第二十二話
「先輩っ!」
ドアが開き、愛理が飛び出てきた。俺は震える身体に鞭打って、どうにかアスファルトに着地する。
「先輩……先輩っ!」
涙を流す愛理の両目を見据え、俺は口を開く。
「どうしても、あのままじゃ嫌だったんだ……だから、確かめにきた。お前の本音を」
「…………」
「お前は……俺の真似をしてバンド組んで、ステージに上がって、歌ったって言ってたな」
「……はい」
「ソレで……どうだったんだ。もう、いいのか?」
「……何で」
「……ん?」
「何でそんなこと聞くんですか! 何であんなことまでして!」
「答えろよ! 質問を質問で返すな! お前は! もう満足したのか!? いきなり現れた母親にやめろって言われたからって、もう何の未練もなくステージ諦められるくらい満足してんのかって聞いてるんだ!」
……俺より、才能があるくせに……!
「答えろよ。俺はコレを確かめにきただけだ。お前がコレで満足、何の不満もないってんなら、俺は今すぐ回れ右して帰るだけだ!」
……俺が望んでも、届かない力を持ってるくせに……!
「でも、もし……お前が本当は歌いたい、あのステージに戻りたいって言うんなら、俺はいくらでもお前の力になるから! だから! 答えろよ!!」
気がついたら、視界が歪んでいた。身体の震えも未だに止まってくれやしない。
「何で……何で先輩が泣くんですか!? 何でわたしの為にそこまで必死になるんですか?」
「もったいねぇと思うからだよ!」
「でも、わたしの問題じゃないですか! 先輩には関係ないはずです!」
「そうだよ! お前の為だなんて一言も言ってないだろ! 俺がもったいないと思ったから俺は俺の考えの為に必死になってるんだ! うぬぼれてんじゃねー!」
「えぇっ!?」
「お前が、この天才の俺様が一目置いてやるくらいの才能があんのに、一つ障害にぶつかったくらいで諦めようとしてるのが気にいらねーんだよ!」
「き、気に入らないって……! 押しつけじゃないですか! わたしの勝手……です!」
「ああそうだな。で、ソレをもったいねーと思った俺が、俺の考えを押しつけるのも、俺の勝手だ」
「無茶苦茶です! わたしがいいって言ってるのに……」
「ソリャ、お前がどこからどう見ても、明らかにやめたがってるんなら俺だって止めやしないさ! そんなにヒマじゃねーし、ライバル? なんて思ってもねーけど、そんな感じのヤツが自分から消えてくれるんなら万々歳だ!」
「だったら──」
「明らかにお前『やめたくない』って顔に書いてあるじゃねーか! なのに親に逆らってぶつかるのが怖くてメンドーだからって、我慢して諦めようとしてるのが痛々しくて、見ててこっちがイライラするんだよ! 見てたらこっちが辛くて自然と涙が出ちまうんだよ!」
「分かったようなこと──」
「分かるさ! 俺だって好きだもの!」
「え──」
「お前ステージの上じゃめっちゃ楽しそうに歌ってるじゃん! アレが嘘だったら演技うますぎ! オスカー狙え!」
「……あ」
「ソリャ、親に迷惑や心配掛けたくないって気持ちも分からないでもないけど、言いたいことややりたいこと、全部お前が我慢して飲み込むのが最善だとはどうしても思えない! 絶対いつか無理がくるって! 絶対いつか後悔するって!」
「…………」
「確かに怖いことかもしれないけど、自分がどう思っててどうしたいかは、言わなきゃ伝わらないじゃん! 向こうにこうしろって言う権利があるんなら、お前にもこうしたいって言う権利があるだろが! お前は親にとって奴隷でも部下でもなく、子供なんだから!」
「言ってることは、分かりますけど……でも──」
「あとな! お前はいつまで不幸に酔ってんだよ! 悲劇のヒロインぶってんじゃねー!」
「──っ! そんな言い方っ!」
「謝らねーぞ! 誰だって生きてりゃ辛いことくらいあるんだよ! ソレでも諦めずにそのハードルを越えるしかないんだよ!」
「…………」
「愛理の場合、そのハードルが他人より高いってだけの話だろ!?」
「…………」
「怖かったら、俺が一緒にいてやる。ソレでお前が落ち着くんなら、隣にいてやる。ソレでも駄目なら手ぇ握っててやる」
……届いてくれ。
気持ちを受け入れられない、背負えないとか言った分際で都合のいいこと言ってるとは自分でも思うが。頼む……!
