2.もりのきふじん
1.
アルドリア暦二○年。
後世にかような暦で伝えられることになるこの年、歴史上で特筆すべきことは何も起こっていない。
後に偉大な千年王国の都として栄えるアルドリアの街も、難攻不落のガイラント城も、この時はまだ影も形もなかったし、聖者カピストルの魂は未だ天上で宿命の日を待っていて、後に世界を席巻する大宗教は原型すら生じていない。
そんな時代の〝お話〟である。
歴史の上で特筆すべきことはなくとも、当然ながら、人々の営みは粛々と続いている。そして「予兆」めいた何かを感じる人々も、少なからず居た。
「やはり。何らかの魔術の痕跡がある……」
封印の地の片隅で瞑想にふける年若い美女も、その一人だった。
ただの美女ではない。とびきりの美女である。
小柄で華奢だが女性らしさに溢れた身体つき、肩口で切り揃えられた淡いシルバーブロンドの髪、眉目は秀麗、肌は透き通るほど白い。ひとたびその姿を目にしたなら、男性ならば一目で心を奪われ、女性ならば嫉妬すら忘れて感嘆の息を漏らすだろう。
しかし、彼女の容姿はなんら特別なものではない。少なくとも「彼ら」の中では。
「この魔力の働きは【使役】――誰かが銀狼を操っていた?」
す、と。目が開く。世にも珍しい金色の瞳が、あたりの光景を映し出した。つまり、延々と連なる古代都市の残骸、その合間にわずかながら覗く自然の荒野。
そして、累々と横たわる銀狼の死骸。
「〝誰に〟けしかけたのかも問題だけれど。どちらも只者ではなさそうね」
秀麗な眉目が微かに歪んだ。銀狼が5頭ともなれば、ただ腕が立つだけの戦士では太刀打ちできない。
「――っ!?」
突然、何者かの気配を感じ、美女は思索を打ち切った。すぐさま周囲を探る。
「誰……姿を見せなさい!」
誰何に応じ、物陰から戦装束の一団が続々と姿を現した。その数およそ二十。全員、暗灰色の肌をしている。
妖魔の防人たちだった。その中に見知った顔を見つけ、呆れ顔で声をかける。
「どういうつもりなの、ヴィシャール。この銀狼はあなたたちが?」
「なんのことか分からんな」
戦士長ヴィシャールは飄々と答え、前に進み出た。
「それよりここで何をしている、黄金の魔女よ。あなたの庵はもっと西だろう」
「不穏な魔力の働きを感じたから調査に来たの。ここで戦闘があったようだけど、あなたは何も知らないの?」
「あなたがやったのでなければ心当たりはない。それより、うちの娘を見かけなかったか」
「ヴァイユールを? いいえ、知らないわ。家出でもしたの?」
ヴィシャールはぴくりと眉を釣り上げた。
「本当か、隠すとためにならんぞ」
「随分な物言いね。魔術師と喧嘩するには、少し兵力が心もとないようだけど?」
金色の瞳が殺気を宿して、防人たちをざっと見渡した。
もちろん、人知を超えた力を操る魔術師と言えど、できないことはある。二十人もの防人に一斉にかかられては凌ぎきれまい。
だが当然、全身全霊で対抗する覚悟である。半数は黄泉の道連れとできるだろう。
美女の気迫に呑まれたのだろうか。幾人かの防人が緊張し、獲物に手をかけた。
「やめろ、おまえたち」
ヴィシャールが鋭くいさめた。
「非礼を詫びよう、黄金の魔女。すまなかった。だが我々も立て込んでいる。わが娘について、何か情報があれば知らせてくれ」
戦士長が合図を出すと、防人たちはまた忽然と、物陰に消えていった。
美女は「ほっ」と息をつき、それから思案した。
「神殿区で何かあったのかしら……」
もしかしたら、この銀狼どもの死骸も、それに関係しているかもしれない。里を訪ねて調査すべきだろうか。
しかし妖魔たちは、異種族たる彼女が「神殿区」に入り込むことを嫌う。下手に介入し、あらぬ疑いをかけられるのも面倒だ。
今日のところは仕方がない。
美女は住処に帰ることにして、銀狼の骸に残る魔力を浄化しはじめた。それなりに強力な魔術の残り香だ。放っておけば、良からぬ輩が良からぬことに使うかも知れない。
「これでよし、と。でも、最初に感じた波動とは異質のものね。結局あれは何だったのかしら」
首をかしげつつも、黄金の魔女は家路を急ぐのだった。
2.
暗黒の森は化け物どもの巣窟だ。
銀狼は、その頂点に君臨する魔獣だと言われている。
しかし、彼らがそう認識されているのは、高い社会性を持ち、つねに群れで行動するからだ。単体の戦闘力でいうなら、これを上回る化け物が何種類もいる。
その中でおそらく最強と目される魔獣を「皇牙竜」という。
二足歩行の亜竜族である。体高は4メートルほどで、全長は十メートルにもなる。鉄をも切り裂く鋭い鉤爪と、岩をも噛み砕く強靭な顎を持ち、馬よりも速く駆ける捕食者だ。表皮はごつごつとして岩のように固く、人の武器では、表面に小さな傷をつけるのが精一杯だろう。
まさに怪物。ふつう、遭遇したら死を覚悟するより他ない。
「なんだ? あの皇牙竜、なぜ襲ってこない?」
緊張に声が震えるのはヴァイユールだ。通訳を受けたヒコは、彼女の背を軽く叩いてこう答えた。
「【威圧】だよ。【虐殺者】のクラス・スキルだ。あいつ程度のレベルじゃ抵抗できん」
「てら……くらっすきる?」
リュアスは混乱した。通訳どころではない。この若者はたまに、わけの分からないことを言う。
「ああ、そうだったな。悪い。簡単に言うならおれの迫力にビビって動けなくなってる。襲ってくることはまずないから安心しろ」
「へえ、ヒコってやっぱり凄いんだね!」
リュアスは無邪気に喜び、通訳のため彼の台詞を復唱する。
それを聞いたヴァイユールは唖然とした。
「信じられない……あれを1体狩るのに、里の防人が総出でかかって死人が出るんだぞ……」
ぼそぼそと呟いていると、ヒコがさっさと先に言ってしまったため、慌てて後を追った。
追手がかかる前に里を脱出し、森の闇にまぎれた三人は、その後、大した危険もなく行軍を続けている。
妖魔は生まれつき、他の生き物に気配を悟られ難い、という特徴がある。
防人としての訓練を受けたヴァイユールはもとより、普段から神殿をいとも簡単に抜け出しているリュアスも、一般的な妖魔より隠密行動に長けている。実はふたりだけでも、暗黒の森という人外魔境を駆け抜けるのにさほど危険はない。
なのでヴァイユールの心配はヒコだけだった。異人である彼が森の魔獣に見つかれば、戦闘は避けられないと思っていたのだ。ところが実際はそれ以前の問題だったようだ。
