第十七話
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
空港でタクシーから飛び降り、全力でロビーまで走ってきた俺は、奇跡的に都の姿を見つけることが出来た。
いた……! 会えた。会いたかった。
良かった……! いや、良くない。
なんで? 何故? 聞きたいことがたくさんある。
「……っ!」
落ち着け!! 深呼吸しろ。
クーラーが効いているとはいえ、俺は汗だくだ。
きっと頭を丸めたせいもあって、髪の毛が流れる滴を止めてくれないんだろう。
「……っ」
都も俺の姿を視認したようで、一瞬驚いた顔をした後、すぐに申し訳なさそうに俯いた。
俺が近づいていく内に、隣にいるお母さんに何がしか声を掛けて、こちらにやってくる。
「……よう」
「……うん」
俯いたまま目を合わせない都に、俺は声を掛ける。
「宗二を責めないでやってくれよ。俺を思う気持ちが勝った結果だ」
都が顔を上げる。少し意外そうな……驚いた顔をしていた。
きっと俺の第一声が、愚痴や恨み言だと予想していたのだろう。
「うん……分かってる」
そう言って涙ぐむ都に、俺は続ける。
あと何分あるか分からないんだ。
「……いつから、決まってたの?」
「戸山と……出会う前から。夏休みが明けたら転校して、パパのところで暮らそうって。慣れる為にも、八月はそっちで過ごそうって」
「そっか」
俺、ピエロじゃん──とは思わなかった。不思議と怒りが湧いてこない。
「決まった時は、何とも思わなかった……早く行きたいって、喜びすらしてたよ。あんなとこ、何の未練もないし、誰もウチがいなくなっても、悲しまないだろうって」
「…………」
「でも、戸山と会って、救ってくれて……ウチなんかと、仲良くしてくれて……どんどんこの街を離れるのが、辛くなって……言いだせなくなった……ごめんね……ごめん」
ここで、涙を流しながら謝り続ける彼女を責められるほど、俺は自分本位な男ではない。
「いいよ。お前が言おうとして言えなかった……苦しんでたって分かっちゃったら、もう何も言えないよ」
ここで恨み事を口にして、惚れた女に苦い思い出を残す方が男として問題がある気がするし、都は勿論のこと、俺の心にも今後影を落としかねない。
「まあ、言ってくれたら良かったのに、とは思うけど」
少し冗談めかして俺は頬を弛めた。
「戸山……が、泊まった時に、その……もし、手を出してきたら……教えるつもりだった」
「……マジか」
「うん。ウチ、いなくなるけど、それでも後悔しない? って」
赤くなって俯く都を見て、彼女が人知れずそんな覚悟を決めていたことに驚いた。
驚きつつも、つまりソレは手を出されてもOKだったという意味だと思うと、俺も顔が熱くなる。
……多分、出さないけど。
そもそも正式に彼氏彼女になってないのに手を出せるワケないし、お別れだから思い出に、なんてまっぴら御免だ。
「また戸山が女嫌いになってしまうかもって、いつも言うべきか悩んでいた。でも、ウチ……言えなくて」
「ホントだよ。ここでまた裏切られたとか思ったら、本当にもう誰も信じられなくなっちまうだろ」
「……ごめん」
「いいんだけどさ。フラれたんだ、って事実はちょっとへこむ。ちょっとね。ちょっと……やさぐれちゃうかもね」
そう。正式に彼氏彼女になるかの勝負の前に、彼女が行ってしまうのなら、そういうことになるのだろう。
友達以上、恋人未満では遠距離恋愛もクソもない。
ソレに、彼女には後ろを向いて、俺に依存するよりも、新天地で前を向き、自ら道を切り開いて欲しい。
だから、彼女の心をここに縛り付けるワケにはいかない。
「ごめん。ごめんね……」
泣きじゃくりながら謝る彼女を見て、俺は自分を罵りたい心持ちになる。
……こんなことを話したくて、こんな顔をさせたくて来たんじゃないだろ、俺は……!
……でも、何を言えばいいんだろ?
