3.けものすべるひめ
1.
黄金の魔女は、陽光を是とする人柄である。
立地がたとえ暗黒の森の只中であろうとも、採光を諦めたりはしない。ゆえに、魔女の庵の周辺は陽当りが良い。
「ん……?」
差し込む朝日に睡眠を妨げられたヒコは、自分の胸に妙に生暖かい「重し」が乗っているのに気付いて顔をしかめた。
「おい、リュアス。何でここで寝てる?」
いつの間に潜り込んだのか。
ちんちくりんの妖魔の少女が、幸せな顔で寝息を立てていた。
ここは魔女の庵の物置部屋である。
埃っぽい室内に藁と麻布を敷き詰め、それを寝床としている。
リュアスは別室でヴァイユールと一緒に寝ていたはずだし、この部屋はエルナリーフが魔術で「封印」していたはずだが。
「どうやって入ったんだ。効果が切れたのか?」
ヒコはしばし考え込んでいたが、やがてどうでも良くなって寝転がった。すると再び、リュアスがしがみついてくる。
「おまえな……」
呼びかけるが返事はない。寝たふりをしているふうでもないので、ヒコは放っておくことにした。
リュアスも、昨日は色々あって疲れているはずだ。
ヒコは、この少女を守ってやるのが当面の仕事だと理解している。添い寝をしてやるくらいは、その範疇だろう。
もちろん「このちんちくりんが、もう少し女らしい身体してればな」と思わなくもないが、このくらいの子どもに懐かれるのも、悪い気分ではない。
そうしてしばらくすると、不意に扉が開け放たれた。
入ってきたのはエルナリーフだ。気配で分かった。
なので動じることなくゆっくりと身を起こし、朝の挨拶をした。
エルナリーフはちらりとリュアスに視線を送り、しかめっ面で何事か呟いたが、ヒコには理解できなかった。
「そういや、魔術なしだと言葉が通じないんだったな。通訳、起こそうか?」
ヒコがリュアスを指し示しながら話しかけると、エルナリーフは首を横に降って、ヒコの正面に座した。
おそらく通じただろう。その上での行動。
ヒコは得心し、目を閉じた。すぐに、エルナリーフの美しい声が、何事かを朗々と詠唱し始める。きっとあの、話が通じるようになる術をかけてくれるのだろう。
(綺麗な声だな。歌ってるみたいだ)
聞き入っていると、急に意識が遠くなっていった。
(あれ……昨日と感じが違う……)
違和感を覚えたと同時に、ヒコは意識を失った。
ごとん、と横たわるヒコと、呑気に寝息を立てるリュアスを交互に一瞥し、エルナリーフは立ち上がった。
「エルナリーフ! リュアスが居ない!」
血相を変えて駆け込んできたのはヴァイユールである。ヒコの隣で寝息を立てるリュアスを目撃し、とても複雑な表情をした。
「魔術で鍵をかけたんじゃなかったのか?」
「そのはずなのだけれどね。愛の力かしら」
エルナリーフは呆れた声で答えた。
何にせよ、原因の究明は後回しだ。今日はこれから、出かけなければならない。
神殿区に赴き、里長のダイヤーンと話をつけるのだ。
リュアスとヒコを保護すると決めた以上、知らぬ存ぜぬを通すのは無理があるし、里人たちとの関係が悪化するのは、エルナリーフとて臨むところではない。それよりも、まず言葉を尽くして話し合い、彼らを納得させるのが第一であった。
「リュアスはどうする?」
「起こしましょう。お願いできる?」
さすがにリュアスをも拘束するのは気が引ける。というか疲れる。エルナリーフほどの魔術師ならば、いわゆる「魔力切れ」は起こさないが、術を編むのに集中力は必要だ。
「留守番なんて嫌だよ、ぼくもついてく」
目覚めたリュアスは駄々をこねたが、言葉を尽くして説得した。
いま、彼女を里に連れていくわけには行かない。
里人はきっと彼女を拘束しようとするだろう。そのまま幽閉してしまうのが、彼らにとって都合がいいからだ。
そうしたら、間違いなくヒコが動く。
エルナリーフには彼を引き止め続ける自信はない。必ずリュアスを救い出すだろう。そして、里人に少なくない犠牲が出るに違いない。
同じ理由で、ヒコを連れていくわけには行かない。ヒコが一緒ならリュアスの身柄は安全だろうが、里人たちと諍いになるのは目に見えている。
「そういうわけだから、こうするのが一番良いの。庵の結界は完全に閉じてから出かけるわ。ここに居る限り安全だけど、決して外には出てはダメよ。中に入れなくなるわ。ヒコも起こしちゃダメ」
「そんなの退屈だよ~」
「おいリュアス。エルナリーフはおまえのためにやってるんだぞ、わがままを言うな」
「わかったよ……エルナ、ごめんなさい」
「わかればいいのよ。それよりリュアス、あなた、どうやって物置部屋に入ったの?」
「どうやって、って……ふつうに扉をあけて入ったけど?」
エルナリーフは黙り込んだ。
あの扉にかけた魔術は、ごく簡単なものだが強力だ。扉を破壊でもしない限り、中には入れないはずなのだ。
考えられるのは、施術に失敗したか――。
「エルナリーフ、そろそろ出かけよう。早くしないと日没までに戻れない」
「ええ、そうね。ではリュアス、くれぐれも大人しくしていてね」
そう言い残して、エルナリーフとヴァイユールは出かけていった。
夜明けの森は、不気味なほど静まり返っていた。
2.
