5.たがためのひび
5-1~4.をまとめました。
1.
夜明けの森は霧に包まれている。
じっとりと重く、肌に絡みつく空気。まるで夜の間、この魔境の森が溜め込んだ邪気のようだ。
昇り来る太陽は、闇とともに、この邪気を見事に消し去ってしまう。この様子の一部始終を目撃すれば、なるほど、天空神のご威光がこの世をお守りくださっているというのは、ただの迷信でもなかろう、と思わされる。
天と地が光に満ち、霧を追い払う様を見ていると、心の中のもやもやまで晴れていくようだ。
「うーん、実に清々しいな」
小高い丘の上で、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、ヴァイユールは背伸びをした。すると、少女というにはあまりにも豊満な胸部装甲が弾み、主の気分を憂鬱にさせる。
「おまえは防人に向かん」
父は実りきった娘の双丘を一瞥し、忌々しげに言ったものだ。幼少のみぎりよりあれほど厳しい訓練を課しておいて、あんまりな言葉だった。
「防人じゃなくて女官になれよ。毎日だって可愛がってやるぜ」
幼い頃、共にひとかどの防人になろう、と誓いあった少年は、自分を置いてさっさと防人になってしまったばかりか、終いにはそんな野卑た台詞を吐いた。
「どいつもこいつも、勝手なことばかり」
ヴァイユールは光の弓を構え、遠方の、手頃な岩に目をつける。
――砕く。
念じて放つと、光の矢は瞬時に標的を捉え、轟音と共に弾き飛ばした。この弓は、ただ貫くことも、標的を爆発四散させることもできる。ヴァイユールの鬱憤を晴らすには恰好の玩具なのだった。
「神器を八つ当たりに使ってんじゃねーよ」
咎めるような声がして、ヒコがやってくる。彼も見かけによらず朝が早い。
「や、八つ当たりなんかじゃない。魔術の訓練だ」
バツの悪さを押し隠して言い訳をする。すると、ヒコは特に応えず、その場に座してヴァイユールを眺めた。
「私に何か用か?」
「用なんてねーよ。ほら、気にしてねーで続けろ」
「見られていると気が散るじゃないか」
「その程度で気が散ってちゃどうしようもねーな。魔術の前に集中力を鍛えたほうがいいんじゃないのか?」
ヴァイユールは内心で舌打ちして、弓を構えた。ヒコの言うことにも一理ある。魔術の訓練など言い訳だが、ここで止めたら己が軽んじられる。
(集中、集中……)
魔術の上達を望んでいるのも、光の弓がその役に立つのも事実である。ここはヒコの鼻を明かすような、巨大な矢を練り込んでやろうと、ヴァイユールは意識を集中させた。
今度の目標は一本の木だ。数十メートルはあろうかという巨木。あれを穿つ。
(大気よ、大地よ、力を貸してくれ……)
体外魔力を編み込むのも、ここ数日で随分上達した。もともと、この弓は自動的にやってくれるのだが、その際の感覚が、魔力の流れを読む力を向上させている。
そして、ヴァイユールが意識的に体外魔力を上積みして編んでやれば、光の矢はさらに太く、強力になる。
(貫けっ!)
充分に育った矢を放つ。それは瞬時に目標に到達し、巨木の幹に大穴を穿った。
「おお、凄いもんだな」
「ふん、このくらい当然だ」
賞賛の言葉に鼻を鳴らして応じると、ヒコがいやいやと首を振った。
「いや、おまえの胸がな。撃つ時にこう『ばい~ん』って」
「な……っ!」
ヴァイユールは絶句し、羞恥と憤怒に紅潮した。それは奔流となって心をちぢりにかき乱し、後には悲しみと惨めさだけが残った。もはや返す言葉もなく、ヴァイユールは無言でその場を走り去った。
「待て、怒ったのか? 悪かった、謝るから。ごめんって、ヴァイユール!」
背に必死な声がかかるが、聞こえないふりをした。誰の声も聞きたくはなかった。そのまま、ヴァイユールは寝床に引きこもってしまった。
「最低ね。あなたは一度死ぬべきよ」
「ひどいよヒコ。ヴァイユールはおっぱい大きいの気にしてるんだから」
事情を聞いたエルナリーフとリュアスは、そろってヒコを非難した。
「ちょっとした冗談のつもりだったんだよ。だいたい、あいつはあんな立派なもんを持ってて、何が不満なんだ?」
反省の色が見られないヒコに、ついにリュアスも怒った。
「そんなにおっきなおっぱいが好きなの? ヒコのバカ! きちく!」
もはや論点からずれた怒りであったが、リュアスは止める間もなく庵から飛び出した。だが、しばらく駆けて立ち止まり「ちら」とこちらを振り返るのが、窓から良く見えたので、ヒコもエルナリーフも慌てなかった。
「ともかく。女の子を身体のことでからかうなんて卑劣な行為よ。今すぐ謝ってきなさい」
いっぽう、ヴァイユールはすっかりふさぎ込んでいた。
神殿区において、15歳になった娘は、ニマス神殿で「お勤め」に就くことになっている。
もちろん例外はある。「審査」によってまだ「未熟」と判断されるか、もしくはすでに手に職を持っているか。
ヴァイユールはもうじき16歳になる。去年はリュアスの守役ということもあって免除されたが、今年はどうなるか分からない。というのも、リュアスがすでに「担い手」を定めてしまったからだ。異例づくしのことゆえ、今はヴァイユールの扱いも保留となっているが、今年の「審査」を受けることになれば当然、十二分に適正だと判断されるだろう。
「本当なら、そのまま防人になるつもりだったのに……」
ヴァイユールは父母ともに防人である。母シャイールは昨年亡くなったが、筋骨逞しい歴戦の防人であり、父の戦士長ヴィシャールと並び称される武勇の人だった。そんな両親の背中を見て育ったヴァイユールも、うら若き乙女でありながら、一端の防人になんら劣ることのない腕前を持っている。
ところが。
十を越えたあたりから実り始めた胸は、リュアスの年頃には大抵の大人を凌駕するものになり、今では、体捌きや得物の取り回しにも苦労するほどの重石となっている。父の言葉通り、彼女の身体は武人に向かないのだ。
「余計な脂肪がつき過ぎなんだ」
と、身体を鍛えに鍛え、いじめにいじめ抜いたが、それは彼女の「くびれ」をより艶やかにし、尻を良形に押し上げ、巨峰を支える大胸筋をより強くした。結果どうなったかと言えば、大抵の男が無遠慮に視線を撫で付ける、いやらしい躰が出来上がっただけだった。
「防人なんて勿体ない。ニマス神に対する冒涜だ」
「防人は止めておけ。きついし危険だし、ろくなことがないぞ」
「女官の何が嫌なんだ? ふつうの娘は憧れるものだろう」
たまに参加する防人の訓練では、一緒になった先達がこぞって彼女を説得にかかる。防人なんて止めておけ、おまえは女官になるべきだ、と。終いには、
「なあヴァイユール。俺と所帯を持たないか。戦士長は必ず説得するから」
などと口説かれる始末である。
「母さん。私はどうしてあなたに似なかったんだ……」
母シャイールはあれほど慎ましやかで動きやすそうだったのに、自分は如何様な呪いでこんな身体に生まれついたのか。叶うなら、エルナリーフと躰を交換して欲しい、とすら思っていた。
「ヴァイユール、入るぞ」
しばらくするとヒコがやって来て、寝台の側に腰を下ろした。ヴァイユールは無視した。枕に突っ伏して掛布を頭からかぶり、全身で拒否の意を示す。
彼は出会った当初から、自分に野卑た視線を向けない稀有な男だった。妙に構えず気安く接してくれたし、それゆえ信頼していた部分もある。それが、今朝のことで裏切られた気分だった。
他の誰でも良い。でも彼とだけは、話をしたくなかった。
「……」
だがヒコは寝台のそばに座したきり一向に口を開かない。そのまま時間が過ぎていき、ヴァイユールは耐えかねて、ちらりとヒコの様子を伺った。
「ぐー……」
ヒコは胡座をかいたまましっかり寝入っていた。
「あなたという人は――っ!」
ヴァイユールはヒコの顔面に枕を叩きつけ、「ふへ?」と声を漏らす間抜け面を尻目に、肩を怒らせて庵を飛び出して行った。リュアスと違い、立ち止まることも振り返ることも無かった。
そのまま、敷地の外に出ると、新しい守護者が片膝をついて控えている。何となく、その身体をぽん、と叩いてみた。
「おまえは悩みが無さそうでいいな」
