4.てんいおとすあくま
1.
エルナリーフは、庵の敷地にて薬草や野菜を栽培している。
もちろん自給自足のためだが、一部は里人との取引に使う。薬草から煎じた秘薬や、魔女の研究の成果たる良質の苗などを売り、衣類や生活雑貨などを仕入れるのだ。
リュアスとヴァイユールは、この「魔女の家庭菜園」を任されていた。
「なぜ私がこんなことを……」
「見て見てヴァイユール! こないだ植えたやつ、もう芽が出てるよ!」
いまいちやる気の出ないヴァイユールと違い、リュアスは顔面までも土にまみれながら、笑顔である。意外と土いじりが性に合っているらしい。
いっぽう、庵の中では、大人たちがあれこれ話し込んでいる。円卓を囲むのは、エルナリーフ、ヒコ、そしてリィンの三人だ。
「まったく、驚いたよ。あの皇帝竜をなんとかしちまうなんてね」
「何とかしたのはおれじゃなくてリュアスだけどな」
「それも驚きだけど。戦いぶりは聞いたとおりなんだろ? 里じゃ大騒ぎだよ。あんた、すっかり英雄さ」
ヒコと皇帝竜の戦いは、何人かの里人に目撃されていたらしい。うちのひとりは第一発見者のイークという若い防人で、彼はすっかり興奮して、身振り手振りをあわせ、一部始終をみなに語って聞かせた。
その結果、リュアスを射止めた異郷の戦士の存在が明るみとなり、里は歓迎ムード一色だという。
「いまならあんたが長になるって言っても、長老会を丸め込めるかも知れないね。どうだい、本気で考えてみないかい?」
「断る。やんなきゃいけないことがあるもんでな」
「へえ、そりゃ何だい?」
「まずは私の守護者を何とかしてもらわないとね」
エルナリーフが口を挟んだ。
ヒコには確固たる目的があって、いずれ森を出て行く。
だがその前に、新しい守護者を造らねばならない。それには高純度の魔石が必要だ。
「なら、魔神窟へ行くのかい?」
「ええ。ヒコにも手伝ってもらうわ」
魔神窟は、ラーカセリアの北方に位置する古い洞窟だ。
内部は高濃度の魔力が充満し、その影響か、強力な魔物が巣食う。いくら希少な魔石が採れるからといって、おいそれと立ち入れぬ危険な場所である。
だがヒコが一緒なら安心だ。そもそも彼が壊したのだし、手伝ってもらうのは当初の約束通りである。
「それよりも、リュアスのことよ。何かの間違いで覚醒してしまったのだとしても、聞いていた祈祷師の力と大分違うようだけど?」
触れただけで魔力の働きを乱し、魔術を解いてしまう力。そんな例を目にするのは、エルナリーフも初めてだ。
「祈祷師として覚醒してないのは確かだよ。でも、そうだね。死んだ爺様からこんな話を聞いたことがあるよ」
曰く、妖魔はもともと、他種族では及びもつかない体内魔力を有する種族で、それがゆえ、時に魔力異常を起こし、さまざまな異能を発現したという。
もっともそれは千年以上も昔の話で、血が薄まった今の妖魔では、まずそんなことは起きない。
ただ、祈祷師のような例はやはりごく稀にある。いわば先祖返りだ。
「実はね。リュアスの祖父も、妙な力をもった男だったんだよ」
「外から来た、っていう? どんな能力だったの?」
「手で触れるだけでどんな怪我でも治しちまうんだ。あんなのを見たのは後にも先にもあの男だけだよ。変なふうに隔世遺伝しちまったのかね」
「魔術ではないの?」
「さあ、詳しいことは知らないよ。でも、里のみんなはそう思ったみたいだね。そのおかげで出てったようなもんさ」
リュアスの祖父、ということはつまりリィンの夫だ。話がしめっぽくなりそうな気配がしたので、ヒコは適当に話題を変えた。
「そういや、気になってたんだが。森の外にも祈祷師ってのは居るのか?」
「そりゃあ、〝卵〟が生まれてくることはあるだろうね。でも、かえることはまずないよ」
「なぜ?」
「それまで生きられないからさ」
祈祷師の卵は、明確な特徴を持って生まれる。
いや、能力と言うべきか。彼女たちは一人残らずある異能を持って生まれる。それは、体液を媒介として他の生き物の生気を奪い、わが物とする力だ。
例えば、赤子を産んだばかりの母親が、わが子に乳を与えるとする。その子が卵であれば、ものの数秒で母親の生気を吸い付くし、死に至らしめるという。
「おい、それじゃあリュアスの母親は……」
ヒコは青ざめて、呻くように言った。だが、リィンは悲しげに首否する。
「違うよ。あの子が死んだのは、子を産めるほど成熟してなかったからさ。里じゃ、生まれたばかりの子に乳をやる時は、細心の注意を払うんだ。もし卵なら、すぐ神殿で引き取ることになってるよ」
つまり、それほど「取り扱い」に注意が必要なのだ。それがどういう存在なのか。どう育てねばならぬのか。正しい知識がなくては、とても育てられるものではない。
「例えば、物心ついたらまず力の使い方を教えるね。そうじゃなきゃ、誰かれ構わず吸い付いて、生気を残らず吸い尽くしちまう。あはは、急に思い出したけど、リュアスのやつも大変だったんだよ。あたしは毎日腰砕けさ」
リィンが突然膝を打って笑い始めたので、ヒコとエルナリーフは揃って肩をすくめた。
「まあ、そういうわけさ。あまり外の世界で触れ回らないでおくれよ」
もし、祈祷師の存在が外の世界でも知れ渡れば、良からぬことを思いつく輩が星の数ほど居るだろう。暗黒の森に住まう妖魔たちの平穏が脅かされることを、リィンは危惧している。
エルナリーフにしてみても、そのせいで外の世界が混乱するのは望むところではない。吹聴するつもりはさらさらなかった。
いっぽう、ヒコはいまいち腑に落ちていない。なるほど、祈祷師の卵を育てるのは大変だろう。だが、本当にそれだけの理由で、外の世界では覚醒しないと言い切れるのか――。
「で、ヒコ。そろそろあんたの目的ってやつを聞かせて欲しいもんだね」
ヒコの思索を打ち切るように、リィンの目が光る。年甲斐もなく好奇心に満ち溢れた目だ。
それを受け、ヒコはエルナリーフを一瞥した。彼女は肩をすくめて一言「好きにしたら」と呟いた。
「魔王だ。おれは魔王ってのを倒さないと、元の世界に帰れないらしい」
リィンはきょとん、としてエルナリーフを見やった。彼女は無言で首を横に振った。
今のヒコの言葉は、エルナリーフの魔術によって、聞く者に強制的な理解を植え付ける。
魔王。
その概念が伝えるのは、世界そのものを脅かし、ついには破滅へと誘う、強大な力を持った何者か。
決して人には抗えず、何者にも与せず、何物をも求めない。
ただただ破壊し、滅ぼすだけの存在だ。
「そんなもの、おとぎ話の中にしか居ないわ」
エルナリーフが呆れ顔で言う。リィンも頷いた。
「もし居たとしたら、あんたが抜けてきた迷宮以外にないよ」
封印の地の地下迷宮。神々と勇者たちが、世界に仇なす数多の悪鬼羅刹を封印した場所だと、古い伝説は伝えている。
「確かに強いのはたくさん居たがな。めぼしいのはほとんど退治したし。魔王は、地上のどこかに沸いてるはずなんだ。心当たりはないか?」
「心当たり、ねえ」
リィンは困り果ててエルナリーフに助けを求めた。だが、エルナリーフは無言で首否するばかりだ。
実のところ、ヒコとエルナリーフは先だって、この件についていくらか情報を交換している。
例えば、エルナリーフは「心当たり」として、冥王バルザックの名を挙げた。
それを、ヒコは鼻にもかけずに否定したものである。
「魔王ってのはそんな、見方を変えれば英雄になる程度の、ちんけな悪党じゃねえんだよ。大体そいつ、もう死んでるんだろ?」
「冥王バルザックは転生の秘術を完成させていた、という噂もあるわ。事実なら、すでにこの世に蘇って、再び王国の打倒を目論んでいるかもしれない」
「だとしても、国が一個滅びるだけだろ。その程度の事件、人間の世界が続く限りいくらでも起きるだろうが。そうじゃねーんだよ。魔王ってのはそうじゃねえ。戦争なんておままごとを引き起こすまでもなく、世界そのものを、比喩じゃなくて滅ぼしちまう存在だ」
エルナリーフは言葉を失った。国の興亡を「その程度」と切って捨て、戦争を「おままごと」と断じる。この男が言う「魔王」なる存在の途方も無さを、ようやく理解したのだ。
だが、それでも理性は「馬鹿馬鹿しい」と告げている。そんな存在を、この男はどうやって倒そうというのか。いや、それよりも根本的な問題として――。
「そんなものが本当に居るなら、世界はとっくに滅んでいるのではなくて?」
「ありがちなのは、魔王にとってのキーアイテムが足りないのか。まだ完全に覚醒してないのか。とにかく、世界を滅ぼす準備が整ってないんだ。その前に見つけ出して倒す。それが勇者の仕事だ」
「まるで、これまでにも似たような状況があった、みたいな口ぶりね」
「おとぎ話さ。この世界にだって、似たような話はいくらでも転がってるだろ」
「そうね。おとぎ話ならね」
呆れ顔で、エルナリーフはいくつかの〝おとぎ話〟を語って聞かせた。
例えば、旧世界を滅ぼした「太古の竜王」の話。
目覚めれば世界が終わるという「白銀の魔神」の話。
魔術を創り出し、古代帝国を終わらせた「愚者の王」の話。
だがどれも、話が漠然としすぎていて、「魔王」なるものの手がかりにはならなかった。
「当然よ。魔王なんて居るわけがないでしょう」
終いには、エルナリーフも配慮を忘れて言い切ったものである。
稀人にして魔術師。
百年の時を生き、世界中を旅して回った魔女の知識が、「魔王など居ない」と言い切っているのだ。生まれてせいぜい40年、一歩も森の外に出たことのないリィンが、手がかりなど知るはずがなかった。
「すまないけど、あたしも聞いたことないよ」
「じゃあ、悪い魔法使いに心当たりはないか?」
「悪い魔法使い、だって?」
眉をひそめて問い返すリィンに、ヒコは事情を説明する。封印の地での銀狼の件。庵を襲った皇牙竜の件。双方、何者かに操られた痕跡があったこと。そして皇帝竜が語った、念話を使う珍しい人間。
「ま、ひらたくいやあ今回の黒幕だ。おれの経験上、こういうのを放って置くとろくなことにならん。何か知ってるなら、里に被害が出る前に吐いといた方がいいぞ」
「ふん。その稀人の入れ知恵かい」
リィンは引き続き険しい表情のまま、無言を貫くエルナリーフを一瞥した。
「あいにくあたしは何も知らないよ。でも、どっちにしろ里の問題さ。よそ者のあんたらが手を焼くようなことじゃないと思うけどね」
「固いこというなよ。おれとあんたの仲じゃねーか」
リィンは「はあ」と大きく溜め息を吐いた。
「大事な孫の面倒を見てもらって申し訳ないけど、本当に何も知らないんだ。知ってたら誓って話してやるよ。あたしだって、里に被害が出るのは避けたいからね」
ヒコとエルナリーフはそろって顔を見合わせた。リィンが嘘を吐いているようには見えない。
「それよりヒコ。あんたも危ないことに首突っ込むんじゃないよ。あんただけならともかく、リュアスまで危険な目に合わせたら承知しないからね」
リィンのキツい目で釘を刺され、ヒコはそれ以上の追求を諦めた。
仕方なく、しばし他愛の無い雑談を交わして時を過す。稀人の美女と妖魔の艶女は、まさしく水と油で、何かにつけて意見を対立させたが、それゆえに、はたから見ていると漫才でも見ているようで面白かった。
(というかこいつら実は仲良いんじゃね?)
