第十六話
「お願いします!! このとーり!!」
「お願いしますですぅぅう……!!」
『ニャー』
俺は久方ぶりに、地面さんに熱烈な頭突きをカマした。いわゆる土下座である。
俺の後ろで、仔猫が入っている箱を抱えたリライが泣きじゃくりながら頭を下げる。
「んん……そうは言ってもねぇ」
そして俺の目の前にいる、おっとりした俺より少し年上くらいの女性は、我がワンルームアパートの大家さんだ。
あの後、俺はリライと一緒に動物病院に駆け込んだ。
そこでノミ、ダニ、猫風邪の検査、ワクチン、身体を洗ってもらう、などの処置をしていただいた。
……三万くらいぶっ飛んだ。
……いや、コレでも安く済ませてくれた方みたいだが。
そして、紹介してもらった猫の保護団体へと連絡を取ってみた。
……だが、そこでも、里親が見つかるまでずっと保護してくれるワケでもない、という事情を聞かされた。
一瞬頭に血が昇りそうになったが、団体に勤める人達も、可能な限り里親になったりと、我が身を犠牲にしていること、ちょうど今の時期が猫の発情期であり出産時期なのもあり、爆発的に保護猫の数が増えていること、その為、どうしても一定期間しか預かれないこと、ソレを過ぎたら、最悪殺処分という方法を取らざるを得ない場合があるという現実を聞かされた。
俺は一瞬リライの方を見る。
綺麗になった仔猫達を見て、安堵の涙を浮かべているその顔を見て、決心した。
「分かりました。何とかこちらで里親を探してみます」
背負い込んだのなら、少なくとも幸せになることが確約されるまで、面倒を見ることにした。
知らぬ内に最悪の解決法が取られていたことを後から知って、失意に落ちるあいつの顔なんか見たくない。
獣医さんから、世話の仕方をしっかりと教わりながら、必要な物を買い揃える。
……ここでも数万の金が吹っ飛んでいった。
そして、我が家に帰ってきたところで、大家さんに出くわしてしまったというワケだ。
「戸山さん……ウチはペット禁止ですぅ……」
「分かっています!! 重々承知しております!!」
困ったような顔で笑う大家さんの前で、土下座をカマしたところで、さっきのシーンに戻るワケだ。
「ずっと飼おうなんて思っていません! 一時的に! 里親が見つかるまで保護するだけなんです!」
「えぇ~? ソレでも困りますぅ……」
「駐車禁止だけど、一時的な停止はオッケーな道とかあるじゃないですか!! そんな感じで是非!」
「お願いするですよ!!」
「え、ええ~……い、一時的にって、どのくらいですかぁ……?」
「……い、一ヶ月……くらい?」
「だ、駄目ですぅ! せめて一週間くらいにしてください!」
「せ、せめて三週間!!」
「……二週間」
二週間……獣医さんに聞いたところによると拾ってきた猫達は生後二週間ほど。間もなく目も開き、二週間もすれば安定し、里親に渡しても問題ない状態になるらしい。
……ギリギリか。まぁ、イケるだろう。
「……分かりました。二週間で」
「……はぁ。お願いしますよぉ?」
「はい! ありがとうございます!!」
「ありがとうございますですよ!!」
リライと一緒に深々と頭を下げたのち、先に部屋に戻っていたくるりとリトラに合流し、お手本を見せながら作戦会議をすることにした。
仔猫は自分で体温調節ができず、寒がりな為、お湯の入ったペットボトルを傍に置いてやること、三、四時間ごとに仔猫用のミルクを与えなくてはならないこと、食事のあとはゲップさせてやらなければならないこと。
さらには、仔猫はまだ自力で排泄できない為、こちらで刺激して出させてやらなければならないこと、などなどを伝えた。
「三、四時間ごとにミルクって……寝れないじゃん。どうすんの?」
「交代で起きるしかないな。一週間もすれば七、八時間に一回でよくなるらしいし」
くるりの言葉に、俺はびっしりと書かれたメモを見ながら答える。
「そうじゃなくて……こんなことしてる場合じゃ──」
「頼むよ……くるり」
俺は一瞬リライの方を見てから、くるりに視線を戻してそう言った。
「──分かったよ」
このくるりの言葉を皮切りに、怒涛の日々が始まることとなった。
唯一の救いは、仔猫の面倒を見るリライが、本当に嬉しそうだったこと。
