第九話
「はぁ……はぁ……」
……あちい。
「はぁ……ふぅ……」
……静かだ。誰もいないのか。
寂しさを覚えるほどの静寂に、俺は孤独を感じていた。
「……参ったなぁ……どーすっかなぁ……」
思い出したように俺は身体に力を入れて、何とか立ち上がってみようと試みる。
「……っっってええぇぇぇ……!」
こちらも思い出したとばかりに、精神を削り取られるような痛みと熱が帰還する。
「はっ……はぁ……はぁ……」
聞こえるのは自分の荒い息遣いと、うるさいくらいに暴れる鼓動だけ。
「……ぐっ……う」
うるさい。少しは落ち着いてくれ。こんなんじゃ、いつまで経っても血が止まってくれないじゃないかよ。
既に両手はおびただしい鮮血に染まりきっていて、俺の座り込んでいる周囲には血溜まりができてしまっているというのに、ソレでもなお流血は留まることを知らぬが如く湧き出てくる。
「……は……ふぅ」
ようやく呼吸が落ち着いてきた。
先程までは焼けるように熱かった身体も、今は急激に冷えてきている。
地獄の責め苦のように感じていた痛みも、今はもうほとんど感じない。
ソレが果たして良いことなのか、悪いことなのかは分からないが。
とにかく、熱が抜けたおかげで先程よりは落ち着いてきた。
だが身体は鉛を呑んだかのように鈍く、動けそうにない。だというのになおも血は抜け出ていく。
指の一本もまともに動かせそうにない。視界の隅に転がっている携帯電話までたどり着けるかすら怪しい。
「コレは……死ぬ……ってことなのか」
まるで他人事のように俺は呟いた。
先程この傷を負った時は、発狂しかねない程の恐怖を覚えたというのに、もう遠い昔のことのように感じる。
勿論恐怖がないワケじゃない。だけど、今一番頭の中を占めている感情は、自分自身のふがいなさに対する憤りと、救ってやれなかったことへの負い目。
「……は、はは……」
……自分でも呆れてしまうくらいの聖人っぷりだな。
いつからこんなイケメンになった? まさか、自分を殺した相手に同情しているなんて。
……目が霞んできた。死ぬのか。こんな、うらぶれた誰もいないところで。一人寂しく。
「寂しいな……こんなの」
不思議と恐怖はなかった。
いや、ないと言えば嘘になるが、ただただ俺は寂しかった。
死ぬのは別に構わない。少し前の俺は自分の命を軽んじている部分があったし、ソレに、たとえ自分が死んででも助けたいと願っていた最愛の人は既に助けることができたから。天使がくれたクリスマスプレゼントのおかげで。
そうだ、あのプレゼントは、もともと死ぬ運命にあった俺への延命措置。そう考えれば……。
そう結論づけた俺は目を閉じた。急激に眠くなってきてしまい、自然とまぶたが重くなってしまったのだ。
「―ろ? アキーロぉ?」
……誰かが……走ってくる足音が聞こえた気がした。足音が俺の前で止まる。
「…………」
どさ、と何かが落ちる音がする。
……誰、だ?
俺は未だ閉じたままでいようとするまぶたを苦労して持ち上げる。
……そこにいたのは、俺の妹だった。
見たことがなかった。こいつの、こんな表情を。
こんな、絶望にその碧眼を見開き、整った顔を目一杯歪ませる表情を。
「……っ!」
──ヒュウ、と鋭く息を吸い込む音が聞こえた。
「り、リラ──」
「あああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ──っ!!」
聞いたことがなかった。
こいつの、こんな声を。こんな、喉が擦り切れるんじゃないかと思えてしまうくらいの、絶望に囚われた絶叫を。
初めて見た。
こいつの、こんな姿を。こんな、壊れてしまうんじゃないかと思えてしまうくらいに、頭を抱え、その場に崩れ落ちる姿を。
「アキーロ! アキーロぉっ!! いやっ! いやぁっ!! 嘘です! こんなの! こんなの嘘ですよっ!! いやですよっ!! いやだ……! あたし……いやだよぉぉ……! こんな、こんなの! いやあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ──っ!!」
「……っ!」
先程まで急速に冷えていった胸の内に、突然一つの火が灯る。
ソレは、爆発的に渦を巻き、一瞬で身体中に広がっていった。
「いや……いやぁ……いやですぅ……こんなのいやです……お願いです、もうワガママ言わねーです。勝手にニャーを連れこまないです。セーブの上書きもしねーです。お漏らしもしねーですぅ……!」
……何が……
何が『死ぬのは構わない』だ……。いつからそんなに諦めがよくなった?