とヒコが思い始めた頃、ようやくリィンが席を立った。
「まあ、何か思い出したら知らせるよ。良かったら里へも遊びに来な。夜のお供もちゃんと用意してやるよ」
リィンは最後に艶めいた言葉を残し、帰っていった。
妙に嘘くさい笑顔で見送るヒコに、エルナリーフはそっと言ってやった。
「妖魔の女性は、他種族の子を身籠ると高確率で死ぬ。異世界人のあなたに適用されるかは分からないけど、せいぜい気をつけることね」
事実である。正確には、孕むのがまず稀だし、孕んだ瞬間に死ぬことはないが、母子ともに無事出産に至る例は、十にひとつもない。
ヒコは何とも言えない表情で深々と溜め息を吐いた。
「あのばあちゃんはそれを知ってて孫を娶れって言ってんのか?」
「里には妖魔しかいないから、単純に知らないだけだと思うけれど。あなたが教えてあげたら?」
「次会う時にな。で、稀人はどうなんだ?」
ヒコは冗談交じりに問いかけた。この美人がどう反応するか見たかったからだが、エルナリーフは一切の動揺も逡巡もなしにこう即答した。
「稀人は他種族の子を身籠ったりしないから安心よ。でも、試すなら他の子でお願いね。もしそんなことをされたら私、相手を殺してしまうかもしれないわ」
ヒコは引きつった笑みだけを返した。それを受け、絶世の美女は目映いばかりに微笑んだ。
2.
暗黒の森は広大だ。
外界の人の世の広さを10とするなら、この森には3の広さがあった。王国の版図は2にも満たないので、それ以上ということになる。
この森を隅々まで踏破する、そんなことは人の身では不可能だろう。
だがやり遂げた者がいる。もちろん人間ではない。
『あのあなぐらには、それがしも滅多に近寄りませぬ。旨い獲物も居りませぬゆえ』
陽気に告げたのは、真っ黒な毛並みの、大きな銀狼である。その正体は伝説の幻獣「黒天狼」で、この森の銀狼にとっては神にも等しい存在だが、リュアスを背に悠々と歩むその姿は、従順なペットにしか見えない。
実はつい先日、ヒコとリュアスの悪ふざけによって人の名を得た。その姓をヴィシュナス。名をアルファ。字をシリウスという。姓から分かる通り、ヒコとは義兄弟の契りまで交わしている。
「魔神窟って、怖い魔物が居るんでしょ?」
その背に乗る妖魔の少女がリュアス。年の頃十ほどにしか見えないが、今年13歳になる。祈祷師の卵であり、一行の中で唯一、シリウスと念話によって意志の疎通が行える。
『なに、兄者を脅かすほどの存在はござりませぬ。そも、拙者にお命じくだされば、その魔石とやら、いくらでも持ち帰ってご覧に入れますぞ!』
シリウスが自信満々に告げたので、リュアスはエルナリーフにお伺いを立ててみたが、その答えはこうだった。
「ご好意はありがたいのだけれど、必要な魔石の選別は私にしか出来ないわ。シリウス、あなたには、その子たちの護衛をお願いします」
その子たち、とは、リュアスとヴァイユールのことだ。彼女たちを同行させるか否か、ヒコとエルナリーフはあれこれと意見を交わしたのだが、結局、目の届かない場所に居るほうが危険、というか何をしでかすか分からないという結論に至り、二人とも同行させることにしたのだ。
災難なのはヴァイユールだ。
「はぁ、はぁ……まだ遠いのか、目的地は」
息を切らせ、苦しげに漏らす。彼女は今年16歳になり、身体つきは立派な大人の女性だ。むしろ、胸元で揺れ弾む膨らみは、百人に一人の逸材である。本来なら、健康な躰を持つ年頃の娘として、とうにニマス神殿でお役目に就いているはずだが、彼女は「祈祷師の卵」たるリュアスの護衛であり、里の掟に従い、リュアスが「女」となるその日まで、彼女の傍で純潔を守らねばならない。
ともかく、少女の身で防人の面々にも劣らぬ武と体力を持つヴァイユールだが、さすがに丸一日ぶっ通しで慣れない道を歩き続ければ、弱音のひとつも吐きたくなるのだった。
「ヴァイユール、大丈夫? シリウスに乗せてあげようか?」
最初から黒狼の背に跨ったままのリュアスは疲れ知らずである。
「いや、遠慮しておく」
ヴァイユールは苦笑した。伝説の幻獣を乗り物のように扱う胆力は持ち合わせていない。
「なあエルナリーフ。そろそろ休憩入れてもいいんじゃないのか?」
黒髪の若者――ヒコが告げた。強行軍に息ひとつ荒らげることもなく、疲れの色は微塵も見られない。曰く、三日三晩は歩き通せるらしい。
「日が沈むまでに宿営地に辿り着かないと。森の只中で夜を迎えたら面倒だわ。ヴァイユール、悪いけどもう少し頑張って」
先頭を行く華奢な美女も、見た目を裏切る健脚である。稀人という種族は俊敏で持久力があり、おまけに辛抱強い。加えて、エルナリーフは常日頃、森や廃墟のあちこちを探索している。この程度の行軍は苦にもならない。
「分かった、気を使わせて済まない」
ヴァイユールは歯を食いしばり、ぱんぱんと己の脚を叩いた。まるで棒のようである。足元に至ってはすでに感覚がない。先頭を行くエルナリーフとヒコが、あまりにもひょいひょいと駆けていくので、無理をして追いすがった結果だ。せめてもう少し歩む速度が遅ければ、ここまでひどくはならないのだが。
「ちょっと先に行ってろ。すぐ追いつく」
ヒコが不意に告げて、皆を先に行かせ、ヴァイユールを座らせた。
「まだまだ歩けるぞ」
「黙ってろ」
ヒコはヴァイユールの足をあちこち撫で、足首を「ぐ」とつまんだ。途端に、ヴァイユールは激痛で顔を歪めた。
「疲労が溜まって筋がやられてるな」
ヒコは己の荷物から何やら粉を取り出し、水を含ませると、ヴァイユールの履物を剥がして素足に練り込んだ。曰く、地下迷宮でそこかしこに生えていた苔を乾燥させたものらしい。大抵の怪我を癒やす秘薬になるとのことだった。
「本当だ。少し痛みが引いた気がする」
「無理はするな。ここからはおぶっていく」
ヴァイユールは慌てて辞退した。気安く接してはいるが、彼は「担い手」であり、今や里の恩人でもある。そんなことはさせられない。
「嫌ならここに置いていく。ほら、さっさとしろ」
半ば強要され、ヴァイユールは渋々ながら、ヒコの背におぶさった。
立ち上がると、目線の高さに一瞬だけめまいがする。ヴァイユールは妖魔の女性としては長身であり、エルナリーフより背丈があるが、それでもヒコの顎先ほどである。彼は妖魔から見れば巨人と言っていいほど長身だった。
が、広く大きな背中の安心感に、恐れはすぐに無くなった。
ヒコはヴァイユールを背負ったまま、手ぶらのような軽い足取りで、あっという間にエルナリーフたちに追いついた。
「……」
リュアスは、ヒコに背負われたヴァイユールを恨みがましく睨んだが、後の祭りである。ずっとシリウスの背で楽をしてきたので、いまらさら「ぼくもおぶって」とは言えない。
「わ、私は辞退したんだぞ。ヒコが無理やり――」
「おい、人聞きの悪いことを言うな」
ヴァイユールは幼馴染みの嫉妬心を恐れ、あれこれと自分の中で言い訳を続けた。だが、ヒコの背から降りる意志はついぞ沸かなかった。
そうしてしばらくすると、峠道にさしかかった。
「魔神窟はこの山を越えた向こうよ。今夜は頂上付近で宿営する」
暗黒の森は巨木の森一辺倒ではない。その版図に、大小いくつもの山地を抱えているが、ここはそのひとつである。頂上の宿営地は守りに適した地形で、森の魔獣たちが活発になる夜でも、襲われる心配が少ないのだった。
坂道を登り続けていると、不意に視界が開け、北の方角に巨大な山が姿を現した。
「でかいな」
思わず足を止め、ヒコが漏らした。とてつもなく巨大な単独峰である。山裾はほとんど壁であり、山頂付近に至っては空に溶け込んでしまっている。
「霊峰イシュカンドリュテ。世界一高い山だとされている。山頂はおろか、麓までたどり着いた者も少ないけれどね」
「あれがそうなの。すごいね!」
リュアスが感嘆の声を上げる。生まれてこのかた、ほとんど神殿区を出たことのない彼女にとって、初めて目にする巨峰である。
「さすが、異世界は山の規模も違うな。エルナリーフ、あんたもあの山には登ったことがないのか?」
稀人の魔術師は、今でこそ研究のため、暗黒の森に定住しているが、それもほんの十年足らずのことだ。それ以前は、好奇心にかられて世界各地を旅して回っていたという。
「山頂を目指そうと思ったことはあるわ。中腹――見えるかしら、あの辺りだけど、あそこより上は原住民も寄り付かない魔境なの。挫折したわ、見事にね。人の身を捨てないと、踏破するのは不可能よ」
「原住民って、あんなとこにも人は住んでるんだな」
