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ブレイブソウル  作者: 竜王零式
第一部【暗黒の賢者】編
3/8

1.かのものきたる

1.


 アルゲンティナの北西部には広大な森林地帯が広がっている。

 人々が〝暗黒の森〟と呼んで忌み嫌う【この世果てる処】の一つである。樹齢千年を超える霊樹が延々と立ち並ぶ光景は、眼前とした人間に等しく畏敬の念を抱かせる。

 ――この場所こそが、この世とあの世の狭間に他ならないのだ。そんな認識が、ごく自然に生じるほどに。

 しかし、いつの時代、どのような場所にも例外はある。こんな途方も無い辺境の地にも、どっしりと根を下ろし、逞しく生きる人々がいる。

 例えば、

「やっほー!」

 時の声を上げ、疾駆する幼い少女と。

「待たないかリュアス!」

 大声を張り上げ、必死に追いすがる年長の少女。

 ともに妖魔バヌトゥと呼ばれる種族である。

 肌は暗灰色、髪は漆黒。そして瞳は深い青。男は細身細面で、しなやかに強く均整の取れた身体付きと、透明に低く響く美声を持つ。女は総じて唇が厚く、切れ長のつり目に大きな瞳、細く綺麗に伸びた四肢ときゅっとしまった腰つき、たわわに実る胸元と外形の良い上がり尻をしていて、肌は上等の絹よりも細やかだと言われている。

 男は天性の詐欺師、女は生まれついての娼婦――森の外ではそう揶揄されることもある彼らだが、リュアスと呼ばれた10歳かそこらの少女については、さすがにその才能が開花する前で、同年代の男児と見分けるのが難しいほど凹凸がない。

 いっぽう、後を追う年長の少女は、名をヴァイユールといって、今年十六になる。こちらはリュアスと違い、肉体的にはほぼ成熟しかけていて、特に目覚しい成長を遂げた胸元のふくらみは、これでもかと揺れ弾み、十日前に新調したばかりの胴衣に悲鳴を上げさせている。

「待てというに! おいっ、リュアス!」

 そういうわけだから、ヴァイユールは他ならぬ自分自身の成長の結果によって、その走力を大きく阻害されている。胸部が激しく揺れるため息切れも早い。もし、リュアスが本気で逃げに徹していたなら、とっくにその背中を見失っているだろう。

 とはいえ、すでに危険区域に足を踏み入れている。周囲には、群立する巨木の合間から、苔むした、明らかに人工物と思われる瓦礫がいくつも覗く。そんな光景が、あたり一面を埋め尽くしている。

 何があるかくらいは知っている。

 ヴァイユールとて、子供の時分に何度も遊びに来た場所である。だが、大人たちは今も昔も、子供たちがここに近寄るのを危惧していて、現役まっただ中のリュアスと違い、ヴァイユールは大人たちに組せねばならぬ年頃である。リュアスが危険区域に立ち入るのを黙認したとなれば、ヴァイユールも叱責を免れないのだ。

 大体、リュアスも少しは大人しくなって良い年頃だ。見た目はどうあれ、彼女はもうじき13歳になるのだから。

「っとに、まったく、おまえってやつはーっ!」

 ついに瓦礫の彼方にリュアスの姿を見失い、ヴァイユールは怒鳴った。そして周囲に横たわる古代遺跡の巨大な残骸に、思わず足を止め、息を呑む。

 封印の地ラーカセリア。

 暗黒の森が「まっとうな」人間を寄せ付けない最大の理由。神代の終わり、世界に反逆した一柱の魔竜ドムーグが、一夜にして滅ぼしたという巨大な都市。そしてこの近辺には、光の神々と勇者たちの手によって、数多の悪鬼羅刹が封じられた、地獄の地下迷宮の入り口があると伝えられる。

 ヴァイユールは身震いした。たとえ妖魔と呼ばれさげすまれようとも、人の世を追われて暗黒の森に隠れ住むことになろうとも、越えてはならぬ最後の境界――。

「ヴァイユール、早く来て!」

 突然の悲鳴。ヴァイユールは弾かれたように動いた。

「どうしたっ、リュアス!」

 巨大な瓦礫の間を縫うように走り抜け、妹分の無事な姿に一安心し、それから、ヴァイユールは目を見開いて驚愕した。

「誰だそいつは!」

 リュアスの足元には、見慣れぬ若者が倒れこんでいたからだ。

「どけリュアス、そいつに近寄るな!」

 ヴァイユールは大慌てで駆け寄り、リュアスの手を引き、後ろ背にかばった。

 妖魔バヌトゥではない。一目に分かる異人である。

 髪はやや赤みがかった黒、肌は雪のように……つまりほんとんど血色が感じられぬほど白い。そのくせ身体付きはがっちりとしてたくましく、「病弱」という言葉からは程遠い。

「外の人間……か? なんでこんなところに」

 戦士……であろうか。腰には無骨な長剣を佩いていたし、両の手に手甲を、足には厚皮の脛当てをしている。

 その他に鎧片の類はない。上衣はただの布服のようだし、下履きは厚手で、ところどころ鋲打ちされているものの、やはり素材は綿布の類であるらしかった。

 戦装束というには軽装に過ぎる。こんな格好で戦場に立てば、五分と生きていられまい。

 だが、若者の風貌には、どこか鋭利に洗練された印象がある。つまり、彼はもっと限定的な場所を戦場としていたのではないか。例えば、どんな強固な鎧も何ら意味をなさない、そんな危険が充満しているような。

「死んでいるのか」

 若者はぴくりとも動かない。森の外の人間は妖魔バヌトゥのような黒い肌を持たないと、大人たちから聞かされてはいる。だがそれにしたってこんな、死人のような色ではあるまい。

「生きてるよ。でも、かなり弱ってる」

 リュアスはヴァイユールの手を引いた。上目遣いの、何かを訴えかけるような視線。

 長い付き合いだ。それだけで、彼女が何をしたがっているのかが分かった。

「駄目だ。馬鹿なことを考えるな。こいつはわたしが見張っている。お前は里に戻って大人たちに知らせろ」

「でも」

「いいから行け。外の人間が封印の地(ラーカセリア)まで入り込んでいるなんて尋常じゃない。早く里に……ダイヤーンさまに報告しなくては」

「聞いて、ヴァイユール」

 リュアスは静かに言った。

「時間がないんだ。いま、その人を助けられるのは、ぼくしかいない」

「助ける、だって? おまえを危険な目に合わせるわけには……」

「ヴァイユール」

 リュアスは力強く言った。

「ぼくはその人を助けたい。邪魔をするなら、ヴァイユールでも許さない」

 強い意志の灯った瞳に見据えられ、ヴァイユールは思わず退いた。その隙を突いた――訳でもないのだろうが、リュアスはすばやく若者に駆け寄り、彼の頭を抱き起こすと、なんのためらいもなく、血色の失せた唇に口付けた。