「んなことないだろ、どんなやつにだって悩みはある」
すぐに返ってきた返事に驚いていると、正体はヒコである。ひと睨みして立ち去ろうとすると、がし、と両肩を掴まれた。
「離してくれ」
「逃げないならな。ほら、ここ座れよ」
ヒコは強引にヴァイユールの腰を掴んで身体を持ち上げ、守護者の膝の上に乗せた。逃げることも出来ず、ヴァイユールは仏頂面で顔をそむける。ヒコは頭をぽりぽりと掻きながら、その場に「どか」と胡座をかいた。
「おれが悪かった。許してくれ。この通りだ」
そして深々と頭を下げた。ヴァイユールはそれを横目に一瞥し、すぐにまた顔を背けた。
そのまま無言を貫いていると、「ふー」と大きな溜め息が聞こえた。
「つまらない話になるけどな。おれが三つの時だ」
そんな前置きをして、ヒコはいきなり語り始めた。
母親が流産した。予定では女の子だったらしい。
「妹が出来るのよ。あなたはお兄ちゃんになるの」
数ヶ月前はこの上なく幸せそうに笑ってた母親が、泣きながら何度もおれに謝るんだ。「ごめんね」ってな。
自分が酷く悪い事をしでかしたような気分になったよ。おれも、一緒に泣きながら謝ったもんだ。
でだ。
それから母親は少しおかしくなった。
妹の部屋を作り始めたんだ。生まれてこなかった妹の部屋だ。「あの子ならこういう小物を置いたかも」「あの子はきっとこういう服を着るわ」ってな。いもしない娘の成長に合わせて。誰も使わない部屋を毎日綺麗に手入れして。
それ以外はふつうだったよ。妹が死んだのもちゃんと理解してた。
でも、部屋の手入れは止めなかった。最後までな。
そのうちおれも親父も慣れちまって、母親の「ごっこ」に付き合うようになった。誕生日にはプレゼントも用意するんだ。本当は命日なんだけどな。
気付いたらおれも、いつも妹のことを考えるようになってた。あいつが本当に生まれてきてたら、今ごろふつうの兄妹みたいに、くだらねーことで喧嘩したり、親の悪口言いあったり、何か相談に乗ってやったり乗ってもらったり……ま、なんだ。そういうことしてたかもしれねー、ってな。
「おまえくらいの奴を見ると思い出すんだよ。だから放っておけない」
気がつけば、ヴァイユールはヒコの方を向いていた。彼は真っ直ぐに彼女を見ている。笑顔、ではなかった。でも、とても温かな何かを感じる目だった。
ヒコは気まずそうに、ぽりぽりと頭を掻いた。
「これは、おれのワガママに付き合わせてるだけだ。悩みがあるなら話してみないか。聞くだけならいくらでもできるぞ」
ヴァイユールは自分がどういう顔をしているのか分からなかったし、どういう顔をすればいいのかも分からなかった。だが、ヒコの話や態度が作り物でないことくらいは分かった。彼が自分やリュアスに親身で気安い理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
「……私は妹の代わりか」
「そういうことだ。迷惑かも――」
ヴァイユールは皆まで聞かず、守護者の膝から飛び降り、ヒコの真正面に胡座をかいた。突然のことにヒコは驚き、ヴァイユールをまじまじと見つめる。
「まったく、妙な兄が出来たものだ」
妖魔の少女は、はにかんで笑った。
この日を堺に、ヒコはヴァイユールを鍛えるようになった。
「誰にも文句を言われないくらい強くなればいいんだ」
というのがヒコの言い分である。
(それは少し違うような)
ヴァイユールは漠然と思ったが、何にせよ、彼ほどの戦士に鍛えてもらえるなら願ってもない。
リュアスとしては面白くなかった。それだけ自分が構って貰えなくなったからだ。
「あのふたり、最近仲が良いよね」
「あれは仲が良いと言うのかしらね」
特に邪推しなければ、ふたりは熱心に武術の稽古をしているだけだ。ただ、そこに至った経緯は、エルナリーフもリュアスも知らなかった。
「当たり前じゃない。ヒコ、すごく楽しそうだもん」
「ヴァイユールは大変そうだけど」
確かに教える方は活き活きとして見えるが、教わる方は必死である。ヴァイユールはヒコの言いつけを守り、毎日朝から晩まで、ヒコが見ていない間も身体を動かし続けて、夜は力尽き果てて寝台に倒れる。翌日は日も昇らぬうちから目を覚まして、やはり同じような一日を送る。
成果はたった一週間で現れた。
(ん……なにか身体が軽いな)
気のせいではなかった。これまで、身体を動かす度に邪魔でしょうがなかった胸の重石が、あまり気にならなくなっている。
「要はバランスだからな。今までは感覚が身体の成長に追っつかなかったんだろ。何事も慣れだ、慣れ」
ヒコは何でもないことのように言ったが、ヴァイユールは強いショックを受けた。自分の悩みがどれほど他愛ないものだったのか。そしてそれが今、ほとんど解決されたことに、言葉も出なかったのだ。
「ありがとう、ヒコ!」
ヴァイユールの感情は簡単に理性を振り切って、結果としてヒコに抱きついた。彼の胸はとても温かかった。本当に、頼れる兄ができた気分だった。知ってか知らずか、ヒコは特に驚くこともなく「ぽんぽん」と彼女の背を叩き、労ってやった。
だが、ヒコはそれでよしとしなかった。
「まだ入り口にも来てないぞ。ここからだ、ここから」
指導の内容もガラリと代わり、より実戦的なものになった。ヴァイユールはさらに辛い毎日を送ることになったが、ヒコに構われていると思えばむしろ嬉しかった。
思えば、ヴァイユールはいつも、そういう存在を求めていたのかも知れなかった。
物心ついたころには、すでに近所の二つ年上の少年のあとを付いて回っていた。色々あって彼と疎遠となった後も、心はどこか空虚であった。それが、ヒコによって満たされた気がしていた。
それに、苦しい修行の先にあるのが、ヒコという絶対強者の姿であるならば、武を志す者として、否応にも気力が満ちた。
そうして三週間が経った頃には、ヴァイユールは剣一本で岩熊を仕留めるほどの戦士に仕上がっていたのだった。
「ヴァイユール、すごい!」
「ヒコのおかげさ」
はしゃぐ少女たちから少し離れた所で、エルナリーフはヒコを賞賛していた。
「驚きね。あなた、教師の才能があるわ」
「大袈裟な。たかが熊一匹仕留められるようになっただけじゃねーか」
「剣一本でそれができる人間が、この世にどれだけ居ると思っているの」
実際、世界規模で見ればそれほど希少でもなかろうが、素地があるとはいえたった三週間で、一人の少女をここまで鍛え上げた実績は驚嘆すべきものだ。
「ようやく入り口かな。あとは実戦あるのみだから、おれの指導はこれで終わりにする」
ヒコが告げると、ヴァイユールは顔を青くした。もう彼に構ってもらえない。それは絶望に他ならなかった。
「もう稽古をつけてくれないのか?」
「そりゃまあ。おまえも毎日きつかっただろ? 当分は身体を休めてだな……」
「そんなのは駄目だ!」
思わず大声を出し、ヴァイユールは皆の視線を集めた。こほん、と咳払いし、声調を落ち着ける。
「実戦というなら、ヒコの胸を借りるのが一番だ。これからも毎日、稽古を付けてくれ」
「いや、おれも色々やることがあってだな……」
ヒコは言いよどんだ。彼はエルナリーフから外の世の常識や言葉などを学んでいるのだが、最近はヴァイユールにかかりきりで、あまりそれに時間を割いていなかったのだ。
「私はヒコのワガママを聞いてやったぞ。今度は私の番だろう?」
「あれは言葉のあやというやつで――」
「お願い、お兄ちゃん」
ヴァイユールは両手を祈るように胸元で合わせ、上目遣いにヒコを見つめた。自然、彼女の豊満な膨らみは左右から「むにゅ」と押し上げられ、普段よりも強調された。
しかし、ヒコはそれよりも、初めての呼称に衝撃を受けていた。「お兄ちゃん」という言葉がとてつもなく甘い響きをもって、彼の脳内で何度も反芻された。
ヴァイユールはこの策に確かな手応えを感じ、普段の彼女からは考えられない媚びた声で、駄目押しの一言を言い放った。
「一生のお願いよ。私、もっとお兄ちゃんに稽古を付けて欲しいの」
「しょ、しょーがないなあ!」
ヒコはでれっとした顔で承諾した。頭ではなく、心が発した言葉だった。
2.