「そうね。一般に人として認識されない種族だけれど。ああ、そう言えば、あなたに良く似ているわ。身体が大きくて、やたらと体力があって、真っ黒な髪と瞳を持っている。古巨人という種族よ」
「昔、エルナリーフが話してくれたな。確か、3つの古代種のひとつ」
「その通りよ、ヴァイユール。彼らこそ、かつて稀人の祖先と大地の覇権を争った人々。そして、あなたたち妖魔の祖先でもあるわ」
「ヒコがそうなの?」
「違うわ、リュアス。古巨人の瞳は本当に真っ黒なの。ヒコのものは、少し赤みがかっているでしょう」
「ふぅん?」
リュアスはまじまじとヒコの瞳を見つめた。ヴァイユールは身を乗り出し、何とか見ようとしたが駄目だった。
「それに、彼らはもう少し、いかつい顔立ちをしているわ。明らかに別の人種よ」
「そうなんだ。エルナはどっちが好みなの?」
ヒコがぴくり、と身を震わせたのが、その背におぶさるヴァイユールには分かった。
知ってか知らずか、エルナリーフは平然とこう答える。
「もちろんヒコよ。ただ、もう少し背が低いほうが私の好みね」
「どうして? 身体はおっきい方が頼もしくない?」
「身長差がありすぎると色々と不便なのよ。リュアスも、彼と釣り合うにはもう少し大きくならなくてはね」
一切の照れもなく淡々と述べる稀人の美女は、恐らくこれが色っぽい話題だと気付いてない。本当に、ただ正直に己の好みを話しているだけなのだろう。
急に無言になったヒコに悪戯心を起こし、ヴァイユールがこう尋ねた。
「ヒコはどうなんだ? この三人で、誰が一番あなたの好みに近い?」
肩が大きく揺れた。動揺が丸わかりである。ヴァイユールは笑いを必死で堪えた。
「……」
気づけば、みなの視線がヒコに集中している。彼は渋い顔で、リュアスに視線で助けを求めた。こんな話題、どう答えようがろくなことにならない。何か適当に話題を反らしてくれ、という意図であったが、リュアスもただじっと見つめ返すばかりである。
実のところ、エルナリーフもヴァイユールも「さっさとリュアスと答えてこの話題を終わらせろ」と思っていて、正解と言えばそれが正解だったのだが、ヒコが答えを渋るうち、リュアスが不意にこう告げた。
「ヒコはおばあちゃんみたいなのが好みなんだよ。だから、ぼくの成長に期待してるの」
途端、エルナリーフの目が恐ろしく冷たいものに代わり、何の感情も乗らない声色でぼそりとこう告げた。
「最低ね」
そしてふいと顔をそらし、さっさと先へ行ってしまった。
「ヒコ、あなたと言う人は……」
ヴァイユールも呆れ声で呟いたが、なぜか殊更に「ぎゅっ」と彼の背にしがみついた。豊満な膨らみが強く押し付けられる。意図したものかどうか、ヒコには判断がつかなかった。
「どーしろと」
ヒコは嘆いた。「とばっちり」とも言えるこの事態をチャンスに変えられるほど、彼は女たらしではなかった。
さて、無事に峠を登りきり、宿営地にたどり着くと、エルナリーフは慣れた様子で宿営の準備を始めた。ヴァイユールとリュアスも、エルナリーフの教授に従い手伝いをする。日はすでに落ち、辺りは急速に夜の闇に包まれていく。
ヒコは見張り番を買って出たが、頼りになる義弟がそれを制した。
『夜番はわが手のものにお任せを。兄者もごゆるりとお休みなされ』
すぐに銀狼の群れが集まってきて、峠道を封鎖した。圧巻である。
人外に夜番を丸投げすることに、エルナリーフはささやかながら反意を示したが、結局は好意に甘え、皆で仲良く眠りについた。
……のもつかの間、ヒコは2時間ほどで目を覚まし、胸にのしかかるリュアスの拘束を丁寧に剥がし、皆から離れて、月夜に照らされる、霊峰イシュカンドリュテに目を向けた。
「綺麗だな……」
満遍なく白雪を被る巨峰は、月光を反射し、うっすらと白銀の霊光を放っている。まさにこの世のものとも思えぬ、幻想的な光景である。ただ見惚れるばかりだ。
時をおかず、傍らに黒狼が擦り寄ってくる。物言わぬ瞳が「休まずとも良いのか」と、義兄を慮っているようであったが、義兄は「大事ない」と義弟のたてがみをさらっと撫で、言い訳がましく口にする。
「あんまり長く眠れないんだ。魔法でもかけられない限りな」
それは、長い迷宮暮らしで染み付いた習慣である。かの地獄では、呑気に寝息を立てていればその分だけ、死の足音が忍び寄ってくる。
「何をしているの?」
声とともに、女神の姿が現れた。薄手の肌着にローブを羽織っただけの、華奢な女身は、もちろんエルナリーフである。この時、例の魔術は効力を切らしていて、ヒコは彼女の言葉が分からなかったが、月明かりに照らされる絶世の美貌と、闇夜に妖しく光を放つ金睛に、魂を鷲掴みにされてしまった。
「本当に綺麗だ」
思わず漏らした言葉も、エルナリーフの理解には及ばない。彼女は惚けるヒコの眼前にひざまずき、朗々と呪文の詠唱を始める。
「待った。また無理やり眠らされるのは勘弁だぜ」
エルナリーフの手をつかみ、ヒコは告げた。すると、エルナリーフはその手を取り、柔らかに微笑んで、ゆっくりと首を横に振る。
「だい……じょ……ぶ。こ……とば……」
ヒコが目を見開く。それは間違いなく、彼の世界の言葉である。
「驚いたな。もうおれの言葉を憶えたのか」
「まだ……すくない。あるだー」
片言の言葉が胸を打ち、ヒコの心を温かに満たした。ほんの数日、言葉を交わしただけだが、彼女はつねに、ヒコの故郷の言葉を覚えようと心を砕いていたのだ。知らず、目は涙で潤んでいる。
「たのむ、やってくれ」
ふたり頷き合い、魔術を完成させる。【天開煌】。神秘の光が、寄せ合うふたりの額を弾いた。
エルナリーフはついと顔をそらして呟いた。
「どうして泣いているの。調子が狂うわ」
「悪い。実は泣き虫なんだ」
「変な人ね」
それから、しばらく無言の時が過ぎる。お互いに、話したいことはあった。だが、何となくこの静寂が心地良い、そんな時間が流れた。
「ようやく、実感が湧いたな。異世界に来た、っていう」
はるか巨峰を見つめて、ヒコはぼそりとつぶやく。それは圧倒的で、決定的な光景だ。そして、人知を越えた美貌を持つ、傍らの女神の姿も。
「故郷が恋しくなったの?」
怪訝に問うエルナリーフに、ヒコは首否して答える。
「どうだかな。実はもう、ほとんど憶えてないんだよ。長いこと、思い出す暇もあまりなかったからな。たぶん、もう帰れないだろうし」
「魔王を倒せば、戻れるんでしょう?」
「居ないもんは倒しようがないわな」
「私が知らないだけよ」
「そうかもな」
ヒコは深々と溜め息を吐いた。諦めたわけではない。だが、彼の目的は、思った以上に途方もないもので、手がかりを掴むための手がかりすらないような状態である。
どうやら本当に、世界を隅々まで歩き回る必要がありそうだ。
「あんたの手伝いが終わったら、あの山を登ってみるよ。誰も行ったことがない場所なら、逆に手がかりがあるかも知れない」
その口調が思いのほか明るかったので、エルナリーフはほっとした。
「ここからまっすぐ向かうのはお勧めできないわ」
森の北側はいくつもの山河が横たわり、深い谷や切り立った岸壁が織りなす険しい地形で、人の足で踏破するのはほぼ不可能である。
「それよりも、まず南に森を抜けなさい。街道に出て、東へ。王都マナセリアを目指すの。世界の中心よ。私の知らない情報だって、いくらでも転がっているでしょう。あくまでイシュカンドリュテを目指すなら、王都から北上し、東周りで向かうといい。私もそうしたわ。良ければ地図を書いてあげる」
気づけば、ヒコがにこにこと見つめている。つい興が乗り、喜々として一方的に喋ってしまったらしい。エルナリーフは少し恥ずかしくなって、むすっと顔をしかめてみせた。
「いやらしい。そんな目でじろじろ見ないで頂戴」
「良いだろ、減るもんじゃねーし。そんな美人に生まれた自分を恨めよ」
「呆れた。私を口説いているの?」
「まさか。おれはただ可愛い女神さまに見惚れてるだけだ。男に生まれた以上、仕方のないことだな」
言葉に嘘はなかった。どこか冷たい印象のあった女神が、今夜はころころと表情を変えて、血の通った温かみを見せる。これほど可憐な存在に心奪われないのなら、男を捨てるべきだろう。
「あまり軽々しい世辞を言う男は嫌われるわ」
「じゃあ黙って見てるよ。それならいいだろ?」
「もうっ!」
エルナリーフは肩を怒らせ、ぷいと顔をそむけた。好感触であった。
これほどの佳人である。賛美など飽くほど聞き慣れているだろうと、ヒコは思っていたが、実はそうでもない。稀人は確かに、どこへ行っても好奇の視線を集める。しかし、同時に近寄りがたい雰囲気をまとう人々でもあった。特にエルナリーフは、あまり他人を寄せ付けない性格で、面と向かって賛美の言葉を贈られるのに不慣れだった。