「あなたなら何とかなると思っていたが、期待以上だ。これなら、魔女の庵まで苦労はなさそうだな」
頼もしい、どこかとぼけた横顔を見ながら、ヴァイユールは思わず微笑んだ。
さて、三人の目的地は「黄金の魔女」なる人物の庵である。
「彼女は稀人の魔術師で、世界の全てを知っている。万が一の時には、あなたとリュアスを連れて彼女のところへ行くようにと、前もってリィンさまから申し付けられていた」
黄金の魔女の庇護下に入れば、里人もおいそれと手出しできない。
それに彼女ならば、この異郷の若者について、何か知ってるかも知れない。
ヴァイユールの説明を聞いたヒコは、やや不満げな顔をした。
何か気に食わないところがあったのだろうか、と理由を問うと、こんな答えが返ってきた。
「リィンは大丈夫なのか?」
「お祖母ちゃんなら心配いらないよ」
リュアスはすぐさま答えたが、内心は複雑だ。惚れた男が自分の家族を心配してくれている、という嬉しさと、幼い嫉妬心とがせめぎ合っている。
ともかく、リュアスの言葉も気休めではない。リィンは里の有力者のひとりだ。滅多なことにはなるまい。
「そろそろ着くぞ」
目的地が近い。ヴァイユールが告げて、しばらくしてからだった。
シャン。
唐突に音がした。
見れば、いつの間にかヒコが長剣を抜き放っている。それは紛れもない異常事態だった。銀狼の群れを相手どった時も、防人たちを一網打尽にした時ですら、彼は結局それを抜かなかったのだから。
切っ先から根本まで、見事に真っ黒な刀身だった。闇に溶け込んでしまいそうなほどだ。
「おまえら、ちょっと離れてろ」
短く告げると、ヒコはふたりから距離をとって構えた。
「出てこいよ。相手してやる」
その呼びかけに答えたのだろうか。闇の中から巨大な姿が現れた。
それは不格好な石細工の戦士、のようなものだった。鎧兜で武装した、高さ4メートルほどはある石像だ。
それが動いている。
「リビングスタチュー? いや、ゴーレムか……レベル50だって!?」
ヒコが意味不明な叫びを発する。その直前、彼の瞳が不気味な色に明滅したのを、リュアスは確かに見た。
「いけない、守護者だ!」
ヴァイユールが叫んだ。
「ヒコ、退いてくれ! そいつはただの門番で、侵入者の敵意に反応するんだ!」
通訳のためリュアスが復唱すると、ヒコはにやりと笑った。
「悪いがそいつは聞けないな。久しぶりにまともな経験値にありつけそうなんだ」
ヒコの行動は素早かった。止める間もなく突進し、石像の足元を駆け抜ける。
ぐらり、と石像が巨体が揺らいだ。いつ剣を振るったのか、片足が膝元から綺麗に切断されている。「ずぅん」と音を立てて石像が地面に崩れ落ちると、ヒコは石像の背中を駆け上がり、その首を跳ね飛ばした。
「……!」
戦慄でも驚愕でもない。ヴァイユールはひたすら唖然とし、その光景を見守っていた。
「危ない!」
叫んだのはリュアスだった。首を失った石像はまるで怯むことなく、豪腕を振るって攻撃してきたのだ。
だが、ヒコも動じない。その攻撃を身を軽くひねってかわした――かと思えば、石像の腕が「ぽーん」と跳ね飛んでいる。肘から綺麗に切断されていた。
「圧倒的じゃないか」
ヴァイユールはうめいた。この男の強さはどうやら、銀狼やら皇牙竜やらを基準とする次元をはるかに超越しているらしい。
その間にも、蹂躙は続いている。ヒコの剣はさらに石像の銅を真っ二つに切断した。切り離された部位が次々に崩壊し、灰燼に帰っていく。
その中で唯一、崩れずに残った部位があった。
「心臓か。まあ人型ならそこだよな」
ヒコが不敵につぶやくと同時に、石像の胸部が見る見るうちに膨らみ、再生を開始した。やがて完全な人型を取り戻すと、今度は両の手に大鎚を構えている。
「そんな、不死身なの!?」
「こういう奴らだ。いちいち驚いてたら身が持たねえぞ」
リュアスの悲鳴に笑顔で答え、ヒコは再び石像に突進する。が、石像はその巨体に似合わぬ俊敏さで手にした大鎚を振るう。今度は簡単に懐に入れてくれないようだ。
「いいねえ、さすがレベル50。再生後は敵の強さに応じた装備になんのか」
見れば、大鎚だけではなく、鎧もより重厚なものに着替えている。再び、ヒコの両眼が不気味な光に明滅した。一瞬のことだったが、これはリュアスだけでなく、ヴァイユールも目撃した。
「防御力が倍になりやがった。今度は簡単に切り刻めそうにないな」
ヒコは胡乱につぶやき、おもむろに剣を鞘に収めた。
「ま、関係ねーけどな」
「危ないっ!」
ヴァイユールの悲鳴。石像の大鎚が、恐るべき速さで振り下ろされた。
どぉん!
地面が揺れ、土砂が爆砕した。とてつもない一撃だった。人の身など簡単にすり潰されただろう。食らっていれば。
「惜しかったな」
ヒコは石像の一撃を軽々と回避した。それだけではなく、一瞬で間合いを詰め、石像の左胸、心臓の位置に両掌を押し当てていた。
「じゃあな」
次の瞬間、「ばこん」と間抜けな音を立て、石像の胸がひび割れた。かと思えば、即座にその巨体が崩壊を始めた。
ほんの数秒の後には、そこにはただ土くれの山だけが残った。
「やれやれ、こんなもんか。レベル60は遠いな」
ヒコはまた意味不明につぶやき、土くれの山から何かを拾い上げた。それは鈍く赤い光を放つ宝石……のようなものだった。表面に細かく無数の亀裂が入っている。
しばらくそれをしげしげと見つめ、興味なさげに放り投げると、ヒコは何事もなかったかのように少女たちのもとに帰ってきた。
「よう、片付いたぜ……どうした?」
怪訝に眉をひそめる。ヴァイユールが険しい表情でこちらを睨んでいたのだ。
「なんてことをしてくれたんだ。あの守護者は魔女の庵を守る騎士だったんだぞ。こちらに敵意がないことを示せば、戦闘は回避できた」
「――って言ってるよ」
リュアスがいまにも泣き出しそうな顔で通訳した。
ヒコは肩をすくめ、何かを言いかけた。
だが、その口が何か音を発する間もなく、彼の身体はいきなりその場に崩れ落ちた。リュアスの悲鳴。それにかぶさるように、何者かの凛とした声が轟いた。
「その男から離れなさい、ヴァイユール、リュアス! 早く!」
ヴァイユールは振り向いた。そこに居たのはよく見知った女性だ。まばゆいばかりの美貌が警戒の色に染まりきり、こちらを鋭く伺っている。
「はあ……」
また、しなくても良い苦労を抱え込んだと悟り、ヴァイユールは頭を抱えた。
3.