「――っ!」

 予想していたとは言え、ヴァイユールは酷く狼狽した。リュアスは祈祷師グリドラの卵である。死せる魂も生ける魂ももろともに操ったという太古の始祖たちの力を、色濃く受け継いでいる。

 その接吻は生ける魂から力を奪う。逆に、弱った魂に活力を分け与えることもできる。

 すぐに見た目に明らかな変化が生じた。つまり、若者の肌が見る見るうちに血色を取り戻し、微動だにしなかった胸元が微かに上下しはじめたのだ。

「もういい、やめろ」

 ヴァイユールはリュアスを若者から引き剥がした。何の抵抗もなかった。そればかりか、今にも倒れこんでしまいそうなほど弱々しい。

「下手したらお前が死んでいたぞ」

「大丈夫だよ。この人も」

 リュアスは微笑んで答えた。顔色は悪く、額には冷や汗が浮かんでいる。だが、満足気な笑みだった。

「お前ってやつは」

 ヴァイユールは笑った。多分に皮肉と諦観の笑みだったが、ほんの僅かながら、妹分を誇る気持ちもあった。

 これはきっと、善き祈祷師グリドラとなるだろう。

 人々の不安を取り除き、正しく導くだろう。それは悲しいことかもしれなかった。代償として、多くの傷を負うだろうから。

 その負担を少しでも減らしてやるのが、ヴァイユールが己に課した使命である。ひとまずは、差し迫った危機をなんとかせねばなるまい。

「動けるか、リュアス」

 その時、四方から獣の唸り声が聞こえてきた。

「ここから逃げろ。その男は私が守ってやる」

 ヴァイユールは腰の得物を二刀同時に抜き放った。右手には直刀の小剣。左手には魔女の秘術が仕込まれた短剣。

 続いて、いくつもの影が視界に躍り出る。それは大きな犬のような姿だった。目線の高さはリュアスほどもある。神々しく銀色に輝くたてがみ、双眼に知性が宿る神代の獣。

 それが5頭。鋭い牙をむき出しにして唸り、こちらを威嚇しながら、囲い込むようにゆっくり近寄ってくる。

「よりによって銀狼ルナーグか――何してるリュアス、早く逃げないか!」

「ごめん、動けない」

 かちかちと歯を鳴らしながら、リュアス。無理もない。長じれば森の獣など意のままに操れる力を持って生まれたとはいえ、まだ十二歳の少女である。

 ヴァイユールは舌打ちした。銀狼はこの森の食物連鎖の頂点に位置する存在だ。獰猛な性格ではないが非常に俊敏で賢く、高い社会性を持ち、必要とあらば群れで飛竜ドムラスすら仕留める狩りの名手である。

 その彼らに、獲物と見定められている。とても敵う相手ではないが、なんとしても、リュアスが逃げる時間だけは稼がなくてはならない。

 ヴァイユールは先手を打った。

緑縛陣カルスト!」

 左手の短剣を振るいながら叫ぶ。魔法の呪文。それに呼応して、周囲の雑草が意志を持った触手のように蠢き、獣たちの足を絡め取る。が、そこは森の王者である。束縛を受けたのは二頭だけ、残る三頭は素早く飛びのいて難を逃れる。

 それもヴァイユールの狙い通りだった。獣が咄嗟の反応で避けた先を読みきれぬほど、彼女は初心うぶではない。

(もらった!)

 着地点を狙って突き出された小剣が、銀狼の眉間を貫いた。物心付いた頃より、防人の長を務める父に叩き込まれた剣技である。さしもの銀狼も絶命するより他なく、途端に溢れ出した鮮血と死の匂いとが、残る四体の魔獣を完全に殺気立たせた。

精霊煌ギドナ!」

 再びヴァイユールが短剣を振るう。途端に強烈な閃光が炸裂し、銀狼が一斉に怯んだ。入った、とヴァイユールはほくそ笑む。目蓋を閉じるだけで回避できる〝目暗まし〟だが、通ってしまえば効果は抜群だ。しばらくはまともに物を見ることなどできまい。

 ヴァイユールは右手の小剣を力強く握り、手近な一頭に突進した。銀狼ルナーグの毛皮は強靭で、生半可な剣では刃が立たぬ。が、先ほどのように、強烈に眉間を突いてやれば、いかに森の王者と言えどひとたまりもない。

 ガキィン、と渇いた音が響く。

 った――と確信した次の瞬間、ヴァイユールの表情が驚愕に歪んだ。銀狼の眉間を貫いたと思われた彼女の剣が、強靭な顎に噛み止められ、そのまま折り取られてしまったのだ。

 その音で、他の三頭が一斉にこちらを向く。もはや縛められた固体はない。どうやら僅かな慢心の代償に、己の命を捧げねばならぬようだ。視覚のみに頼る愚かな生き物が、この森の王者として君臨している道理がないというのに。

「くそっ!」

 銀狼ルナーグが一斉に襲い掛かる。その俊敏さは人の知覚できる限界の、さらに上をいく。

 ヴァイユールはその場を飛びのいた。かわす、などという華麗な芸は出来ない。彼女に出来るのは、一瞬たりとも動きを止めないことだけだ。息の続く限り移動し、ただの的とならぬことだけだ。

 ところが、次々に襲い掛かる敵を前に、限界はあえなく訪れる。まず、左肩が切り裂かれる。痛みにほんの一瞬足が止まる。

(まだだっ!)

 今度は右の脚をやられる。

(諦めるわけには――!)