ともかく、己の軽口が予想外の効果を上げたことに気づき、ヒコはやや動揺した。エルナリーフは顔をそむけて仏頂面をしつつも、この場から一向に去ろうとしない。妙な雰囲気が生まれている。
(押すべきか引くべきか。難題だな)
ヒコが己の女性経験の無さを悔やみつつ、取るべき道を決めかね、エルナリーフが艶っぽい空気をやんわりと振り払う気の利いた話題を模索しつつも、緊張のあまり考えあぐねる中、不意に、ひんやりとした空気が辺りに漂い始めた。
比喩ではない。明らかに、しかも急激に気温が下がっている。
「何だ?」
ふたりほぼ同時に異変に気付いて立ち上がる。続いて、ほんのりと白ずむ靄のようなものが漂って、ヒコの身体に纏わりつき、次第に若い娘のかたちを取っていった。
「幻霊……!」
エルナリーフがうめき、対霊魔術を紡ぎ始める。
「待て」
ヒコは瞳を明滅させ、それを制した。
「どうして? 人の生気を奪う魔物よ。危険だわ」
「知ってる。地下迷宮で散々見たからな。でも、こいつは【敵性】じゃない。こっちから仕掛けなきゃ襲ってこない」
「どうしてわかるの?」
「分かるんだよ。おれにはな」
ヒコは明滅する己の瞳を指し示した。しかし、エルナリーフは警戒を解くことなく、女身の幻霊を注意深く見張った。
それをよそに、霊体の白い手が、いとおしげにヒコの頬を撫でる。
フフフ……。
身の毛もよだつような笑い声が、かすかに風に混ざる。それは最後に、ヒコの頬に口づけして、霧のように消えた。
「な? 大丈夫だったろ。でも、女の霊は初めて見るな。役得かな」
ヒコは得意気に笑ったが、エルナリーフの反応は冷ややかだった。
「そう。さぞ気分が良いでしょうね。女なら誰でもいいの?」
「は? え? なにを仰いますか」
「そこで朝まで幻霊と戯れていなさい。私は休みます」
「ちょ、ちょっと……」
呼び止めるヒコを無視し、エルナリーフは肩を怒らせて寝所に戻った。追いすがる声も気配もないことに、さらに苛立ちが募る。
「本当に、男って……」
吐き捨てつつ、稀人の娘はさっさと寝入ったが、さきほどの場所では、異世界人の若者がすっかり項垂れていた。傍らにはそれを慰めるように、義弟たる黒狼がそっと寄り添っていた。
3.
魔石とは、強い体内魔力に蝕まれた魔物が、死体となりはてた後、さらに高濃度の魔力を浴び続け、長い時間をかけて結晶化したものである。
その用途は様々だ。呪印を刻んで魔道具の核とすることも出来るし、直接魔力を取り出し、大規模な術を熾す助けにもなる。
だが、大変な希少品である。
そもそも、魔石を生み出す場所自体が稀有であり、しかも漏れ無く危険であるため、需要に供給が追いつかないのだ。
「例えば、これも魔石だけれど」
エルナリーフは親指の先ほどの小石を拾い上げた。闇の中、うっすらと青い光を放って見える。
「この程度の大きさでも、王都で一ヶ月ほど遊んで暮らせる値がつくわ。拾い集めれば一財産築けるでしょうね」
「ふーん」
周囲の反応の薄さに、エルナリーフはやや苛立った。森の妖魔たちは完全な相互扶助社会であり、通貨の概念など存在しないので、リュアスとヴァイユールが無反応なのはいいとして、ヒコがまるきり興味を示さないのはおかしい。
「ヒコ、あなたも少しは拾っておいたらどう? いずれ森の外に出るのであれば、お金は必要でしょう」
「なぜ?」
真顔で問われ、エルナリーフは一瞬固まった。
「なぜって。お金が無くては旅など出来ないでしょう。宿も取れないし、着るものだって用意できないわ」
「別に食うには困らんだろ。剣一本あれば狩りは出来るし、魔王も倒せる」
馬鹿げた言い分だが、どうやら本気である。十年あまりを迷宮で生き抜いてきた男の矜持なのだろうか。
どちらにせよ、彼を説得するには時間が掛かりそうなので、エルナリーフはとりあえず手頃な魔石を、依頼という形で集めさせた。あとで、旅立つ彼に選別として贈るつもりである。
「どれだけ拾えば守護者ってのが作れるんだ?」
「こんな小さな欠片ではいくら集めても無理ね。奥にある、もっと大きな結晶でないと」
「じゃあなんでこんなの集めてるんだ?」
「うるさいわね。黙って拾いなさい」
さて、ここは悪名高き魔神窟である。
もちろん、呑気に石拾いに没頭できる環境ではない。黙っていても次々に魔物が襲い掛かってくる。
例えば、魔狂猿。
元は森に広く分布する腕猿という獣だ。それが、高濃度の魔力に冒されて魔物化したものである。元は長く靭やかだった腕が、丸太のような豪腕に変わり、人の頭など軽々と叩き潰す膂力を持って襲いかかる。
「よっ、と」
その豪腕を、ヒコは真正面から拳で叩き壊す。その衝撃で、魔猿の腕骨は一本芯の通った野太い針の如く突き出し、頭部を貫く。剣を抜くまでもなく一撃である。続いて襲い掛かってきた2体も、同じく拳一本で粉砕してしまった。
ここに至って、エルナリーフはついに核心的な疑問に行き当たった。
「ヒコ。あなた、何のために剣を佩いているの?」
「平たく言うと獲物を料理して食うためだな。どっちかというと剣より素手のほうが得意だ」
実はこの男は剣士ではなかった。むしろ調理人であった。恐るべき事実に驚愕する暇もなく、次の敵、いや獲物が襲ってくる。
鎧蜥蜴。鱗が変質した固い外殻に身を包む、四足の大蜥蜴。体長は5メートルほどもあり、胴体の三分の一を占める巨大な顎で、岩をも噛み砕いてしまう。
「ほいさっ、と」
襲いかかる大顎に、目にも留まらぬ斬撃が飛んだ。と言っても、みなの目には何かが光ったようにしか見えない。いつ抜いたかも分からぬ剣の切っ先が、ヒコの足元にだらりと垂れ下がる頃には、鎧蜥蜴は上顎を綺麗に頭部ごと切り飛ばされて絶命している。
「剣士、と称される人間をたくさん見てきたけれど、あなたのように剣を扱う人は初めてよ」
エルナリーフにも、わずかながら剣の心得はある。そして言葉通り、一流とされる数多の剣士をこの目に見て来た。
その常識から言って、ヒコのそれは剣術ではない。柄尻を片手で「ちょん」とつまむように持っているだけで、振るう際にはほとんど身体を揺らさず、手首を「ひょい」と返しているだけである。
それだけであんな剣速が出るものだろうか。まったく理解が及ばない。
「そりゃまあ、おれは剣士じゃねーし、これは剣術じゃないから。あえていうなら切り術? なんつーか、手っ取り早く切り刻むための技術」
説明しながら、ひゅんひゅんと手首を返し、鎧蜥蜴の死体をバターのように切り刻んでいく。あまりもの神技に唖然とするより他ない。
「切り分け終わったぞ。こいつの尻尾とタンがまた旨いんだわ。血抜きするから誰か手伝って」
「いらない。いらないわ。食料は充分にあるから」
「えー」
不平を漏らすヒコを何とか引き止め、奥へ向かう。
思った以上に楽な道のりだった。立ち塞がる全ての敵を、エルナリーフが魔術を唱える間もなく、ヒコが一撃で屠った。圧倒的な戦闘力だった。この男なら、魔王とやらも本当に平らげてしまいそうだ。言葉通りの意味で。
「これほど余裕があるとは思わなかったわ。せっかくだからヴァイユールに魔術の修行でもしてもらおうかしら」
「ええっ、私が!?」
いきなり矢面に立たされたヴァイユールが、蛇に睨まれた蛙の如く固まった。
「へえ。おまえも魔術師だったのか」
実は出会ったその日に、ヴァイユールは魔術を駆使して銀狼を足止めしていたのだが、ヒコはその場面を目撃していない。
だが、実のところ彼女は、裏技のような方法で魔術の真似事ができるだけで、さほど厳密に言わなくても魔術師ではないのだった。
ヴァイユールは刀身に複雑な呪印が施された短剣を取り出し、ヒコに手渡した。
「これだ。魔道具といって、あらかじめ簡単な魔術が込められている。私はこれに魔力を送り込んで発動させているだけで、自分で術を熾しているわけじゃないんだ」
「私のお手製よ。ふつうの魔道具はひとつしか術を込められないけど、それには3つの術を仕込んである」
「エルナリーフは凄いんだぞ。なにせ、稀人の魔術師は世界に彼女ただ一人しか居ないんだからな!」
ヴァイユールがわが事のように誇らしげに告げ、エルナリーフが居心地悪そうに身を縮めた。
「そうなのか?」
「そもそも稀人には、魔術を使うために必要な体内魔力がないの。例外は無いわ」
「あんたは魔術を使えるだろ?」
「もちろん、私にも体内魔力なんてないわ。私が術の行使に用いるのは体外魔力。目には見えないけれど、その辺の空気に混じってふわふわ浮いているものよ」
「だから、どっちにしたって使えるわけだろ?」