妖魔という種族は、元から暗黒の森に住んでいた訳ではない。
現在も、彼らの姿は世界中で目にすることができる。もっとも、大多数は奴隷として。娼婦として。その他、盗賊などあまりおおっぴらに出来ない職について、都市の闇に紛れている。
つまり、彼らは虐げられているのだ。
今より百年の昔。
あるひとりの妖魔が、この状況に敢然と異を唱えた。
冥王バルザック。
魔術の秘術、降霊術を極めた大賢者。多くの魔人を従え、魔獣の軍団を率いて、妖魔の自由のために戦った。
だが、彼の望みは打ち砕かれた。
冥王が作り上げた軍団は、王国軍と西方教会、そして戦乙女たちの圧倒的な武力に粉砕され、あえなく瓦解したのだった。
バルザックは、世を何ひとつ変えることなく、ただの反乱分子として処刑された。
そして、彼に付き従った多くの妖魔は行き場を失い、暗黒の森に隠れ住むようになったのである。
神殿区の里長ダイヤーンは、この冥王バルザックの直系の子孫である。彼から数えて7代目にあたる。
だが、冥王の血筋だからという理由で、里長の地位にあるわけではない。むしろ、冥王バルザックの名は、神殿区ではおおむね忌み嫌われている。暗黒の森に隠れ住まねばならなくなった元凶なのだから、無理もない話ではあるが。
とにかく、ダイヤーンが里長となったのは、彼の才覚と努力の賜物である。
年齢は現在33歳だが、幼い頃から理知的で、調整力と判断力に優れる傑物だった。十を越える頃には、すでに大人たちに混じって里の諸問題に取り組んでいたほどだ。
それでいて、性格は極めて温厚で尖ったところもなく、どんな人間にも分け隔てなく接する好人物だった。
そのため、ダイヤーンが里長候補に推挙された際、反対意見はひとつもなかった。
そして順当に、17の時、祈祷師を妻に迎えて里長となった。
不幸はその一年後に起きた。妻が臨月に大きく体調を崩し、そのまま、お腹の子と共に亡くなってしまったのだ。
ダイヤーンは歴代でただひとり、祈祷師を妻に持たない里長となった。もっとも、初代の里長は祈祷師であったので、例外中の例外である。
これはダイヤーンひとりの不幸ではない。祈祷師は、魔獣の脅威に対する切り札でもあるから、その不在は、森の妖魔たちにとって生存の危機に他ならなかった。
ところがダイヤーンは、この未曾有の危機を、己の才覚で乗り越えてしまった。
彼は防人の強化や対魔獣戦術の研究などを積極的に推し進め、神殿区の軍事力を大幅に増強したのである。見事な手腕であった。
結果、現在の魔獣被害は、数だけならば昔よりも減っている。ダイヤーンは祈祷師の不在という苦境すら、己の名声の糧としたのである。
ところが今回ばかりは、ダイヤーンの手にも余る難題になりそうだった。
「まったく、どうして私の代に限って、こうも問題が頻発するのだろうね」
「お察しするわ、ダイヤーン」
慰めの言葉を発したエルナリーフを、ダイヤーンはじろりと睨んだ。
本心からの発言なのかどうか。
稀人の奇跡のように整った、張り付いた無表情から、それは伺い知れない。
ちっ、と舌打ちをしたのは、部屋の隅に控える戦士長ヴィシャールだ。
「それならば、少しは協力してもらいたいものだな」
「あら。協力ならしているわ。祈祷師と担い手の身柄を預かってあげているでしょう。それとも戦士長どのは、ほかに名案があるのかしら」
ぐっ、と、ヴィシャールは唸った。さきほど「異人を殺して、リュアスを幽閉すれば良い」と発言し、ダイヤーンに強く諌められたばかりである。
ヴィシャールの眼光を涼しげに受け流して、エルナリーフは言う。
「本当に、長があなたでよかったわ、ダイヤーン。話が通じるというのは、最も得難い賢者の資質よ」
「光栄だよ、エルナリーフ。だが、私も現状を良しとしているわけではない。くれぐれも、こちらが提示した条件を、かの異人にも納得させてくれ」
「ええ、約束するわ」
会談が終わった。
エルナリーフが里を訪れたのは、ヒコとリュアス、ついでにはなるがヴァイユールの身柄を、引き続き預かることを、里長のダイヤーンに納得させるためである。
成果は上々だった。
提示された条件は次のようなものだ。
まず、ヒコとリュアスが、決して性行為に及ばないよう監視すること。
というのも、リュアスは現段階で、多少変わった力があるだけの無害なただの少女である。
ただし、担い手と定めた男と「契る」ことによって、完全な祈祷師となる。人心を把握し、森の魔獣をも意のままに操る、恐るべき存在となる。
そうなったらもう、担い手以外、誰にも止めることができないのだ。
エルナリーフとて、それは重々承知している。今朝方、ヒコを魔術で眠らせておいたのもそのためだった。
しかしなんと言うか……釘を刺すのも馬鹿馬鹿しいほど「有り得ない」と断言できる。
リュアスは今年13歳になるが、発育は遅く、見た目には十ほどで、その年頃の少年とまるで見分けがつかない。
むろん、そんな少女にこそ情欲を抱く男が存在することも知っている。
だがヒコがそうでないのは明らかだ。彼がリュアスを見る目は、せいぜい歳の離れた妹か、娘でも見るようなものだ。
もうひとつの条件は、かれらの身柄を預かる期限を、リュアスが初潮を迎えるまでとすること。
それまでに、エルナリーフたちは根本的な解決策を模索せねばならない。
つまり、リュアスから完全に祈祷師の力を取り除くか。
もしくは、リュアスの興味がヒコから離れるか。
妖魔たちはそのどれもが不可能だと断じていたが、エルナリーフは何かしら方法があるように思う。ただ、難題なのは間違いなかろう。
どちらも叶わなかった場合。
リュアスは幽閉され、ヒコは森の外に追いやられる。つまり、二度とふたりが出会うことが出来ないよう、里人たちが出来うる限りの手を尽くす。
最悪、ヴィシャールの提案よりも恐ろしく、手っ取り早い手段を選ぶかも知れない。
「エルナリーフ!」
呼びかける声に「はっ」として振り向く。
駆け寄ってくるのはヴァイユールだ。盛大に揺れ弾む胸元が、華奢な身には眩しい。
「話し合いは上手くいったのか?」
「ええ、上々の結果よ。引き続きふたりを庵に置いておけることになったわ」
「それはよかった。ありがとう、エルナリーフ」
「いいえ。でも、期限はリュアスが初潮を迎えるまでよ。それまでに何とかしなくてはね」
ヴァイユールはにやりと笑った。
「なら当分大丈夫だろう。あいつはまな板で毛も生えてないからな」
「いくら幼馴染みでも、そういうことを言いふらすのはどうかと思うわ」
軽口を叩き合いながら、次に向かう先はニマス神殿である。女官長リィンに、会談の結果やリュアスたちの様子を報告せねばならない。
その道中、何やら血相を変えて駆けていく防人を目撃した。向かう先は、どうやら里長の館である。
「慌ただしいな。何かあったのだろうか」
「私たちに関係あることかしら。少し警戒した方が良さそうね」
エルナリーフの言葉に、ヴァイユールは身を固くした。里長のダイヤーンとは協定を結んだし、リュアスが担い手を定めた、という話はまだ箝口が敷かれているはずだが、元よりよそ者を異常なまでに嫌う輩は何処にでも居る。そうした連中の耳に入れば、エルナリーフたちの身柄も安全ではないのだ。
幸いというか。エルナリーフたちの心配は杞憂に終わり、ふたりは無事ニマス神殿にたどり着いた。
会談の様子をひととおり聞いたリィンは、深々と安堵の息を吐いた。
「世話になるね、エルナリーフ。必要なものがあったら連絡しな。遣いの者に届けさせるよ」
「ありがとう、助かるわ。それより、気になることがあるの」
封印の地での銀狼の件と、庵での皇牙竜の件だ。
あれらは明らかに魔術の影響下にあった。つまり、魔術師か、それに準ずる何者かの仕業だ。
「この森に魔術師なんて居ないよ。あんたのほかにはね。もし居たら、あたしが知らないはずがない」
「そういう力を持った魔道具があれば可能なのよ。心当たりはない?」
「そんな物を持ってるとしたらダイヤーンしか居ないね」
「ダイヤーンさまがそんなこと!」
ヴァイユールがいきなり声を張り上げた。それまで部屋の隅で大人しくしていたのだが、何か彼女にとって許容できない話だったらしい。
だが、リィンとエルナリーフの視線を同時に受け「ごめんなさい」と縮こまってしまった。
「ダイヤーンがそういうことをするとは思えないけれど、彼は魔道具の類を所持しているの?」
「実際に持ってるかどうかは知らないよ。ただ、あいつは冥王バルザックの子孫なんだ。遺品なんかは家に伝わってるはずさ」
「なるほどね」
エルナリーフは唸った。妙に勘ぐられたら困ると、この件はダイヤーンには話していない。さきほど確認しておけばよかった、とも思うが、やはり彼には明かさないほうが良い気もする。リュアス――祈祷師の身が危険に晒されていると知れば、折角取り付けた合意を覆すかも知れない。
「あたしもダイヤーンだとは思わないけどね。できるならもっと早くから、里のために使ってたはずさ。あいつは祈祷師に先立たれたばっかりに、随分苦労してるんだ」
リィンの意見には、エルナリーフも全面的に賛成だった。目的が何であれ、ダイヤーンの意志が介在していないのは間違いないだろう。
そうだ。目的がそもそも分からない。
「リュアスの命じゃないのか?」
ヴァイユールが怪訝に言った。彼女はリュアスの守役なので、半ば決めてかかっていたが、エルナリーフもその可能性が一番高いと見ている。だが、何のためにリュアスの命を狙うのかが判然としない。
そもそも、リュアスは常日頃から神殿を抜け出していて、ヴァイユールに連れられエルナリーフの庵にやって来たのも一度や二度ではない。殺そうと思えばいつでも殺せたのだ。それがなぜ今になって?という疑問が残る。
「別にリュアスとは限らないさ。あの兄ちゃんが目的だったかもしれないだろう?」
「……どうかしら」
エルナリーフは考え込んだ。真っ先に疑ったことではある。当然だ。よそ者が突然森にやって来て、それを皮切りに異変が立て続けに起こった。関連していないと考えるほうが不自然だ。
しかし、少なくとも彼は犯人ではない。それは信じてい良いと、今では思っている。では逆に彼が狙われているとしたらどうだ?