「この子がニャンたで、この子がミーたで、この子がミャーコですよ!」
「……名前は付けない方がいいんじゃないの?」
くるりが小さな声で俺に言ってくる。
「俺もそう言った。いずれお別れする子なんだから入れ込みすぎるなって。でも聞きゃしねえ」
「……きっと、泣くよ」
「もう手遅れだ。明日里親が見つかって渡すことになっても……泣くよ。あいつは」
「……そうだね」
「今日からしばらくは体力勝負になるぞ」
「分かってる。ご飯は任せて。スタミナつくの作るから」
「……!」
俺があの猫達を保護したのは、何もリライを甘やかしたいからじゃない。
小さな命を守ることで、成長して欲しいと思ったからだ。
……だが、どうやらソレが期待できるのはリライだけではないようだ。
仔猫達が中心の生活を送って、三日ほど経ったある日の夜のことだった。
「……?」
自分の布団で寝ていると、背中に何かが当たるような感触を覚えた俺は、浅い眠りから目を覚ました。
一緒に寝ているリトラが、いつものように背中にくっついてきたのかと思ったが、どうやら違うみたいだ。
薄く開けた視界に、ぼんやりとだが寝息を立てるリトラが見える。
……つまり、今俺の背中に体温を伝えているのはリトラではない。
「…………」
「…………」
……リライか。この時間の猫達の面倒係は、あいつだったからな。
ソレをさぼって寝に入るなんてけしからん、と一瞬思ったが、ソレはあり得ないな。
あいつが仔猫達の世話を放棄するなんて、あるはずがない。
ソレに、寝息ではない呼吸音が本当にかすかに……時計の針の音より小さくだが、確かに聞こえる。
……仲直りしに来たのかな?
どうやら俺の背後の人物は、何かを迷っているような気がした。
決してそういう知識やスキルを持っているワケではないが、何となく呼吸や俺への触れ方から俺はそんな印象を受けていた。
「……どうした?」
俺は自分が起きていることを小さな声で教えてあげた。『起きてるのはお前と俺だけだ』と。
背中から聞こえる呼吸音が止まる。驚いたのだろう。
「…………」
「…………」
少しずつ呼吸音が戻ってきた。ソレどころか先程より大きく聞こえる。
緊張しているのだ。
「…………」
「…………」
俺は何も言わず、緊張しながらも逃げ出さない呼吸音の主が、何かを言い出すのを静かに待ち続けた。
きっと許すことにも勇気がいるのだろう。
……頑張れ、リライ。お兄ちゃんはお前を愛しているぞ。
おそらくリライが俺を許す旨の発言を口にし、次にごめんなさいと謝ってくるだろう。
そうしたら俺ももう一度謝ろう。きっとこいつは泣いてしまうだろうから、抱き締めてたくさん頭を撫でてやろう。
泣き声を上げるとみんなが起きてしまうから胸に埋めよう。噛みつかれても構うモンか。
「……ねぇ」
「……!?」
今度は俺が驚いて息を止める番だった。
後ろから囁かれたその声が、リライのモノではなかったからだ。
「……くるり」
そう、寝ていた俺に添い寝して、俺の背中に額を当てているのは、リライではなく、くるりだったのだ。
「……なんで」
「世話役……変わったんだ。リライは寝てる」
予想していたのだろう。俺の質問を遮ってくるりが答える。
「……そうか」
「……うん、動かないで。リトラが起きちゃう」
そう言われて、俺は目の前のリトラに目をやる。
「……ん」
垂れていた涎を拭いてやると、その手を掴まれ、頭を乗せられてしまった。
起きている時はクールなリトラだが、寝ているときはリライと同じで滅茶苦茶に甘えてくるのだ。
「……で、どうした?」
「…………」
俺がリトラの頭を撫でながらもう一度問うも、答えは返ってこない。
答えない代わりに、寝巻がぎゅっと握られた。
「…………」
「…………」
……しかし、驚いたな。予想だにしていなかった。
アレだけのケンカをして、ソレ以来俺を完全にシカトしていたくるりが、自ら俺の布団に来るなんて……て、コレだと何かいやらしい意味に捉われてしまいそうだぞ、などと俺が自分にツッコミを入れていたときだった。
「……どうすれば、挫けないでいられるの?」
「…………」
ぽつりと、彼女が溢した。