「聞きなさい。魔術をゼロから熾すのに、体外魔力を利用するのはとても難しい。通常は体内魔力を着火燃料として、体外魔力を巻き込むようにして術を編むの」
つまり、全てを体外魔力で紡ぐ魔術は、言わば裏技である。それも、万に一つの才能と努力が必要な類のものだ。
少なくともエルナリーフは、自分以外に魔術が使える稀人など、聞いたこともなかった。
「……あんた、思ったよりすごい人だったんだな」
「あなたほどじゃないわ」
エルナリーフは複雑な表情で言った。
説明は続く。
実のところ、ヴァイユールはごく簡単な魔術なら魔道具なしで熾すことができる。
「例えばこれだな」
と、彼女が見せてくれたのは、指先でちろちろと燃える小さな火である。
「たったこれだけでも、体内魔力をかなり消費するんだ。もっと大きくすることもできるが、すぐに〝魔力切れ〟を起こしてしまう」
「すべて体内魔力で賄っているからよ。せめて全魔力の8割は体外魔力を巻き込めるようにならないと、まともな術が使えないの」
つまり、それができて初めて、魔術師と名乗れるのだった。
「それじゃあ、やってみましょうか」
エルナリーフに促され、ヴァイユールの魔術修行が始まった。
簡単な術を繰り返すうち、不意にヴァイユールが膝から崩れ落ちた。
「おいっ……大丈夫か?」
「ああ、すまない……しばらく身体を預けていいだろうか?」
弱々しくヒコに寄りかかるヴァイユールの顔面は蒼白である。これが魔力切れだ。常は魔力に満ちあふれている身体が、許容量以上にそれを失ったことによって生じる、ひどい貧血のような症状で、深刻な場合はショック状態に陥り、そのまま命を落とすこともある。
だが、ここは魔神窟である。
内部は高濃度の魔力で満ち溢れている。魔力切れを起こしても、外部からの圧力ですぐに回復する。術を編み込むのに魔力の流れを読む必要もないため、魔術の修練にもってこいの場所なのだ。
「あせらないで。完全に回復したと確信してから始めなさい」
「大丈夫だ」
腰を据えて修練を始めた師弟をさておき、門外漢はだべり始めた。
「魔術の修行も楽じゃないんだね」
「あれでもかなり楽してるらしいけどな」
『人の魔法の知識もなかなかに面白いものでござる。わが火術にも応用できますかな?』
「やめとけやめとかけ。おまえが本気でぶっ放したらみんな焼け死んじまう」
「ぼくもちょっと練習してみようかな」
『おお、さすがは姫。その志、ご立派でござる』
「あんまおだてんなよ。この子すぐ調子に乗るタイプだから」
「ねえヒコ、それも通訳しなきゃダメなの?」
リュアスは口唇を尖らせて抗議した。
実は今のヒコの言葉は、魔術の加護を受けて、シリウスも直接理解できるのだが、銀狼の王はあえて伏せていた。なぜかと言えば、リュアスが通訳すると、時おり微妙に意味が違って面白いからだ。さすがはヒコが義弟と認める獣だった。
この会話の最中にも、魔物は襲い掛かってくる。
「よっ、と。無粋な奴等だな。少しは大人しくしてられねーのか」
『このあなぐらの連中は正気を失っておりますからな。わが手のものも、力弱きものは影響をうけまする』
「ヒコ、あの〝びびらせる〟やつは使わないの?」
「【威圧】か。ただの獣はともかく、こういう連中に使っても一瞬ひるませるくらいだな。無闇に使うと疲れるし」
「ふーん、色々あるんだね」
話しながら、ヒコの無慈悲な暴力は魔物の死体を量産していく。彼の手にかかればどんな存在も危ういと確信させる有様だった。
そうして、何時間経っただろうか。
「出来た! 出来たぞエルナリーフ!」
「良くやったわね。今ので3割よ。その、〝巻き込む感覚〟を忘れなければ、魔神窟の外でも術を編み込めるわ」
ようやく目標を達成した師弟の喜びの声が、ヒコの悲鳴でかき消された。
「おいリュアス! どうした、しっかりしろ!」
見れば、リュアスが力なく地面に伏せ、血の気が失せている。
「何があったの?」
「分からん。見よう見まねで魔術の練習をするとか言って、ごちゃごちゃとやってたんだが……」
絶句して、エルナリーフはリュアスの容態を確認した。
結論から言って、リュアスは魔力切れを起こしていた。
どうやら見よう見まねの魔術が、術としては成功していたらしい。だが彼女の「解呪の御手」が発動を阻害し、いたずらに、それも急激に魔力のみを浪費し続けていた。それによって、ひどい魔力切れを引き起こし、ショック状態にあるとのことだった。
「自然回復を待っていては死んでしまうかも知れない。庵に戻れば、治す薬もあるのだけれど……」
そんな悠長な時間があるはずがない。ヒコは舌打ちをして、リュアスに顔を寄せた。
「リュアス。おまえから貰ったもんを返す。遠慮なく吸え。いいな?」
そして、弱々しく頷くリュアスに、躊躇なく口付けした。
「んっ」
見た目には、大の男が幼女を押し倒しているようにしか見えない。だがこの場合、あえて被害者を設定するなら男の方だ。
変化はすぐに訪れた。ヒコの身体が力を失って崩れ落ち、リュアスの顔に血色が戻ったのである。
ヴァイユールが慌てて抱き起こすと、リュアスは力なく笑った。完治とは言い難いが、一命は取り留めたようである。
「ぼくは大丈夫。それより、ヒコは?」
崩れ落ちたヒコにはエルナリーフが駆け寄っている。こちらは、完全に気を失っていた。
「失ったのが魔力じゃなく生命力なら、私の魔術で何とかなる」
エルナリーフは呪文を唱え始めた。だが、すぐに彼女の表情に焦りの色が浮かんだ。
「どうして? 術が届かない。こんな感覚は初めてだわ」
呻きつつ、何度も回復魔術を試みるエルナリーフの手を、不意にヒコが掴んだ。
「やめろ、無駄だ」
「ヒコ!」
歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がる。それに答えるように、ヒコは弱々しく笑った。顔面は蒼白である。
「おれに回復魔法の類は効かない。そういう制限なんだ」
「どういうことなの?」
「制限で分からなきゃ呪いでもいい。おれは地下迷宮で受けた呪いのせいで、毒や病の影響を受け難い身体になってる。その代わり、魔法的な力じゃ肉体を癒せない。あんたの魔術も例外じゃないってことだ」
「そんな……どうすればいいの?」
「しばらくすれば動けるようになるさ。シリウス、悪いがその間、お嬢さん方の護衛を頼むぜ」
『承知。不詳この身が、しかと勤め上げてご覧に入れる』
リュアスの通訳によって、力強い義弟の返事を聞き届けると、ヒコは安堵して微笑み、再び気を失った。深い眠りについたようだった。
魔神窟という危険地帯の真っ只中で、頼みの綱を失ったかに思えた一行だったが、ヒコからお役目を引き継いだシリウスの戦闘力も、生半可なものではなかった。
襲い来る魔物の群れを、俊敏で無駄のない動きで瞬く間に血祭りに上げていく。時には、秘蔵の火術も駆使する。義兄との特訓で完璧に制御された火球は、女性陣に毛ほどの傷を付けることもなく、的確に魔物だけを屠った。
「エルナリーフ、あれも魔術なのか?」
「古代魔法、と言うやつね。膨大な体内魔力に物を言わせて、イメージだけで術を練り上げているの」
曰く、太古の昔から、強力な魔物がよく用いたそうだが、彼らが操る術の種類は限られていて、せいぜい一個体でひとつかふたつであったそうだ。それを人の身で、もっと体系的に扱えるようにしたのが魔術だという。
解説するエルナリーフも、黙って見ていたわけではない。魔術の全てを体外魔力で紡ぐ彼女は、無尽蔵の魔術を駆使して、シリウスに勝るとも劣らない活躍を見せる。
「風撃!」
隙をついてエルナリーフの眼前に迫った魔狂猿は、見えない何かに殴り付けられ、木っ端のように弾き飛ぶ。
「灼焔弾!」
そこに、追撃とばかりに燃え盛る火の玉が飛ぶ。それはあっという間に魔猿の全身を強烈に焼き、閃光と焼臭とで、後に続く敵をひるませた。
「天滅煌!」
続いて紡いだ魔術は、無数の光の矢を生み出し、敵の急所を的確に貫く。魔物どもは悲鳴もあげられぬまま、一網打尽にされていった。
味方の戦力は圧倒的である。だが、敵の数も衰えを見せない。どうやら、騒ぎを聞きつけて集まっているらしかった。このままではいずれ疲れ果てて戦えなくなるだろう。
「先へ進みましょう。魔物が寄り付かない〝聖域〟があるの」
エルナリーフの言に従い、一行はさらに奥へと歩みを進めた。ヴァイユールがヒコを背負い、リュアスがそれを支えて、シリウスが前衛で敵を引きつけ、エルナリーフが後ろから魔術で一網打尽にする。
そうして、一行は何とか「聖域」へとたどり着いたのだった。
4.