 ヴァイユールは転がってその場を逃れる。ほんの一瞬、星の瞬きに等しい時間でも、長く生き延びるために。彼女が生きている間は、銀狼がリュアスに襲い掛かることはないはずだから。

 けれども。

「こっちだ、犬っころ!」

 ヴァイユールを絶望の淵に叩き込む声が聞こえる。

「来いよ、ぼくが相手だ!」

 リュアスが、ヴァイユールが守るべき少女が死地に躍り出ていた。強い意志の宿る瞳で、すっかり震えの止まった両足で、しっかりと大地を踏みしめて。

 馬鹿な奴だ。

 ありとあらゆる感情が激流のように過ぎ去っていき、最後に残った何かが笑みを形作らせた。ヴァイユールは痛みを忘れて立ち上がり、大仰に短剣を振るって吼えた。

「ここだ化け物ども! お前らの獲物はここだぞ! そんなちまっこい寸胴じゃない!」

 その、やや芝居がかかった動作が、たわたに実った胸部を弾ませる。途端に、リュアスは真っ赤になって怒鳴り返した。

「何だよそれ! ぼくだってあと3年あればそれくらい!」

「ククク――」

 低く澄んだ――と表現するには、あまりにも邪気の籠もった笑い声が聞こえたのはその時だった。

「????楽Λ??????尖Hβ??????????剛???」

 続いて、どうやら人語――のようなものが発せられた。いつの間にやら起き上がり、不敵に笑うその若者から。

「??υ?????シ??????膏ツΩ?????????○?Z????/?????????」

 なおも若者はしゃべり続ける。まったく耳に馴染みの無い発音と抑揚だった。若者は鞘に収まったままの長剣の、柄尻を軽く握るように持ち、銀狼ルナーグどもに向けゆらゆらと揺らした。

「ヴァイユール、大丈夫?」

 呆気にとられていると、すぐ側で声がかかった。聞きなれた妹分の声。

「それほど深い傷じゃない。大丈夫だ。それよりあれはなんだ。あの男は何をしゃべってる?」

銀狼ルナーグ啖呵たんか切ってる……みたい」

 リュアスは呆然と答えた。

「女の子相手に大勢でよってたかって、それでも男かって。これ以上やるなら自分が相手になるって、そう言ってる」

「分かるのか!」

「意味だけなんとなく。初めてだこんなこと。頭に直接響いてくる感じ……」

「お前、それって――!」

 ヴァイユールが何かを言いかけたとき、高い金属音が響き渡った。続いて何か鈍い音。ヴァイユールの目が捉えたのは、若者が手甲で魔獣の爪を防いだ瞬間だけだった。その直後に振るわれたらしい一撃は、まったく目に留まらなかった。

 とにかく銀狼は、木っ端のように弾き飛ばされていた。それをほんの一瞬、目で追った隙に、若者は最初の位置からいつの間にやら移動していて、大口を開けて飛び掛っていた2体目の側面から、鞘に収まったままの長剣を振り下ろした。ここは何とか、ヴァイユールも目で追うことができた。いきなり視界外から一撃を喰らった銀狼は地面に打ち落とされ、昏倒したのか死んだのか、それきり動かなくなった。

「おいおい、呆気ねーな」

 若者はぼやいた――のをリュアスが通訳する。そして一瞬で仲間を失った最後の銀狼ルナーグに無造作に近寄って行った。どうも、もう一頭はすでに逃げ去ったようだ。

「このずっと下にいたお前らの同類はもちっと気合入ってたぞ。おら、一発くらいは入れてみろって」

 身構えて低い唸り声を上げ続ける最後の銀狼を嘲笑うように、若者は未だ鞘に納まったままの長剣で地面をとんとんと叩いた。

「何を考えてるんだあいつは」

 リュアスの通訳を受けたヴァイユールが「はっ」と我に返って吠える。

「おい、そこの男! 銀狼ルナーグを甘く見るな! そいつらは鋼でも噛み砕いてしまうんだぞ!」

 若者は怪訝にこちらを振り向いた。

「馬鹿、よそ見をするな!」

「――って言ってるよ」

 同じ台詞を、リュアスが復唱する。若者は今度は驚愕の表情で、身体を完全にこちら側に向けた。

「どうなってる? 何で、おまえの言ってることが分かるんだ?」「――だって」

「いいからそいつから目を離すな!」「――って言ってる」

 若者は何故か呆れ果てた様子でこう言い返した。

「こんなレベル20程度の雑魚から目ぇ逸らしたくらいで死にゃしねーよ。喰らってもダメージ5とかだし。俺のHPいくつあるか、おまえ知ってるか?」

「――ごめんヴァイユール、今度のは何言ってるか本気で分かんない」

「いいからっ! 早くそいつにトドメを刺せぇええええ!」

 ヴァイユールは絶叫した。これをリュアスが通訳する必要はなかった。なぜなら、叫び終わる前に、飛び掛ってきた最後の銀狼を、若者が素手で殴り倒していたからだ。

「ほれ、終ったぞ」

 余裕の表情で若者は言った。ヴァイユールは呆然自失、といった態で口をぱくぱくさせた。無理もない。自分の想像を絶する現実を目の当たりにすれば、大抵の人間はこうなる。

「何だよ、急に静かになりやがって。よう、ちっこいの。その姉ちゃんどうしたんだ?」

「えー……っと」

 一向に立ち直る気配のない幼馴染みを見やり、リュアスは困り果てた。続いて若者に視線を向ける。目が合う。途端に口から心臓が飛び出そうになった。

(どうしよう)

 リュアスはひどく狼狽した。こちらも無理もない。今まではヴァイユールの言葉を通訳代わりに復唱するだけでよかったが、急にそうもいかなくなった。リュアスは里の掟で、生来、男性から隔離されて育ってきた。口を利くのはおろか、面を向き合わせることすら生まれて初めてだ。しかも、さきほど自分が口付けてしまった若者の唇に今更ながらに意識がいき、さらに鼓動が早まる。

「おいおい、おまえもだんまりか。勘弁してくれよ、おれの言葉通じてるんだろ?」

(な、何か言わないと――そうだ、お礼!)