見ろ。目の前で俺に縋りついて泣き崩れている『家族』を。
どうしてこいつは泣いている?
こいつを泣かせているのは誰だ? お前だろ!? 戸山秋色。
「だから……お願いです……アキーロ……アキーロ……アキーロぉ……」
……いい加減気づけ。
俺には悲しんでくれるヤツがいる。死ぬワケにはいかない理由が腐る程あるってことに!
……そうだ。俺は死ぬワケにはいかない。俺は生きたい。
……なら、どうする? どうすればいい?
「許さない……許さない……絶対に……許さない……」
「り、リライ……」
「……ろしてやる……殺してやる……殺してやる……!」
「リライっ!!」
「──っ! アキーロ!?」
熱に浮かされたように、何やら呟いていたリライに向け、俺は大声を出した。
こいつなら……何とかできるかもしれない……!
「アキーロ! 生きてるですか! 大丈夫ですか!?」
腰でも抜けてるのか、駆け寄り方を忘れてしまったのか、リライはバタバタと這いずるように俺に近づいてきた。
「……生きてるよ、勝手に殺すな。あー……でも、あんまり大丈夫ではないかな、はは」
……落ち着け。動揺するな。リライまで不安にさせちゃ駄目だ。
「うぅ……アキーロぉぉ……痛いですよね? 怖いですよね?」
「あぁ、痛い。生きてるって感じが……するよ」
「あぁ……アキーロ……すごい汗です……あぁあ……!」
「まぁ……痛いけど……怖くはないよ……お兄さんだから、な」
身体中のそこここで存在をアピールする痛みを、俺はありったけの精神力で完全に無視した。
「ぐすっ……うぅ……」
「……リライ?」
「……自分の……せいです。自分が……アキーロをスカウトなんてしなければ……アキーロに会いに来なければこんなことにわ……」
「バカ。そんなこと……二度と言うな。俺は感謝こそすれ、お前を恨んだりなんか絶対にしてないぞ。そもそもお前に出会わなきゃ俺、死んでるし、優乃先輩だって助けられなかったよ」
「ユノを助けた時点でサヨナラしておけばよかったんです……! 自分がもう一度アキーロに会いたいって思っちゃったから……いぎゃっ!」
俺は分からず屋のリライの頭を優しく包み込み、そのまま頭突きを喰らわせた。
途端に、腹部にバカみたいな痛みが走る。痛ぇ。デコピンにしときゃよかった。
「いい加減に……しろ……リライ。怒るぞ」
「うぅ~……」
「そんな寂しいこと言うなよ……もう俺は、玄関開けたらお前が駆け寄ってくるのが当たり前になっちゃってるんだぞ。お前がいなかったらって……考えるだけで、寂しくなっちゃうよ」
「……アキーロぉ……」
「まぁ、ソレはさておき……このままだと少しまずいことになりそうだ……リライ?」
「グスっ……はいですよぉ……」
俺は泣きじゃくるリライをあやすように彼女の頭に手を乗せた。リライのキレイな銀髪が俺の血で汚れてしまう。ごめん、リライ。
「確か、お前が俺をリトライさせてる時って……こっちの時間は止まってるんだよな?」
「はいですよ……自分まだ半人前ですから、止まっちゃうですよ……そのくせお腹わ減るですよ……ごめんなさいぃ……今度からちゃんと我慢するですから……だから……」
「……アホ。お腹グーグー鳴らしながら我慢されてる方が嫌だわ。じゃあさ……」
「はいですよぉ……」
「今、リトライしちゃって……俺がこんな目に遭う原因を消失させることができちゃったら……助かっちゃう、よな?」
何か口調が妙なことになってしまったが、俺は精一杯笑顔を浮かべ、おどけながら言った。
「アキーロ……その原因になる罪人のデータが……アキーロの中にねーですよ……だからどの時代に行けばいいのか、どの時代なら浄化できるのか……分からねーですよぉ……」
リライは自分の未熟さが原因だとでも言いたげに涙をボロボロこぼす。
「あぁ、だから、浄化対象の情報が必要、なんだよな。で、前に言ってたよな? 細胞は、情報を持ってる……って」
「はいですよ……」
「コレで、どうかな?」
俺は血まみれの手をリライの顔の高さまで掲げて見せた。
「何ですよ?」