何とも不思議な空間である。
いかにも洞窟然としていたこれまでの様相が一変し、明らかに人工の麗飾がほどこされた石壁、十数メートルはある高い天井はアーチを描き、やはり荘厳華麗な彫り物が施されている。
入り口の他にも、いくつか出口はあった。だが、その全てが土砂で埋まっている。洞窟の中に造られた、というよりも、地中に埋まった何かの遺跡がたまたま洞窟に繋がった、そんなふうに見える。
何よりも異質なのは、このだだっ広い空間の中央に鎮座する、巨大な石像だ。何を模したものであろうか。4本の腕と翼を持つ異形の怪物の姿が、今にも動き出しそうな躍動感を持って、一行を見下ろしている。
魔物の気配は一切ない。エルナリーフの言葉通りの場所だった。
「こんな場所があるなら、最初からここで修行すれば良かったんじゃない?」
リュアスが素朴な疑問を口にしたが、その理由に気付いたのはヴァイユールである。
「この感じ……魔力濃度が薄いのか?」
「そうよ。ほとんど外と変わらない魔力濃度を保っている。ここで修練する意味は薄いの」
ともかく、この場所が安全なのは間違いなさそうだ。一行はようやく腰を落ち着け、一様に安堵の息を吐いた。
唯一、緊張を解かなかったのはシリウスだった。魔神の像に向かって身構え、今にも襲い掛からんばかりである。
「ねえエルナ。この像、何なの?」
「ただの石像だと思うけれど。台座に記された文字を見る限り、三千年以上むかしの遺跡よ」
その解説を、未だ警戒を続けるシリウスに通訳してやると、ほっとした様子で、リュアスの前に「ちょこん」と座した。
『ううむ、ただの石像にしては、何か途方もない威圧感がございますな。されど、森の貴婦人が仰るのであれば間違いはござらぬ。いや、不甲斐ないところをお見せしてしまい、まことに申し訳ございませぬ』
リュアスは微笑んで、黒狼を優しく抱きしめた。
「シリウスは不甲斐なくなんかないよ。ぼくらを守ってくれたじゃない」
『おお、姫。なんと有り難きお言葉……!』
絆を確かめ合う主従はさておき、異様な存在感を放つ石像に興味を示し、ヴァイユールは台座の前に進み出た。
その石版には、奇怪な文様が長々と刻まれている。エルナリーフが言うには文字とのことだが、ヴァイユールには何一つ判別できない。
「エルナリーフ、これは?」
「古代エルダーナ文字よ。稀人の祖先が用いていたもので、全部読めるわけじゃないけれど――」
大まかに、このように記されているらしい。
外なる神の権威にすがり、ここに悪魔の御業を封じる。
心清き戦士と、心清き乙女と、心清き精霊の御名において、世界が終わるその時まで。
「文頭の大きなしるしは数字で、5/12とあるわ。おそらく、全部で12体あるうちのひとつで5番目、という意味よ」
「他にもこんなものが?」
「魔神窟は隅々まで探索したけれど、こんな石像があるのはここだけよ」
そのうち、リュアスも石像に近寄ってきた。ふたりの妖魔の少女は、興味深げに石像の周囲を探り始めた。
エルナリーフは横たわったヒコの頭を膝に乗せ、なお諦めきれず回復魔術を試みている。しかしやはりというか、ヒコの身に届くことはなかった。
術の発動を阻害するような、何か強固な結界が施されているのであれば、手立てはある。しかし、どうやらそうではない。ヒコの言葉通り、彼の身に届かないのは、治癒回復の類だけである。せめて彼が語った「呪い」の正体が分かれば良いのだが――。
(お手上げね。見たところ眠っているだけだから、それほど心配はないのでしょうけれど)
エルナリーフは軽く吐息して、ヒコの髪を撫でた。彼をあてにしていたのは事実だが、元より何度も単独で潜っている場所だ。ひとりでも注意していれば大きな危険は無いし、今はシリウスだっている。
だが、言い知れぬ心細さがある。早く目覚めて、軽口のひとつでも叩いて欲しかった。
(いいえ、違うわ。そうじゃないでしょう)
そうだ。思い返してみれば、エルナリーフは彼の足を引っ張ってばかりだ。庵を皇牙竜が襲った時も、彼女が「目潰し」などしなければ、ヒコは軽々と勝利していただろうし、言葉の問題を手っ取り早く魔術で解決しようとしたばかりに、ヒコは己の本名を失った。リュアスが魔力切れを引き起こした時も、わが身を差し出すべきは自分だったのだ。さすれば、生命力などすぐに回復できた。
この上、力尽き果てて倒れた彼を癒やす力もないとは。無能で無力な自分が口惜しい。何とか、彼の役に立ち、借りを返せないものだろうか。
ふと、あるおとぎ話が脳裏に浮かんだ。
悪魔の呪いで永遠の眠りについた乙女が、勇敢な若者の口付けによって目を覚ますという話だ。男女が逆でも、試してみる価値はあるのではなかろうか――。
(何を考えているのっ)
エルナリーフはぶんぶんと頭を振った。それを、シリウスが怪訝に見つめる。エルナリーフは羞恥で耳まで赤らめながら、必死で心を落ち着けた。
百年の時を生きる黄金の魔女が、乙女心をこじらせた妄想で悶々としているとも知らず、妖魔の少女たちは石像の調査を続けている。
「見ろリュアス。材質はただの石じゃないぞ」
ヴァイユールが石像の表面に付着した埃を払ってやると、その下は鮮やかに色づき、奇妙に光沢が乗っている。軽く叩けば、これまた奇妙な音が響く。金属――ではないようだが。どちらにせよ、初めて目にする物質である。
「これ、本当に何なんだろう」
「石版の内容からすると、何かの御神体じゃないか? あまりべたべた触ると祟りがあるかもな」
「逆にご利益があるかも知れないよ。ぼくも触っておこうっと」
ピシッ!
リュアスが触れた途端、石像に大きな亀裂が入った。それはどんどん広がり、幾重にも折り重なって、蜘蛛の巣の如く、瞬く間に石像の表面を覆っていった。
「まずい、離れろリュアスっ!」
言うが早いか、石像は轟音を上げて倒壊を始めた。素早い妖魔の少女たちは、何とかそれに巻き込まれずに済んだが、ただ呆然として、巨大な像がただの瓦礫と成り果てていく様を見守っていた。
「……何をしたの、あなたたち?」
駆け寄るエルナリーフが震える声で問う。リュアスが、同じく震える声で答えた。
「さ、触っただけだけど」
「そう。あなたが触ったのね、その手で」
エルナリーフは苦渋の表情で漏らした。リュアスが触れただけで倒壊したということは、像は何らかの魔法であの威容を保っていたということだ。責を負うべきは、その可能性に思い至らず、リュアスに何の忠告もしなかった自分だろう。
ただ石像が崩れただけならばまだ良かった。しかし、それがこの空間にどれほど劇的な変化を生んだか、エルナリーフはすでに気付いている。
ウォオ……ン!