それはもっと致命的に不自然なのだ。十年もの間、地獄の地下迷宮を彷徨い続けた異世界人が、この世の誰に命を狙われているというのだ? それこそ、彼の話に出てくる――。
エルナリーフは思わず身震いし、意識を現実に引き戻した。
だが、冷静に考えれば在りえぬことではない。エルナリーフが現場に向かったのも、強力な魔力のうねりを感じたからだ。結局その原因は分からずじまいだが、同じようにしてあの現場に赴いた魔術師がいたかもしれない。
その人物が、エルナリーフより一足早く現場にたどり着き、リュアスたちに――いや、ヒコに遭遇した。そして彼を危険と判断し、銀狼をけしかけたのだろうか。
いや。そもそも、その魔術師こそが、あの強力な魔力異常を引き起こしたのかもしれない。だとすれば、それほどの存在がヒコやリュアスを付け狙っているということになる。
「どちらかと言うと、そちらの方が脅威ではあるわね。私にとっては」
エルナリーフが溜め息まじりに告げると、リィンとヴァイユールは笑い飛ばした。
「ヒコなら大丈夫さ。皇牙竜を素手で殴り倒すようなやつだぞ?」
「ほんとかい? あの兄ちゃん、期待以上の強者だね。安心して孫を任せられるよ」
(そういうことではないのだけれど)
能天気な笑い声を聞きつつ、エルナリーフは複雑な気分になったが、どのみち、この件は保留にするしかないだろう。用心はするとしても、犯人探しをするには情報が少なすぎる。
エルナリーフは頭を切り替え、彼女にとってもっとも重要な疑問を口にする。
「もうひとつ、教えて欲しいことがあるわ。リュアスの〝呪い〟を解く方法よ」
「……あんたまだそんなこと言ってるのかい?」
リィンは呆れ顔で肩をすくめた。だが、エルナリーフの表情は真剣である。
何があっても、生涯唯一人の男だけを愛し、従順につき従う。実に耳当たりの良い話だ。
しかし現実に、そんなことは起こり得ない。有り得るとするならば、何か作為的な力が働いているはずだ。
「祈祷師ってのはそういうもんだよ。昔からね。相手がどんな〝ろくでなし〟だろうと、惚れちまったら一直線さ。初代さまだって、バルザックなんて阿呆のために、こんな里まで作っちまったんだからね」
「リィンさま。それは流石に不遜ではないかと」
ヴァイユールがやんわりと諌言する。冥王バルザックはともかく、その妻であった初代の里長ダーニヤーナは、神殿区の民にとってニマス神に等しい太母である。それを貶める発言は、いくらリィンでも立場を危うくするものだ。
「あたしは初代さまがどれだけ立派だったか、って話をしようとしただけだよ。この稀人の分からず屋にね」
「お言葉だけれど、それも冥王の力があってのことではなくて?」
「いい加減にしな」
「お、落ち着いて下さい!」
にわかに剣呑になりかけた空気を、ヴァイユールはなんとか取り持った。かの冥王の名は、里では概ね忌み嫌われている。魔術が禁忌とされているのもそのためだ。里人に内緒でエルナリーフに師事しているヴァイユールとしては、ひどく居心地が悪かった。
「ともかく、あんたのいう〝呪い〟とやらがあったとしても、それを解く方法なんてあたしは知らないよ。自分で探すんだね」
「そうするわ」
「それとね。あたしは別に、リュアスにこの辺鄙な里に残って欲しいなんて思ってないよ。あの兄ちゃんと一緒に森を出ていくなら、それでもいいのさ」
「呆れたわ。リュアスが心配じゃないの?」
「あの兄ちゃんにも同じことを言われたね。でもお門違いだよ。孫の心配なんてどこに居たってできる。あの子が自分のやりたいことを精一杯できるならそれでいいのさ。この里は……この森は、リュアスには狭すぎるって、あたしは思ってるよ」
エルナリーフは肩をすくめるしかなかった。リィンがこうまで言うのなら、確かにエルナリーフがとやかく言う問題でもない。
「まあ、次来る時はあの兄ちゃんも連れてきな。手出しできない女所帯じゃ色々〝たまる〟だろうから、うちの女官に相手させてやるよ。もちろん、お望みならあたしでも構わないよ」
リィンはこれ見よがしに「ゆさっ」と胸を持ち上げながら言った。
「リュアスにはとても聞かせられない話ね。まあ、考えておくわ」
エルナリーフは眉目をゆがめて応じた。どうも、この里の性文化には馴染めない。
さて、神殿を後にしたエルナリーフとヴァイユールは、里外れの墓場に向かった。
ふたりにとって縁の深い人物を参るためだ。
「母さん、今日はエルナリーフも来てるんだ」
たたずむ墓標に、ヴァイユールが花を添え、祈りの印を結ぶ。少し独特だが、基本的には外のニマス信者と同じものだ。
エルナリーフも、ぎこちなくヴァイユールに倣って、墓標に話しかける。
「久しぶりね、シャイール。あなたが居なくなったせいで、里にも入り辛くなったわ」
そして、慈しむように墓標を撫でた。
ヴァイユールの母シャイールは防人で、竹を割ったような女だった。他所者のエルナリーフにも、とても親しく接してくれたのだが、昨年、里を襲った皇牙竜との戦いで戦死した。
本当に、突然の死だった。
もし戦いの場にエルナリーフがいれば、彼女を死なせることなどなかっただろう。
だが、人の運命はそうしたものだ。そんな悲しみを、エルナリーフは幾度となく味わってきたし、この先も似たようなことがあるだろう。人里に留まり続ける稀人が少ない理由のひとつだ。
だが、エルナリーフはそれを煩わしいとは思わない。シャイールはヴァイユールを残していった。いつか冗談交じりに「魔術を教えてあげて」と言っていた娘を。そして、ヴァイユール本人もそれを望んでいた。人の想いはそうして紡がれていくのだ。
リィンも、リュアスに対して何かしら期待があるようだ。辺境の閉じた森の中ではなく、もっと広い世界を知ってほしいと。エルナリーフが知る限り、リィンは生まれてから一歩も森を出たことがないはずだが、彼女の夫――リュアスの祖父は、外からやって来た男だったと聞いている。もしかしたら、それも関係しているかも知れない。
エルナリーフが物思いにふける中、ヴァイユールはもうひとつの墓標に祈りを捧げていた。
母が生前、よく参っていた人物だ。墓標に記された名は「ユーリィ」。
「そのお墓は?」
「先代の祈祷師だよ。母の代わりに」
シャイールはあまり多くを語らなかったが、生前は親しくしていたらしい。ヴァイユールの話を聞き、せっかくだからとエルナリーフもその墓標に祈りを捧げた。
「では、そろそろ戻りましょうか」
その時、大声を張り上げ、遠間から駆け寄ってくる者があった。
若い防人である。息せき切って、ふたりを探し回っていたようだ。
「ここに居たのか、大変だ」
顔面は蒼白である。尋常でない様子に、ふたりは顔を見合わせた。
「どうした、何があった?」
「封印の地で皇帝竜を見たやつが居るらしい」
「……!」
ふたりは顔を見合わせて絶句した。お互いの顔色が見る見る青ざめていく様子が分かる。
皇帝竜。