始まりは、よく憶えていない。
もう十年以上前の話だ。気がついたら見知らぬ土地に立っていた。
見渡す限りの荒野だ。
見上げれば、真っ暗な空である。しかし、再び視線を落とせば、荒れ果てた大地が地平の果てまで見渡せた。光源など何処にもない。しかし、ヒコは不思議と、あたりを見渡すのに不自由はなかった。
――夢か?
そう思ったのと、何者かの声がしたのは、どちらが先だったか。なにせ十年以上も前のことだから、事実は靄がかかった記憶の遥か彼方で、もはや確認する術もない。
「ようやく目覚めたか、勇者よ」
だが「これ」のことはよく憶えている。
「勇者だあ? おれに言ってんのかクソガキ」
ヒコはことさらに顔面を歪めて「それ」をにらんだ。
彼の常識からして、あまりにも馬鹿馬鹿しい存在だった。見た目は十三、四ごろの少女だ。それが下着同然の薄衣をまとい、膨らみかけの小さな胸をせいいっぱい反らし、尊大にこちらを見下ろしている。
そう、「それ」は宙に浮かんでいた。
背中にたくましく生えた猛禽の如き翼が、浮遊の動力でないのは明らかだった。なにせそれはぴくりとも羽ばたいていなかったのだから。もうひとつ奇妙な点を挙げると、頭頂部に獣のように「ピン」と立った大きな耳がある。
「おぬしの他に誰がいるか。余計な問答をさせるでない。時間は限られておる」
その少女――つまり、歳の頃十三、四で、痴女めいた服装に、背中に飾り物の翼を生やし、頭に獣の耳を付けた少女は、威厳のかけらもないカン高い声で喋った。
「わしにできることは少ない。だが、おぬしなら必ずやこの使命を果たすだろう。勇者よ、魔王を倒せ」
「はあ?」
「これは手向けである。受け取るがいい」
少女がさっと手を振ると、一振りの剣が忽然と現れた。無骨な長剣だ。思わずそれを掴み取ると、純白の刀身が鈍く光を放ち、かと思えば、いつの間にか鞘に収まっていた。
少女は満足気に頷いた。
「うむ。わが目に狂いはなかったようじゃ。剣もおぬしを認めたようだの」
「だから、さっきから何わけの分からんこと言ってんだ。勇者? 魔王? 夢にしたってもうちょっとまともな単語出しやがれ」
「悪いがおぬしの疑問に答えてやる時間はない。これなるは幻。じきに消える。奴等の目を欺くためじゃ。されど、おぬしが正しく歩を進めれば、再びまみえる時も来よう。その時には誓って、おぬしに全てを明かし、できるだけの援助をしよう」
言いながら、少女の姿はすでに闇に溶け込むように消えていく。
「おい待てよ。いくらなんでもこんな剣一本で何をしろって――」
「魔王じゃ。勇者よ、魔王を倒せ。おぬしが元の世界に帰る術は、それしかない」
「フザけろって!」
ヒコは力の限り叫んだ。馬鹿げた少女の姿はすでに掻き消え、跡形も無くなっていた。
途方に暮れた。
ただその場に座り込み、再び何かしらの存在が現れるのを待った。あんな馬鹿げた少女でなくても構わない。ただ、この馬鹿げた光景を夢だと言ってくれる誰か。
明晰夢、というものがあるらしい。夢の中で夢だと気付ける夢。これがそうならどれほど良かったか。ヒコの五感の全ては、眼前の光景が現実だと告げている。
そのまま二時間ほどが経った。
なぜ時間が正確にわかったかと言えば、その時、ヒコの左手首には小さな時計が巻かれていたからだ。彼の世界の装飾品である。時間だけでなく、日付まで分かる優れものだ。もし地上に出るまで所持していれば、妖魔たちがさぞ珍しがっただろう。
さて、ただ待つのに飽きたヒコは歩くことにした。
見渡すかぎりの荒野だ。ひび割れた乾いた地面は平坦で、地平の果てまで同じ光景が続いている。目印になるようなものは何も見えない。方角も分からない。だから、なるべく真っ直ぐ歩くよう心がけた。後ろを振り返れば己の付けた足あとがある。それを指標とした。
それから、半日――つまり十時間以上歩き続けた。
たったそれだけで、もう足は鉛のように重かった。景色は変わらない。のども乾いていたし、疲労も極限まで溜まっていた。ヒコは崩れ落ちるようにその場に倒れ、そのまま寝入った。目が覚めると四時間ほどが経過していた。もちろん、あたりの景色は変わらなかった。
その後もヒコは根気強く歩き続けた。休眠を幾度かはさみ、真っ直ぐにまっすぐに、実に一週間、歩き続けた。人は飢餓状態から、意外と長持ちすると思ったのをよく憶えている。
「それ」に気付いたのは、ついに力尽き、地面に這いつくばる直前だった。
(……あれってもしかして)
視界がとらえたものを否定したくて、ヒコは力を振り絞った。立ち上がってもう一度そちらを見やる。百メートルほど離れた場所に、一筋の線が見える。
そちらに向かって、歩く。最後の力を振り絞って。そして、線の正体に辿り着いた。
「はは、冗談だろ」
ヒコは笑った。それは彼の足あとに他ならなかった。それが何を意味するのか吟味する前に、彼の意識は唐突に途切れた。
第一層【無限地獄】。
のちにヒコがそう名付け、何度も彷徨い続けた地獄の最下層。その記念すべき第一回目は、そうして終わった――。
「――っ!」
ヒコは跳ね起きた。心臓が驚くほど大きく早い鼓動を打っている。
呼吸も荒い。久々に嫌なことを思い出した。かの地下迷宮では、色んなことがあった。その中でも5指に入るほどむかっ腹の立つ記憶だ。
「で。ここはどこだ?」
辺りを見渡す。
彼が寝入っていたのは、意外にも柔らかな寝台である。ほのかに良い香りもする。
小さな部屋には余計な装飾や小物はなく、小奇麗に片付いていて、どこか主の性格が伺えた。ただ寝るだけの部屋、なのだろう。ただただ、安らかに眠るだけの部屋。そのための香りと、静謐な空間、そして寝心地の良い寝台。それ以外に、必要なものは何もない。