性をヴィシュナス。名をアルファ。字はシリウス。
暗黒の森の銀狼を統べる黒天狼にして、勇者ヒコ・ヴィシュナス・ジャークノートの義弟である。
最近、彼には悩みがあった。
「――というわけでな。あいつら『お兄ちゃん』と呼べばおれが何でも言うこと聞くと思ってるんだ」
『はあ。それはまた難儀でござるな』
「ヴァイユールはともかく、リュアスのやつが調子に乗ってて。ちょっとおまえからも言ってやってくれないか」
『それはよろしいのですが、兄者。それがしもこの森の眷属を統べる身でござるゆえ、こう頻繁にご招待頂きますと、治世に滞りが――』
「そうかそうか、おまえも大変だもんな。困ったことがあったら言ってくれ、いくらでも力になるぞ」
そういうことではないのだが、とシリウスは内心で吐息した。漆黒のたてがみに埋もれた首輪のようなものがちらりと覗く。複雑な呪印がいくつも刻まれた、エルナリーフ謹製の魔道具だ。
リュアスの通訳なしに、人と直接会話できる魔道具である。
エルナリーフから贈られた当初はシリウスも大変気に入っており、森の外へ人間を冷やかしに行ったりしてご満悦だったのだが、義兄に頻繁に呼び出されるようになると悩みの種となった。
むろん、ヒコが本当に自分の力を必要としているのならば、粉骨砕身に働く覚悟がある。
だが、そうではない。シリウスは殆どただの話し相手として召喚されている。しかも、この頃の義兄は女所帯で鬱憤が溜まっているのか、吐く言葉の殆どが愚痴である。
(近頃は森も平和だし、我がおらずとも不備はないのだが)
ひたすらに愚痴を聞かされる日々に辟易しているシリウスであった。
いちおう、そんな彼にも癒やしはある。
「ちょっとヒコ。また変な話に付き合わせて。シリウスが困ってるじゃない」
現れたのはリュアスである。肩を怒らせ、腰に手を当ててヒコを睨む様は、出会った当初の、どこか遠慮がちな態度とはまるで違う。これがヒコの言うところの「調子に乗っている」というやつだろう。
『む。姫、また背丈が伸びたのではござらぬか』
「分かるぅ?」
シリウスが問うと、妖魔の姫は途端に顔をにやけさせ、抱きついてくる。すると心が癒やされていく。どうやら比喩ではなく、彼女の抱擁にはそんな効果があるらしかった。
ともかく、リュアスが急激な成長期に入ったのは事実である。ヒコの腰元くらいしかなかった身長が、今では胸元に届くほどだ。まだ伸びているらしく、会う度に身長について言及してやると喜び、こうして抱擁してくれる。
「ちっ。おまえも所詮ただの獣か」
知らず尻尾を激しく振る義弟を見やり、ヒコは舌打ちしたが、シリウスは素知らぬ顔でやり過ごすのだった。
ヒコ・ヴィシュナス・ジャークノートが、魔女の庵で暮らすようになって一ヶ月が経った。
エルナリーフを手伝うと決めたヒコだったが、その件についてはなんら進展は無かった。いちおう何度か里に赴き、里長のダイヤーンを含む何名かの長老たちと面会する機会もあったが、「なしのつぶて」だった。
その代わり、と言おうか。皇帝竜を操っていた――いや、操ろうとしていたものの正体は判明した。もっとも、これはヒコの手柄ではない。
『若い人間の男でしたな。先日、牙の竜王へ挨拶に赴いた折、近くの人里にて話を聞く機会がございまして』
シリウスの話によれば、その男は付近の領主に仕える魔術師で、耕地の拡大のため、森に斧を入れる旨、皇帝竜に直談判したらしい。その際、皇帝竜が「古き盟約のため聞き入れられぬ」と告げたものだから、「何らかの支配系魔術によって森を守らされているに違いない」と早合点し、解呪を試みた。
実際は冥王バルザックとの口約束を殊勝にも守り続けているだけなのだから、その試みはまったくの無駄であった。無駄なだけならまだ良かったのだが、男の魔術は皇帝竜の精神に悪影響を及ぼし、あのような暴走状態に陥らせてしまったのだった。
『とはいえ、なかなか話の分かる面白い男でしたので、牙の竜王ともよく協議し、東の森の一部を割譲することと相成りました。それがしも定期的に赴くことに致しましたゆえ、二度とあのような事態にはなりますまい』
この話の真偽について、稀人の魔女の意見はこうだった。
「気を抜いている精神を混乱させるのはそれほど難しくないわ。確かに、支配系魔術を解こうとしてやらかしてしまう可能性はある」
ということは、ひとまずこの件は解決したと見て良さそうだった。
「あなたの義弟は本当に頼りになるわ。義兄さんと違って」
エルナリーフの一言はヒコの心を抉ったが、彼女の目的について何の役にも立ってないのは事実なので、返す言葉もなかった。
だが、封印の地の銀狼の件と、庵を襲った皇牙竜の件については、未だ判明していない。引き続き注意は必要だが、あれ以来新しい動きもなく、やはり手がかりはなかった。
これについて、エルナリーフはこんなことを言った。
「皇帝竜と互角に殴り合うような人に、この森の何をぶつければいいのかしらね。私なら諦めて別の方法を考えるわ」
というわけで、この一ヶ月はいたって平和であった。
この間、ヒコは驚くべき速さで言葉を覚えつつある。未だ話すのに不自由があり、日常会話に支障がない、とまでは行かないが、聞き取りだけならばさほど問題はない。
「随分うまくなったわね」
「先生のお陰だよ」
ヒコはさらっと答えるが、並行して読み書きも修得している。このまま行けばあと二ヶ月足らずで、王国語を完璧にものにしてしまうだろう。
「そうかしら。あなたほど物覚えの早い人はそう居ないわ」
ヒコの上達速度はちょっとしたものだ。おそらく以前にも、母語以外の言語を修得した経験があるのだろう。それも、まったく文法体系の異なる言語だ。
加えて、高い合理的思考能力も持ち合わせている。おかげでよく話も通じるし、教える方としても苦労がないばかりか、逆に楽しいほどである。
いや、別に何かを教えていなくても、ヒコと会話するのは楽しい。それはエルナリーフにとって、最もかけがえのない時間になりつつあった。
「いつも美人の先生に見て貰ってるからな。やる気も出るってもんだ」
「もう。またそういうことばかり」
たまに飛び出す軽口にも、まんざらでない反応をする。この頃、ヒコと対するエルナリーフは概ね笑顔である。出会った頃からは想像もつかない。
「この調子で、エルダーナ語ってのも教えてくれよ」
「それよりも西方諸語が先よ。エルダーナ語なんて、今では遁世の稀人しか使わないから」
「そいつらにも会うつもりだからな。ま、おまえが一緒なら不自由はないだろうけど、響きが好きなんだよ」
「そ、そう。奇遇ね。私も、エルダーナ語が世界で一番美しい言語だと思っている」
「なら、また歌ってくれよ。休憩がてら、ちょっとだけでいいから」
「しょうがないわね」
母語を褒められたからか、「おまえが一緒」という言葉を吐かれたからか。ともかくエルナリーフは上機嫌になって、ヒコに求められるまま歌い始めた。エルダーナ語の歌である。本来ならば稀人伝統の楽器で伴奏するそうだが、エルナリーフの歌声はそれだけでも聞き惚れてしまう。
『貴婦人が歌っておられますな』
その時、リュアスはシリウスを伴って森に出ている。彼女の耳には何も聞こえないが、シリウスが言うのだから間違いはない。