「そのハードルが高すぎて、棒高跳び並みだってんなら、俺が棒になってやる!」
「……へ?」
「……え?」
《…………》
「あ、いや今のは下ネタじゃなくって! だあぁー! しまったぁ!」
「……ぷっ」
「わ、笑うな! カッコ悪いけどマジだ! 跳ぶのはお前自身なんだ!」
「……はい」
……ようやく、愛理が目尻に涙を浮かべながらも、笑ってくれた。
……ホラ、思った通り、美人じゃないか。
「……だから、お前が何を思ってて何をしたいかは、お前の口から伝えろ」
俺も愛理の笑顔に応えるように、泣きながらも笑いを浮かべてみせた。
「…………」
「もう頑張ってるお前に『頑張れ』なんてありきたりな言葉しか言えなくて、すまなかった。自分のボキャ貧っぷりが嫌になるよ。あの言葉は取り消す」
「…………」
「……頑張るのをやめないでくれ。自分が本当に無理だって思うまで、頑張り続けてくれ」
「頑張るのを……やめない……」
「……コレは親父の言葉だけど、例え百回障害にぶつかって、百回悔しくてミジメで情けない思いをしても、百一回目でソレを乗り越えられれば、今までの苦しみはこの時の為にあったんだ、って報われるんだよ! あの時苦しくて、悔しくてよかったって思えるんだ。その瞬間まで大っ嫌いだった情けない自分を、大好きになったって、誇れるんだよ!」
「……先輩」
「……一番悲しくて悔しいのは、乗り越えられるかもしれないのに、そうしようとしないことだ。自分に期待するのをやめて、ずっと自分を諦めて、嫌いなままでいることだ」
「……はい……!」
愛理がそう頷いたところで、ドアが開き、愛理の母親が出てきた。
「ソレで……別れ話は終わったの? またあんなことされたらたまらないんだけど?」
「愛理……」
「……はい」
「そもそもあんたはこの子の何なの?」
「あんたさ、愛理が好きなラーメンの味、知ってる?」
俺はそいつの質問を無視して、質問を返した。さっき愛理に質問を質問で返すなと言った口でだ。
「……はぁ?」
「分かんねーよな。じゃあ、愛理が犬派か猫派か、知ってる?」
「…………」
「…………」
俺は敢えて何も言わなかった。目の前の女の苦虫を噛み潰したような顔を見て、俺が言いたいことが伝わってるのを十二分に理解できたからだ。
──娘の好きな食べ物や、好きな動物、そんな当たり前のことも知らねーで、母親とか言ってんじゃねーぞ、と。
「……コレから覚えればいいのよ。……もう一度聞くけど、あんたはこの子の何なの?」
「犬派で、醤油派で、鈍感で目つきのわりー先輩だよ。ソレだけだけど、そういう絆もあんだよ。文句あるか、コラ」
「……何なのこのガキは? ホラ、行くわよ愛理」
「お母さん……わたし、戻るね」
「……は?」
「わたし……一緒には行けない」
「……何言ってるの?」
「お母さんがわたしと離れてる間に、色々あったように、わたしにも色々あったんだ」
「ちょっと……このガキに何か言われたの!?」
「先輩は関係ない! ちゃんと聞いて! わたし……今、新しい自分、見つけたんだ。自分の居場所も、本当に幸運だと思うけど、わたしを必要としてくれる人もいるんだ」
「…………」
「だから……わたし行くよ。お母さんも、その人と幸せになって」
「……自分が、何言ってるか分かってるの?」
「うん。正直、わたしそっちじゃ邪魔だろうし、わたしもこっちの方がいいんだ」
「そう……じゃあ、勝手にしなさい」
苦虫を噛み潰したような表情で、その女が車へと歩いて行く。
マジかよ……この場合は好都合だが、そんな簡単でいいのか、と思わないでもない。
「……っ」
「……。愛理」
気がついたら、愛理が俺の手を掴んでいた。震える手で。
……あぁ、いいぜ。約束したモンな。
怖くなったら、隣に立って、ソレでも駄目なら手を握ってやる、って。
俺は無言で愛理の手を握り返した。
「……お母さん!」
「……何?」
振り返る彼女に、愛理は精一杯笑顔を作って言った。