「えっと、その……。ありがとう、おかげで助かりました」

 リュアスはか細い声で礼を述べた。すると、若者はこれ以上ないほど綺麗に笑った。

「そりゃこっちの台詞だよ、ありがとう」

 瞬間、リュアスの心臓がさらに跳ね上がった。

「おまえらが助けてくれたんだろ? じゃなきゃおれ、確実に死んでるはずだしな」

 柔らかな笑みを崩さず、若者が歩み寄ってくる。リュアスは頭が真っ白になった。何か全身がふわふわと宙に浮いているようだ。痛いくらいに耳に届く己の鼓動のせいで、何も考えることができない。

「大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ」

 若者が問う。リュアスは首をぶんぶんと横に振った。ちょうどその頃、ようやく我に返ったヴァイユールはその様子を見やり、諦観の息を吐いて、これからどうすべきかを真剣に考えていた。

 リュアスに何が起こっているのか、少なくともヴァイユールの目には明らかだった。彼女は祈祷師グリドラの卵である。いや、恐らくついさっき、祈祷師グリドラとして目覚めただろう。耳慣れぬ言葉を話す異郷の若者と、意思を通わせているのが何よりの証拠だ。

 彼女たちが目覚める条件は決まりきっている。それはつまり――。

「――っ!」

 いきなりリュアスが悲鳴を上げた。逡巡から我に返ると、いつのまにやら若者が地面に倒れこんでいる。ヴァイユールは慌てて駆け寄り、緊迫した声で問う。

「どうしたんだ。やはり銀狼ルナーグにどこかやられて――」

「どうしようヴァイユール。彼、お腹が空いてるんだって。餓死寸前なくらい。こればっかりは、いくら活力を分けてもどうしようもない。ぼくの力じゃ助けて上げられないよ――」

 まるでこの世の終わりを嘆くかのように、リュアスが答える。

 ヴァイユールは舌打ちした。これから起こるであろう面倒ごとが次々と脳裏をめぐり、彼女の気分を憂鬱にさせた。

 まずはこの異郷の若者を、どうやって里まで運ぶか、だ。祈祷師グリドラの女子が見定めた――つまり惚れてしまった男を置き去りにする、などという選択肢は、残念ながら、里の教えが染み付いたヴァイユールには取れそうになかった。


2.


 暗黒の森に住まう妖魔バヌトゥの総数はおよそ3千。

 その大多数が、封印の地(ラーカセリア)に隣接する「神殿区」に居を構えている。暗黒の森を妖魔バヌトゥの国と見立てるなら、その首都にあたる場所だ。

「はあ? ここが神殿だって?」

 異郷の若者はあからさまに顔をしかめた。見上げるほどに上背のある、がっちりとした体格。妖魔バヌトゥとは明らかに異なる白い肌。そして、発する言葉は発音を追うのも困難な異語である。

「何か気に入らんことでもあるのか」

 ヴァイユールは即座に返した。言葉は分からないが、訝しんでいるのは分かる。

 とはいえ、彼女が若者の言葉を理解できないように、彼女の問いも、そのままでは若者に届かない。

「えっと、何かおかしなところがあるのか、って」

 通訳代わりに、傍らの幼い少女――リュアスが復唱する。若者と話ができるのは、祈祷師グリドラとして目覚めつつある彼女だけなのだ。

「おかしなところだらけだ。神殿っていやおまえ、神聖で厳かな場所だろうが。少なくとも、そんな露出度の高いねえちゃんが責任者を努めてたりはしねえだろ」

 リュアスは戸惑い、若者が言うところの「露出度の高いねえちゃん」を見やった。

 そこに居たのは成熟した大人の妖魔バヌトゥ女である。

 胸下で組んだ両腕から今にも零れ落ちそうなほど巨大な双丘、きゅっと締まった腰元に流れ落ちる艶やかな黒髪、妖しげな光を宿す切れ長の目に柔らかな口唇。男の劣情を誘う妖艶な肢体を包むのは、丈の短い、胸元を大きく晒した一枚衣だ。

 この建物――【ニマス神殿】なる聖域のおさで、名をリィンという。

「リュアス。その異人、なんて言ってるんだい?」

「えっと、その……神殿っていうのはふつう、もっと神聖で厳かな場所なんじゃないか、って。その、お祖母ばあちゃんの格好も、肌を出しすぎなんじゃないか、って……」

「ちょっと待て。今なんつった? おばあちゃん?」

「お祖母ばあちゃんはお祖母ばあちゃんだよ。ぼくのお母さんのお母さん。だからお祖母ばあちゃん」

「このねえちゃんが? おまえの? おばあちゃん?」

「そうだけど……そんなに驚くようなこと?」

「何の話をしてるんだい」

 リィンが苛立いらだたしげに会話に割り込んだ。もちろん、彼女に分かるのはリュアスの台詞だけだ。

「もしかして、あたしの歳に文句があるのかい? たしかに四十で現役張ってる女官リルムなんてあたしくらいのもんだろうけど、まだまだ若いもんには負けないよ。何ならいまから試してみるかい?」

「リィンさま、それはさすがに……」

 ヴァイユールが苦笑する間にも、リュアスは馬鹿正直に通訳している。若者はそれを受け、しばし茫然自失した後、うめくように言った。

「これで四十……嘘だろ……どう見積もっても三十路みそじ越えてるようには見えん……」

 もちろん、リュアスはこれも通訳した。すると、ヴァイユールが同意するように若者の肩を叩く。妖魔バヌトゥの常識からしても、リィンの外見の若々しさは異常である。

 廃墟での一件――つまり、この異郷の若者が、銀狼ルナーグの群れから、ふたりの少女を救ったあとのことだ。

 若者が空腹で目を回したのは一時的なものであった。

 ヴァイユールの「心配」をよそに、彼は自分の足でしっかり歩き、このニマス神殿までやって来た。

 ただし、異人が里に入り込んだと知れたら騒ぎになる。里人に見つからぬよう気を使いながらの帰還だった。まずこの神殿に来たのも、リュアスとヴァイユールが最も信頼する大人――リィンがいたからである。

 リィンは三人を人目に触れぬよう自室に通し、若者に礼を述べたあと、適当に食事をさせ、今に至っている。

 ちなみにリィンが言うには、若者の空腹は深刻なものだったようだ。

「今のあんたは胃腸を満足に動かす力だって残ってないんだ。ゆっくり、よく噛んで少しずつ呑みな。じゃないと本当に死ぬよ」

 リィンの言いつけ通りに食事を取り、しばし休息を取った後、若者は目に見えて血色を取り戻した。やはり、初見の死人のような顔色は瀕死だったからだろう。

「さて。そろそろ話を聞かせてもらうよ。あんた何者だい? この里へ何をしに来た?」

 若者は顔をしかめた。あからさまに面倒臭い、という表情。

「信じてもらえないって分かってる話をすんのは疲れるんだがな」

 リュアスはこれを通訳しようとしたが、不意に若者に頭を撫でられたので、怪訝に顔を上げた。

「今のは訳さなくていい。おまえのばあちゃんも命の恩人だからな。話せっていうなら話してやるさ。さて、どこから来たか、だったか?」

 若者はこきこきと首を鳴らして語り始めた。

「下からだ。おれはこことは別の世界から、あんたらが"ラーカセリアの地下迷宮"と呼ぶダンジョンを抜けてやって来た」

「何だって――?」

 リィンは眉をひそめて問い返した。その反応が予想どおりだったからだろうか、若者は「にやり」と頬を釣り上げた。


 ――ここに来た目的だって?