リュアスが知る限り、エルナリーフが歌うのは相当に機嫌が良い時である。そしてこの時間、ヒコに色々と教えているはずの彼女の機嫌が良いということは、ヒコと「いい感じ」になっている、ということなのだった。
「シリウス、急いで戻るよ!」
きりっ、と表情を引き締め、妖魔の姫は告げる。シリウスに否やはない。精々、心の中で義兄に謝罪する程度である。
庵に戻ると、自主練習をしていたヴァイユールも手を休めて歌に聞き惚れている。リュアスが窓の外から眺めると、それに気付いたヒコが小さく手を振ってくれる。リュアスも「にこっ」と笑って応じ、あとはただエルナリーフの美声に聞き惚れる。
それは、耳に届いた全ての生命を恍惚とさせる、魔法のような歌声だ。鳥も獣も草も木も、生きる営みをしばし留め、ただこの美声に耳を傾ける。おそらく、エルナリーフはそれに気付いていない。
なぜなら、彼女は今、ヒコのためだけに歌っているからだ。
(ずるいな)
優しい顔で陶然とする未来の旦那様を見やりつつ、リュアスは思う。エルナリーフはずるい。綺麗で頭が良くて魔術まで使えて、その上こんなに素敵に歌う。ヒコが心奪われてしまうのも無理はない。
もちろん、リュアスにしか出来ないこともある。そして、リュアスは己の成長の結果を疑っていない。それでもなお、エルナリーフが居る以上、ヒコの一番にはなれないだろう。
(でも、一緒にヒコを支えていけるなら)
健気な少女は誓いを新たにする。そして今はせいぜい、まだ決定的な仲になっていないらしいふたりを牽制してやるのだ。自分はまだスタートラインにも立てない。ならばエルナリーフにも、もう少しハンデを貰っていいはずだ。
エルナリーフが歌い終わり、ヒコと艶っぽい視線を交わす段になると、リュアスはこの時とばかりに声をかける。
「ねえふたりとも。何してるの?」
そして口唇を尖らせ、精一杯に拗ねてみせるのだった。
3.
神殿区において、少年たちの憧れの職業といえば防人である。
鍛えに鍛えた身体に槍を一本携え、森の化け物に立ち向かっていく勇敢な戦士たち。彼らは一人残らず英雄であり、人々の平和を支える礎だ。
「オレも防人になって、みんなを守るんだ!」
「鍛えに鍛えて、いつか熊殺しの防人になるんだ」
「夢が小せえなあ! オイラなんか竜殺しをやってやるぞ!」
幼い少年たちは口々に言い合って、槍に見たてた棒きれを振り回す。何代も変わらない里の原風景である。
いっぽう、少女たちの憧れと言えば女官に他ならない。
外の人間にはなかなか理解されないだろうが、里に生まれた少女たちは、ほぼ全てと言っていいほど女官に憧れる。なにせ、土臭い仕事を一切しなくていいし、いつもするりと綺麗で男たちにちやほやされるからだ。
加えて、神殿を利用できるのは一定の成果を上げた未婚の男だけで、まずは熟練の女官の手ほどきを受けることになっているから、みなそう言った意味で巧みであり、若い女官を手荒に扱うような輩はいない。仮にそのまま嫁入りとなっても外れがないのである。
現役の女官たちに聞いてみると、
「毎日、泉で身体を流せるのは嬉しいよね」
「お勤めに励んでるだけで美人になれるし、お得だね」
「辞めたくなったら適当な旦那を捕まえて危険日に……あ、ごめんこれ内緒だった。聞かなかったことにして♪」
という答えが返ってきた。ヒコはどう答えていいか分からず、曖昧な笑みを返すばかりだった。
さて、ニマス神殿である。
ヒコは現在、防人の試験に臨むヴァイユールに付き添う形で里を訪れている。試験は「よそ者には見せられない」らしいので、リィンへの挨拶も兼ねて神殿を訪ねたのだった。
ちなみにリュアスはこの頃「ぼくも魔術師になる!」と言い張って、例の能力の制御に取り組んでおり、庵でエルナリーフと留守番だ。ヒコとしては心配がないこともないが、庵は現在、義弟シリウスとその手勢が万全の体制で警護している。守護者も居るし、滅多なことは起きないだろう。
実は里へは何度か訪れているが、どれもエルナリーフの付き添いで、一人でニマス神殿に寄るのは初めてのことだった。
「良く来たね。今晩は泊まってくんだろう?」
リィンは年甲斐もなくはしゃいで、ヒコにしなだれかかった。と言っても、見た目は精々が二十代後半の美女である。しかも類稀な色香を湛えた極上の美女だ。ヒコは下っ腹に力を入れ、
伸びかけた鼻の下を懸命に引き締めた。
「いや、今日はヴァイユールの付き添いでな。試験の結果が出たら庵に戻るよ」
「そうかい。あんたもいけずだね」
リィンはさっと身を離し、拗ねるように口唇を尖らせたが、どこまで本気なのか判断に苦しむ。
「あたしもこれからお勤めがあって、あんたの相手はしてやれないけど、若い連中を置いてくから好きに使いな。ああ、安心おし。あの稀人には内緒にしといてやるよ」
妖しい笑みと四人の若い女官を残し、リィンは去っていった。
「姐さんはこれから〝お初〟のお相手だよ」
「羨ましいよね。最近じゃ大体リィンさまに回ってくるんだから」
「旦那方のご指名じゃ仕方ないよ。今日の相手は誰だっけ?」
「防人の若いのだよ。お初にしては少し年長だけど」
「わあ、ならあっちの方も鍛えてそう!」
娘達は入り難い話題できゃいきゃいと騒ぎ始めた。落ち着かないな、と思っていると、いつの間にか一人寄り添っていて、目の前につまみや飲み物が用意されていた。
「お疲れでしょ? 今日はゆっくりしていってね」
甘い芳香を撒き散らして、柔らかくしっとりした肌が腕に絡みついてくる。しかも「下着」と呼ぶのもおこがましい薄衣姿である。「ごくり」と喉が鳴ってしまうのは、健全な男児として当然の反応だった。
「そりゃ、ゆっくりさせて貰うつもりだけど。できればもうちっと離れてくれるか」
「どうして? 私みたいなのはお嫌い?」
潤んだ瞳が色気たっぷりにこちらを伺う。好きか嫌いかで言えば大好きに決まっている。
「あー、抜け駆け禁止だよ!」
他の三人もすぐに集まってきた。
「あたし、ヒコさんに会えるの楽しみにしてたんだよ」
「座るとこがないから、わたしはお膝に失礼するね」
あっというまに四人がかりでしがみつかれた。柔肌と甘い香りに包まれ、ヒコは反射的に彼女たちの身体に手を伸ばし「やっ」とか「あんっ」とかいう甘い声を上げさせた。
(ここが天国か)
心と体をすっかり委ねてしまいそうになり、ヒコは慌てて邪念を追い払った。リィンはもちろんそういう目的で彼女たちを置いていったのだろうが、彼女たちを抱くわけにはいかない。理由はいくつかあるが、一番大きなのは、いつかエルナリーフに告げられた事実だ。
「妖魔はおれの子を孕むと死ぬらしい。危ないからもう少し離れててくれ」
途端、女官たちは怯えきって後ずさった。その豹変ぶりに、さすがのヒコも堪えた。変な病気持ちだと思われたかも知れない。
その後、厚着になって「ふつうの」接待をしてくれる女官たちと、他愛ない話に花を咲かせた。
「ヴァイユールは昔から、女官にだけはなりたくないって言ってたからね」
「あの子はお硬いっていうか、乙女過ぎるのよ。こんなにいい仕事ないと思うんだけどな」
「旦那だって良い人選び放題なのにね」
「でも今日は残念だな。みんなヒコさんの赤ちゃん貰う気満々で来たんだよ」
「そうそう。リィンさまに騙された気分だよ」
「でも、当たりを貰わなければいいんでしょ? ねえヒコさん、安全な日を教えるからまた遊びに来てね」