「趣向を変えたやり直しか……?」
胡乱に呟き、腕を組んで考え込んでいると「きぃ」と音がした。
「ヒコ!」
扉が開いて、駆け込んできたのはリュアスである。ヒコの胸に飛び込むようにすがりつき、彼を一瞬だけ困惑させたが、ヒコもすぐ彼女を抱き締めて、愛おしげに頭を撫でた。
「そっかそっか。マジで良かった……!」
嗚咽混じりの声だった。今度はリュアスが困惑したが、どちらにせよ彼の抱擁は心地良かったので、余計なことを考えずに思う存分味わった。
「いきなり走り出したからびっくりしたわ」
「リュアス、もしかしてヒコが起きたのが分かったのか?」
続いて、ふたりの人影が入ってくる。
ひとりは見知った妖魔の少女。ヴァイユールだ。弾む息で揺れる胸部が艶めかしい。
そしてもうひとりは――。
「おいリュアス。そこの美人は誰だ。女神か?」
問われたリュアスは、陶然とするヒコの頬を思い切りつねってやった。
どうやら、ここが目指していた魔女の庵らしい。
そしてヒコが見惚れた美女こそが、黄金の魔女その人であった。
「初めまして、異郷の剣士よ。わが姓はレンジィ、名はシュリーン。字はエルナリーフ。わが種族の慣わしで、エルナリーフと呼んでくださいな」
まさしく絶世の美貌である。眉目は秀麗、肌は透き通るほど白く、淡いシルバーブロンドの髪はさらさらと艷やかだ。華奢な身体を包むのは質素なローブだが、それにも関わらず、凛とした立ち姿は気品に満ちあふれている。
それもそのはず、彼女は稀人という種族である。世にも珍しい金色の瞳がその証だ。彼らは彼らであるというだけで美の化身であり、しかもその美を死ぬまで保ち続ける。ゆえに「無限の時を旅する種族」とも言われる。
「事情は聞いたわ。わが弟子ヴァイユールと、その友リュアスを救っていただき感謝します」
また声が涼やかで、まるで音色を奏でているようだった。
「いや。面倒をかけてすまない。世話になるな」
ヒコは極めて真剣な態度で返事をした。必要以上に「きりっ」とした、どこか嘘くさい顔だった。
「あら。あなたの面倒まで見る気はないけれど」
エルナリーフは冷たい声で告げた。通訳を受けたヒコが思わず少女たちを見やると、リュアスもヴァイユールも、それぞれ申し訳なさそうに表情を曇らせた。
実は先ほどまで、ヒコもこの庵に置いてくれるよう、ふたりでエルナリーフを説得していたのだが、成果は好ましくなかった。エルナリーフにしてみれば、リュアスやヴァイユールはともかく、どこの馬の骨とも知れない異郷の男を、女所帯に預かる義理も理由もない。当然と言えば当然だった。
「それはともかく。どうだ、エルナリーフ。彼の言葉は?」
ヴァイユールに問われ、エルナリーフは首を横に振った。
「お手上げね。世界中の言語を修めたつもりだったけれど」
「ではやはり、彼が別の世界からやってきたというのは……」
「それだけで判断するのは早計ね」
不意に、エルナリーフがヒコの前で手をかざした。咄嗟に割って入ったのはリュアスである。険しい目つきでエルナリーフを睨みつけ、かばうように両手を広げる。
「やめないかリュアス」
ヴァイユールが制止の声を上げた。呆れるというより、困惑した様子である。
同じく、エルナリーフも少し動揺していた。
彼女らが知るリュアスという少女は、良く言えば大らかで、悪く言えば適当だ。これほどまでに他人を敵視する様を見るのは、初めてだった。祈祷師の特性が発揮されているかも知れない。「担い手」を害する者は許さない、というところか。
――などというエルナリーフの見立ては、実は間違っている。原因はヒコがしきりに「声まで美人!」とか「やばい惚れる」とかほざくからで、つまりただの嫉妬であった。むろんリュアスは、絶対に通訳してやるものかと心に決めていた。
そうとも知らず、エルナリーフは真摯な態度でリュアスの説得にかかった。
「彼が誰とでもお話できるようになる、そんな魔術をかけようと思うの。協力して、リュアス」
異郷の男と直接会話できるのが、リュアスのような少女だけ、というのは、あまり良い状況ではない。リュアスにとっても負担であろうと、そんな気持ちもあっての提案であった。
だが実のところ、リュアスはまさにそれを危惧していた。
――自分だけが、ヒコの言葉を理解できる。
その特別性を失ってしまえば、リュアスはヒコにとって、邪魔な小娘でしかない。考えるだに恐ろしい事態であった。
「リュアス、通訳」
とは言え、想い人に手を引かれて催促されれば、リュアスは答えざるを得ない。根っからが素直な少女である。
「ヒコに魔法を掛けるんだって。ヒコが、誰とでもお話できるようになる魔法」
リュアスが沈んだ声色と表情とで告げると、ヒコは「ふっ」と笑って、リュアスの頭をわしわしと撫でる。
「別におまえと話せなくなるわけじゃないんだろ? どうなってもおまえは特別だよ。おれの命の恩人なんだからな。違うか?」
途端にリュアスは機嫌を直し、ヒコの胸に顔を埋めて「すりすり」とし、それから笑顔でエルナリーフに道をあけた。
「やってくれ、って」
「……そう、ありがとうリュアス」
言葉を失うほどの変わり様であった。何を言ったかは知らないが、この男はおそらく女の敵だと、エルナリーフは認識した。
警戒しつつ、ヒコの額に軽く触れる。これから行うのは下準備である。魔力を練って、彼の表層記憶から、必要な情報を読み解く。
心や思考を読むわけではない。それにはもっと複雑で危険な魔術を組む必要がある。そうではなく、大抵の人間が最も強く記憶に刻みつけている言葉――真名を知るためだ。
しかし、常ならばすぐに読み解けるはずの名前が、いつまでも浮かんでこない。
(おかしい。この男には名がないというの?)