俺がそう思っていると、彼女が俺に近づいてきて、自分が掛けていた伊達眼鏡を外し、俺に掛ける。
「……こんなモノしか、残せないけど」
「……くれんの?」
「うん。安全装置」
「……安全装置?」
「戸山、短気だし、目付き悪いの気にしてるでしょ? だからあげる。ソレに、ウチはこうやってレンズ越しに色んなモノを見てると、主観だけでなく第三者視点で落ち着いた物の見方ができるような気がしたから」
後半は、いつだか聞いた言葉だな……スナイパーのような冷静さ、だっけか。
そんなことを考えていたら、俺に伊達眼鏡を掛けた指が、そのまま両頬を包む。
彼女のひんやりした指を心地いいと思うと同時に、汗だくの自分に触れさせていいモノか、と少し戸惑っていると、目を閉じた都の顔が目の前まで迫っていた。
「……ん」
「…………」
俺達は、最初の……。最初で、多分最後のキスをした。
「お、おまっ……お母さん見てるよ?」
「いいの。ファーストキス、いただきっス」
「は、初めてだって……き、決めつけんな……っ!」
「ふふん、キスをする度思い出せっ!」
きっとテレ隠しもあるのだろう。俺と同じくらい顔を赤くした都がニヒっと笑う。
「くっ……! このままでは終わらん……! て、アホか」
俺がそう言うと、俺達は顔を見合わせて笑った。
「戸山ぁ……どうだった? ウチと一緒にいて」
「そんなん、決まってんだろ。テンション低かったり卑屈だったり、かと思えば高かったり、騒がしかったり、ゲームはバカみたいに強くて全然勝てなかったり悔しかったり、いつもアイスばっか食ってるし、腹壊さないかハラハラするし、何となく気分でいきなりひっついてくるし……」
「ムラムラした?」
「……イライラしたね。たまに妙にエロいし、何だかヤレそうな感じスゴいし、俺なんかって思ってたのに、男らしいとか、カッコいいとか、自信つくようなこと言ってくるし……」
「自信ついた?」
「……ついたね。女は自分のことしか考えてないだけの寄生虫くらいに思ってたのに……お前みたいな優しいヤツもいるって分かった。もう『女なんて』とか言わないよ、絶対。悔しいけどお前のおかげだ。バンバン付き合ってくよ。目指せ百人斬りだな」
「ひっど。ウチもバンバン付き合っちゃうから」
茶化すように笑う都に、俺は突然トーンを変えた低い声で言った。
「駄目だ。お前は……本当の本当にお前のことを大切に思って、お前のことを守ろうと思ってるヤツ以外とは付き合うな」
「……何ソレ? 今更彼氏ヅラ?」
「そうだよ。まだ彼氏になるはずだった男だよ。あのゲートの向こうに行っちゃって、お前が見えなくなるまでは束縛させろよ」
「……分かった。てか……初めてだね。そんなこと言うの」
「……彼氏だからな!」
「真っ赤だよ。無理してんなぁ」
「してない! とにかく、俺はお前に感謝してんだ。最初は超ウザかったのに、いつの間にか目で追っちゃってるのが当たり前になるし、かと思ったらいきなりいなくなるとか、駆け引き上手すぎだし……」
「……寂しい?」
「……うん、寂しいよ。明日からどうすりゃいんだって、不安だよ」
まずいと思ったが、本音が漏れた。弱い心が溢れそうになった。
「戸山って……たまにすごい素直に甘えるよね」
そう言って目に涙を浮かべた都が、再び俺の頬に手を当てた。
「…………」
「戸山……女は嘘吐くから、嫌いって言ってたよね? ……ごめん。ウチ、嘘吐いてた」
「……え」
「本当は……戸山のこと、『可愛い』って思ってたの。ずっと」
そう呟く都の悲しそうな、申し訳なさそうな顔を見て、何だか無性に切なくなった。
……いやだ。好きな女を、こんな顔で行かせちゃ駄目だ。
……ここはカッコつけるとこだよな。父さん……!
「そんなん、嘘の内に入んねぇし、お互い様だよ」
「……お互い様?」
「俺も……」
「……俺も?」
「……俺も、お前のこと『可愛い』って思ってた……」
そう言った瞬間、頭をギューっと抱き締められた。汗だくの坊主頭を胸に納められて俺は困惑する。
「わわっ……」
俺が、その柔らかくて温かい双丘の、余りの存在感にドギマギしていると、耳元で囁くような声がした。
「ウチさ……戸山の傷、埋めてあげられた?」
「傷……?」
「うん、ウチが本当に戸山のこと好きになったのって、多分アレがあったから」
「あ、アレって何だ?」
「ウチの部屋で戸山が寝てる時、メチャうなされてたんだよね」
「……!」
見られたのか。悪夢を見ているのを……!?