「ずるい、あたしだって教える!」
「私はいつでもいいよ。色んなところを使わせてあげる」
そんな話に適当に合わせていると、突然勢い良く部屋の扉が開け放たれ、ひとりの若者が入ってきた。上半身は丸裸で、鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく晒している。下半身は腰巻きひとつであった。
「間違いない、あの時の勇者さまだ!」
若者はヒコの前に跪き、深々と頭を垂れた。
「どうか、この俺を弟子にして下さい!」
後ろでは、薄着のリィンが困った顔で肩をすくめていた。
若者の名はイーク。年は18歳。防人となってまだ二年だが、それにしてはなかなか身体が出来上がっている。もう一ヶ月以上も前になるが、ヒコと皇帝竜の闘いを近くで目撃しており、それを里に伝えた人物である。
「もちろん、自分があんな次元にたどり着くなど思いもしていません。でも、聞くところによるとヴァイユールのやつも鍛えて頂けたのでしょう?」
イークはヴァイユールと年が近く、幼馴染みの間柄だった。
「あいつは頑固なやつで、あんなに身体付きが変わってしまったのに、俺が何と言っても一向に型を変えようとしなかったのです。あのままでは満足に動けず、戦場に出ても怪我をするだけだと思っていたのですが、この間ちらりと見たら、見違えるほど見事に動けるようになっていて、それが勇者さまに鍛えられたお陰だと言うじゃありませか。きっとあなたさまは教師としても一流なのだと思い、教えを請う機会を伺っていたのです」
イークはちょっと引くくらい熱心だった。ヒコがどう断ろうか悩んでいると、また新たな人物が、慌ただしく部屋に駆け込んできた。
豊かな双丘を揺らし、荒く息を吐いているのはヴァイユールである。ひどく切羽詰った表情で、周りの何も目に入っていないのか、ヒコだけを真っ直ぐに見つめて、彼女は叫んだ。
「頼むヒコ、私を嫁に貰ってくれ!」
その叫びは、その場の時をしばらく止めた。
「……はあ?」
ようやくヒコがそんな声をひねり出すまで、みな呼吸を止めていたほどだった。
さて、ヒコは自分が若い娘に好かれる類の人間だとは思っていない。少なくとも、ヴァイユールにそういう意味で好かれるような心当たりはまったくない。いや、仮にそうだったとしても、いきなり求婚されるのはおかしすぎる。
「何があったんだ?」
何とか落ち着かせ、事情を聞く。ヴァイユールは最初ひどく言い難そうにしていたが、ヒコが再三促すとようやく口を開いた。
「それが、防人にはなれたんだが……」
「ああ、それでか。だからあれほど止めろと言ったのに」
訳知り顔で口を挟んだのは、未だ半裸のイークである。ヴァイユールはこの時初めて彼の存在に気がついたらしく、真っ赤な顔で口をぱくぱくさせながら、イークを指差した。
「お、おまえっ……知ってたな! 知ってて黙ってたな!?」」
「そりゃあ、部外者には喋れない決まりだからな。だがおまえ、それで勇者さまに自分を娶れとは、不遜にもほどがあるだろう」
「うるさい、そもそもおまえが――!」
「待て待て。話が全然見えん。まず説明をしろ説明を」
イークに掴みかかるヴァイユールを制して、ヒコは続きを促した。
すると、イークが神妙な面持ちでこう言う。
「ここから先は防人の内規に関わることなのです。恐れ入りますがリィンさま、お人払いをお願いしても良いでしょうか」
「構わないよ。ほらあんたたち、撤収だよ」
リィンが促すと、四人の女官たちはみな名残惜しそうに退出していった。
彼女たち一人ひとりから熱烈な抱擁を受け、ヴァイユールから白い目で見られたヒコは、「こほん」とひとつ咳払いした。
「で。その内規ってのは、おれが聞いてもいいことなのか?」
「勇者さまは〝担い手〟ですから。でも、これからお話しすることは他言無用に願いますよ」
防人の内規、つまり防人だけに適用される掟はいくつかある。これはそのうちのひとつである。
「防人の女は、防人の誰かを夫とせねばなりません。これはヴァイユールも知っていたでしょうが……」
一瞥されたヴァイユールは死んだ目で頷く。
「ここからが内輪しか知らんことなのですが。その夫というが、自分で選べんのです。独身の防人のうち、もっとも腕利きのものが娶ることになっています」
「例外があるんだ!」
息を吹き返したように、ヴァイユールが口を挟む。
「〝担い手〟のお手つきとなった場合だ。つまり、ヒコが私を貰ってくれれば、私はあの男と結婚せずに済むんだ!」
「厚かましい女だな。そんな理由でずっと守役を努めてきた祈祷師の担い手を寝取ろうとは」
「黙れ薄情者、だいたいおまえ何でここに……あああ! 抱いたな! 女官としっぽりヤったんだなああ!?」
「落ち着け、何でそんなに仲が良いんだおまえら」
仲が良いのか悪いのか。じゃれ合うふたりを引き剥がすのは一苦労だった。ヒコは思わず心の中でエルナリーフに助けを求めていた。
「まあ、ヴァイユールが結婚しなきゃいけないのは分かった。今の話じゃ相手も決まってるみたいだが、それが気に入らないのか?」
ヴァイユールはムスッとして答えない。代わりにイークが口を開く。
「実際はこれから、希望者同士……つまりこいつを嫁に欲しいという者同士で決闘して、勝者が夫となるわけですが、まあ現状だと仰る通り、相手はほぼ決まっています。ヴィシャスというやつで、ヴァイユールの従兄にあたります」
ヴィシャス。年は25で、防人全体でも五指に入る実力者だ。昨年は里を襲った皇牙竜にトドメを刺すという活躍も見せ、次期戦士長の筆頭候補でもある。顔つきは精悍、上背があってすらりと逞しく、娘たちからの人気も抜群だ。
ヒコは眉根を寄せた。
「優良物件だな。何が気に入らない?」
ヴァイユールは答えない。イークはちらちと彼女の様子を伺いつつ、やはりこれには答えなかった。
ヒコはその様子を白々しく眺めて、「はあ」と吐息した。
「分かった。理由は聞かん。でもヴァイユール、おれはおまえを嫁に貰うわけにはいかん」
「そんなっ……担い手は祈祷師以外の女を囲っていいことになってるんだ、リュアスのことなら私が必ず説得するから――」
「そういうことじゃない。おまえ、この里を――いや、森を出て外の世界を旅する覚悟があるのか」
ヴァイユールは息を呑み、そのまま黙り込んだ。
正直、そんな覚悟はなかった。いずれヒコが森を出て行く気でいることは知っている。だが、自分が頼み込めば里に残ってくれるのではないかと、そんな浅はかな考えでいた。
今、彼女を真っ直ぐ見つめる黒い瞳に、そんなものは通用しなかった。
「ないだろ。女官になるのが嫌だから防人になるって言っといて、今度は結婚させられるのが嫌だから、体のいい相手に偽装結婚持ちかけるような奴だもんな、おまえは」
「くっ……」
奥歯を噛み締め、目尻に涙を浮かべながらも、ヴァイユールは少しも反論出来ない。彼を慕っているのは確かである。だが、彼と添い遂げる、どこまでも着いていく、そんな覚悟は無かったのだ。
「勇者さま、それくらいにしてやってくれませんか」
見かねたのか、イークが口を挟んだ。ヒコはそれを一瞥してこう言った。
「イーク、つったな。おまえを弟子にしてやってもいい。でも、ひとつだけ条件がある」