 そんなもんはねーよ。なんせいきなり迷宮の最下層に放り込まれて、右も左もわからなかったもんでな。そこが地獄より深い地下迷宮で、上の方に広大な世界が広がってるらしい、ってわかったのは大分あとのことだ。結局、それから地上に出てくるのに十年以上かかっちまったがな。

 まあ、迷宮で何があったかって、細かい話は端折はしょらせてくれ。ありゃ本物の地獄だった。正直二度と思い出したくない。

 でもま、おかげで度胸と腕っ節には自信がついたよ。

 あんたらも、何か困ったことがあったら言ってくれ。暴力で解決できるなら、いくらでも力になるぜ。もっともそれ以外の――金だの頭脳だの包容力だのが必要な場面じゃ、おれは全く役に立たないって断言できるがな。

 あ?

 ここがどうして別の世界だとわかるかって?

 根拠なんていくらでもあるけどな……まあ、決定的なのはあんたらの存在だな。

 おれのいた世界はとにかく狭いんだ。人はその気になりゃあ大抵の秘境に分け入ることができるし、世界の隅々まで文明の光で照らされてる。解き明かされてない謎なんて海の底にしか残ってねえ。

 だから断言できるぜ。おれの世界にあんたらみたいな面白い連中は居ない。だからここは、おれのいた世界じゃない。


「ほかになにか質問はあるか?」

 しばらく、重々しい沈黙が続いた。その間、リィンはただじっと若者の目を見つめていた。彼は一度小さく肩をすくめたきり、やはりその視線を真正面から受け止めていた。

「リィンさま」

 沈黙を破ったのはヴァイユールだった。

「話の真偽はわかりませんが、腕が立つことは確かです。わが父など及びもつかない戦士だと、そう断言できます」

「へえ」

 リィンは感嘆した。ヴァイユールの父は名をヴィシャールと言って、防人さきもりの長を務めるほどの達人だ。里には、彼に敵う戦士など居ない。

 それが及びもつかないほど、この異郷の若者は武に秀でるという。つまり――。

「その兄ちゃんが暴れ出したら、誰も止められないってわけだ。あまり愉快な話じゃないね」

「おばあちゃん!」

 がたん、と音を立て、リュアスは立ち上がった。

「ヒコはそんな人じゃない。ぼくたちを助けてくれたんだよ!」

「はっ。小娘の出る幕じゃないよリュアス。あんたは大人しく通訳だけしてな」

「でも!」

「落ち着け」

 いさめたのは若者だ。リュアスの手を優しげに引いて、座るように促す。

「何を言われてるかはだいたい見当が付くがな。おまえが熱くなってちゃ話が進まん」

 それからリィンに向き直ってこう言う。

「さっきも言ったがここには何の用事もねーし、悪さをするつもりもねえ。あんたらに恩を返したいって気持ちはあるが、邪魔だって言うならすぐにでも出て行くさ」

 リュアスの憮然とした通訳を受けて、リィンは胡乱に鼻を鳴らした。

「そりゃ殊勝なこったね。でも、こっちはそうもいかないんだよ。ヒコ、っていったかい?」

 リィンは若者の名を呼んだ。と言っても、彼の本名は異語だけあって、聴き取りも発音も困難だ。リュアスにしても、彼の言葉の意味が分かるだけで、正確に何と喋っているかが分かるわけではないから、固有名詞が出るとお手上げだ。ヒコ、というのは、ヴァイユールがとりあえず定めた仮名である。

「あんた、リュアスのことはどこまで知ってんだい?」

祈祷師グリドラ、だっけか。要するに、おれのせいでこいつが目覚めた、って話だったな?」

 ヒコは答えた。おおまかなことは、少女たちから聞いている。

 祈祷師グリドラ

 妖魔バヌトゥの女性に時として――何十年かに一度――現れる先祖返りの一種だ。非常に高い精神感応力を秘めていて、完全に覚醒すれば、他人の心を覗き、人や鳥獣を意のままに操り、果ては未来の出来事をも予見するという。

 彼女たちは、妖魔バヌトゥの女性としては珍しく、生涯ただ一人の男を伴侶とし、極めて従順に付き従う。

 通常であれば。

 この里で生まれた祈祷師グリドラの卵は、男の目に触れぬよう、神殿に隔離されて育つ。彼女たちは一度「担い手」を見初めて目覚めれば、以後は決して心変わりをしないからだ。ゆえにしかるべき時、しかるべき相手にめとられ、里を守護し導く存在となる。

 ところが、リュアスの場合はヒコ――この異郷の若者を「担い手」と定めた。つまり、里の者にとっては、どこの馬の骨とも知れぬ若者が、強力な兵器を手にしたも同然なのだ。

 しかも、先代の祈祷師グリドラは十五年も前に亡くなっており、「卵」は当代リュアスただひとり、という状況だ。仮にヒコが悪意を持って、覚醒したリュアスを意のままに操ろうとすれば、誰にも止められないのである。

「そこまで知ってりゃ分かりそうなもんだけどね。あんた、この里を生きて出られると思ってんのかい?」

「お祖母ばあちゃん、それどういう意味?」

 再び、リュアスが怒気を含めて問い返す。

「リュアス、いいから訳せ」

「……この里を生きて出られると思ってるのか、って。そう言ってる」

「なるほどな」

 ヒコはリュアスの頭にぽん、と手を置き、優しく撫でた。

「おまえの気持ちは嬉しいけど、ばあちゃんもおれが憎くて言ってんじゃない。おまえが心配なのさ。ばあちゃんってのは四六時中、孫の心配ばっかしてるもんだ。だからおまえも、ばあちゃんを嫌ってやるなよ?」