「イタズラでもして起こしてやろうかと思ったら、いきなり戸山が泣き出してさ」
「…………」
「泣きながら、『一緒に死んであげられなくてごめん』て言ったの」
「…………」
「…………」
「ソレで起きたあと、戸山が小さい声で『死にてえ』って言ったんだ」
「…………」
「…………」
だから、か。
だから彼女は、残りの夏休みをここで過ごそうと思わなかったし、俺との関係にハッキリとした答えが出る前に去ろうとしたんだ。
完全に俺のせい……自業自得ではないか。
「傷なんか……最初からないよ」
俺は、強がることを選んだ。
「嘘だ……」
……嘘じゃない。いや、嘘だけど。
こんな風に自分を好きになって、心配してくれる人がいるという事実が、強がるだけの勇気をくれたんだ。
だから、俺はもう大丈夫なんだ……!
「まぁ、あるかないか分からん傷はともかく、心は……当分お前で埋まってそう」
都の胸から頭を離して、俺は再び彼女の目を見た。
「え……ホント?」
「うん、ゲーセン行ったり、格ゲー見たりしたら、思い出しちゃうかもな」
「えっへっへ~。やった」
「お前は?」
ああ、男らしくないと思いつつも、俺は訊かずにはいられなかった。
「絶っっ対忘れない。ちょっといいかな、って思う人がいたら戸山より好きかどうかで付き合うか決める」
「そ、そんなに? ソレでチャンス逃しちゃったらなんか悪いな。いやでもあっさり付き合われちゃってもソレはソレで複雑なんだけど」
幸せにはなって欲しいが、ホイホイと自分のラインを上回られるのも……ううん、ままならん。
「嬉しくない?」
「嬉しいよ。嬉しいけど複雑」
「じゃあ今度会った時にウチが『彼氏いる』って言ったらどんな顔するんだろ?」
意地悪くニヒっと笑う彼女を見て、何だか心が温かくなる。
「そっちこそ、俺が『彼女いる』って言ったらどうなるのか」
「えぇ~? ウチは……多分、笑って『よかったね』って言いますよぉ?」
「ソレは楽しみだ」
「うん。だからその日まで元気でね」
「うん」
「絶対、絶対元気でね?」
「分かった」
「……死んだりしちゃ、駄目だよ?」
「分かったって」
「……『死にたい』は、『生きたい』なんだよ。ウチだって帰国して環境が変わって、『死にたい』って言葉は浮かべたけど、死にたくなんてなかった。こんな地獄で生きるのは辛いって思ってただけ」
「……死にたいは、生きたい……」
ぽつりと言った言葉だが、ただならぬ重々しさを感じて、俺はその言葉を繰り返した。
「でも歯を食い縛って生きてたら、戸山が助けてくれたよ。ちゃんといいことあったよ?」
「……うん」
「だから、もし死にたくなったら、ウチを思い出して」
「……分かった。ありがとう……優美穂」
「こちらこそ、ありがとう……秋色」
お互いに掌を合わせ、強く握り合いながら名前を呼び合う。
最初で、最後の恋人繋ぎだった。
「……っ」
手が離れ、彼女が背を向け、歩き出す。
手は離れたけど、手に取るように分かるよ。『さよなら』が言えなかったんだろ。
……バカだな。こういう時は、こう言うんだよ……!
俺は大きく息を吸い込む。
「また何処かで会ったら勝負しよう! 次は俺が勝つぞ!」
離れていく背中にそう叫ぶと、彼女は振り返った。
「いいよ! 戸山が勝ったら何でも言うこと聞いてあげる!」
「何でも!? 絶対だな! そん時は容赦なくエロい要求をするからな! 忘れんなよ!」
「うん! 忘れない! 絶対、絶対忘れない!」
何度も繰り返しながら、滲む視界の中、彼女はターミナルの向こうへと消えて行った。
「…………」
行ってしまった。
走馬灯のように彼女と出会ってからの出来事が脳裏に浮かんでは流れ、消えていく。
「…………」
……クーラーが効いているのに、汗が止まらない。
きっと頭を丸めたせいもあって、髪の毛が流れる滴を止めてくれないんだろう。
「……っ」
何粒かは口に入って、しょっぱさで俺を苛み、何粒かは顎を伝い、床に落ちた。
「……ぐ……ぐぅ……っ!」
……汗も、鼻水も、涙も、止まらなかった。
コレが俺の、中学三年の夏の話──都優美穂と出会い、救い、救われた話。
伊達眼鏡、継承。