済ませるに限りまする。わが火球で家ごと焼き払いましょう』

「そんなことしたらおまえ、二度とリュアスに構ってもらえなくなるぞ」

 義弟の提案を一蹴しつつも、ヒコとて妙案はない。もともと、頭脳労働は苦手だと自負している。

(どうする? いったん館にもどってエルナリーフでも連れてくるか?)

 思案する中、シリウスが不意に警告を発した。

『兄者。屋内の者ども、さきほどからぴくりとも動きませぬ。よもや気付かれたのでは』

 ヒコは唸り、決断した。

「仕方ねえ。まずおれが突入する。おれが操られたら遠慮なく叩き伏せろ」

『愚策でござる』

 シリウスはすぐさま異論を唱えた。

『そも、御身を叩き伏せるほどの猛者が、この世のどこに居るというのか』

「おれが強いのは〝おれが入ってる〟からだ。操られた木偶なんておまえの敵じゃねえ。頼んだぞ」

 ヒコは言い捨て、できうる限り気配を殺して屋内に忍び込んだ。

 中は真っ暗だ。が、ヒコの視界に不自由はない。広間を中心としていくつかの小部屋に分かれた作りらしい。広間に人の姿はないが、確かに人の息遣いがある。

「この部屋、か?」

 ヒコはひとつの部屋にあたりをつけ、意を決して突入した。

「んー! んーーー!」

 部屋の中に居たのは年配の女性である。家人だろうか。椅子に腰掛けた状態で縛り付けられ、猿ぐつわを噛ませられている。着ている衣服はべっとりと血に塗れていた。しかし、見憶えのある衣装だ。

 ユーリィが着ていた服だった。

「しまった!」

 言うが早いか、両脇から躍り出た二つの影がヒコに襲いかかった。難なく叩き伏せると、どちらも男性である。ヒコは急いで女の拘束を解いた。

「白髪の女が来たな。どこに行った?」

「し、知らないよ。息子たちが急におかしくなって――」

 倒れ込む男たちを見やって、ヒコが舌打ちをしたのと、外から雄々しい遠吠えが聞こえてきたのは同時だった。

 ウォオ………ン!

 それは紛れもなくシリウスの雄叫びで、彼が手勢を集める合図だった。ヒコも急いで屋外へ飛び出す。

 が、暗闇に佇む義弟の様子がおかしい。ヒコは構えを取りつつ問いかけた。

「おい黒いの。おまえの名前を行ってみろ」

 シリウスは即座にこう答えた。

『わが性はヴィシュナス、名はアルファ、字はシリウス。兄者、この愚弟、お言いつけ通り全身全霊をもって、御身を叩き伏せまする。お覚悟!』

「ちっ!」

 もっとも恐れていた事態だった。ヒコは電光石火の猛攻をしのぎつつ怒鳴る。

「止めろシリウス、おれは正気だ!」

『問答無用!』

 シリウスは止まらない。恐ろしく速く、正確無比な攻撃だ。きっと正気を失ったわけではない。単なる操り人形でもない。疑心を増大させられたのだ。これがリィンの言う祈祷師グリドラの真骨頂というやつだろう。

(仕方ねえ、しばらく寝てろ!)

 ヒコは一瞬のスキを着き、渾身の一撃を放った。が、それがシリウスのこめかみを捉えるかと思った刹那、横合いから強烈な衝撃を受けて吹っ飛んだ。

「――何っ!?」

 すぐさま受け身をとって起き上がる。が、続けざまに意識外から攻撃。一度ならず二度、三度。状況が分からぬまま連続攻撃を食らう。

 ヒコは転がりながら必死で間合いを取った。そして絶望的な光景を目の当たりにした。

 それは、黒天狼ガルナルーグが統率する、敵意に満ちた無数の眼光だった。




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