しばらく粘った結果、これ以上は無駄だと判断し、エルナリーフは直接たずねることにした。
「あなたの本名を教えていただけないかしら。ヒコ、という仮名ではなく」
請われて、ヒコは名乗った。もちろん異語である。発音を追うことも難しい。これが、最初から記憶を探ろうとした理由だ。
「どうだ、エルナリーフ。私たちにはちっとも聞き取れないのだが……」
ヴァイユールが申し訳なさそうに言った。
だが、それどころの事態ではない。ヒコは何度も名乗ってみせたが、それは少しもエルナリーフの記憶に残らなかったのだ。
何か不思議な力の働きを、エルナリーフは感じた。それも、百年の時を生き、魔術師としても高位にある彼女の知識が及ばない力だ。
説明を受け、ヒコはどこか得心がいった、というふうに告げる。
「なるほど。ま、別に名前なんてどうだっていいだろ?」
「そうもいかないの」
なにせこれからヒコにかけようと思っていた魔術には、彼の名が必要なのだ。彼が認め、世界が認める、彼だけの名前が。
ヒコ、という仮の名は、そうではない。あるいは長い年月をかけ、そうなることがあるかもしれないが、今はそうではない。
よって今、「ヒコ」という名を用いて魔術をかけることはできない。
説明しながら、エルナリーフは認識を改めている。この男がこの世のものではないというのは、おそらく事実であろう、と。
「ふーん。文字で書く、ってのはどうだ?」
「あなた、文字が書けるの?」
エルナリーフは驚嘆した。世の常識で、文字が書けるということは、それなりに学のある証拠なのだ。少しだけヒコを見直し、さっそく筆記用具を用意したが、彼が記した文字は初めて目にするもので、しかも画数が多く複雑だった。
「見知らぬ文字でも、正確に記憶できれば術に使えるのだけれど……」
エルナリーフは項垂れた。象形文字の一種だろうか。一つ一つの線の長さも形状も様々で、それらが複雑に絡み合っている。これを正確に記憶し、術に組み込むのは骨が折れそうだった。
「仕方がない、最後の手段よ。ヒコ、あなたに新しい名を贈ります」
ふつう、人はいくつ名をつけられようが、たったひとつしか真名として意識できないのだという。それは通常、時間をかけてゆっくりと定着し、無意識下で自分自身が定めるものだ。
だが、稀人に伝わる名付けの儀式で、それを強制的に書き換える。もちろん、最後の手段というだけあって、不安もある。それをすれば、ヒコは最悪、自分の本名を忘れてしまう恐れもあった。
「いいぜ。格好いいのを頼む」
その説明と提案は、通訳がリュアスという少女であったため、困難を極めたが、結果、ヒコは二つ返事で了承した。
エルナリーフはかえって困惑した。確かに提案したのは自分だが、ヒコの返事は「潔い」などという次元ではない。
「本当に分かってるの? 本名を忘れてしまうかも知れないのよ?」
稀人は確かに、他種族より名を大切にする人々ではあった。だが、彼にとってそれほど軽んじていいものなのか。それはふつう、氏族の繋がりを示し、様々な思い出が宿る、大切なものではなかろうか。
事実、通訳するリュアスの面持ちも不安げである。
しかし、ヒコは再び即答した。
「名乗れもしない名前なんて必要ないだろ。構わねーよ」
「……わかったわ」
苦渋の表情で、エルナリーフは返事を絞り出した。ヒコの気持ちは、彼女には理解し難かったが、いつまでも余計な問答をしているわけにもいかない。
せめて、彼の本来の名と繋がりを持たせることにした。さすれば、彼が元の世界へ帰った時、思い出す手がかりとなるはずだ。
そういうわけで、ふたりはリュアスを通じて話し合いつつ、名前を決めた。
形式は稀人の慣習にのっとることにし、ヒコの元々の名前の、意味だけを抽出し、稀人の言葉に変換する。
「姓は……うーん。武と花っていうか。強さと美しさみたいな感じかな」
ここからヴィシュナスという、荒野に根付く凛と美しい花の名を姓とし。
「名前はそうだな。最初の文字は信じる心? 信頼に足る何か? 最後の文字は男を意味するらしいけど」
ここからジャークノート――「気高き偉丈夫」という名を定めた。
「ヒコ、という名前は、字として引き続き名乗るといいわ。でもその名前、もし森の外で名乗ると恥ずかしい思いをすることになるから、気を付けてね」
「なんで?」
ヒコ。古き言葉で善なる魂という意味がある。森の外――人の世の言葉では「正義感が強くうっとおしい人」を指すらしい。どちらかというと蔑称の類だ。
もちろん名付け親のヴァイユールは不知の事実だったので、慌てて別の字をつけることを提案したが、ヒコは笑って拒否した。むしろ気に入ったようである。
「不都合があれば自分で考え直して。字は、魔術には必要ないから」
ともかく、こうして異郷の若者の名が定まった。
姓はヴィシュナス。名はジャークノート。字はヒコ。
名付けの儀式は厳かに、そこそこの時間を割いて行われた。
エルナリーフによると、魔術とはまた違った技術――というより、信仰による儀式だという。
不思議な感覚だった。終わった後、ヒコの胸中に、ヴィシュナス・ジャークノートという名が、確かに自分の名前として刻み込まれた。
「さて、ここからが本番ね」
エルナリーフは大きく深呼吸してから、「とん」とヒコの胸に手を置いた。
「少し違和感を感じるかもしれないわ。そうね。頭に靄がかかるような感じよ。でも抵抗しないで。気を張ったり頭を振ったりせず、心を楽にして受け入れて……」
リュアスが通訳し、ヒコが頷いたのを確認してから、エルナリーフは朗々と何事かを詠唱し始めた。もともとの美声が、さらに妖しい抑揚をもって響く。
「む……」
ヒコが顔をしかめた。先の忠告通り、急に思考が霞がかった。そればかりか、周囲の音が徐々に小さくなっていき、やがて完全な静寂が訪れる。
そうしてしばらくすると、俯いていたエルナリーフが顔を上げた。
(何だ?)
そう、問いかけたつもりだった。しかし声に出来たかどうかは自信がない。相変わらず一切の音が聞こえない中、エルナリーフが両手を伸ばしてヒコの頭を包み、抱き寄せた。
(は?)
霞がかった意識の中、圧倒的な美貌が目前に迫る。そしてなんの逡巡も抵抗もできないうちに「こつん」と、二人の額が合わさった。
パン!
