肉食ウサギと草食ライオン①
HR前、休み時間、そして今現在である放課後。
教師のいない教室は、生徒達のモノだ。
今、僕はその教室の一番後ろにある自分の席に腰掛け、皆の様子を窺っている。
「おし行くぞ! 来週の練習試合こそは北高の連中に絶対勝つ!」
部活に熱を入れる体育会系の連中にとっては、コレからが本番なのだろう。
「今日どうする? どっか寄ってく?」
いや、その他大勢の生徒にとっても、授業という拘束から開放される放課後こそが本番なのだろう。
いつもだったら『キミらは何しに学校きてるんだよ』と心の中で呟く僕も、今日ばかりはみんなの気持ちが分からないでもない。
「はあ。かったるーい。週に五日も早起きして学校きてらんないよねー」
学校とは社会の縮図なんだぞ。学校生活に順応できない人は社会に出てもダメ人間なんだ。
「ねえ……今日もお家……行っていい? 昨日の続き……しよ?」
「……しょーがないヤツだなぁ。いいよ。今日も親帰るの遅いし」
キミ達。一体何の続きをするつもりなの。
予習? 予習だよね?
そんな熱心に予習に精を出すなんて関心だ。親がいると集中できないからだよね……? ねえ?
あぁもう。何でもいいからみんな早く帰ってくれ!
いや待て、最後のカップル! キミ達はまだ帰るな!
くそう、彼らが教室を出て行った直後に彼の親の職場に電話して即座に帰るように助言したい。『あなたの息子はクラスメイトの女の子と予習をするつもりですよ』と!
……そう言うお前は、何で帰らないで放課後の教室に居座っているんだ、だって?
そりゃ僕だって、普段ならすぐに家に帰って自分の時間を過ごしたい。実際いつもそうしているし。
……だけど今日に至ってはそうじゃない。今日だけは可及的速やかに、アズスーンアズ! この放課後の教室を明け渡してもらいたいんだ。
どうしてかって? その理由は……一番後ろ、教室に置かれた全ての席を見渡せる席に腰掛けている僕の、隣の席に腰掛けている、女生徒にあるんだ。
清潔感のある黒い三つ編みに、知的さを際立たせる眼鏡。彼女は僕のクラスメイト……当たり前か。言わなくても分かるって?
僕だって平時に比べ冷静じゃないんだ。多少の言動の重複や説明の雑さには目をつぶって欲しい。
彼女とはこの高校に入学してから、この教室に通うようになってから初めて顔を合わせた。その時から僕達は隣の席同士だ。
席替えは何度もあった。どちらが左右どちら側にいるかや、教室のどこらへんに位置するかは様々だったけど、僕らは毎回隣の席同士、セットなんだ。偶然だけど。
当然他のクラスメイト達はこの法則に気づいていて『またかよ。何か妙な手使ってんじゃないの?』とか『こうなったらもう付き合っちゃえば?』やら言ってくるけど、ホント勘弁して欲しい。僕はそんなつもりはないのに。
いや、別に彼女が僕の好みに合わないとか恋人にするには見合わない、なんて言うつもりはない。
僕は身長だって低いし、女みたいな顔してるし身体つきだってヒョロヒョロで男らしくないし、コレと言って他人から注目される特技も趣味もない。
漫画じゃあるまいし、まだ十五歳で自分の中で特化した能力に出会えている人間の方が少ないだろうとは思うけれど、今の僕が女性から見て男性としての魅力を持ち合わせていないことくらい、僕自身自覚しているさ。
ソレどころか僕は恋人自体が欲しいとは思わないんだ……ちなみに、僕はゲイじゃないよ。
僕は女という生き物が、大嫌いなんだ。
その原因の大半は、僕の姉にある。
僕の三つ上の、大学に通う姉は毎朝気でも触れたのかと言いたくなるような化粧をし、魔女にでもなるつもりなのかと言いたくなるような爪をし、身体の排熱機能が壊れているのかと言いたくなるような服装をし、あなたはナニ人なんだと言いたくなるような髪をして出て行く。
家にいても彼女の奇行っぷりは健在で、半裸で家の中を歩き回るわ、アイスを咥えながら僕の本を読んで垂らすわ、人の留守中に僕のベッドで寝転びながらポテトチップスを食べるわ、退屈だからというだけの理由でそのベッドの下にいやらしい本を仕込んで、さもそこで初めて見つけたかのように両親に聞こえるように騒ぎ立てるわ、暑いと言って脱いだ服や靴下、果ては下着まで投げつけてくる上に、半裸になった状態で足裏マッサージを強要してくる悪魔だ。