「涙。浄化対象……罪人……イリアの、涙だ」
そう。俺を刺した時、彼女は俺の手の上に涙を零していったんだ。涙が落ちたその部分だけは、奇跡的に血に汚れずに済んでいた。
「コレを摂取して、ソッコーでググリ先生に情報解析してもらって、浄化が可能な時代に俺を飛ばす……どうだ? できるか?」
俺が言い終わるか否かのタイミングで、リライが俺の手の甲にチュ、と口付ける。
「やってみるです……! ググリ先生! お願いですよ!」
まるで……忠誠を誓う儀式みたいだ、と思った。
「早く……! 早く!」
一緒に俺の血も取り込んだのか、血まみれの顔でリライが叫ぶ。
「急いで下さいですよ……! ググリ先生!」
……賭けだな。もし運命なんてモノがあるのなら、どうあっても俺がイリアと出会う運命にあったのなら、多分コレしかないんだろう。
いくら彼女を避けて暮らそうが、きっと俺はこうなってしまうのだろう。
「ググリ先生……早く! アキーロが……!」
気が気じゃないのだろう。リライがヒステリーを起こしたかのように喚く。
落ち着け、とリライに声を掛けようとした瞬間、
「きました! アキーロ! いけます!」
リライがこちらに視線を戻しながら叫んだ。だが──
「はっ……はっ……はぁっ……」
そのリライは顔面蒼白で、尋常じゃない汗をかいていた。呼吸も乱れている。
「リライ……?」
「どうして……? 気持ちが制御できねーです……! 指が震えて、息が苦しくて、涙が止まらねーです……! どうして! 自分がしっかりしないと、アキーロが……!」
「リライ……」
「自分……やっぱりできそこないで……失敗作です! こんな! こんな時に! 役立たずです……!」
堰を切ったようにリライが泣き喚く。
失敗したら俺が死ぬ、ということが相当怖いのだろう。
「止まって……止まってぇ……! 止まって下さいですよぉ……! でないとアキーロが! アキーロが……!」
自分の手を抱きながら涙を流すリライを、俺はできる限りの力で抱き締めた。
腹部に走る激烈な痛み。
邪魔するな……お前は、引っ込んでろ……!!
「……アキーロ?」
「リライ……俺は死なないよ」
身体の中で暴れ狂っていた熱も、痛みも、まるで感じなかった。目の前の少女が自分のことで心をかき乱されていることが、何より辛くて……嬉しかった。
「アキーロ……」
「俺は絶対に死なないよ。俺はリライを守らなきゃいけないから、死なない」
「アキーロ……」
「な? あまり重く考えるな。ちょっと遊びに行ってくるくらいに考えろ。ソレでも失敗したら……次の手を考えるだけだ。どうなろうと、俺は死なないんだから」
「アキ──」
「んで、ちょっと遊びに行ってサクっと浄化してきたら、必ずリライのところに帰ってくるよ。そんで、二人でご飯でも食べに行こう?」
「アキーロぉ……」
「わ・ら・えっ!」
「ニャ~!」
俺はなおも泣こうとするリライのほっぺたを笑顔のまま引っ張った。ホント血まみれにしちゃってごめんなリライ。
「イテーですよぉ……」
「だったら鼻水しまってさっさと送れ。そんで見てろ。お兄ちゃんの超カッコいいところを」
「……分かったです」
「あぁ」
「アキーロが帰ってきてリライを守ってくれるまで、リライがアキーロを守るです……!」
「あぁ……!」
本当のことを言うと、ちょっと前、いや、かなり前からやばかった。
既に指先の感覚はないし、視界は暗くなっていた。多分あと一分もせずに俺の意識は途切れるだろう。
ソレでも俺は笑って見せた。
「リライ……俺の目を見ろ……」
「はいですよ」
強がりでもない。
「呼吸を合わせて……すぅ……はー……」
「はいですよ……すぅ……はー……」
本当に死なない確信があったワケでもない。
「じゃあ、行くぞ……俺とリライ、じゃなくて、一つになるって念じるんだ……」
「はいですよ」
うまくいく自信があったワケでもない。
ソレでも……俺は笑って見せた。
唇が重なり合う瞬間、俺は目を閉じた。
「いってらっしゃい……アキーロ」
「いってきます」
ただ、リライに泣かれるのが死ぬほど怖かったから。