途端、何かが弾けたような衝撃があって、ヒコは思わず後ずさった。
「どう? 上手くいったかしら」
エルナリーフの声が、確かな意味を伴ってヒコの耳に届いた。ヒコは「ふー」と長い溜息を吐く。安堵のためなのかどうかは、自分でもよくわからない。
どちらにせよ、エルナリーフの魔術は上手くいったようだ。
「ああ、よく聞こえるぜ。そっちはどうだ?」
さっきよりも格段に明瞭となった意識で周囲を見渡しながら、ヒコは答えた。
「すごいぞ! 私にもヒコの言っていることが分かる!」
ヴァイユールが興奮気味に言った。
「成功ね」
エルナリーフは満足げに頷いた後、労わるようにヒコの顔を覗き込んだ。
「調子はどう? どこかおかしなところはない?」
ヒコは軽く頭を振って答える。
「そうだな……妙に頭がはっきりする。血の巡りがよすぎる感じだ」
「そう。特に問題はないと考えてよさそうね」
エルナリーフは自身の胸に手を当て「ふう」と息を吐いた。
「今の魔術は【天開煌】。あなたは今、意味を持つ音なら何でも――言語でも合図でも暗号でも、なんだったら鳥獣の鳴き声でも理解できるようになっている。相手がそれなりの知能を持つなら、逆に理解させることもできる。一時的なものだけれどね」
「へえ。効果はどれくらい持つ?」
「あまり。長くて半日、かしら」
リュアスがあからさまにほっとした。自分の特別性が脅かされずに済んだと思っているのかもしれない。
「……それで、元の名前はどうかしら?」
ひどく言いにくそうに、エルナリーフが尋ねる。ヒコは微笑んで答えた。
「しっかり憶えてるよ。でも確かに、自分の名前って気はしねーな。時間が経てば忘れちまいそうだ」
「……そう。ならせめて、忘れる前にこれに書いて、肌身離さず持っていなさい」
と、獣皮の切れ端を差し出し、小さな「焼きごて」で、元々の本名を刻ませた。そうさせつつ、エルナリーフの手元には、さきほど書かせた記述版があった。
それを気付かれないように見比べる。そうしてエルナリーフは、この男が嘘を吐く時、どんな顔をするのか知ったのだった。
4.
エルナリーフの庵は、暗黒の森の真っ只中に位置する。
周囲は魔獣どもの領域である。エルナリーフは魔術で結界を張り、守護者を守衛とすることで、ここが彼女の「縄張り」だと森の魔獣どもに示してきた。
その守護者が倒されてしまった。
長年の研究で改良を重ねてきた、虎の子の守衛である。代わりはすぐに用意できない。
もちろん、居なくなったからと言って、すぐに魔獣どもが大挙して押し寄せてくるわけでもない。それにしても頭の痛い問題である。
「責任はとってもらうわ」
「ああ、任せとけ」
こんな事態を引き起こした張本人――ヒコ・ヴィシュナス・ジャークノートは軽々と即答した。
あまりにも軽々しすぎて、本当に事態を把握しているかは疑わしい。
「ヒコ、セキニン取るってどういう意味?」
リュアスが眉を吊り上げて詰問する。ヒコは事も無げに答えた。
「おれに用心棒代わりをしろってことだろ?」
「全然違うわ、そんなのお断りよ。しれっと居着こうとしないで頂戴」
「それじゃ、どうすればいい?」
「新しい守護者を用意するのに、少し危険な場所へ行かないといけないの。それを手伝ってもらいたいのだけれど」
「もちろん。壊したのはおれだしな。どこへだってついていくぜ」
この返事も呆れるほど逡巡がない。エルナリーフは正直、この男を測りかねていた。
本当はもっと腰を据え、一対一で語り合い、為人を把握したかったが、彼の傍からはリュアスが片時も離れようとしない。彼女は祈祷師としての特性があるから良いとして、ヒコの方も特に邪険に扱ってないから、引き離すのは難しそうだった。
(この男、もしかして幼児性愛者なのかしら)
エルナリーフは失礼極まりない懐疑をかけたが、それもなさそうだ。ヒコがリュアスを見る目は、せいぜい妹か、ともすれば娘を見るようなものだった。
何か、守るべき対象として認識しているのだろうか。そんな気配は感じる。
(悪人ではない、と思うけれど……)
ともかく、新しい守護者を用意してからだ。彼を保護するにせよ、里へ引き渡すにせよ、その後に改めて判断することにして、ひとまず食事を取ることになった。
食卓に並ぶのは、もちろん、全てエルナリーフが用意したものだ。ほとんどが野菜か野草、もしくはキノコや果物である。
「肉が少ないな?」
「嫌なら食べなくても結構よ」
不躾なヒコにそっけない言葉を返したが、エルナリーフは別に菜食主義に偏っているわけではない。ただ単に肉の貯蔵が少なかったというだけである。ふだんはひとりで生活しているので、急な来客を満足させる蓄えなど、元々ないのだ。
「ま、明日からはおれに任せろ。狩りと精肉は得意なんだ」
「そう。勝手にすればいいわ。私の知らないところでね」
妙に張り切って告げるヒコに、冷たく応じる。まだ彼をここに置いておくと決めたわけではない。
「ぼくも手伝うよ!」
元気に告げるリュアスは、あまり食が進んでいない。育ち盛りの少女である。食欲がないわけでも無かろう。
「まず目の前の食べ物を片付けてから言え。このお子様舌め」
お目付け役たるヴァイユールが、リュアスの好き嫌いを目ざとく非難した。それを皮切りに、食卓は騒がしくなったが、しばらくすると一斉にみなが静まり返った。
「何か聞こえない?」
真っ先に口を開いたのはリュアスである。だが、ほぼ同時にみな気付いている。種族柄であれ経験上であれ、もしくは何か特別な手段であれ。食卓を囲んだ4人が4人とも、敵の気配に敏感だった。
「皇牙竜ね。まっすぐここに向かっている」
最も精度が高かったのは稀人の魔術師だった。すぐさま席を立って外に出る。みな後に続いた。
「おい、おまえらは中にいろよ。危ないだろ」
「ヒコがいるから危なくないよ?」
「皇牙竜ならあなたの敵じゃないだろう?」
妖魔の少女たちがそろって呆れ声を出したので、ヒコは早々に説得を諦めた。
外はすでに日も沈み、真っ暗闇である。
その中、確かに巨大な生き物が近付いてくる気配がある。
「どうする?」
「追い払うわ。お任せできるかしら?」
「皇牙竜、ってやつなら仕留めようぜ。あいつの肉は旨いからな」
「あんな巨大なものをここで殺されたら、死骸を片付けきれないでしょう。腐ったら臭うじゃない」
「焼けばいいじゃねーか」
「焼いたら焼いたですごい臭いがするの。あなた、私の住処にそんなに悪臭をつけたいの?」
「了解、了解。追い払うよ」
ヒコは肩をすくめ、闇の中に目を向けた。長い迷宮暮らしで夜目は利くので、視界に不自由はない。ほどなく、そこに巨大な影が浮かび上がった。体高4メートル以上の獣脚類。エルナリーフの見立て通り、皇牙竜の姿だった。ここへ来る途中に見かけたものより大型である。
「まずは威圧、と」
ヒコはぼそりと呟き、皇牙竜の前に立ちふさがった。しかし、魔獣の歩みは止まらず、それどころかヒコめがけて突進してきた。
「ん? おかしいな」
瞳を妖しく明滅させつつ、ヒコは首を傾げた。だが、迫り来る皇牙竜を前に剣も抜かず棒立ちになり、その場を動こうとしない。
「何をしてるのっ!」
怒号と悲鳴が上がる。続いて、眼前に突然、強い閃光が走った。
「うげっ!」
ヒコは強光をまともに浴びて、激しく目を焼いた。だが、皇牙竜も同じである。のけぞるようにして歩みを止め、忌々しく咆哮する。
エルナリーフが唱えた【精霊煌】の光であった。初級の魔術で、目眩ましに使う術である。だがその規模も強さも、ヴァイユールがラーカセリアで用いたものとは比較にならない。
「そこを退きなさい、邪魔よ!」
エルナリーフはヒコを役立たずと断定し、自ら前に進み出た。そのしなやかな指先と、艶やかな口唇が、印と呪文で魔術を紡ぎ始める。
「天星劔!」
発動とともに、エルナリーフの左手に図太い光の束が現れた。長さ5メートルはある巨大な剣のようなものだ。
それを、皇牙竜にぶつける。魔獣は殴り付けられたかのように強い衝撃をうけ、地面を転がった。
「このっ、さっさとここから去りなさい!」
同じようにして、何度も皇牙竜を打ち据える。一方的であった。だが、これでも加減はしている。彼女が手にした「光の剣」は、その気になればこの魔獣を一刀両断にすることも可能なのだ。
今やっているのは、いわばみねうちである。もちろん情けでも何でもなく、ここで死なれると困るからだった。
だが、皇牙竜はすきを見て素早く起き上がり、エルナリーフに突進した。
「くっ!」
何とか地面を転がって難を逃れる。おかしい。いつもなら、とっくに尻尾を巻いて逃げ出しているのに、この皇牙竜はまるで戦意を失っていない!