姉の裸なんか見たくない。気持ちが悪い。
だというのに彼女が男を連れ込んでいる時に隣の部屋から聞こえてくる騒音に、テスト勉強がまともにできなくなる自分が嫌だった。そして決まってそのあとは自己嫌悪を加速させざるを得なくなる。
そんな落ち込んだ気分を味あわせてくる女という生き物は、僕にとって嫌悪の対象だったんだ。
だけど、今僕の隣にいる彼女は違う。
姉を含めた他の女子共と違って下品な声で笑わないし、自分のことを棚に上げて他人をバカにしたりしないし。
僕が一緒に日直をした時も、日誌の記入のコツを丁寧に教えてくれたし、自分はもう仕事を済ませているのに僕が書き終えるまで待っていてくれたりもしたんだ。どうせ校門を出たところで別れるのに。
最初は暗い人だと思っていたけど、そうじゃなかった。彼女は他の怪物達と違って落ち着いていて物静かなだけなのだ。
そんな数十メートル先にいるワケじゃないよ、と言いたくなるような声を出さなくとも相手との意志の疎通はできるんだと知っている人なんだ。
最初は無感動な人だと思っていたけど、そうじゃなかったんだ。
彼女が自分の携帯電話のディスプレイを眺めて、おそらく彼女の飼い犬であろう子犬が写った待ち受け画面に、唇を弛めて目をキラキラさせてしまうのを僕は見たことがあった。
とても女の子らしいと思った。
大人しくて性格がいい人なんだと思うと、不思議と今度は外見まで可愛く見えてきた。
……ここだけの話にしてよ?
僕は最初、彼女のことを心の中で『四十五点』と呼んでいた。
もちろん分かってるよ! 最低なことだというのは。
女は嫌いだ、なんて自分のこと棚に上げておいて、お前は何点のつもりなんだ、っていう罵りはもう自分で何回もしたよ。
ソレというのも、そんな風に彼女を見下していた自分を後悔しているからなんだ。
今の僕は彼女を『七十五点』だと思っている。
いや、違う! 落ち着いてくれ! 何も反省してないじゃないかと怒鳴らないでくれ。
僕にとって『七十五点』はベストなんだ。
ある意味『百点』より価値がある……いや、何て言えばいいんだろう? ……あ! 『実用的』なんだ! ソレか『現実的』なんだ!
そんな『七十五点』な彼女の方が、今僕の隣にいる同じ学校のクラスメイトとして最高なんだ。あんな僕以上に自分を棚に上げて異性のことばかり考えている魑魅魍魎共とは違うんだ。……じゃあお前は自分を七十五点だと思ってるんだな? という質問は受け付けない!
話は戻るけど、今僕は放課後の教室を今日だけ、少しの間だけ我がモノにさせて欲しいと願っている。ソレは何故なのかと言うと……。
「…………」
……僕はずっと握り締めていた拳を少し開いて、その中で丸められていた小さなメモ用紙に再び目をやる。そこにはこう書かれている。
『放課後、誰もいなくなるまで少し残っていて。話があるの』
授業中にシャーペンの芯を貸してくれ、と言ってきた彼女が、芯を受け取る時にコレを渡してきたのだ。
だから、僕は今ここにいる。
そして僕の隣の席には今も彼女が座っていて、僕と同じようにまだ教室に残ってる他のクラスメイト達の挙動をチェックしている。僕は少しソワソワしつつ、時々彼女を横目に見ながら。彼女は全く表情を崩さず、視線を動かさずに。
……くそう。どうしてお願いされた僕がこんなにビクビクしてて、お願いした側の彼女はこんなに堂々としているんだ。
彼女の心臓に毛が生えているのか、僕がチキンハートなのか。
時計の針が進むに連れ、三々五々、クラスメイト達が教室を出て行く。
そして最後の一人が教室と廊下の隔たりに足を掛けてしまう。
──しまう? 何を考えてるんだ僕は。さっきまで早く帰って欲しいと願っていたんじゃないか。
……認めよう。僕は恐れている。ビビッている。
隣にいる彼女が誰もいなくなった教室でしたいという話が、僕達の関係を今までとは変わったモノにしてしまうんじゃないかと。
いや……でも、そうとは限らないんじゃないか?