 そう言って、ヒコはどこか遠い目をした。それはとても優しくて、そしてどこか悲しくて。リュアスは胸がいっぱいになって、結局何も言うこともできず、ただ頷きを返した。

 すると、ヒコは「にかっ」と笑って言った。

「よしよし、おまえはいい女だリュアス」

「何を話してる?」

 苛立たしげにヴァイユールが問うと、リュアスはにやけ顔で答えた。

「ぼくはいい女だ、って言ってる」

 しん、と一瞬の静寂。ヒコは苦笑いし、ごまかすようにリィンに語りかけた。

「防人って連中が、ここの主力か? 来る途中でちらりと見たけど、正直言って、連中が何人たばになってもおれの敵じゃねーな。出て行くのもわりと簡単だと思うが……無理やりってのも趣味じゃない。実際、おれはどうしたら良いと思う?」

 そしてリュアスの肩をぽんぽんと叩く。「訳せ」

 通訳を受け、リィンはかすかに笑った。どうやらこの異郷の若者は、リィンに身柄を委ねる心づもりらしい。それもおそらく、わが身可愛さゆえではない。

 リィンは微笑んだ。

「そうだね。まずは風呂に入りな。いい加減、そんな不潔な格好であたしの部屋に居られるのは迷惑だよ。ひどく臭うしね」

 リュアスが控えめに通訳すると、ヒコは何とも言えない表情で肩をすくめたのだった。


3.


 ニマス神殿とは、その名の通りニマス神を司る神殿である。

 森の外でも広く信仰されている女神だ。大地の恵みを司る豊穣神であり、結婚と出産の神でもある。

 そして結婚と出産をつかさるということは、すなわち、その行為そのもの――性交をも司る。さすがに森の外の文明圏では、この部分がおおっぴらに信仰されることはない。

 だが、外界から隔離されたこの森では別だ。外界の異人たちと比べ、妖魔バヌトゥは繁殖力が弱い。子を宿す、授かるための行為は、彼らにとって即ち神事であり、聖なる行いなのだ。

 よってこの【ニマス神殿】なる建物も、平たく言えば娼館のようなものだ。朽ち果てた古代遺跡の一部を利用して建てられた、四階層・大小六十の部屋に、五十人余りの女官リルムたちが暮らし、「神事」のために女を磨き、「神事」として男を迎える日々を送っている。

 一階には、二十人ほどが余裕を持って使用できる大浴場もある。里人が【ニマスの泉】と呼ぶ天然の温泉である。

「えっと、それじゃ洗う……ね?」

 リュアスはもうじき13歳になるが、見た目はより幼く、ほんのとおほどにしか見えない。髪は散切りで肩までもなく、顔立ちからは可愛らしいというよりも活発そうな印象を受ける。ともすれば男児に見紛うような容姿だが、一糸纏わぬ裸体の、股の間に目をやれば、紛れも無く少女だとわかる。

「おう。ひと思いにやってくれ」

 ヒコは胡乱に応じた。異人であるから外見から歳を推察するのは難しいが、あえて見当をつけるなら二十歳前後に見える。

 やはりこちらも全裸だ。

 しかも鍛え抜かれた肉体である。隆々としてたくましく、見るからにしなやかで、荒々しさと神々しさが絶妙に同居している。そんな身体を堂々とリュアスの眼前に晒し、あぐらをかいた姿勢で微動だにしない。

 不意に視線を下げると、股間にだらりと垂れ下がる異物が目に入った。

「わわっ!」

 リュアスは慌てて顔をそむけた。すでに顔面は茹で上がったように真っ赤だったが、両頬がさらに熱を帯びたのが自分でも分かった。

「どうした?」

 何食わぬ顔で尋ねられ、リュアスは率直に質問した。

「男の人ってみんな〝そんなの〟が付いているの?」

「だろうな。おれと同じかどうかは知らんが」

 ヒコは不意に眉をひそめた。

「やっぱやめとこうぜ。正直、あんまり乗り気じゃないんだよ。もっとちっこいガキんちょなら冗談でも済むけど、おまえくらいの年ごろの――」

「何をやってんだい、さっさとおし」

 背後から鋭い声がかかって、二人は同時にそちらを向いた。ヒコは苦虫を噛み潰したような顔で、リュアスは今にも泣き出しそうな顔で。

 そこに居たのは成熟した大人の妖魔バヌトゥ女。リュアスの祖母にしてニマス神殿の女官長、リィンである。

「そんな顔したって駄目だよ、リュアス。あんたが言い出したことじゃないか。それともあたしが変わってやろうか?」

 リュアスはぶんぶんと首を横に振った。

「なら自分でやりな。いくら異人だからって、この泉で殿方の手を煩わせるなんてあっちゃいけないよ。大体ね、そんな貧相な竿ひとつで狼狽うろたえるんじゃないよ。あたしの孫ならもっと堂々とおし」

「なんて言ってる?」

「えっと、早くしろ、って。それと、この泉で男の人が自分で身体を洗うのは禁止だって……」

「ったく、面倒臭いしきたりだな」

 ヒコはぼりぼりと頭を掻いた。 

「でも、決まりは決まりだし……他のひとにはさせたくないから」

 リュアスは「こくっ」と喉を鳴らし、若者の身体に手を伸ばした。ヒコは泰然としている。自分のような小娘に触れられることなど、何とも思ってないのだろう。

 だが、リュアスはそうもいかない。心臓はもうずっと、胸を突き破りそうなほど高鳴っていたし、頭はくらくらして今にも卒倒しそうだ。しかし、先に宣言した通りの使命感が、彼女の意識を支えていた。

 ぴと。

 指先がヒコの胸板に触れる。熱い。リュアスは反射的に手を引っ込め、そしてもう一度、恐る恐る手を伸ばした。今度はしっかり手のひらでその熱を感じる。そうしていると、熱いというよりも温かい。リュアスよりほんの少しばかり体温が高いのだろう。

(何だか安心するな)