その存在は、森の外でも良く知られている。巨大な体躯と馬鹿げた生命力を持ち、王国の討伐隊を何度も退けてきた強力な魔物である。神殿区から遠く離れた東の森を縄張りとし、そこから出ることなどなかったはずだ。
それが森のほぼ中央にあたる封印の地で目撃されたという。尋常でない事態である。
「信じられないわ。本当に皇帝竜なの?」
「それを今から確かめにいく。ダイヤーンさまが、危険だからしばらくこの里に留まるようにと。では、確かに伝えたぞ」
そう言い残し、防人はまた慌ただしく駆けて行った。
「……どうする?」
ヴァイユールが呻くように問いかける。
「あなたは里に留まりなさい。私は急いで庵に戻る」
「待ってくれ。庵にはヒコもいる。ここはダイヤーンさまの言う通り――」
「ヒコは私の魔術で眠っている」
それ以上は何も告げず、エルナリーフは家路を急いだ。
ヴァイユールも、すぐにその背中を追った。
3.
さて、結論から言うと、エルナリーフたちはそれほど急がなくてよかった。
どうせ間に合わなかったからである。
「ねえヒコ、起きてよ」
リュアスはふたりが出かけてからほんの三時間ほどで、退屈を我慢しきれず、言いつけを破ってヒコを揺り起こしていた。
この点について、エルナリーフに落ち度はない。なぜなら、ヒコに施した【昏倒】の魔術は、多少「激しく」呼びかけた程度で解けるものではないからだ。
しかし、ヒコはリュアスが軽く揺り動かしただけで、あっさりと目を覚ましてしまった。
「エルナリーフ……あの性悪女!」
いきなり眠らされ、よほど憤慨したのだろう。が、リュアスが無事なのと、一通りの事情説明を受け、あっさりと溜飲を下げた。
「そういう事情なら仕方ないか。でも、ちゃんと説明してくれりゃ言う通りにするのによ。よほど信用がないんだな」
「ぼくはいつでもヒコの味方だからね」
得意げに宣言する少女の頭を撫でてやっていると、
――ぐぅ。
ふたりは同時に腹を鳴らした。
「メシにするか」
「うん!」
というわけで、ふたりは食料を求めて屋内を探し回ったのだ。ところが見つかったのは、そのままでは食べられそうにない食材ばかりである。そもそも、昨晩の晩餐が、庵の食料の貯蔵をほとんど食い尽くすものであったことを、ふたりは知る由もない。
「リュアス、おまえ料理とか出来るか?」
「ヒコがやれっていうなら努力するよ!」
「OK分かった。おまえは大人しくしてろ」
「いますっごい失礼なこと言った!?」
もちろん、リュアスは彼ヒコをとても信頼している。
でも、別に盲信しているわけではないから、彼がこの件では何の役にも立ちそうにないのは、すぐに分かった。
「うっわ、不味い!」
「ヒコ、その野菜は生じゃ食べられないよ」
「じゃあ、どうすりゃ良い?」
「じっくり煮込んで、そのあと一週間くらい塩漬けにするんだよ。美味しいよ!」
「そりゃ良かったな。機会があったらおれにも食わせてくれ」
実際は、適当に煮るなり焼くなりすれ何とかなるのだが、台所には火種が見当たらない。おそらく、エルナリーフは魔術で火を点けるのだろう。
「ヒコ、火は起こせる?」
「素晴らしい着火装置を持ってたんだけどな。ほかの荷物と一緒に神殿に置いてきたし」
「それなら今日、ヴァイユールが取ってきてくれるはずだよ」
「うわあ、楽しみだなあ」
ヒコはややおざなりにリュアスの頭を撫でた。リュアスはやや不満だったが、どうであれ彼に撫でられるのは嬉しいので、されるがままであった。
さて、実のところヴァイユールの帰りなど待ってはいられない。
ふたりはとりあえず建物の外に出ることにした。
「外には出ちゃダメ、って言ってたけど」
「さすがに家屋の外って意味じゃねーだろ」
ヒコの言う通りだった。ひとまず彼が単独で屋外に出てみたが、中に戻れない、ということはなかった。
だがおそらく、この庵の敷地外に出たら、エルナリーフ無しでは戻ってこれない。結界とはそういうものらしい。「地下迷宮」にも似たような場所があったと、ヒコは語ってくれた。
ともかく、周囲を探すと、さっそく食べられそうなものを見つけた。
「お、キノコだ」
庵の裏に立てかけられていた原木に生えていたものだ。ヒコはそれを一摘みし、しげしげと眺めた。その瞳が、一瞬だけ怪しい色に明滅する。
「昨日から気になってたけど、どうしてヒコの目って光るの?」
「ん……? 光ってるか、おれの目?」
「うん。少し怖いよ。里の人たちが見たら『悪魔だー!』って大騒ぎするかも」
ヒコはしばし考え込んだ後、もう一度瞳を明滅させた。
「もしかしてコレのことか?」
「ひょっとして自分じゃ分からないの?」
「ああ。ずっとひとりだったからな。そっか、これ光っちゃってたかあ」
「それ、何をしたら光るの?」
「うーん。一応説明はしてやるけど、たぶん理解できないと思うぞ?」
そんな前置きをして、ヒコはあれこれと説明し始めたが、リュアスにはさっぱり理解できなかった。
「うん、ごめん。やっぱり分かんない」
「そうだよなあ。面倒くさい制限だな。ま、あんまり気にするな。見てる物が何なのか一目で分かるっていう便利な能力を使ってるだけだから」
「最初からそう言ってくれたらぼくでも分かるよ!?」
リュアスは憤慨したが、ヒコが頭を撫でるとたちまち機嫌を直した。
「まあそういうわけで、こいつは食えるキノコだ」
「食べられないキノコを家の裏で育ててる訳がないよ……」
「魔術的な研究に使うもので、実は毒キノコだったりするかもしれないだろ……お、結構いけるな。ほら、おまえも食え」
「わあ、本当だ。このキノコ美味しいね!」
ふたりはキノコをばくばくと食べ始めた。いや、正確には物凄い勢いで喰らい尽くしていたのはヒコだけで、リュアスは3つ食べただけで腹一杯になり、あとはヒコの食べっぷりを眺めていた。
いつの間にか、原木にびっしり茂っていたキノコは、半分以下に減っている。
「いいのかなあ、勝手にこんなに食べちゃって」
「おまえは食わなくて良いのか? 少食だな」
「うん。ぼくは朝ご飯食べたから、それほどお腹空いて無かったし」
途端、ヒコは信じられないものを見るような目でリュアスを見つめた。
「な、何さ?」
「はあ……リュアス。おまえにはがっかりだ。二度とおれの嫁を名乗ることは許さん」
「ええっ、そんな!」
リュアスは一瞬だけ悲痛な面持ちになったが、よく考えたら一度もそんなものを名乗った記憶はない。
「っていうかひとりで朝ご飯食べただけじゃない。ヒコって実はちっちゃい人なの?」
「おまえはおれの心を抉るのが上手いな。つーか、食い物の恨みは恐ろしいんだぞ。よく覚えとけ」
それは知っていたし、逆の立場ならリュアスも多少は憤慨したかもしれないが、まさかそれだけで三行半を突きつけられるとは……。
「ああ、そうだ」
リュアスは不意に何かを思いついたのか、いきなり尊大に胸を反らし、得意げに言った。
「忘れてるかもしれないけど、ぼくはお祖母ちゃんの孫なんだよ」
ヒコは「ふん」と鼻を鳴らした。それがどうした、と言いたげな態度だ。
だが口にしたのはこんな台詞だった。