彼女は同い年とは思えないくらい大人びた顔を見せる時があるけれど、所詮は僕と同じ高校一年生だ。せいぜい『勉強を教えて欲しい』なんて相談なんじゃないか?
……じゃあ、何で誰もいない教室が必要なんだよ。
あ、もしかしたら、恋の相談とかね。ソレなら他の人に聞かれたら恥ずかしいという気持ちも分かるというモノだ。
相談……恋の、相談か。
何か、あまり楽しい気分にはなれない言葉だな。
あ、もしかしたら彼女自身の相談じゃないのかも。彼女の友達が恋をしているのだけど、男の人が何をしたら喜ぶか分からない。そこで友達思いの彼女はその友達の為にその辺を調査しようと思い、クラスの中でも人畜無害そうで見るからに草食男子の僕に白羽の矢を立てた……なんてちょっとおせっかいな用件はどうだろう?
……自分で草食って言うなよ僕。情けない……。
「さて……と」
隣に座っていた彼女の唇が小さく動き、そんな言葉を発した瞬間、僕が先程まで浮かべていた思考は雲散霧消した。心臓がバカみたいにデカイ音を立てる。
「ごめんなさい……突然ワガママを言ってしまって」
「う、ううん」
「ちょっと……あなたに聞きたいことがあって」
そう言って彼女が立ち上がる。何故立ち上がる必要があるのかは分からなかったが、僕も慌てて彼女に習った。
……そ、そうだよな。質問をしたり、ソレに答えたりするなら、正面から相手を見ないと失礼だモンな。当たり前のことじゃないか。
「そ、相談……てこと?」
「……そうかもしれない」
…………
何だろう。少し心が重くなった気がする。胸に鉛を流し込まれているかのようだ。
相談。つまり、僕は彼女のメインではないということだ。
こうなったらどうしよう、なんて思いつつもどこかで期待していた夢景色が霞んでいく。
待て、早合点はよせ。まだ友達の為の恋愛相談や、他の誰かが目当ての恋愛相談とは限らないじゃないか。『今度の週末、ヒマ? 一緒にどこか行かない?』とかかもしれないじゃないか!
……いやいや。過分な期待は毒だよ。自分メインありきで考えるのはよせ。
もしかしたら彼女は、本当に他の誰にも言えない悩みを抱えていて、精一杯の勇気を振り絞っているのかもしれないぞ。そんな彼女に自分が勝手に期待したシチュエーションと違うからって、落胆した態度で接するなんて失礼極まりない! ここは滅私の心だ!
……ソレに、まだ、告白である可能性は完全に否定されたワケではない。十分にある。
僕が0.2秒程で考えを改め、気持ちと期待を持ち直して彼女の視線を受け止めたその時、彼女の唇が小さく動いた。
……心なしか顔が上気しているような気がする。あ、僕がじゃなくて、彼女がだ。あ、いや、僕も上気しているのかもしれないけど。てか多分してる。暑いし、息苦しい。
彼女は何て言うのだろう?
……『彼女とか、いるの?』とか?
……『あたしのこと、どう思ってますか?』とか?
僕が期待と不安でクラクラしてきた頃、彼女はその小さな唇から、いつものトーンでこう言った。
「あたしのパンツ……見たいと思う?」