 リュアスは幾分落ち着きを取り戻し、粗目の麻布で、ヒコの身体をごしごしとこすり始めた。

 男性の身体は意外と柔らかい。確かに、女性と比べたら硬いと表現すべきなのだろう。しかし、見た目のゴツゴツとした感じはまるで無く、程良い柔性と弾性を持っている。

「楽しそうだな」

 やや不機嫌な声。リュアスは「はっ」として言い訳した。

「……初めてなんだ、見るのも触るのも」

「親父さんは?」

「知らないよ。母さんは誰にも教えなかったって」

 母は十三で自分を産んだらしいが、その後すぐに亡くなったそうだ。肉親と呼べるのは祖母のリィンのみである。

「悪かったな」

 ぽん、と、ヒコはリュアスの頭に軽く手を置いた。温かい、大きな手だ。自分に父親が居たなら、こんな風に撫でてくれれることもあったのだろうか。

 と、うつむき加減になった視線が、再び若者の股間を捉える。リュアスは思わず「うっ」と唸って固まった。

 そこは、さっきまでとは比べ物にならないほど怒張し、雄々しく天を向いていたのだ。

「あー……」

 ヒコも何とも言えぬ声を漏らしたきり、言葉を続けようとしない。ちなみに、このニマスの泉なる大浴場では、男女ともに一糸も纏わぬのが習わしである。もちろん、大人の色香をまき散らす女官長リィンも、例外ではなかった。

「ねえ」

 ついに意を決して、リュアスは尋ねた。

「それ、どうしてさっきよりおっきくなってるの……!?」

「……」

 ヒコは無言でそっぽを向いた。

 しかし、理由は聞かなくても分かっていた。この神殿で暮らしている以上、男がどういうものかは知っている。

(ぼくの裸を見ても平気だったくせに)

 リュアスは上目遣いに睨み付け、すっかり遠慮のなくなった手で、ごしごしとヒコの身体を洗い始めた。

 もちろん、起立したその部分も。

「痛い痛い! 馬鹿、もちっと丁寧に扱え」

「うるさいな、こんなにおっきくしてるから悪いんだろ!」

「このクソガキ……もう怒った。こうしてやる!」

「わわわっ!?」

 若者はいきなり、リュアスの全身をくすぐり始めた。

「はふっ! やだそれ、くすぐったいって――あひゃはひぁっ!……はぅっ……だ、ダメだってば――ふひゃあっ!?」

 ――まったく、色気もなにもあったもんじゃないね。

 ぎゃあぎゃあと騒ぐふたりを見守りつつ、リィンはやれやれと肩を竦めた。

 さて、そんなこんなで、さしてこともなく入浴を終えたヒコに、リィンは里の伝統衣装を着付けてやった。時おり目を細め、どきりとするほど妖艶な笑みを見せるので、見守るリュアスは気が気でない。

 ヒコは素知らぬ顔をしているが、動揺を隠しきれてないし、ちらちらとリィンの胸元に視線を飛ばしている。気付かれてないとでも思っているのだろうか。

 ――何なのさ。あんなに鼻の下を伸ばして!

 リュアスが内心で地団太を踏んでいるうちに、ようやく着付けが終わったらしい。

 リィンは最後に腰帯をきゅっと締め、ぱんと軽くたたいてから、一歩退いて満足げ眺めまわした。

「うん。随分と見れる恰好になったじゃないか。い男だよ、あんた」

 言葉が分かったわけでもないのだろうが、ヒコは身体をあれこれとひねりながら自分の格好を確認し、「おお」と驚嘆の息を漏らした。

「なんだか"ユカタ"みたいだな。これがおまえらの正装か?」

「ユ……? ヒコの故郷にも、こういう服があるの?」

「まあな。着るのは初めてだが、動きやすくていい感じだ」

さとでは二衣重ヤンクットっていうんだよ。その服はおじいちゃんの形見なんだって」

 ヒコは驚きに目を見開き、リィンに向かって姿勢を正し、丁寧に腰を折った。

「そんな大事なもんを貸してくれてありがとう。世話になりっぱなしだな」

 リィンは、リュアスの通訳を待たずに返事をした。

「よしとくれ、大事な孫娘を助けてもらったんだ。礼を言うのはこっちだよ。その服も、誰かに着てもらえて喜んでるだろうさ」

 リュアスは一瞬、祖母がもうヒコの言葉を理解できるようになったのかと、さらに嫉妬心を募らせたが、よくよく考えると、今のヒコの所作を見れば、感謝の意を表していることぐらいは分かる。

「それじゃあ話をしようか」

 腰を落ち着けると、リィンの表情がにわかに真剣なものになった。応じて、ヒコも背筋を伸ばす。その佇まいはどこかしら気品があり、リュアスは思わず見惚れた。

「ヒコ。あんたが取るべき道はふたつだよ」

 ひとつ。里に留まり、祈祷師グリドラの担い手として、里のために働くか。

 ひとつ。リュアスを連れて森を出て行くか。

「リィンさま、そんな馬鹿なこと!」

 それまで無言で控えていたヴァイユールが抗議の声を上げた。が、リィンがひと睨みすると口をつぐんだ。

 その間にリュアスの通訳を受けたヒコは、呆れ顔で肩をすくめた。

「おいおい。いくらなんでも、こんなちまっこいガキを連れてけるわけねーだろが」

「……ぼくみたいな小さい子を外に連れてくわけにはいかない、って言ってる」

 リュアスはヒコの暴言に気分を害しつつ、少しやわらかく通訳した。

「そう邪険にするもんじゃない。この子は役に立つよ。なんたって祈祷師グリドラの卵だし、あたしの孫だから、きっと美人になる。むしろ感謝して欲しいくらいさ」

 祖母の言葉に、リュアスは少し機嫌を直した。

「そういう問題じゃねーよ。こいつが心配じゃないのか?」

「あたしはいつだって、この子の心配ばっかりしてるよ。だから、あんたが取るべき道はそのふたつだけだ。どっちか選びな」

 それはつまり、どっちにしろリュアスをめとれ、と言っているのだった。

「……例えば、の話だが。おれがこの里に残ってリュアスを嫁にするなんて、実際に可能なのか?」

「いくらでもやりようはあるよ」

 確かに、他の里人は大反対するだろう。だが、どちらにせよ、リュアスは担い手を決めてしまった。もはや覆らない。

 であれば、あとはその事実を呑み込むしかないのだ。ヒコが里人と交流し、彼の人柄に触れれば、賛同者は自ずと増えていくだろうと、リィンは睨んでいる。

 そしていずれ、ヒコも里に溶け込めるはずだ。時間はかかるだろう。簡単にも行かないだろう。だが不可能でもない。最後には、どうせ一代限りのことと、みな納得してれるはずだ。