「いいだろうリュアス。前言を撤回してやる。大きく育てよ」
「何だろう、すっごいモヤっとする」
「細かいこと気にしてると大きくなれないぞ」
「どこ見て言ってるの……」
リュアスはモヤっとしつつ、ふと家屋の向こう側に視線を移した。
そして戦慄した。
そこには、十頭以上の銀狼が、庵を囲むようにうろついていたのだ。
「ひ、ヒコ……!」
「ん?」
ヒコも気付いて、震えるリュアスを抱き寄せた。
「ど、どどどうしよう?」
「静かにしてろ。結界のおかげか、こっちには気付いてないみたいだからな」
しばらく、ふたりは息をひそめて銀狼の群れをうかがっていた。
ほどなくして、群れの中から明らかに異質な個体が姿を現した。
周囲の銀狼より一回り大きい。そして、毛並みが真っ黒だ。
「な、なんだろあれ……」
「銀狼の親玉だ。ちっ、厄介な奴が出てきた」
瞳を明滅させつつ、ヒコは答えた。曰く、地下迷宮にも居た強力な魔獣だという。数十頭の銀狼を手足のごとく統率し、ありえないほど素早い動きと、尋常でない生命力に加え、炎の魔法まで使う。
「ヒコでも危ない相手なの?」
「ああ、正直あんまり戦いたくないな。結界様々だぜ……」
黒狼が、こちらへ近づいてきた。
ごくり、と喉を鳴らすリュアスの目の前で――。
突然、その姿が見えなくなった。
「消えちゃった?」
唖然としていると、また忽然と、黒狼は姿を現した。今度はこちらに尻を向けた状態である。
「ああ、なるほど。結界の中からじゃこう見えるわけか」
「どういうこと、ヒコ?」
いまいちピンと来ないリュアスに、ヒコは詳しく説明した。つまり、今、この庵の周辺は、外からきれいさっぱり消えてなくなったように見えているという。そう見えるばかりでなく、こちら側に来ようとしても、結界の反対側に抜けてしまう。
一度出たら入れないわけだ。
「魔術ってすごいんだね……」
「そうだな……でもあの黒いの、ここに何かあることは気付いてるぞ」
ヒコの言葉通り、黒狼は何度も変幻し、境界と思しき場所に鼻を立て始めた。
「リュアス、ちょっとここを見張ってろ」
「どこ行くの?」
「剣をとってくる。まさかとは思うが、結界が破られないとも限らないからな」
一人じゃ怖いよ、と発言する前に、ヒコは素早く姿を消した。
大声で呼び戻すわけにもいかない。
リュアスは涙目になりながら、健気に、言われた通り銀狼の群れを見張った。
よくよく観察していると、黒狼以外の個体は身じろぎひとつしない。前に遠間から見学した、訓練中の防人たちに様子が似ていた。整列し、号令を待つ防人たちが、ちょうどあんなふうだったように思う。
というか、何だか「ちょこん」とお座りでもしているようで、微笑ましくすらある。
そんなことを考えていると、不意に声が聞こえた。
『このあたりのはずだが……』
「誰っ!?」
思わず声を上げ、リュアスは「しまった」と口を押えた。
眼前では黒狼が、じっとこちらに視線を向けていた。
再び、声。
『やはり、そこにどなたかおいでか。ご安心を。敵意はござらん』
「あ、あなたが話してるの?」
眼前の黒狼が顎を引いた。頷いているようである。
『念話というやつでござる。そなた様も心得がありましょう?』
念話。ヒコと話が通じることについて、エルナリーフがそんなことを言っていた気がする。
「こ、心得……あるのかな? でも、なんていうか、獣と話すのは初めてで」
『それはそうでしょう。これほど確かな思念を伝えられる、知性溢れる獣は、そうはおりませぬゆえ』
眼前の黒狼が、得意げに鼻を鳴らしたように見えた。
「あなたは何者なの? どうしてここに来たの?」
『話せば長うござるが……』
曰く、黒狼は暗黒の森の銀狼を統べる個体らしい。
獣ゆえ人の暦は知らないが、かなり長い年月、この森の、主に北側を根城にしていた。
さて、同じようにして、森の東側を根城にしている「牙の竜王」という魔物がいる。
だが、それがなぜか森の中央――廃墟の周辺まで出張ってきて、暴れまわっているというのだ。
黒狼は、森の平穏を守るため、これに立ち向かわなければならない。
そこで、この辺りを巨岩の魔神がうろついていたことを思い出し、どうせならあれにぶつけてやれないかと、様子を見に来たらしい。
「うーん……実はそれ、ヒコが倒しちゃったんだよね」
リュアスが気まずい思いで告げると、黒狼は「かっ」と目を見開いた。驚いたようだ。
『何と。あの魔神を屠る強者が居たとは。ならば我らも疾く退散せねば。人の子よ、話を聞いて頂き感謝する。そなた様も重々、お気をつけなされ』
「うん、ありがとう。でもそんなに急がなくていいと思うよ。ヒコはぼくの友達……っていうか、その、未来の旦那様なんだ。きみたちにも、酷いことはしないと思うよ」
そこにヒコが戻ってきた。
彼の目には、リュアスが独り言を言っているように見える。
「おいリュアス……だれとお話してるんだ?」
「あ、ヒコ。聞いて聞いて! この子がね!」
と、黒狼を指差して事情を説明する。
ヒコは最初呆れ顔だったが、全て聞き終えると笑顔でリュアスの頭を撫でた。
「おまえは本当にすごいやつだな」
リュアスは知るよしも無かったが、ヒコはかつて地下迷宮において、魔物の類と何とか言葉を交わそうと苦心したことがあった。彼は元来、好戦的な人柄ではない。避けられる戦いはなるべく避けたかった。
だがすぐに、それが無駄だと思い知った。そして心を殺し、数多の敵を殺戮して、命を繋いできたのである。
そんなヒコからすれば、この少女は憧憬に値する貴い存在だった。
「ヒコ、くすぐったいよ」
何かいつもと違う優しさが、若者の表情に垣間見えた気がして、リュアスは少しこそばゆかった。だが、彼に撫でられるのは変わらず心地良かったので、されるがままであった。
さて、その後はリュアスの通訳を介し、ヒコも会話に参加した。
牙の竜王、というのは、どうもこの森で最大最強の皇牙竜の個体らしい。
王、と言っても、皇牙竜の群れを率いているわけではない。
ただし、とても長い年月を生きていて、皇牙竜にあるまじき知性を持ち、黒狼と念話で会話することもできたという。
また、性格も比較的温厚で、不必要な狩りや虐殺はせず、縄張りを動くことは滅多になかった。
『東の森の向こう側には、人間どもの国がござる。奴等は頭に乗るとすぐに森を侵犯するゆえ、かの竜王の存在は、我等にとっても都合が良かったのでござるが……』
「それが狂ったように暴れまわってる、と」
『然り。わが呼びかけにも応じず、ほとほと困り果てておりまする』
と、そんな話をしている最中、リュアスがうずうずと黒狼に手をかざしている。
――なでなでしたい。
そんな欲求が沸き起こっていたのだ。
「おい、待てリュアス」
制止の声がかかった時には、すでにリュアスの手が結界に触れていた。
ぶぉん。
鈍い音がして、リュアスが触れた部分を中心に波紋が広がった。
「えっ、なに!?」
かと思えば、まるで泡が弾けるように、境界面が光の粒になって霧散した。
(なにこれなにこれ!?)