突如、シリウスが吠えた。警戒の声である。気がつけば、広間の入り口から続々と魔物が押し寄せている。彼らを長い間遠ざけていた、目に見えない力が失われたのだ。
加えて、魔力濃度が爆発的に増している。ここはすでに聖域ではない。
『皆様方、急ぎ突破せねば囲まれてしまう。ご用意を!』
エルナリーフはヒコを抱き起こしながら、リュアスの通訳を聞いた。
手遅れだ、と思った。すでにシリウスの脇をすり抜けて多数の魔物が入り込んでおり、彼女たちは囲まれつつある。未だ昏々と眠り続けるヒコを抱えたまま、この包囲を抜けるのは難しい。
「エルナリーフ! 見ろ、台座の下に階段がある!」
ヴァイユールが叫ぶ。言葉通り、さっきまで石像がそびえ立っていた場所に、下り階段が出現していた。
悩んでる暇は無かった。
「あそこへ避難する。急いで!」
みな、一も二もなく従う。シリウスが渾身の火球を炸裂させて魔物どもをひるませ、その隙に駆け下りた。
階段はそれほど長く下っておらず、すぐに狭い通路に出た。まっすぐに伸びた通路で、大人二人が身を縮めて並べる程度の幅である。天井は、恐らくヒコが立ち上がれば頭を打つだろう。
通路を進む間も、後方から次々に魔物が迫ってくる。これは殿を務めるシリウスが上手く牽制して、突出する敵だけを屠り、後方に固まる群れにはエルナリーフが魔術を叩き込んで対処した。
だが、何度撃退してもまた、次の一団が襲ってくる。じりじりと通路の奥に後退していくと、再びシリウスが警鐘を鳴らした。
『この奥――ただならぬ気配がござる!』
「何てこと!」
エルナリーフは思わず舌打ちをした。彼女は魔物の対処のため後方を向いていたが、先行していたヴァイユールは奇妙な光を見た。
目を凝らす。それは弓、のようだった。何もない空間に、淡く光を放つ弓が浮いているのだ。警戒すべき事態だったが、なぜかそれは、とても温かみのあるもののように、ヴァイユールには感じられた。
「私が確認してくる。しばらく堪えてくれ!」
「駄目よ、ヴァイユール!」
エルナリーフが悲鳴を上げて制止する。しかし、ヴァイユールは躊躇うことなく俊敏に駆け、最奥にたどり着いた。
そこは、ちょっとした広間だった。
聖域ほどではないが、大人数十人が余裕を持ってくつろげる空間だ。その中央で、やはり、神々しい光を放つ弓が、見えない力に固定されたかのように宙に浮いている。
分類としては短弓で、形状は里の狩人が用いるものに似ている。だが、不思議な模様の刻まれた金色の弓身も、銀色に輝く弦も、いかなる素材か見当もつかぬ。
弓から視線を外し、再び広間を見渡す。他には何も見当たらない。危険はない、とヴァイユールは判断した。そして己の感覚を信じるならば、ここは〝聖域〟と同じく魔力濃度が低い。ならば同じく、魔物を寄せ付けない力が働いているかもしれない。
「みんな急げ! ここなら安全だ!」
ヴァイユールの呼びかけに応じて、まずリュアスが、次いでヒコを担いだエルナリーフが駆け込んできた。
シリウスは魔物どもを牽制しつつじりじりと後退してきたが、やはりというか、広間の入り口と言わず、通路の途中から、魔物どもはその進軍を止めた。
「ふー」
安堵の息が一斉に漏れた。
「ここでヒコの目覚めを待ちましょう。ふたりとも、今度は大人しくしていてね」
エルナリーフが釘を刺すまでもなく、妖魔の少女たちはその場にへたり込んだが、シリウスの様子がおかしい。身を低くしたまま、小刻みに震えているようである。
『これは……さすがに堪えますな。身が締まり、少しも気が抜けませぬ』
どうやら中央に浮かぶ弓から、彼にとって耐え難い威圧が発せられているようだ。すぐにリュアスが駆け寄り、黒狼をいたわるように抱きしめた。
「大丈夫? 苦しくない?」
たてがみを撫で付けながら問う。すると、シリウスの強張りが若干解けた。
『苦痛はござらぬ……が、その光、この身にとって良いものではございませぬな』
「あまり長居はできない、というわけね」
エルナリーフはぼそりと呟き、突如、横たわったヒコに馬乗りになった。
そして、彼の頬を思い切り張り飛ばした。
「起きなさい、このねぼすけ!」
怒号である。呆気に取られる周囲を差し置き、さらに2度、3度。エルナリーフは罵声を浴びせながら、ヒコの頬を張り続けた。
「いつまで寝てるの、今すぐ起きないともっと酷いことをするわよ!」
さらに渾身の一発。気持の良い音が鳴り響く中、異郷の若者はついに目を覚ました。
「え……なに……なんではたかれてるの……?」
「ヒコ!」
エルナリーフは歓声を上げ、ヒコの首にすがりついた。
ヒコはゆっくり身を起こしつつ、それでもしがみついて離れない美女の背を反射的に撫でてやりながら、寝ぼけ眼で周囲を見渡した。
「で、これどういう状況?」
速やかに説明が行われた。その間に、エルナリーフはようやく我に返り、以後は仏頂面のまま、不自然にヒコから距離を取り続けていた。
「なるほどなあ」
一通り説明を聞き終えると、ヒコはひとり得心がいった、というふうな顔をして、しばし何か考え込んでいたが、中央に浮かぶ金色の弓に目を止め、瞳を激しく明滅させた。
そして、何でもないことのように、さらっとこう言った。
「ま、とりあえずここから出るか。ヴァイユール、その弓とって」
「は?」
「何を言ってるの。そんな危険なもの、迂闊に触ったら危ないでしょう」
「大丈夫、もう危険は無いから。それからヴァイユール、その弓使えるの、この中じゃおまえだけだから、しっかり頼むぜ」
「どういうことだ?」
「そいつは〝使用者の魔力を光の矢に変えて放つ弓〟だそうだ。おれには魔力なんてねーし、エルナリーフもそうなんだろ? リュアスは〝あんな〟だし、あとはおまえだけだろうが」
「ほ、本当に大丈夫なのか……?」
「疑り深いやつだな。ほいっ、と」
みなが絶句して見守る中、ヒコはいとも簡単に弓を取り上げた。途端に不思議な光が消えた――が、思わず身構えた皆の不安をよそに、他には何も起こらなかった。〝聖域〟の時のように、魔物が押し寄せてくるわけでもない。
「〝力の弱い魔物を威圧する効果がある〟らしいぞ。何だよシリウス、それで様子がおかしかったのか? おまえも修行が足りないな」
『面目次第もござらぬ。されど、兄者がお手に取った瞬間に楽になり申した。もはやご心配には及びませぬ』
言葉通りすっかり元気を取り戻したシリウスとともに、ヒコはずんずんと通路を戻っていく。ヒコの説明は正しかった。魔物の群れはヒコ――正しくはその手にした弓――を恐れ、どんどん後退していく。
だが、ある程度まで来ると、後ろがつかえたのか、群れは固まりとなって、ぴくりとも動かなくなった。
『わが火術で一掃するのは危険でしょうか』
「だろうな。こう狭くちゃ剣も振れないし」
だいいち、振れたところでどうなるとも思えない。敵を切り飛ばそうが殴り殺そうが、死体は残って通路を塞ぐだろう。それを退けつつ、なおかつ後続と戦いながら進むのは、一苦労どころの話ではない。
ヒコはおもむろに、手にした弓の弦を引き、射掛ける仕草をして見せた。
「やっぱりおれには使えないな。ヴァイユール、頼むぜ」
と、ヒコは弓を手渡した。
「矢もないぞ。どうすればいいんだ?」
「だから〝使用者の魔力を光の矢に変えて放つ弓〟なんだって。とりあえず構えろ。そして貫く的をしっかりイメージしろ。今はあの群れだ。周囲の壁に一切影響を及ぼさない、魔物のみを薙ぎ払う強力な光の矢――そんなのを強く念じるんだ」
ヒコの言葉に従い、ヴァイユールは集中する。ほどなく、引き絞った弓に、一本の光の筋が現れた。
それは見る見るうちに強く太くなり、やがて弓全体が神々しく光り輝く。
「撃て!」
合図とともに弦を放す。ヒュン、と光が走ったかと思えば、通路を余さず強光が焼いた。
ただの一撃だった。
その光が消え去った後には、まるで最初から何も無かったかのように、無人の狭い通路が横たわるだけだった。
5.