「おかしいだろ。何でそんなにおれが信用できる?」

「今まで何百人って男に跨ってきたんだ。少しくらい見てくれが違ったって、男を見る目には自信があるよ」

 この台詞を、リュアスはよく分からないまま通訳した。するとヒコはちょっと面白い顔になって、しばし押し黙った。

「お祖母ばあちゃん……」

 リュアスは「きゅ」と祖母の手をつかむ。見た目は幼いが、もう13になる少女だ。自分の身にどういう事態が降り掛かったのか、ほぼ正確に把握している。ゆえに、祖母がどれほど自分のために心を砕いてくれているかも分かる。

「安心おしリュアス。この男を逃しはしないよ。必ずあんたを嫁がせるからね」

「おいリュアス。ばあちゃん何て言ってる? 妙な悪寒がするんだが」

 ふたりの台詞を、リュアスはあえて通訳しなかった。

 そうしているうちに、何やら慌ただしい物音が聞こえてくる。

「見てきます」

 すぐにヴァイユールが様子を見に行ったが、騒ぎは治まるどころか、どんどんこの部屋に近付いてきた。

 そしてついには、部屋の扉が慌ただしく開け放たれた。

「何だい、騒々しい奴等だね」

 リィンが睨む先、立っていたのはふたりの妖魔バヌトゥだ。防人の戦装束を着た体格の良い男と、ゆったりとした長衣をまとう線の細い男である。

「すいません、リィンさま。私では止められなくて」

 ふたりに続いて戻ってきたヴァイユールが謝罪する。

「いいんだよヴァイユール。謝んなきゃいけないのはこの礼儀知らずどもさ。ヴィシャール。ダイヤーン。このあたしの私室にノックもなしに入ってくるなんて、ずいぶん出世したじゃないか」

「謝罪はするが、先に用件は済ませてもらうぞ」

 防人装束の男――戦士長のヴィシャールが、鋭い眼光で言う。

「その異人を引き渡せ、リィン。侵入者の取り扱いは、女官長(おまえ)の管轄じゃない」

「侵入者? 馬鹿言うんじゃないよヴィシャール、この兄ちゃんはあたしの客人さ。あんたにどうこう言われる筋合いはないよ」

 リィンの態度は堂々としていた。ふたりの少女が目立つ異人を連れ、里の中を歩いてきたのだ。どれほど気をつけようが、誰かの目に止まるのは当然だろう。

 だが、まだ決定的な事態ではない。リュアスがヒコを担い手と定めてしまったことさえ気づかれなければ――。

「リィン、里の秩序を守るためだ。協力してくれないか」

 長衣を着た男――里長のダイヤーンが発言した。物腰は柔らかいが、有無を言わせぬ迫力がある。

「へえ、秩序。秩序ね」

 むろん、里長の迫力ごときで引き下がるリィンではない。こちらも妙に凄みのある声色で返す。

「ダイヤーン、あんたが本当に里の秩序を守りたいなら、この異人に手出しすべきじゃないね。あたしは黙っててやってもいいけど、この兄ちゃんが大人しく従うと思ったら大間違いだよ」

「悪いけど、おれの話も聞いてもらっていいか?」

 その時、当の異人が問答に割って入った。むろん、三人に彼の言葉は分からない。しかし、ヒコのほうは、リュアスの通訳で大体の事情を把握している。

「どこに連れて行かれるにしても、リュアスを付けてくれると助かる。言葉が通じないってのは、なかなか不便なもんでな」

 リュアスは頬を赤らめ、にやけながら通訳した。

「どこへ行くにも、ぼくと一緒がいいんだって」

 一同唖然。――したかどうかは分からないが、妙な間が空く。もちろん、その通訳が正確でなく、ある種の不名誉な誤解を招くものだったのは、ヒコにも分かっていたが、訂正するとややこしくなりそうなので捨て置いた。

「ええと」

 遠慮がちにヴァイユールが発言する。

「彼と話ができるのはリュアスだけなのです。ふたりを引き離しておくのは、なにかと都合が悪いのでは、と……」

 語る胸中は複雑である。ヴァイユールとて、出会ったばかりの若者に、守護する少女が「めろめろ」なのを見て、思うところがないこともない。だが、自分もヒコに命を救われた身である。引け目のようなもの……というと少し違うが、この異郷の若者を信頼すべきだという気持ちもあった。

 だが、ヒコもリュアスもヴァイユールも、自分たちが決定的な証拠を明かしてしまったことに気付いていていない。大人たちが黙り込んでいたのは――。

「まさかとは思ったが。リィン、これはどういうことだ?」

「……さすがに誤魔化しようもないね。あんたの考えてるとおりだよ、ダイヤーン。そこの異人が、新しい担い手さ」

「何ということだっ!」

 ヴィシャールが怒号を張り上げ、続いて号令を発した。それに従って、防人たちが続々と入ってくる。

「その異人を速やかに拘束しろ!」

 戦士長がその命令を発する直前、リィンはリュアスに耳打ちしている。そしてリュアスは、ヒコがすっかり囲まれる前に、彼に駆け寄り、覚悟を決めた顔で告げた。

「思いきりやれ、って」

 ヒコはにいっ、と笑った。

「了解、お姫さま」

 その時いったい何が起こったのか、その場の誰にも理解することは出来なかった。

 風だ。

 屋内に突然、不自然な風が吹いた。それがダイヤーンの頬を撫でた時、防人たちは全て地に臥せっていた。

 異郷の若者が目にも留まらぬ速さで動き、戦士長ヴィシャールを含む防人たちを一人残らず殴り伏せたのだ。ダイヤーンが事態を正確に把握するのは、もう少しあとの事である。

「で、これからどうする?」

 不敵に笑う異郷の若者に、リュアスは笑顔で答える。

「ぼくを抱っこして。その窓から飛び降りて。あとは、ヴァイユールに着いてきて」

「人使いの荒いお姫さまだな」

「ひゃっ!」

 いまだ呆然としたままのヴァイユールと、楽しそうに笑うリュアスを両脇に抱え、ヒコは速やかにそれを実行した。

 里長のダイヤーンは、黙って見送ることしか出来なかった。




 

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