リュアスは激しく動揺したが、何が起きたかは分かっていた。
「結界が解けたみたいだな」
ヒコが呆れ顔で言った。
それは、眼前で一斉に身構えた銀狼たちと、驚きの思念を伝えてくる黒狼の様子からも明らかであった。
『おお、そのようなお姿でござったか。なんと愛らしい』
賛美されたようだが、リュアスはそれどころではない。
「ど、どうしよう?」
ヒコに助けを求めたが、彼も渋い顔をしている。
「どうしよう、つってもな。何をしたんだ、おまえ?」
「知らないよ、ただ手を伸ばしただけで――」
ズン……ズン……。
その時、遠くから地鳴りが響いてきた。
どうやら、何かとてつもなく巨大なものが近付いてきている。それはリュアスにも分かった。
黒狼のやや慌てた思念が飛ぶ。
『おっと、忘れておりました。わが手のものが、かの竜王めをこの場所におびき寄せる手はずで』
通訳を受け、ヒコは頭を抱えた。
「つまり、もうすぐここに来るわけか」
『左様。ヒコどの、巨岩の魔神を滅ぼしたおぬしなら、かの竜王にも太刀打ちできよう。ここはひとまず共闘とゆかぬか?』
ヒコは苦虫を噛み潰したような顔をした。半ば無理やり巻き込まれた形だ。不本意でも応じるしかない。
「構わんが、ここじゃダメだ。場所が開けすぎてるし、庵を壊しちまう」
ヒコの返事を、リュアスは嬉しそうに通訳した。
『承知。ものどもゆけ、牙の竜王を足止めせよ!』
ウォォオオ……ン!
黒狼が勇ましく咆哮した。
それを受け、控えていた銀狼が一斉に走り出し、森の中に消えて行った。
そんな中、ヒコは「ひょい」とリュアスを抱え上げて、黒狼の背に預けた。
「えっ?」
「おまえも一緒に来い。通訳は任せたぞ」
そして黒狼に語りかける。
「おい黒いの、おまえはそのお姫様を死んでも守れ。それが共闘の条件だ」
リュアスの通訳を受け、黒狼は口元を釣り上げた。
『恐悦至極。では姫、しっかりとお捕まりなされ!』
異郷の剣士と黒き獣は並んで駆け出した。
その背の少女は、混乱の極地にありながらも、湧き上がる興奮を抑えきれずにいた。
4.
防人は二人一組で森を巡回する。
もちろん、すみからすみまで、ではない。暗黒の森は広大である。そんなことをしていたら、防人全員が一生をかけても終わらないだろう。
巡回するのは、神殿区を中心とした、妖魔の生活圏だけである。
封印の地は、通常これに含まれない。
なぜなら、神殿区に隣接する一部を除き、大部分が銀狼の縄張りだからだ。彼らはよほどのことがない限り人と敵対しない。ならば、こちらも下手に刺激しないのが得策というわけだ。
ただし、昨日はこの一角で、何やら不穏な動きがあったらしい。念のためにと派遣されたのは、まだ若い二人組だ。うちのひとり――イークという名の防人が、廃墟の瓦礫の中に、巨大な姿を発見した。
「皇帝竜……っ!」
目にするのは初である。だがひとめで分かった。それが、長きに渡りこの森に君臨し続けてきた、最強最悪の魔獣である、というのは。
なにせ、尋常な皇牙竜の倍では済まないほど巨大だったのだ。
「そんなバカな。皇帝竜は東の森が縄張りだろ?」
相棒は最初、イークの言葉を疑ったが、その姿を目にして絶句した。彼にしても、悠然と練り歩く恐るべき巨竜に関して、ほかに心当たりがなかった。
「おまえは里に知らせろ。あれは俺が見張っておく」
イークは固まる相棒の尻を叩いて走らせ、自分は皇帝竜を追跡した。
決して気配をさとられぬよう、慎重に。ある程度の距離まで近づくと、その巨躯に足がすくみそうになった。
「でかすぎる。あんなものが里を襲ったら……」
ごくり、と知らず喉が鳴る。
ともあれ、イークにできることは、あの巨竜を見失わないことだ。そして決して見つからないこと。一度標的となったら逃げ切れないだろう。そこには死しかない。
震える脚を叱咤し、イークは追跡を続けた。
しばらくすると、皇帝竜の前に銀狼の群れが立ちはだかり、かと思えば、一斉に転身して駆け出した。巨竜もその後を追う。
イークも全力で駆け、後を追った。巨木の影に何度も見失いそうになるが、必死で食らいついた。しかし本来なら、魔獣どもの疾走に人の足が追いつけるはずがない。
それで気付いた。
「あの銀狼ども、逃げているわけじゃないな。皇帝竜をどこかにおびき寄せようとしているのか?」
俄然、興味が沸いた。興奮したと言ってもいい。銀狼はある種の尊敬に値する獣である。賢く美しく、流れるように集団運動し、比較的小さな体躯ながら、ほかの凶暴な魔獣どもを差し置いて、森の支配者として君臨している。
その彼らが、あの皇帝竜に立ち向かおうとしているのか。
これは一生の思い出となる場面に立ち会えるかも知れぬ。イークの少年心が激しく高鳴り、それゆれに、彼の慎重さがほんの少し、ないがしろにされた。
「しまった!」
気付いた時には遅かった。いきなり首を回した皇帝竜と、はっきり、目があったのが分かった。
イークは回れ右し、全力で逃げ出した。振り返らずとも、不気味な地響きで、皇帝竜が追ってくるのが分かる。
「なんてこった。俺の命も今日で終わりか」
それは瞬時に理解した。だが、悪あがきはするつもりだった。彼にできる最良の悪あがきとは、つまり脇目も振らずに走ることである。
それは数秒ともたなかった。
「うぐっ!」
どんな攻撃だったのか。
イークは強い衝撃に弾かれて吹っ飛び、地面を転がった。それは、皇帝竜が軽く鼻先を当てただけの、攻撃とも呼べぬ代物だったが、意識が飛びそうなほどの衝撃だった。
だが、イークも一端の防人ではある。日々の厳しい訓練に耐え抜いてきた強靭な肉体が、何本かの肋骨と引き換えに、彼の命を繋いだ。
しかし、それだけだった。激痛を堪え、何とか身を起こすと、眼前に巨竜の大あごが迫っていた。
そして、信じがたい光景を目撃した。
それは、いきなり現れた二衣重の男が、皇帝竜の頭を、素手で張り飛ばした瞬間であった。
「は?」
イークは間抜けな声を上げて固まった。
それぐらいしか、彼に出来ることはなかった。
さて、いきなり現れた二衣重の男――ヒコ・ヴィシュナス・ジャークノートは、そのまま、体長にして二十メートル、体高にして7、8メートルはあろうかという怪獣と、激しい肉弾戦を繰り広げた。
皇帝竜が長い尾を振り回せば、それを華麗に躱しつつ懐に飛び込む。
それを嫌って頭をかちあげてくる皇帝竜を、いつの間にか抜き放っていた長剣で斬りつける。
しかし、斬撃は硬い外殻に阻まれて刃が立たぬ。
一旦距離を取り、再び突進してきた皇帝竜を、今度は真っ向から掌打で迎え撃った。
ドォン!