「はい、何なりと仰って下さい!」
いきなりの承諾にイークは姿勢を正した。
「おれが鍛えてやるんだ。最低でもこの里で一番強くなれ。そのヴィシャスってやつよりもだ。そんで――」
ふたりの若い男女を改めて見やり、ヒコは言い放った。
「おまえら、結婚しろ」
ヴァイユールとイークは、ヒコとお互いを交互に見やってから、顔を真っ赤にしてお互いを指差した。
「「誰がこんなやつと!!」」
綺麗に重なった声に肩をすくめつつ、ヒコは(マジさっさと結婚しろよおまえら)と思いながら、何とかふたりを説得した。この頃には、すでに日も落ちかけている。
「勇者さまがそれほど仰るのでしたら仕方ありません。不本意ながら、こいつの争奪戦に参加することにします」
「私だって仕方なくだ。仕方なく、だからな!」
なおも吠え合うふたりに呆れ返りながらも、ヒコはいちおう問う。
「なあイーク。ヴァイユールの奴は選択の余地もないからほっとくとして、おまえはこいつの何が嫌なんだ?」
「いいえ、勇者さま。こんな里中の美女が集う場所で言うのも憚られますが、見てくれも中身も最高の女だと思っています」
「なっ――!?」
臆面もなくのたまうイークに、ヴァイユールが顔から火を吹く勢いで絶句し、ヒコも質問したのを後悔した。
だが、イークはほぼ間を置かずこう付け加えた。
「ですが結婚というのがまだなんとも。なにせ妻帯者は、神殿を利用できなくなりますので」
「おまえというやつは――っ!」
ヴァイユールの絶叫がこだました。ヒコはもう、頭を抱えるしか無かった。
4.
次の日、ニマス神殿をふたりの女性が訪れた。
ひとりはリュアス。しばらく見ない間に随分と背丈の伸びた孫娘を、感慨深く抱き締めつつ、リィンはもうひとりの女を訝しく見つめた。
それは、がちがちの旅装で大荷物を抱えた稀人の魔女、エルナリーフである。
「どうしたのあんた、ついにこの森を出て行くのかい?」
「残念ながら違うわ。しばらくこの神殿でご厄介になることにしたの」
リィンは「はん」と鼻を鳴らした。
「バカ言ってんじゃないよ稀人。ここはニマス神殿だよ。あんたなんか置いとけるもんか」
す、とエルナリーフが手を振った。それに応じて周囲に不自然な風が舞う。何をする気かは知らないが、魔術を熾そうとしているのは分かる。
「悪いけど今日は引き下がらないわ。お望みなら私の本気を見せてあげてもいいのよ」
世にも珍しい金睛に狂気の色が浮かんでいる。リィンは「ごくり」と喉を鳴らした。
「危ない女だね。分かったからその手を下ろしな。でも、事情は聞かせてもらうよ」
さて、事情はこうである。
昨晩遅く、日もどっぷり沈んでからようやく庵に帰参したヒコが、早々に荷物をまとめ始めたのである。
エルナリーフは動揺した。
「もしかして、森を出て行くつもりなの?」
自分も一緒に連れて行ってくれると約束したではないか。あれは嘘だったのか。それとも愛想をつかされてしまったのだろうか。最近口うるさく言い過ぎたのかもしれない。だが、それも彼のことを想えばこそで――。
などと考えていると、ヒコはきょとんとした顔で答えた。
「なに言ってんだ。まだおまえの探し物も見つかってねーのに」
よくよく聞いてみれば、イークという防人の若者を鍛えることになったらしい。目標は、二週間後に行われる防人同士の対戦仕合を制覇させることだという。
「あまり時間もねーし、おれも里に泊まり込んでみっちり鍛えてやることにした。しばらく戻らないけど、リュアスのことを頼む」
いつものエルナリーフなら、ここで「そう。せっかくだから言葉の勉強もしてくるといいわ。情報収集もお願いね」とでも言っていたはずだが、この日は違った。
なぜなら、ヒコの身体から甘い女の芳香が漂ってきたからである。
「……あなた今日、ニマス神殿に行っていたわね?」
「ああ、そりゃあ。リィンに挨拶しなきゃだし」
「たかだか挨拶だけで、どうして身体中に女官の臭いが染み付くのかしら?」
「え。あっと、これはその、なんつーか」
「抱いたのね、女官を」
ここに来てやっと、ヒコはエルナリーフの様子が尋常でないのを悟った。「抱いたか」と聞かれると難しい。抱擁を返したのは事実だから、抱き締めたことにはなる。しかし、おそらく彼女が意図している意味では、決してやっていない。
「誤解だ、エルナリーフ。おまえは物凄い誤解をしているぞ」
「何が誤解よ、最っ低! こんなの裏切りよーっ!」
エルナリーフが喚き散らし、ヒコが物理的な攻撃を受けつつも必死でなだめ、ついには、すでに就寝していたリュアスが起き出して仲裁に入り、ようやく、その場は落ちついた。
「どうせ神殿に泊まる気でしょう。私も行くわ」
エルナリーフは決意に満ちた表情で告げた。ヒコを信じていないわけではない。何だかんだで、彼女は百年の時を生きている。男がどういう生き物かを知っているだけだった。
「好きにしてくれ……」
ヒコは疲れ果てた声で答えた。元より、彼に否やはなかった。
「そういうわけだから、エルナリーフとヒコはぼくの部屋に泊まってもらうけど。いいよね、お祖母ちゃん?」
事情を一通り聞いても、リィンは少しも納得できなかったが、すっかり目の据わった「危ない女」を刺激するほど命知らずでもない。
(あんたも大変だね、ヒコ)
異郷の若者に同情しつつ、溜め息を漏らすばかりであった。
さて、ヒコはそのころ、防人の拠点を訪れている。戦士長ヴィシャールに話をつけるためだ。イークを鍛え上げるのに、二週間という時間は決して充分ではない。その間、防人の勤めを免除してもらい、特訓に専念させるのだ。
ヴィシャールの答えはこうだった。
「話にならん。そんな申し出が認められるか」
彼がヒコと面と向かって話をするのは、実はこれが初めてである。最初の出会いはほとんど言葉を交わすことなく、一方的に殴り伏せられてしまった。そのお陰で、はっきりと苦手意識が生まれているのだった。
「そんなこというなよ親父さん。あんたの娘を見ろよ、見違えただろ? おれがイークを鍛えんのも、防人の未来にとって良い影響があると思わねーか?」
「ぐ……」
ヴィシャールは口を噤んだ。確かに、この異人の言うことにも一理ある。しかし、防人の誇りというものもある。未だ若いイークに、任務そっちのけでよそ者の武術を学ばせる、というのは、仮に戦士長が独断で決めても、組織内にしこりが残るかも知れないのだ。
「良いではないですか、戦士長。私も賛成です」
突然、横合いから意見を述べてきたのは、ヒコにも劣らぬ上背を持つ、精悍な男だった。身体も良く鍛えられていて、物腰にスキがない。
「ヴィシャス、貴様が口を挟むことではない。控えろ」
(へえ、こいつが)
ヒコはまじまじとヴィシャスを見つめた。確かになかなか「できる」男だ。戦闘能力だけならヴィシャールより上だろう。
(イークを二週間でこいつ以上にしなきゃいけないのか。こりゃ思ったよりキツいかもな)
ヒコはふと思いついて、ヴィシャスに笑いかけた。
「あんたがヴィシャスか。噂は聞いてるぜ。防人全体でも五指に入る腕前だってな」
「私も、あなたのお噂はかねがね。何でも皇帝竜と互角に戦ったのだとか。はっ、伝説の竜王も、人の身で立ち向かえる存在だったということだ。存外大したことはない」
(何を言っているのだこの男は!)