「生んでくれてありがとう。今まで『何でわたしなんか生んだんだろう』って思ってたけど、今日、生まれてよかったって、そう思えるようになったよ!」
「……そう」
ソレだけ言って、彼女は車に乗り込み、やがて車が走り出した。
「……ぅ」
「……よく言ったじゃねーか。偉いぞ、愛理」
「はぃ……」
俺は愛理の頭に手を置いて、多少乱暴なくらいに彼女の頭を撫でてやった。
「先輩……」
「おう?」
「何で……追いかけてきてくれたんですか?」
「だから……俺の為だって──」
「だとしても……わたしが本気でどうでもいいヤツだったら、放っておきますよね。普通」
「……ふむ」
「教えてください……ソレを聞かなきゃ、わたしとてもステージに上がれません。好きな人にフラれて、母親と決別して、ズタボロコンディションです」
「……う~む」
「やっぱり、理由なんてない──」
「素敵……って、女の子に言われると嬉しいんだな」
「──え?」
「俺……一応、女の子にカッコいいって言われたことは、あるんだよ」
……妹と従妹にだけど。
《…………》
「優しいって言われたこともある」
……コレも妹みたいなヤツにだけど。
《…………》
「でも、素敵ですって言われたのは、初めてだったんだ。……ソレが、何だか自分でもよく分からないけど、妙に嬉しかったんだ」
「先輩……まさか、ソレで?」
「もちろんソレだけじゃないぜ? 理由なんていっぱいあるけど、何か、妙に嬉しかったんだ」
「…………」
「答えに、なってないか?」
「いえ……充分です。先輩、ありがとう」
俺は、愛理の求めていた答えを出せたんだろうか?
ソレは分からなかったが、愛理は笑ってくれた。
「宗二……ごめん」
俺は宗二へと向き直り、謝罪の言葉を口にした。
「……いいよ」
ソレでも、宗二はいつもの笑顔を見せてくれた。
「愛理を乗っけて、先行っててもらえるか?」
「……へいへい。先に殴られてるわ。秋もあとから来いよ?」
「あぁ。ありがとう」
「お、お願いします!」
そう叫んだ愛理が宗二の後ろに座り、走り出したバイクはドンドン小さくなっていった。
ライブをブッチして店長にボコボコにされた上に、本日以降の出禁を喰らった俺が、控え室に戻ってくると、
「うわ……すごい鼻血」
「鼻血はお前には言われたくないな」
そこにいたのは、先程まで泣き喚いていた頼りない後輩ではなく、既に心を決めたヴォーカリストだった。どことなく頼もしくすらある。
「あはは……そうですね。わたしは女だから殴られないで済みました」
「さよけ」
「その代わり、優勝しないと胸揉まれるそーです」
「サイテーだな、あのオヤジ」
「先輩……わたし、優勝してきます。てゆーか、きっとしちゃいます。そんな気がするんです」
「……あっそ。そん時ぁ約束通り学食で全部乗せおごれよ」
「はい。約束です。何ならデートにも付き合います。ホテルだって付き合います」
「……ソレは辞退させていただく」
「あはは……乙女の一大決心だったのに……ひどいです」
「もう出番だろ。アホなこと言ってないで集中しろ」
「はい……ソレじゃ──」
そう言って愛理が取り出したのは──いつの間に拾っていたのか、俺の伊達メガネだった。
「──いってきます……!」
俺とすれ違う瞬間、伊達メガネを掛けた愛理が小声で呟いた。
『お待たせしました! 時間押しちゃってごめんなさい! 実はライブ直前に……大好きだった人にフラれてきました!』
突然のマイクパフォーマンスに、会場がどよめく。
『もうわたしの乙女心はグッチャグチャのズッタズタです……! そんなワケで! 今わたしはムショーにセックスがしたいのよっ!!』
もはや定着したオープニング導入の決め台詞に、会場が大いに沸く。
俺が壁にもたれかかりながら、眩いライトが踊るステージ上で目一杯、ぶちまけるように自己主張をする愛理の姿を見ていると、隣に、俺と同じように顔に痣を作った宗二がやってきた。
「コリャ負けたかもな……」
「…………」
「後悔してるか? 放っておけば俺達の勝ちだったのに……って」
「……まさか」