「くそっ、どうなってる? 何も見えねえ!」
ヒコは未だ、潰された視界が回復していない。かわりに、ヴァイユールが状況を説明する。
一度立ち上がってから、皇牙竜の動きが明らかに変わった。エルナリーフをただの獲物ではなく、恐るべき敵だと認識したのだ。エルナリーフの思惑通りであれば、ここで逃走を図るのが獣の本能なのだが、皇牙竜は注意深く様子を伺いながら、スキを突いて攻撃をしかけてくる。
エルナリーフは素早い動きで立ち回り、巨大な光の剣を上手く使って牽制しているが、相手が注意深くなった分、こちらの攻撃を当てるのも難しくなった。
だが、そんな状態に陥ってもなお、エルナリーフには殺意がない。亜竜族の腐敗臭は、本当に鼻をくり抜いて捨てたくなるほど不快なのだ。そんな事態だけは避けたかった。
「ちっ。エルナリーフ、そいつは【闘争】状態だ。逃げるなんてありえねーぞ、できるんならさっさと仕留めろ!」
「何なのそれは!?」
エルナリーフは叫び返した。全く理解できない。今のヒコの言葉は、彼女の魔術によって、聞く者に強制的な理解を植え付けるはずだ。初めて聞く言葉、知らない概念であっても、聞くだけで分かるはずなのだ。だというのに、内容が少しも頭に入ってこない。彼が本名を名乗った時のような、不思議な力の働きを感じる。
「あーもう、面倒臭え制限だな!」
ヒコは胡乱に叫び、頭をかきむしった。
「何かに操られてるか、それとも脳のタガが外れちまったか。とにかく極度の興奮状態なんだよ! もう殺すしかねーんだ!」
(なるほど、ね)
エルナリーフは大きく飛び退いて、「光の剣」を解除した。空いた手で、別の魔術を紡ぎ始める。
ヒコの言葉通りならば、逆にこちらが操ってしまえばよい。あの魔獣の精神を侵食して支配下に置き、強制的に興奮を抑えつけるのだ。支配系魔術は得意ではないから、紡ぐのに少々時間がかかるが――。
「あぶねえ!」
「くっ!」
魔術の完成を待たず、皇牙竜の大顎が迫る。エルナリーフは間一髪のところで躱した。再び距離をとって詠唱を再開する。だが、皇牙竜はすぐさま、それを阻止せんが如く突進してきた。
ところが、今度の魔術の発動は速やかだった。
「暴撃陣!」
ガツン!
と、見えない何かが巨獣を横殴りに弾き飛ばした。それは高密度の空気で瞬間的に衝撃を生む魔術で、まともに食らった皇牙竜は為す術もなく、地面をごろごろと転がった。
そのスキを逃さず、エルナリーフは再び詠唱に入る。今度こそ【使役】の魔術だ。
それは、皇牙竜が起き上がると同時に完成した。
「喰らいなさい、月惑煌!」
淡い青色の光が、「ぽう」と皇牙竜の巨体を包んだ。
しかし。
皇牙竜はそれをもろともせず、凶暴に咆哮しながらエルナリーフに向かってきたのである。
「私の魔術を耐えたというの!?」
驚愕のあまり棒立ちになる。魔獣ごときにそんな能力があるとは信じ難い。可能性があるとすれば、エルナリーフの魔術よりも強力な【使役】が、もとからかかっていたか――。
「エルナリーフ!」
悲鳴があがった。失策だ。気づいた時には、すでに皇牙竜が大口をあけて眼前に迫っていて――。
バコンっ!
いきなり、魔獣は間抜けな音とともに横倒しになった。「ずざあ」と己の突進の勢いのまま地面に擦られる皇牙竜の姿を、エルナリーフは呆然と見つめていた。
何があった?
いや、しっかりこの目で見ていた。だが、脳が理解することを拒んでいたのだ。
「治った、あとは任せろ」
つまり、眼前に悠然と立つこの男が、こともあろうに素手で、皇牙竜の横っ面を殴り飛ばしたのだ。
呆けるエルナリーフをさておき、ヒコはこきこきと首を鳴らした。
「さて。来いよクソトカゲ、叩きのめしてやる」
その啖呵に答えたのか、皇牙竜は激しく咆哮し、そして全身全霊をもって、己に比べてあまりにも小さい敵に襲いかかった。
尾を振るう。森のどんな獣も薙ぎ払う一撃だ。あるいは鉤爪を払う。巨木すら切り裂く斬撃だ。あるいは己の巨体をぶつける。相手は小さい。ひとたまりもないはずだ。
だが、当たらない。小さな敵はこともなげに身をかわして逃げる。おかしい。己も全力で走っているはずだ。だが、半身でぴょんぴょんと飛び跳ねる敵に追いつけない。
気がつけば、皇牙竜は先ほどの場所よりも、随分離れた場所に移動していた。
「女神さんは不殺生がお好みらしいが」
不意に、小さな敵が立ち止まった。
「ま。ここまで来れば臭わないだろうし」
シャン、と音がした。
とてつもなく耳障りで、不吉な音色であった。
5.
