第一話
気がつけば、ゆらゆらと暗闇に揺蕩っていた。
何も見えない。
何も聞こえない。
何もかもが曖昧な世界。
何もかも忘れてしまう世界。
ここがどこなのかも、自分が誰なのかも、全てどうでもよくなってしまう。
何も起こらない。
傷つくことのない、安心に満ちた世界。
…………
退屈さが安心に勝ってしまった。
どうやら、自分は存外飽きっぽい性質のようだ。
……少しばかり、頭を捻ってみることにしよう。
自分は、誰だ……?
そう考えた途端、視界に自分の手が映った。
見下ろせば腕に、脚もある。
……男だ。でも幼いな。成人していないと思われる。
じゃあ、『俺』はどんな人間だ?
…………
特に思い浮かばない。
もう少し切り分けて考えてみよう。
嫌いなモノは……?
……野菜。数学。嘘……ソレと……女。
では好きなモノは……?
……肉。犬。家族。歌。あとは──
そこまで考えたときだった。目の前が少し明るくなって、何かが見えた。
明るくなってとは言ったモノの、やはり暗闇と形容せざるを得ないような状態ではある。
ただ文目も分かず、といった具合ではなくなった。
目の前の暗闇の中に浮かんでいるのは、白いセーラー服だ。
…………
心臓が高鳴るのが分かる。
クセのない長い黒髪が、セーラー服の肩を滑っている。
俺はこの人を知っている。知っている……はずだ。
でも、名前も思い出せない。
目を凝らすと、さらに暗闇は退き、幾ばくか目の前のセーラー服の少女の輪郭がハッキリとしてきた。
でも、表情が認識できない。
…………
呼び掛けようとするが、声が出ない。
……くそっ、もどかしい。顔が見たい。できれば笑顔が見たい。
何故そんな風に思うのか自分でも分からないが、ずっと焦がれていたような気さえする。
目の前の名前も分からない、表情も窺えない少女の笑顔に。
「ごめんね……秋色くん。君の気持ちに、応えてあげられなくて」
……秋色。そうか、俺は秋色。
彼女の声を聞いた途端、再び心臓が暴れ出す。
涙が溢れそうになる。
「あたし、自分でもロクなモンじゃないなぁって分かってるんだ。こんなの普通じゃない。もし全部があたしに都合よくいっても、クラスのみんなが憧れるような普通の幸せは掴めないだろうな、って」
──じゃあ、どうして?
やはり声は出なかった。だけどまるで俺の思っていることが伝わったかのように、目の前の少女は頷いた……と、思う。黒髪が揺れてソレを教えてくれた。
「でも止められないの。だって、今更じゃない? もうみんなと同じ場所には戻れないよ。多分、もうあたしの目に映る世界と、君の目に映る世界は同じ色じゃない。あたしの世界はもう、暗くて、無感動で、冷たくて……濁ってる。きっと、コレはもう直らないよ」
──そんなことない。まだ遅くないよ。
「遅いよ。遅すぎる。だってあたしもう、選んじゃったモン。あたしの思いつく限り、一番みんなに迷惑が掛かること」
──どうして?
「疲れたの。いい子でいることに」
──っ。
「思ったの。何であたしだけがって」
────
「誰も分かってくれないし、誰も受け止めてくれないなら分からせてやろうって。あたしはあなた達の思うような人間じゃない。自分の見る目の無さを思い知れって」
──俺じゃ、駄目だったってことですか?
「コレ以上──ううん。アレ以上、君に迷惑掛けられないよ。ソレに──」
──迷惑だなんてこと、ないです。むしろ、俺は──!
「──あんた見てるとイライラした。気持ち悪かった。気持ち悪くて吐きそうだった」
────
「少し優しくされただけで、バカみたいに嬉しそうな顔しちゃって。自分という人間を理解してもらえたとか思ってたんでしょ? 犬みたいに尻尾振っちゃって、まるで自分を見てるみたいで嫌悪感しかなかった」
────
「ていうか、あんたのせいだよ? あたしが飛び降りたの。あんたを見てたら『あたしは他人の目からこんな風に見えてるんだ』って死ぬほど恥ずかしくなったの。恥ずかし過ぎて死ぬことにしたの。どうしてくれるの?」
────
「あんたの独り善がりな恋愛ごっこに付き合わされたせいで、自分がドレだけショボいちっぽけな存在なのか思い知ったの」
────
「消えて欲しいと思ったけど、もうあたし死ぬつもりだったし、向こうでまであんたに付き纏われたら堪んないからぐっと我慢したんだよ? 偉いでしょ?」
────
「ああ、スッキリした。正直どうでもいいから放っとこうかとも思ったんだけど、後を追われるんじゃないかと気が気じゃなかったの。間違ってもこっちに来ないでね」
────
「あ、もう朝が来るよ。ソレじゃ、頑張ってね。誰にも愛されない、何の意味もない人生を──」
──い
──んぱい
──乃先輩
泣きたかった。
叫びたかった。
喚き散らしたかった。
ソレでも声は出なかった。
目に映ったのは天井。よく見知った天井。
「…………」
自分が夢を見ていたことを理解する。
「……死にてえ」
目を覚ました時には、どんな夢を見ていたかは覚えていない。
でも何かしら良くない夢を見たんだと思う。でないとこんな最悪の気分にはならないだろう。
そしてやっぱり……涙が出ている。この気分のときは決まってこうだ。
一体何なんだろう。
最悪の気分を抱えて、重い身体を無理矢理に起こし、学校に行く準備をしている間も胸の中には重く苦しいモヤが蔓延しているような気がした。
「……死にてえ」
堪え切れずに、再び俺はそうぽつりと口にした。
俺は……戸山秋色。十四歳。
死んでないから生きている中学三年生……になって少し。
……今日も世界が暗くて、無感動で、冷たくて、濁って見える。
戸山秋色、一周目。
彼女を救えなかった世界。