聞こえたかどうか分からないが、俺は小さくそう答えた。
「ここは可愛い後輩に華を持たせただけだよ。塩を送るってヤツだ。俺みたいな天才が本気出したら、誰もついてこれないから、ソレじゃつまらないからな」
制約が掛かったかは分からない。ソレでなくともこの大音響の中で聞こえるか怪しいモノだ。
宗二は何も言わずに俺の肩を叩いて、いつもの爽やかスマイルを浮かべてどこかに行ってしまった。
正直助かる。今は、最高に情けない気分だったから。
……何なんだろう。小さいな、俺は。
さんざんカッコつけて、心を決めたつもりで彼女をあのステージの上に戻したのは、俺自身なのに。
今の俺の気持ちは、さっきの俺とは正反対だ。
あの時、彼女の気持ちにどう答えていいか分からず、制約が掛かってるのをいいことに、ソレを利用したことも、自分を矮小に思わせる気持ちに拍車を掛けた。
「くっそぉぉ……」
涙が零れた。
この分じゃ間違いなく、最優秀賞に選ばれるのはあいつらだろう。
様々なしがらみから解き放たれた後輩が、ステージ上で弾けるような笑顔を見せていることを、素直に受け入れられない自分がどうしようもなく情けなくて、涙を止める方法が分からなかった。
《アキーロ……》
多分俺のグチャグチャした気分が伝わったのだろう。リライ達が心配そうな声を出す。
《どーしたですか?》
《どうしたのよ?》
「……別に。何でもない」
俺は半ば伝わってしまっているとはいえ、こんな情けない気持ちを言語化するのが嫌で、そう答えた。
「アレだな。火事場の馬鹿力で車にしがみついたモンだから爪が剥がれちまって痛いんだよ。アドレナリンが薄まって、今更痛くなってきやがった。まぁ……どの道このザマじゃギターは弾けないから、失格になって丁度良かったのかもな……ああ、痛ぇー」
《もうコレ以上……あたしに嘘、吐かないでよ……》
「…………」
俺はアルルの意向に逆らえない。そんな契約をしていた。
けど今の彼女の声には、ソレを盾に取るようなモノではなく、切実な願いのようなモノが込められていて、ソレを無下にしたくなくて、俺は自然と口を開いていた。
「……嫉妬、してんだよ」
《嫉妬?》
「世の中さ、才能持ってるヤツより努力できるヤツ……とか言うけどさ、アレ嘘だよな。目一杯努力して八十点取れるヤツと、何の努力もなしに九十点取れるヤツがいたら……誰だってそっち取るよ」
……分かった。分かってしまった。
俺には好きなことだけをして、生きていける資格がない。
その分野で数人しかいない『天才』ではないんだって。
《アキーロ。胸を張るですよ》
「……?」
《アキーロにわ……アキーロの望む才能わ足りなかったかもしれねーですけど、もっともっと立派で大切な力があるですよ。アキーロわ命を懸けてアイリを守ったですよ。アイリの命も、才能も、未来も……》
「…………」
《あとでいくらでも甘えさせてあげるです……! だからお願いですよ。泣かないで……今だけわ胸張るですよぉ……!》
「リライ……」
《ぢゃねーと……リライも泣き止めねーですよぉ……アキーロの痛みが流れてきて……貰い泣きが止まらねーですよぉ……!》
……リライ……っ!
俺は思い切り両手で顔を覆い、手の平でゴシゴシと乱暴に擦った。
「分かった……ごめんな? リライ」
《はいですよぉ……ズビっ》
……そうだな。少なくとも愛理の前では、あいつのいる空間では、カッコいい先輩でいよう。
《……アホじゃないの、あんた達……本当にアホよ……ドアホだわっ!》
そんな声がして、今まですぐ近くに感じていたアルルの存在が消えた。
「……アルル」
《もう、浄化わ完了しているですよ。でも……もうちょっと、明日くらいまでなら、リライ頑張れるです》
「……うん」
《だから……アキーロわ、ちゃんとアルルにも謝らないとダメです》
「うん、分かってる」
言われずとも俺はそのつもりだった。あいつにも俺の痛みが流れ込んでいたせいなのかもしれないが、最後に聞いたアルルの声も……泣いていたから。