そこからは何の苦もなく、一行は無事、目的の魔石の採取を終え、庵へ帰還した。
エルナリーフの解析によれば、かの「光の弓」は、周囲の魔力をも大量に巻き込んで「矢」を生み出すらしい。
事実、魔力濃度の濃い魔神窟を出た後は、せいぜい森の獣を一撃で仕留める程度の矢しか紡ぎ出せなくなった。それでも、狙った箇所に違わず瞬時に飛んで行き、分厚い毛皮と脂肪に包まれた獣の固い筋肉をいとも容易く貫く。恐るべき武器と言えた。
「ヴァイユールばっかりずるい、ぼくにもやらせてよ」
と、リュアスも使ってみたが、やはり彼女自身の力が邪魔をして、矢を紡ぐことは出来なかった。下手をするとまた魔力切れを起こしかねないので、リュアスは光の弓を取ることを禁じられた。
「あんな危険なもの、本当はヴァイユールにだって使わせたくないのだけれど」
とエルナリーフは愚痴をこぼすが、光の弓で矢を作り出す過程は、魔術の修練にも役立つらしい。結局、里人の目にはなるべく触れさせないこと、使用するのは庵の周囲に限定すること、などの条件を付け、ヴァイユールに預けることになった。
「みんなが見た石像は、たぶん地下迷宮に居た魔神を模したものだ」
ヒコは語る。全12体のうちの5番目、4本の腕と翼を持つ魔神、ということで、ほぼ間違いないらしい。
「見た目も能力も色んな奴がいて、どいつもこいつも難儀な敵だけど、12体全部倒すと便利な能力が身につく。これもそのひとつだな」
と、瞳を明滅させる。彼の身体が回復魔法を受け付けないのも、その副作用だという。
「つまり、おれが地下迷宮で奴等の本体を仕留めた後だったから、あそこの石像は抜け殻の、ただの重しになってたってことだと思う」
「倒してなかったら?」
「たぶんだけど、何らかの方法で封印を解く。そして倒す。ご褒美に弓をゲット、ってのが正しい流れなんだろうな」
「ならやっぱり、他にもあんな石像があるのかしら」
「だろうな。そんでそれぞれに、光の弓みたいな〝神器〟が託されている。実はそれも迷宮で一通り見てるんだ。幻影みたいなもんで触れもしなかったから、何だろうって思ってたんだけどな。ようやく謎が解けたよ」
とは言え、残りがどこにあるのかは見当もつかない。もし、魔神窟の〝聖域〟のように、完全に地中に埋まっているのなら、探し当てるのはほぼ不可能だ。
「でもまあ、魔王が何処にいるかも分からないしな。〝神器〟集めが何かしらの手がかりになるかも知れないし、いっちょ探してみるよ」
「それなら、遁世の稀人の里を訪ねるといいわ。あれは古代帝国の遺跡だから、彼らなら何か知っているはずよ」
遁世の稀人。つまり、人の世に出ることなく、ひっそりと暮らしている稀人のことだ。古代帝国とは、彼らの祖先――かつて天神族と呼ばれていた古代種が栄華を極めた時代で、今から三千年近く昔のことである。
「彼らの里はいくつかあるけれど、全てが隠れ里よ。大抵は人が寄り付かない辺境にあって、たどり着くのも難しいけれど、あなたなら大丈夫でしょう。いくつか地図を書いてあげる」
「地図ねえ。あんたが一緒に来てくれるのが、いちばん嬉しいんだけど」
「ひぇっ? 私が?」
エルナリーフは素っ頓狂な声で反問した。ヒコは訝しみつつも、説得を試みる。
「あんたは頼りになるからな。ひとり旅は心細いし、本気で考えてみてくれよ」
表情は真剣である。軽口ではないだろう。
エルナリーフは悲しげに目を伏せた。
「……悪いけど、それは出来ないわ。私にも目的があるの。それが済むまでは、森から離れるわけにはいかない」
しばし、無言の時が流れた。恐る恐る視線を上げると、ヒコは「むすっ」と下唇を突き出し、頬杖をついていた。
何というか、情けない顔、というか。はっきり言えば面白い顔だったので、エルナリーフは思わず噴き出してしまった。
「ぷっ、なんて顔してるの」
「……生まれつきだ、ほっとけよ。あんたはいつも美人で羨ましいな?」
「い、いきなり何を言い出すの。あまりからかわないで」
「からかってねーんだなこれが……」
はああ、と一際大きな溜め息を吐いて、ヒコはテーブルの上に突っ伏した。
「ちょっと、大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
エルナリーフは思わず手を伸ばしたが、ヒコの肩に触れるか触れないか、というところで、彼は「がばっ」と身を起こした。
慌てて手を引っ込める。ヒコは相変わらず仏頂面のまましばらくエルナリーフの顔をじっと見つめ、それからこう言った。
「教えてもらってもいいか? あんたの目的」
「構わないわ」
別に隠していることでもない。リィンもヴァイユールも知っていることだ。
エルナリーフの目的は、一言で言うなら「記憶を失った知人を治す方法」である。知識はおろか人格まで失って抜け殻になってしまった知人を、元通りにする方法。
降霊術――失われた冥王バルザックの秘術なら、それが可能かも知れない、と言うのだ。
「里には魔術なんて伝わってない、とリィンは言うけれど、祈祷師というのは、私の見立ててでは冥王の御業よ。そうでなければ、森の外でも発生しているはずだから」
里人は……少なくとも指導者たちは何かを知っている。エルナリーフはそう睨んでいる。だが、自分は彼らに警戒されていて、直接聞き出すのは難しい。
「なるほどな。じゃあ、リュアスを調べてみれば何か分かるんじゃないか?」
「いいえ。私に分かるのは、彼女の体内魔力が他の妖魔に比べて異常に多い、ということだけ。この点だけならリィンの言葉通りね」
とにかく、祈祷師なる存在が冥王の秘術によるものなのは間違いないが、エルナリーフが知りたいのは、あくまで「失った記憶を取り戻す方法」だ。
「正直に言うわ。あなたを庇護したのは、利用できないかと考えたからよ。リィンはあなたのことを気に入っているようだから」
「おれやリュアスを助ければ、リィンがぽろっと喋ってくれるかも、ってか?」
「そういうこと」
ヒコは「うーん」と唸って腕を組み、椅子に背を預けて上を見上げた。
呆れてしまっただろうか。それとも、怒らせたかも知れない。どちらにせよ、「あなたを利用するつもりだった」と明かされて、良い気分にはなるまい。
嘘ではない。確かに、当初はそんな気持ちがあった。でも、ヒコをこのまま利用し続けるなら、黙っているべきだった。
ひとつだけ、今回の冒険で分かったことがある。
ヒコは想像を絶して強い。エルナリーフが垣間見たのは、その力の一旦に過ぎまい。あの弓にしてもそうだ。あれほどの力が、何のために存在するというのか。それ以上の力を持つ何者かに、対抗せんがためではないのか――。
――魔王を倒す。
当初は呆れ顔で聞いていたヒコの目的も、いまは確かな危機感を持って腑に落ちている。
ならば、ヒコを森に留め置くのは罪悪である。なぜなら、この森に居るかもしれないのは所詮「悪い魔法使い」で、魔王では無いのだから。
勇者は旅立つべきだ。人の世のあらゆる雑事をかなぐり捨て、世界の脅威を討ち滅ぼさんがために。
その隣に並びた立つべきは誰だろう、と考える。
それはきっと、すらりと背が高く、それでいて豊満な身体つきで、朗らかで度胸がありながら、心根が優しく包容力に満ちた女性だ。
例えば、出会ったころのリィンである。十年ほど前の、今より更に若さに満ち満ちた姿。そこにぴたりと、成長したリュアスの姿が当てはまる。
適任だ。彼女は決して担い手たるヒコを裏切らない。祈祷師としての力と、皇帝竜を鎮めた行動力、黒天狼をも従える、明るく慈愛に満ちた性格で、影に日向に勇者を支えるだろう。
(私のような、ちびの痩せっぽちにできるのは、地図を書くことくらいね)
エルナリーフは自嘲し、未だ反り返った姿勢の勇者を見つめた。
新しい守護者はすでに完成し、彼は約束を果たした。さあ、あとは旅立つ勇者の背中を押してやるだけだ――。
「ひとつ確認したいんだけどな」
突然、ヒコが身を起こした。エルナリーフは一旦、喉から出かかった言葉を呑み、彼の言葉の続きを促す。
「何かしら?」
「知り合いを治す方法が分かれば、あんたはこの森に留まる必要はないわけだよな」
「そういうことになるわね」
「なら手伝うぜ。そのかわり、終わったらおれの旅も手伝ってくれ」
エルナリーフは一瞬言葉に詰まった。
「……そんなに私が必要?」
「ああ。大体な、おれはこの世界の言葉を喋れないんだぞ。あんたがいなきゃ、情報収集もできねーだろうが」
「言葉ならリュアスがいればどうにかなるでしょう?」
「幼女誘拐に手を染めろって言ってんのか?」
「そうは言ってないわ。でもあなた、リュアスをどう説得するつもりなの? 無理に置いていけば、あの子はひとりでも森を出てあなたを追うわ。間違いなくね」
「あー、分かったよ。リュアスも連れて行く。でも、あんたも一緒だ」
「強引な人ね」
「なあ頼むよエルナリーフ。おれを見捨てないでくれ。この通りだ」
「ちょ、ちょっと……」
ヒコが深々と頭を下げたので、エルナリーフは困惑した。
正直、彼がそれほど自分の力を必要としているとは思えない。彼は頭も良く回るし、内向的でもないから、王国語などすぐに覚えるだろう。
そもそも森の外に、彼を煩わせるような危険はないはずだ。
あったとしたら、それはエルナリーフの手に余る事態だ。この身は、彼の身体を癒やしてやることもできないのだ。
――いや。
本当にそうだろうか。
なにせ「金など必要ない」と言い切る馬鹿な人だ。生活能力は皆無だろう。
それに異世界人であるから、この世界の常識に明るくない。
例えば、どんな場所にも平然と侵入して、衛兵や、時には権力者とすぐ揉め事を起こすだろう。
心配だ。
話し合いで済めばいいが、もし暴力に発展すれば、相手を蹴散らしてしまうに違いないから、かえって事態が大きくなって、終いには国をひとつ敵に回すかもしれない。
それでも、彼が権威や秩序に屈するところがまるで想像できない。むしろ、たった一人で国をひとつ滅ぼしかねない。
(ああ、とても心配だわ……)
彼をこのまま世に送り出して良いのだろうか。いや、それこそ罪悪だろう。自分こそが常に彼の傍に寄り添い、手取り足取り世の道理を教えてやるべきでではないだろうか!
「エルナリーフ。エルナリーフってば」
「はいっ!?」
エルナリーフが胡乱な妄想からようやく我に返ると、ヒコが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か? 何か物凄く遠い目をしてたけど」
「何でもないわ。でも、あなたの誘いを受けることにしました」
「っしゃ!」
ヒコは歓声を上げて膝を打った。何が嬉しいのか、エルナリーフが見た中で最高の笑顔である。
「た、ただし! あくまで私の目的を果たすのが先よ。その間、あなたには少し、外の世界のことを勉強してもらいます」
「願ってもない。よろしく頼む」
勇者は満面の笑みで手を差し出し、無尽蔵の魔術を紡ぐ稀人の魔女が、その手をしっかりと握り返した。
もし仮に、この世に仇なす何者かが目撃していたのならば、苦々しく顔をしかめたに違いない光景であった。