第三話
雨は止むどころか、益々激しさを増していた。
彼女の傘を俺が差し、俺のその腕に、あぁ……彼女がまたもしがみついてくる。
「その……送っていくよ」
俺は彼女の方を見ずにそう言った。彼女がこちらを向くのが、視界に映ったワケでもないのに、気配だけで分かる。
「せ……先輩の家に行っちゃ……ダメ……ですか?」
隣のやや下方向から、消え入りそうな声が聞こえてくる。
「……ごめん。明日、早いし……ソレに、妹……いるし」
「……先輩、妹いたんですか?」
「あ、あぁ……」
……最近できた妹だけどな。
「だから、送ってくよ」
「…………」
彼女は俯いたまま、何も言わなくなってしまった。俺も何も言わない。
だってのに、雨のヤツはやかましいくらいに自己主張を続ける。おかげで傘からはみ出た俺の肩はびしょ濡れだ。
「……バッグ、重いだろ? 持つよ」
沈黙に耐え切れなかった俺は、彼女の反応を見る為に、水面に石を落とすが如く行動を起こしてみた。
彼女が抱えているバッグへと手を伸ばす。
「……っ!」
その瞬間、驚くべき力で俺の身体が突き飛ばされた。その華奢な身体のどこにそんな力があったのだろう。
「……あ、ご、ごめんなさい……! でも、だ、大丈夫……です。すみません」
俺を突き飛ばした自分の手を見て、彼女はそこで初めて我に帰ったように謝罪の言葉を口にした。
「そ……そう」
思ってた以上の拒絶反応だ。やはりあのバッグの中のモンは、真っ当な代物じゃないらしい。
……やっぱりこの娘は危ない気がする。正直頭の中では先程からアラート警報が鳴りっぱなしだ。
この娘を我が家に連れて行くのはできればパスしたい。妹に会わせるのは特にだ。
「わたし……迷惑、ですか?」
「……そ、そういうワケじゃない……よ」
「…………」
「ご、ごめん」
「…………」
俺と一緒に俺が掴んでいる傘まで突き飛ばされてしまった為、彼女は雨に打たれるがままになっている。
──だというのに俺は、彼女に歩み寄り、雨を遮ってやることができずにいた。
……何となく、返答の選択を誤ったら危険だ、という考えが頭に浮かぶ。
「先輩……わたしのこと、忘れてましたよね?」
彼女は未だに俯いたままで、その表情は窺うことができない。
「…………」
……俺は何も答えられなかった。イエスと答えるべきなのか、ノーと答えるべきなのか、分からなかったからだ。
……しかし、彼女は俺の沈黙をイエスと取ったらしく、言葉を紡いだ。
「……やっぱり、わたしのこと心配してきてくれたんじゃ……なかったんですね」
「……?」
「そうですよね……もし、わたしの願いが叶って、先輩が助けにきてくれたんだとしたら……遅すぎますモンね」
……何を、言っているんだ?
「わたし……コレでも頑張ったんですよ? 我慢して、我慢して、我慢して! 弱音を吐いたら先輩に怒られちゃうって……」
「…………」
「でも、もう限界で……ソレで、もし先輩がわたしのこと見てくれてて、応援してくれてたら、きっと気づいてもらえるって……サイン、送って」
……サイン? 俺に?
サインって……オートグラフ……じゃない、よな?
「でも、もうダメだって思ってから! 全部手遅れになってから! 先輩が現れて! 先輩はわたしのことなんか忘れてて……」
「…………」
「ひどいよ……先輩。遅いよぉ……先輩ぃ……」
顔を上げた彼女は号泣していた。雨に濡れていても、ソレがハッキリと分かるくらい明確に。
「何を……キミは何を言ってるんだ? 一体何が言いたいんだ!?」
相手が一方的に熱に浮かされていくのが、どこか恐ろしくて、俺はそう叫んでいた。
すると、彼女はまたそこで我に帰ったように俺の顔を見て、再び俯いてしまった。
「……先輩」
「……ん?」
「彼女いないって……本当、ですか?」
「…………」
ワケが分からない。何て答えていいのかも。
「わたし……さっきの、先輩を養ってあげるって……本気、ですよ」
「え……」
「だから、だからわたしと! 一緒にいてくれませんか? どこか、遠い、どこかで! ずっと、ずっと一緒に!」
「だから何を──」
「ずっと! ずっと好きだったんです!」
「──!?」
「わたし、先輩がいれば他に何もいりませんから! 先輩の望むことだったら何でもします!」
彼女が一歩前へ踏み出す。俺は傘を取り落とし、反射的に一歩下がってしまう。
「だから……だから!」
彼女が歩み寄ってくるが、俺達の距離は縮まらなかった。
俺は考えるより先に、彼女から逃れようと足を後ろに進めてしまう。
……やがて、俺の背中は壁にぶつかり、後退は阻まれ、彼女がすぐ目の前まで迫ってくる。
その瞳には、何か狂気と言えるモノが宿っていて、俺は全身に寒気を感じた。
「わたしで、わたしだけで……満足してくれませんか?」
「…………」
「わたしだけで……わたしだけで、わたしだけでわたしだけでわたしだけでわたしだけで!」
「──っ!!」
今度は俺が彼女を突き飛ばす番だった。
初めて感じる類の恐怖に、反射的に手が出てしまった。
その時、彼女が持っていたバッグが地面に落ち……例の、中身が地面に散乱してしまう。
「あ──」
「じゃ……じゃあ説明してくれ! コレは一体何なんだ!? キミは誰だ!? コレは何だ!?」
俺は地面に散らばった札束と、その中で真っ赤に染まった布に包まれていた包丁を指差して、半ばヤケになって叫んだ。
「どうしてこんなモノがキミのバッグから出てくる!? そのヒカリモンにこびりついた血は、一体何なんだぁっ!!」
「……先輩。やっぱりあの時……見たんですね」
「……!」
そう彼女が呟いただけで、俺は口を噤んでしまった。
我ながら情けないが、今まで感じたどの恐怖にも勝る戦慄が、身体中を駆け抜けていた。
「わたしに……嘘を吐いたんですね!」
「……っ」
「先輩はわたしに嘘だけは吐かなかったのに……! 許さない!」
「う……うわぁぁぁあああっ!!」
彼女が眉間に激しい皺を寄せ、叫んだ瞬間、俺の身体は反射的に走り出していた。
「あ……! 待って! やだ……! 先輩、行かないで!」
そう言って彼女が俺の背中に手を伸ばす気配を感じた。とても切なくて、とても悲しそうな声だった。
「いや……! 待って……あっ──!」
走りながらも、俺が首だけで振り返ると、彼女が前のめりに転倒するのが見えた。
──足を停めるべきなのではないだろうか、などと、一瞬何故だか俺は思ってしまったが、その意志は、恐怖に駆り立てられた俺の両の脚にまで届くことはなかった。
「……るさない……」
後ろからそんな声が聞こえた。
とても小さな呟きなのに、聞き逃すことを許してくれない呪い。
「許さない! 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない! 絶対! ぜっっったいに! 許さないからぁぁあああっ!!」
「う、うわっ! うわぁぁぁああああああああっ!!」
彼女の呪いの言葉から必死に逃げるように、俺は叫びながら雨の中を走り続けた。