イークは激昂しかけた。皇帝竜は人の身で抗えるような存在ではない。あれは天災に等しい。ヒコだからこそ伍せたのだ。逆に言えば、この勇者は天災に伍する戦士なのだ。
「ヴィシャス、あなたはちょっと誤解を――」
「待て、イーク」
肩を怒らせたイークを制し、ヒコはあくまで人の良い笑みで応じる。
「いや、さすが指折りの防人さんは言うことが違う。おお、いいことを思いついたぞ!」
そして、いきなり芝居がかった声を上げた。
「戦士長さんよ。このヴィシャスってのをノしたら、おれの言うこと聞いてくれよ。もちろんおれが負けたら諦める。なんなら、あんたらの言うこと何でも聞いてやってもいいぜ」
「馬鹿なことを。認めんと言っ――」
「それはいい提案だ! なあみんな、聞いたか? オレは受けて立つぞ!」
ヴィシャスがいきなり大声を張り上げ、防人たちを見渡した。すると、みな一様に歓声を上げた。その大半がヒコに敵意の視線を向けている。「よそ者に舐められてたまるか」という心情が、ありありと見て取れた。
ここまで場が盛り上がってしまっては、戦士長にも収拾が付けられない。彼はヒコの実力の片鱗を垣間見ていて、それだけでもこの決闘の行方は分かりきっていたが、いっそ堂々とイークを送り出せると、半ばやけっぱちでふたりの決闘を了承した。
ところが、ここでひとつの問題が浮上した。
「勇者さま、槍を扱うのは初めてなのですか!?」
「うん。でも見たところ体術の延長みたいなもんだよな。剣よりは簡単そうだ」
そう言って、ヒコはものの4、5分程度、槍をあれこれと振るってみた。
「OK。んじゃイーク、ちょっと打ち込んでみて」
イークは迷った。防人にしてみれば得物は槍が第一なので、あれほど体捌きと剣術に優れる勇者が、槍を扱ったことがない、というのは予想外だった。しかし、彼の槍さばきは、最初の一振りにしてすでに尋常なものではない。
(自分を基準に考えるのは不敬に当たるか。ここは全力で当たらせてもらおう)
と、イークはいきなり必殺の突きを放った。
カンッ!
「うおっ!」
どすん、とイークは地面に転がった。穂先を絡み取られ、懐に入られて投げを食らったのだった。気がつけば喉元に穂先を突きつけられている。
「これは良い武器だな。槍、好きかもしれん」
その様子を見て、防人たちは嘲笑した。
「おいおいイーク、今日初めて槍を握った男相手に、不甲斐なさ過ぎるぞ」
「さすがは体力馬鹿のイークだな。おまえはもう少し技というものを覚えろ」
むろん、ヒコの動きが尋常でないと気づいた防人も居る。しかし、まだ新入りに毛が生えた程度のイークが軽々と転がされたからと言って、強さの証明にはならないのだ。
「んじゃ。そろそろやろうか」
「練習はもうよろしいのですか?」
「これ以上やったら折角のハンデが無駄になるだろ。ほら、さっさとおっ始めようぜ」
ヒコの安い挑発に、ヴィシャスの笑みが一瞬だけ凍りついた。
「後悔しますよ。では、参る!」
そうして、ヒコとヴィシャスの仕合が始まった。
最初、ヴィシャスの猛烈な攻撃に、ヒコは防戦一方だった。調子付いたヴィシャスは、どんどん槍の速度を上げていく。
「おいおい、勇者さまは随分危なっかしいじゃねえか」
「おいヴィシャス、もう少し手加減してやったらどうだ」
辺りがにわかに嘲笑に包まれる。しかし、目ざといものはすでに気づき始めている。
もちろん、相対するヴィシャスも。
(手加減だと? 全力が通じないんだぞ!)
冷や汗を浮かべつつ、己の持てる力を全て吐き出して槍を振るう。しかし、ヒコはそれらを物ともせず、わざと危なっかしく躱している。紙一重で避けている、とでも言おうか。体の芯がまるでぶれないのがその証拠だ。
それどころか、開始からわずか十秒ほどで、ヒコが持つ槍にすら触れなくなった。手数は圧倒的にヴィシャスが上だ。しかし、ヒコは見せたはずのないスキに的確に攻撃を繰り出している。
その全てが、おそらく小細工なしの一撃必殺。そしてやはり、わざと寸止めしている。
「くっ!」
ヴィシャスは一端距離を開け、呼吸を整えた。相手は平然として、汗ひとつかいていない。
「ヴィシャス、いつまで遊んでるんだ。そろそろ決めてやれよ!」
(できるならとっくにやっている!)
まるで状況を理解していない仲間の野次が忌々しい。ヴィシャスはとうに理解していた。遊ばれているのは間違いなく自分なのだ。
ヒコは不意に構えを解き、こきこきと首を鳴らした。
「外野もああ言ってることだし、そろそろ終わらせるか。おいあんた、まだ何か隠してるなら5秒以内に出せ」
「ぬかせ!」
ヴィシャスは全身全霊を込めて一挙に間合いを詰め、鋭い突きを放った。しかし、その結果はイークとまったく同じだった。自分でもわけが分からぬうちに転がされ、喉元に穂先を突きつけられていたのである。
「約束だぞ。イークは借りていく」
勝ち誇るでもなく、ヒコは淡々と言い捨て、イークを伴ってその場を後にする。
その背に、戦士長ヴィシャールの声がかかった。
「勇者よ。そやつらをよろしく頼む」
ヒコはにやりと笑って、ひらひらと手を振ってみせた。
いっぽう、神殿ではエルナリーフがヴァイユールを問い詰めている。防人の内規など彼女にとってどうでも良いが、ヒコが関わっているならば「部外者には明かせない」などという言い訳は通らない。
「……なるほど。いまさらその、下衆の悪ふざけにも劣る掟とやらについて、あれこれ言うのはやめておくわ。その代わり、ヴァイユール。その掟に忠実なあなたが、どうしてそこまでヴィシャスとの結婚を厭うのか、理由を聞かせて頂戴。私はシャイールに、あなたのことを頼まれている。そのつもりで話しなさい」
姿勢を正して座する華奢な稀人の迫力は一方ならぬもので、生前の筋骨たくましい母シャイールを軽く凌駕していた。ヴァイユールは父に叱られる幼児の気分で白状した。
「ヴィシャスは私の従兄にあたるが、十も歳が離れていたし、特に仲良くしてもらったという記憶もないんだ。ただ、私が十になりたての頃だったと思うが――」
その時、記憶にある限り初めて、ヴィシャスに声をかけられた。
「防人を目指しているそうだな。オレが鍛えてやろう」
そんなことを言われ、どこかの物陰に連れて行かれた。
ヴァイユールは少し浮かれていた。ヴィシャスは当時すでに評判の防人で、父ヴィシャールからも良く名前を聞かされていた。そんな男に構ってもらえると、幼心に胸が高鳴ったものだった。
しかし。
ヴィシャスは最初から、稽古を付ける気など無かった。幼い少女を軽く捻り上げ、おぞましい台詞を吐きながら身体中を弄り始めた。
怖かった。ひたすら怖くて、叫び声も出せなかった。
それからどうなったのか。
気がついたら、ヴィシャスが白目を剥いて倒れていて、木剣を持ったイークが、顔を真っ青にして立っていた。彼に助けられたのである。
その後、ふたりはその場を逃げ出し、すぐに大人に話した。だが、ヴィシャスという男ほど、高潔で通っている防人は居なかった。なにせ今に至るまで一度もニマス神殿を訪れたことがないような男である。当然、誰も子供たちの話を信じてくれなかった。