それからは別段、特筆することもなかった。
ヒコは仕留めた皇牙竜の肉を適量、切り分けて持ち帰った。魔女は呆れながらもリクエストに答え、客人たちに肉料理を振る舞った。これは思った以上に好評だったので、エルナリーフも少し気を良くした。
しかし夜もふけると、やはり死臭が漂ってきたので、ヒコに文句を言った。
「全然臭わねーよ。神経質なのか?」
「失礼ね。あなたが鈍感過ぎるだけよ」
そんなやり取りの後、ふたりで皇牙竜の死骸の前へ行き、魔術の炎でこれでもかというくらい消し炭にした。その後、エルナリーフは更に魔術を駆使して付近の風の流れを変え、悪臭を庵から遠ざけた。ヒコが呆れを通り越して関心するほど、徹底した手際だった。
処理が一通り終わると、ヒコが唐突にこう切り出した。
「で? おれに何か話があるんだろ?」
エルナリーフは内心で舌打ちをした。思ったよりもカンの鋭い男だ。獣の死臭が気になったのは本当だが、いまは少女たちの姿もなく、この男の腹を探るいい機会だと、そう思ったのも事実だった。
こほん、と誤魔化すように咳払いし、エルナリーフは告げた。
「この皇牙竜は魔術で操られていた可能性が高いわ」
「何のために?」
「意図はわからないけれど。封印の地で銀狼をけしかけた輩と同じでしょうね」
「里の連中か?」
「どうかしら」
里は15年もの間、祈祷師の不在ため、魔獣被害に苦しんでいる。昨年も、まさに皇牙竜の被害によって数人の死者を出したばかりだ。
ゆえに、今回の皇牙竜を操っていたのが神殿区の関係者だというのは、目的が何であれ不自然である。
「ヒコ。あなた、何か知ってるのではなくて?」
世にも珍しい金睛が鋭く射抜く。この男に魔術の心得がないことくらい分かる。推察ではなく結論だ。エルナリーフほどの魔術師ともなれば、魔力の流れを読み取って、そのくらいのことは分かるのだった。
しかし、どうもこの男はただの剣士ではなく、エルナリーフも知らない不思議な力を持っているらしい。皇牙竜が尋常でないと見破ったのも、その力の一端だろう。
あるいは、最初からそれを知っていたか。
「おれを疑ってるわけか」
「そうなるわね」
ヒコは気分を害したふうもなく、腕を組んで何事か考え始めた。
「どうしたの。何か言ったらどう?」
「いや。あんたの気持ちは分かるよ。ようやくまともな反応されて嬉しいくらいだ。ガキどもにしてもリィンにしても、何でかおれを疑おうとしない」
エルナリーフは身を固めて、魔術を編む用意をした。
「まあ待てよ。仮に犯人がおれだとして、どうしてそんなことをしなきゃいけない?」
「さあね。ピンチを演出して救ってやることで、みなの信頼でも得ようとしているのかしら?」
「頭の悪い方法だな。ま、あんたから見れば、おれはそんなことをやりかねないわけか」
「いいから答えなさい」
「もちろん違うし何も知らんが、あんたはおれが信じられないわけだろ?」
エルナリーフは黙り込んだ。ヒコはそれを一瞥し、再び何事か考え込むように、目を閉じた。
しばらくして紡ぎ出した台詞はこんなものだった。
「質問なんだが。あんた、魔術とやらでおれの記憶とか心を読むことができるか?」
エルナリーフは一瞬答えに窮した。真名などの簡単な情報を読み解くならともかく、意図的に隠している記憶や感情などを読み解く魔術は、どれも対象の人格を破壊しかねない、危険なものなのだ。
「……あなたの命を考慮しなければ可能よ」
絞り出すように、エルナリーフは答えた。
ヒコはにやりと笑った。
「いいね。それをやってくれ」
即答であった。エルナリーフは絶句し、彼の目を見た。少し赤みがかった黒い瞳。
そこには一点の曇りもない。
この男は何を言っているのだろう、と思った。そして、なぜそんな笑顔でいられるのだろうか、と。まったく理解できない。とても正気とは思えない。
エルナリーフは深呼吸し、何とか自分の心を落ち着けてから、説明した。
「他人の記憶を探る魔術はいくつかあるけれど、どれも危険なものなの。対象はよくて白痴化するか、最悪、命を落とす。脅しではないのよ」
「でも、おれの無実は証明できるわけだろ?」
「その場合、私は無実の人間を殺すことになるわ。冗談じゃない!」
最後は悲鳴に近かった。ヒコは困ったような顔で、ぼそりとこう呟いた。
「それじゃあもう、こうするしかないな」
そして、深々と頭を下げた。
「頼むエルナリーフ。おれを信じてくれ」
「なっ……」
「おれはリュアスを託された。正直、娶るだの何だのは考えられないけど、それでもこの森にいる間はあいつを守ってやるつもりだ。だからあんたがリュアスの味方である限り、誓ってあんたを傷付けない。信じてくれ」
エルナリーフはしばし、黙ってヒコを見つめた。姿勢を正して両脇を締め、こちらに向かって丁寧に腰を折り、深々と頭を下げている。見慣れぬ所作であったが、無防備な姿勢だ。エルナリーフに殺意があれば、すぐにでもこの男の命を奪えるだろう。
だが、ヒコはその姿勢のまま微動だにしない。そこからはただ、真摯な想いだけが伝わってくる。
稀人の美女は不意に「ふう」吐息した。
「……分かったわ、顔を上げなさい」
「信じてくれるのか?」
「そこまでされては、ね」
「ありがとう」
諦観と共に告げると、ヒコは嬉しそうに笑った。エルナリーフは不覚にも「どきり」としてしまった。
それから、色々と話をした。
主にお互いの身の上話のようなものだ。エルナリーフは森に来る以前、世界中を旅して回っていて、その知識はまさにヴァイユールをして「何でも知っている」と言わしめるのに充分なものだった。
だが、ヒコの話――かの地獄の地下迷宮での冒険譚はそれ以上だった。エルナリーフは世界中を旅して回っただけあって、好奇心が旺盛であり、そういった類の話に目がなかった。
そうやって話し込み、気がつけばうっすらと空が白ずんでいる。
「戻りましょうか。仕方がないから、リュアスが居る間はあなたの滞在を認めてあげるわ」
「まだ認めてなかったのかよ。でもま、感謝するぜ」
「妙な真似をしたらすぐに追い出しますからね」
「妙な真似ってどんな真似だよ」
「あなたがいつも女性に対して妄想しているようなことよ」
「人聞き悪いな! 何言ってんの!?」
「もちろん、リュアスにも手出しはさせませんからね」
「ねーよ! おれを何だと思ってんだ!」
ぎゃあぎゃあと騒がしく、早朝のまだ薄暗い森を歩く。
完全に日が登るには、まだまだ時間がかかりそうだった。