轟音と共に、両者が激突した。
さすがに重量差がありすぎる。木っ端のように吹き飛ぶのはヒコの方だが、彼もそれでダメージを負った様子はなく、ひらりと地面に降り立ち、また接近を試みる。
リュアスと黒狼はその様子を、遠間から見守っていた。
『牙の竜王を相手に堂々たる戦いぶり、さすがでござるな』
「うん、ぼくの旦那さまだからね!」
リュアスは上機嫌だったが、当の旦那さまにそれほど余裕はない。
なにせ、最初に不意打ちで横っ面に叩き込んだ掌打こそ、彼の渾身の一撃だったのだ。それが、ただ仰け反っただけでさほど効果が見られない。そのうえ剣も通じないとなれば、いよいよ手立てはない。
「レベル75とは恐れ入ったぜ。地下迷宮の【魔神王】と同じか」
胡乱な呟きを漏らしつつも集中する。ただの化け物退治という意識を、四肢と五感の全てから捨て去る。
唸りを上げて、尾撃が来る。風圧だけで身体が吹き飛びそうな一撃だ。直撃すればヒコとて危うい。
だが、スキだらけだ。再び懐に飛び込み、今度は首の付け根に剣を突き立てる。刃が通れば、そこから一気に切り裂いてやろうという魂胆だ。しかし、「キンっ」と硬質な音を立てて、剣は容易く弾かれる。
(なんて固さだ。どうする? 何か弱点は――?)
地下迷宮での戦いの記憶を呼び起こす。かの地には数多の魔獣が跋扈していた。もちろん、皇牙竜もそのひとつだ。この怪獣があれらと同族だと言うのなら、弱点は――。
「おい黒いの! てめえ確か火が吐けたな!」
ヒコは不意に顔を上げ、大声で叫んだ。黒狼と、その傍らに居るはずのリュアスに向けて。
「――って言ってるけど、本当?」
『なぜそれを……下手を打てば森を焼きかねませぬゆえ、できれば使いたくはござらんが……』
「大丈夫だよ、やっちゃって!」
リュアスは自信満々に断言したが、もちろん根拠はない。
とは言え、ほかに手立ても無さそうだ。黒狼は覚悟を決めた。
『姫、危のうござる。お下がりなされ!』
告げ、黒狼が低く唸る。不気味な旋律だ。まるで、呪文でも詠唱しているかのよう。
呼応して、眼前に巨大な火の玉が現れた。
ウォォオ……ン!
最後にひと鳴きすると、火球が、皇帝竜めがけて発射された。
ドォン!
爆音を上げ、皇帝竜の首元に直撃する。一瞬、そのあたりが激しく燃え上がったが、すぐに沈下し、炎の下から焼けただれた外殻が露わになった。
「でかしたぞ黒いの!」
すでにヒコは飛び上がって剣を振り上げている。狙いは、火球の高温で外殻を溶かした首元だ。
ガキィン!
渾身の一閃は、しかし、首の中ほどで止まった。骨に阻まれたのだ。
「硬すぎるだろ!」
吐き捨てる間に、皇帝竜の巨体が地面をのたうち回った。地面が激しい振動で揺れる。ヒコは巻き添えを避け、いったん距離をとった。
そして、絶望に近い光景を目撃する。
半ばまで切断されかけていた首が、見る見るうちに治癒していったのである。
「自己再生かよ!」
ヒコは瞳を明滅させて吐き捨て、すぐさま攻撃に移る。完全に元通りとなる前に、もう一度、渾身の一閃を見舞うためだ。
が、皇帝竜は素早く起き上がり、大口をあけて咆哮した。
それは音にもならぬ、圧倒的な大気の振動だった。周囲の巨木がしなり、枝葉が折れ飛ぶほどの衝撃だ。
それに足止めされている間に、皇帝竜の受けた傷は、完全に回復していた。
「もう一度だ、黒いの!」
『承知』
再び、黒狼が火球を放つ。しかし、再び皇帝竜の咆哮。それは、火球を跡形もなくかき消してしまった。
直後、皇帝竜は、黒狼めがけて突進した。
「ちっ!」
横合いから踊り出たヒコが、その突進に待ったをかける。横っ面に掌打を浴びせてよろけさせ、続けざまに足に剣を叩きつけ、衝撃で転げさせた。
遠間から見守り続けるイークの目には、体長20メートルはある怪獣を、その身ひとつで投げ飛ばしたように映った。
しかし、皇帝竜にさほどのダメージはない。すぐさま起き上がり、みたび咆哮。これはっきりと耳に届く轟音であった。全ての生物が恐れおののく、王者の咆哮。
黒狼ですら、その威圧に身を縛られてしまった。
『何という……これほどの存在であったとは……っ』
だがその中、平然と立つ人間が居る。
「おれを威圧したいなら、あと5つほどレベル上げて出直せ!」
その場の誰にも理解できない台詞を叫び、ヒコはまた皇帝竜に立ち向かっていく。
そして、もうひとり。
「なんだろう。あの子、すごく苦しそう……」
妖魔の少女は呟き、傍らの獣の、漆黒のたてがみをひとなでした。
途端、黒狼は我が身の自由を取り戻した。
『そなた様は一体……?』
「手伝って。ぼくなら、あの子を助けられるかも」
いっぽう、人と巨竜との「殴り合い」は続いている。
その瞬間のどれを切りとっても、どんな伝説をも凌駕する名場面である。
イークは我を忘れて、それに見入っていた。
その視界に、不意に黒い影が躍り出た。
それは少女を背に乗せた、漆黒の銀狼。いや、違う。おとぎ話に聞いたことがある、伝説の幻獣の姿だった。
「黒天狼……!」
曰く、それは森を統べる獣の王。人を越える知性を持ち、太古の魔法をも操るという。
「何してんだ、下がってろ黒いの!」
ヒコが怒号を上げる。
負けじと怒鳴り返したのはリュアスである。
「ヒコはそのままおとりになってて! この子はぼくが何とかする!」
「何とかっておまえ――!」
止める間もなく、黒狼が皇帝竜に突進した。
目にも止まらぬ素早さというのは、こういうものを言うのだろう。
黒狼は巨竜の尾撃を難なく躱して飛び上がり、背に乗り移って、そのまま頭部まで駆けた。この間、まさに一瞬である。
だが、それを黙って看過する皇帝竜ではない。
すぐさま頭を振り、黒狼を投げ飛ばす。宙を舞う黒い影に、音無しの咆哮を見舞った。
「リュアス!」
強い衝撃で、黒狼の身体が吹き飛んだ。もちろん、その背のリュアスも。ヒコは全力で駆けつけ、少女の身体を受け止める。