「どうすれば……挫けないでいられるの? どうすれば……諦めずにやり遂げられるの?」
「…………」
俺はまたも驚くこととなった。
くるり……お前……。
「…………」
『答えて』と言いたげに、俺の寝巻を掴んだ指に力が込められる。
「誰かを……好きになるといい」
俺はそう答えた。
「……?」
「誰か……大好きな人ができれば頑張れる。尊敬する人、守りたい人、自分を誉めて、認めてくれる人」
「…………」
「逃げたくなった時や躊躇する時は、その状況で『大好きな人が望む自分』を考えるんだ。そうすれば、目一杯カッコつけてやろうって気分になる。もし勇気が足りなくて……結果、逃げてしまったとしても、大好きな人はここで自分が傷つくのは望んでなかったはずだ、て……後悔はしないで済むと思うよ」
「いないよ……いないんだよ……! そんな人……!」
絞り出すような声がした。
……くるりが、泣いている。
「いるよ」
「…………」
「リライはお前のこと姉貴であり、妹であると思ってるぞ、多分。ソレに料理に関しては師匠だもん」
「姉貴で……妹」
「俺だって……あいつの期待に応えたいし、守りたいから目一杯背伸びをして、兄貴をやっていられるんだ」
「背伸び……」
「うん。まぁお前にそうしろとは言わないけどさ。少しは参考になればいいんだけど」
「……うん」
「てか、お前は重く考え過ぎだよ。もう少し肩の力抜けよ」
「……無理だよ。気楽にやれることじゃない」
……何だか俺は安心していた。そして……嬉しかった。
実は、俺は人知れず心に決めていたことがあった。
この猫達の世話を終え、無事に里親を見つけることができたその後のことだ。
もしくるりが今のまま、何事に対しても情熱ややる気をもって向き合えず、どうでもいいと不貞腐れた態度を取り続けたその時は、再び思い切り一喝してやろうと思っていた。
俺の思ってることを全力でぶつけて、ソレでもこいつが変わらなかったそのときは、もう諦めることも視野に入れていた。
……人を一番成長させ、強くさせるモノ。
ソレは失敗だ。
力及ばなかった自分を許せず、悔しくて、悔しくて、悔しくて……眠ることもできない夜。
そのことを思い出す度に、胸が痛んで涙が浮かび、拳に力が入る。
頭の中でも何十回、何百回と『たられば』を繰り返し、最後にはもう二度とあんな思いをするのは御免だとそこに辿り着くこと。
ソレが一番人を強くし、成長させるのである。
結局、その人間が強いか弱いかを決めるのは、困難に押し潰されたときに再び立ち上がれるかどうかなのだ。
俺はそう思っている。ソレが俺が兄貴に、そして親父に叩き込まれた教育論だ。いわば戸山家の教育論だな。
だから親父は俺達に何にでも興味を持ち、やってみるようにと育ててきた。ソレで失敗して悔しかったら成長の糧とし、本人だけの力では及ばず、その失敗が取り返しのつかなくなりそうなモノであったときは手を貸してくれた。
……アレ? あぁ、俺が今回リライにしたことと、同じじゃないか。
……話を戻そう。
俺は安心していた。杞憂だったのだ。
くるりはずっと気に病んでいたんだ。自分を責めていたんだ。
もうどうでもいいと思っているのなら、絶対に抱かないであろう感情と、必死に向き合おうとしていたんだ。
……つまり、こいつは再び立ち上がって、戦う意思を持っているということだ。
リトラに腕を占領されていなければ振り向いて、抱き締めてやりたかった。思い切り頭を撫でてやりたかった。
でもソレは叶わないので、せめて俺は精一杯の心を込めて、こう言った。
「……いざって時は、俺が何とかする」
「…………」
「…………」
「……うん」
「じゃあ、俺は寝るから……あと頼むぞ。おやすみ」
俺はくるりが泣いているのに気付かないフリをして、ぶっきらぼうにそう言った。
「……ん……! おやすみ……っ」
くるりが俺の背中に顔を埋めて、震える指で力いっぱい俺の寝巻を掴み、涙声でそう応えた。
「……っ」
数十秒ほどそうした後、くるりは俺の背中から離れて仔猫の世話に戻っていった。
……絶対に俺が何とかしてやる。
俺は眠りに落ちるまでの短い時間に、その気持ちを再度心に刻み込んだ。