だが夢でも何でも無く、紛れもない現実だった。ヴィシャスは、里で会うたびおぞましい視線を向けててくるようになり、ヴァイユールは一時期、外に出るだけで足が竦むようになった。
そんな娘の様子に、さすがに両親も思うところがあったらしい。すぐに娘に祈祷師の守役の席を用意し、ヴィシャスから遠ざけた。母シャイールなどは、ことあるごとにヴィシャスに釘を刺していたようだ。
いま思えば、父ヴィシャールが娘の防人入りについて良い顔をしなくなったのも、この頃からだった。
「そんなことがあったの……」
エルナリーフは唸った。5、6年前ということになるから、彼女もすでに森を訪れていた頃だ。
「もしかしたら父は知っていたのかも知れない。防人となれば、私をヴィシャスから守る手立てがないと。あの男がまだ私に執心しているのを知っていたんだ」
ヴィシャスはすでに25である。この歳で独身というのは、確かにそこまで珍しくはない。しかし、彼ほど成功していながら、女の影が全くないというのは異常だった。
そして今でも、彼がヴァイユールを見る目は、当時と何ら変わっていない。いや、むしろさらに、暗い情欲が増しているように思うのだ。
「私も、何も男嫌いという訳じゃない。ただ、あの男だけは駄目だ。あれと結婚など、考えただけで身が竦んでしまって……」
「よく分かったわ。辛い話をさせてごめんなさい」
エルナリーフはヴァイユールを抱き寄せた。体が震えている。それが落ち着くまで、抱き締めていた。
そうして、気がつくとリュアスの姿がない。呼びかけても返事はなかった。
「どこに行ったのかしら――まさか!」
悪い予感というのは得てして的中するものである。
その時リュアスはひとり、防人の拠点に向かっていた。伝説の幻獣「黒天狼」と、その旗下数千の銀狼を従え、人の命など口付けひとつで奪える妖魔の姫の胸中にあったのは、こんな思いである。
「ヴィシャスって人、完全無欠の悪者じゃない。まどろっこしいことしないで、さっさと退治すればいいのに。ヒコがやらないならぼくがやろうっと」
リュアスは義憤に燃えていた。つまり、まさに調子に乗っていた。彼女にとって幸運だったのは、増長を諌められる大人にばったり出会えたことであろうか。
「きみは……リュアスだね? こんな所で何をしているんだい?」
それは上品な物腰の男だった。見覚えがある。リュアスにとって見覚えのある大人の男性は、それほど多くない。
「ダイヤーン……さま?」
「そうだよ。こうしてお話するのは初めてだね」
里長のダイヤーンは穏やかな笑みでお辞儀をした。リュアスも慌ててお辞儀を返す。何となく偉い人だ、という印象はあったが、こうして近くで見ていると、ただの優しいお兄さん、という雰囲気だった。もう30歳を越しているはずだが、おじさん、という感じはしない。とにかく、相手に警戒を抱かせる何かが一切ない男だ。
リュアスも、元々が物怖じしない性格である。すぐに打ち解け、こんな所で何をしているのか、詳細に語って聞かせた。防人の内規や幼馴染みの心傷に対する配慮などもろともせず、聞いた話をごまかしもなく詳細に、だ。正直過ぎるのも考えものだと、そんな典型とも言える少女だった。
事情を聞き終えるとダイヤーンは苦笑し、何と諌めたものか悩んだ。
「うーん。リュアス、きみは何のために悪者を退治するんだい?」
「えっ……だって、悪者が居ると世の中が悪くなるでしょ?」
「じゃあきみは、世の中を良くするために悪者を退治するのかい?」
「うん……そう、なのかな?」
「それじゃあ、きみがヴィシャスを懲らしめることによって、世の中はどう良くなるんだい?」
リュアスは考えた。頭が痛くなるほどに考えた。しかし、頭の中がもやもやするばかりで、ちゃんとした言葉が浮かんでこない。
「分からないよ。分からないけど、ヴァイユールは酷い目に合わされたんだよ。相手も同じくらい酷い目に合わないと、釣り合いが取れないじゃない」
「それはとても怖い考え方だね、リュアス。たとえば、同じくらいひどい目に合わされた相手は、次にどう考えると思う?」
「そんなの、自分が悪かったって反省して、いい子になって……」
言葉の途中で、リュアスはすぐにそれが間違いであることに気付いた。自分に照らし合わせれば分かる。祖母や守役に何度叱られても、神殿を抜け出すのをついぞ止めなかったのがいい例だ。
「ならないこともあるよね?」
ダイヤーンはあくまで優しく問いかける。リュアスは思わず頷いた。
「そういう時、相手はどう考えるかな。腹いせにもっとひどい目に合わせてやる、って考えないかな?」
リュアスは思った。それこそ悪者だ。分かるまで何度も懲らしめて、そしてまた復讐されて……。
口をへの字に曲げて黙り込むリュアスを、ダイヤーンはそっと撫でてやった。
「何よりも怖いのはね、リュアス。それできみが危険な目に会うかもしれない、ってことだよ。さ、神殿に戻ろう。リィンやヴァイユールも、きっと心配しているよ」
「ダイヤーンさまは、悪者を放っておくの?」
ダイヤーンは困り顔で笑った。
「そうだね。私はただ悪いだけの人間を罰したりはしない。もちろん、ヴィシャスもね」
「そんなの、ぼくは納得いかないよ」
リュアスはきっぱりと告げた。ダイヤーンはやはり、優しげに笑ってこう提案した。
「それじゃあ、一緒にヴィシャスに会いに行こう。きみをひとりで行かせるわけにはいかないからね」
不思議と、リュアスはそれを拒否する意志が沸かなかった。手を引かれるまま、共に防人の修練場に赴き、初めて話題のヴィシャスを目にした。
そして、ひたむきに槍を振るうその姿に、目を奪われてしまった。
(すごい……!)
常日頃、ヒコという絶対強者を見続けてきたリュアスには、ある種の審美眼のようなものが備わりつつあった。その眼に映るヴィシャスの姿は、速さも鋭さもヒコには遠く及ばない。しかし、打ち込む姿勢、心構えが、表情と全身の筋肉に現れている。
それは疑いようもなく、一流の戦士のものだった。己の全てを掛け、強者に立ち向かい続けた者だけが纏う気配だ。
「昼間、きみの想い人と戦って、敗れたそうだね。それで火が着いている。自分に足りない何かを掴もうと必死なんだ。
リュアス。彼は罪を犯したかも知れない。〝その罪〟は決して許されることではない。だが、同じくらい里のために戦って、成果を出している。そのふたつを天秤にかけることはできないが、少なくとも彼が里のために戦い続ける限り、私は彼を許そうと思っている。
だからきみも少しだけ、彼に猶予を与えてやってくれないか。もちろん、きみやきみの大事な人を再び傷つけるようなことがあれば、その時は誓って私が許しはしない」
リュアスはダイヤーンの言葉を良く噛んで砕き、ひとつひとつ反芻して、答えた。
「分かったよ、ダイヤーンさま。約束だよ」
「ああ、約束だ」
ダイヤーンはやっぱり優しく笑って、リュアスの手を引いた。
彼の手はとても温かくて、どこか懐かしい感じがした。
そしてこともなく、ただ日々は過ぎていく。
しかし、ひとりの少女を巡る決戦の火蓋は、すでに切って落とされていた。
タイトルあんまりいいのが思い浮かばないです……
小出しにしてもあんまり意味ないっぽいので
次はまとめて上げます