そこにわずかな隙が生まれた。
具体的には、皇帝竜が尾撃を見舞うのに十分な隙だ。
「ぐっ!」
重い一撃をまともに受け、ヒコは吹っ飛んだ。だが、腕の中のリュアスだけは死守した。おかげで、一瞬身動きが取れないほどダメージを受けた。
そのほんの一瞬で、皇帝竜の大顎が、眼前に迫っていた。
「ああっ!」
イークは悲鳴を上げた。次の光景は、彼がこれまで目にしたどの場面よりも強烈だった。
巨竜が、二衣重の男の前に傅くように、その場で頭を垂れたのである。
「……やった。あの男が、皇帝竜を屈服させたんだ!」
イークは歓声を上げた。それは誤解であったが、この戦闘の結果を一刻も早く里に報告せねばと、その場を走り去った彼には、知る由もないことであった。
「よしよし。もう大丈夫だよ」
慈しむように皇帝竜の鼻先を撫でているのはリュアスである。その隣には、いつの間にか黒狼がやって来て、「ちょこん」と座している。
「……一体何をしでかしたんだ?」
ヒコが唖然として問うと、リュアスは得意げに答えた。
「魔法を解いたんだよ。この子、それで正気を失ってたみたい」
絶句するしかなかった。解呪の御手、とでもいうのか。どうやらこの少女にそんな力があるらしい、というのは気付いていたが……。
『……礼を言うぞ、妖魔の姫よ』
眼前の巨竜から、強い思念が伝わってくる。
リュアスは微笑んで首を横に振った。
「ううん、そんなのいいよ。それより、もう暴れちゃダメだよ?」
『ははは、これは手厳しい。我も油断しておったのだ。二度と不覚は取らぬ』
牙の竜王ディノボロスが東の森を守護していたのは、冥王バルザックとの盟約によるものだったらしい。
王国の手から、森の妖魔を守るためだ。以来、何度も人間どもの侵攻を退けてきた。ここ最近は、大掛かりな軍による侵攻はぴたりとなくなったため、ただ迷い込んだり、適度に狩りをする程度の人間ならば見逃してきた。
それが、つい先日、念話が使える人間がやって来て、珍しいので話し込んでしまった。気がつけば、妖しげな術をかけられ、正気を失っていたという。
「そいつはどんなやつだったんだ?」
『憶えておらぬ。人の顔は良く分からぬからな。だが匂いは分かる。再び現れたら漏れ無く腹に収めておこう』
皇帝竜は頼もしくも凶悪に宣言し、東の森へ帰っていった。
黒狼はそれを見送ると、配下の銀狼を集め、ヒコとリュアスの前で一斉に頭を垂れた。
『さて、我らも北へ戻りまする。姫、ヒコどの。どうかお達者で。森にてわが助けが必要な際は、いつでもお声をおかけくだされ』
リュアスの通訳を聞き、ヒコはにやりと笑った。
「それなら、いま助けて欲しいんだが」
『ほう。どのようなご用で?』
「なに、おまえの火をちょこっと貸して欲しいんだよ」
未来の旦那さまが、銀狼の王に何をさせようとしているか瞬時に察し、リュアスは通訳するのを一瞬だけ躊躇った。
でも、結局そのまま伝えた。彼女もそろそろお腹が空いていたからである。
○
庵に戻ったエルナリーフとヴァイユールは、有り体に言えば、まず絶望した。
結界が消滅していたのもそうだが、庵の周囲を何十という銀狼が取り囲んでいたからだ。しかも横合いには、解体され腹を開けられた皇牙竜の死骸がある。
よくよく見れば、銀狼の群れが一心不乱に頬張っているのは、その肉であるらしい。
「何だ? 一体何があった?」
初見の衝撃からようやく立ち直ったヴァイユールがうめく。
いっぽう、エルナリーフはもう少し冷静だった。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をついたからだ。ただ焼いただけではなかろう。食欲をそそる良い匂いだ。仔細は分からないが、どうやら香辛料が使われている。
だが、いまは食欲をそそる臭いでも、これが数日もすれば恐るべき悪臭に代わるのを、エルナリーフは知っている。
「あ、ふたりとも。おかえりなさーい!」
元気な少女の声がして、ヴァイユールは安堵のあまりその場にへたり込んだ。駆け寄ってくるのは、間違いなく幼馴染の姿だった。
食事中の銀狼たちが一斉にこちらを向いた。しかし、すぐに食事に戻った。襲ってくるどころか、こちらを警戒する様子もない。
「どういうことか説明していただけるかしら?」
青筋を立てて尋ねるエルナリーフに、リュアスは笑顔で事の顛末を話して聞かせた。
つまり、黒狼に頼まれ、皇帝竜を退治しにいったこと。
でも皇帝竜は魔法で正気を失っていただけなので、それをリュアスが助けてあげた、ということ。
その後、ヒコが不遜にも黒狼に何度も火を吐かせて火力の調節を教え込み、皇牙竜を狩って、その肉を焼き、みなで食べているところ、らしい。
「ヒコってお肉を焼くの上手なんだよ。そのへんで草とか葉っぱとか木の皮とか拾ってきて、一緒に焼くとすっごく美味しいの。地下迷宮でいつもやってたんだって」
開いた口が塞がらないとはこのことである。
エルナリーフもヴァイユールも、それから長いこと無言で立ち尽くしていた。告げられた内容と眼前の状況を整理するのに、ある程度の時間が必要だったからだ。
それを待たず、ヒコはリュアスを呼び戻した。彼女が居ないと黒狼と話ができないからだ。
ひとりと一頭は上機嫌であった。
『やれ、適度に焼いた肉がこれほど美味いとは。わが生涯の無知と空虚を悔いるばかりでござる』
「いやいや、よくぞこの短時間で火力の調節を極めてくれた。ささ、どんどん食え、義弟よ。これはおれたち義兄弟の叡智の結晶だ!」
『やや、これはすまぬ……して兄者、さきほどから物凄い形相で睨んでいるそこの婦人は何者で?』
「ようエルナリーフ。あんたも食うか?」
「いい加減にしなさいっ!」
エルナリーフは怒鳴った。彼女の長い生の中で、おそらく最も大声を張り上げた瞬間であった。
だが無論、か細い稀人の婦人が発したささやかな怒号だけでは、この宴は鎮まらなかった。