第十三話
「ぐはぁっ!!」
そんな声がしたと思うと、その声の主である入州虎男は中空を舞っていた。
大の男がである。一瞬ではあるが、俺は確かに見た。
一体どうしてこんなことになってしまったのかと言うと、だ。
あー……その説明には、少し時間を要する。
この間の……入州香奈の件があってから……今では馬鹿げたことだと自分でも思っているが、俺は頭を三針縫う怪我を負った。
治療を終え、病院から俺と、泣きながら俺を責めるリライが自宅へと帰ると、そこには鍵を持っていなかったので入れなかったのであろうくるりとリトラがいた。
「おかえりなさい、秋色兄さん、リライ姉さん」
「…………」
「ただいま」
「ただいまですよ……ぐすっ」
弟の顔を見たからなのか、リライが少し持ち直したのが窺えるような声を出す。
さっきまでは泣きじゃくって、俺に引っ付きながらバカだのアホだの言ってたんだぜ。
「どうしたんですか、その頭の怪我は?」
「ちょっとな。お前こそ、その顔はどうした?」
そこに触れられると、またリライが取り乱すと思った俺は即座にそう聞き返した。事実、気になるところだったし。
そう、リトラの頬は平手打ちを食らったかのように赤くなっていた。肌が白いのでよく分かる。
「兄さんが取った行動は正しかったのに、なぜ怒ったのですかと聞いたら、くるりさんに殴られました」
そう言って、リトラは玄関前で膝を抱えてしゃがみ込んだまま、こちらを見ようともしないくるりの方を見る。
「正直未だによく分かりません。あの場で取れる行動はアレがベストだったのになぜ怒ったのか……話をしようにも『うるさい、もういいだろ』と繰り返すばかりで会話になりません」
「……いいから早く鍵、開けてよ。疲れてるんだ」
くるりは全く感情を感じさせない声で、そう呟いた。
「執行者への暴力は厳禁なのと、結局くるりさんは自力では失敗して、ソレを兄さんに助けられたのに感謝するどころか──」
「いいよ、リトラ。話は後で聞かせてくれ」
「──はい」
俺が暑さのせいか、少し汗ばんだリトラの頭を撫でながらそう言うと、リトラは普段より幾分かリラックスした声を出した。
「くるり……すまなかったな。お前の気持ちをまるで考えていなかった──」
「いいから! 早く鍵開けてって言ってるだろ! 暑いし、疲れてるんだよ……言い訳なんて聞きたくない……!」
「……ああ」
取り付く島を無くした俺は、言われるまま我が家の玄関のドアを解錠する。俺も疲れきっていたし、早く落ち着きたかった。
……住み慣れた我が家だが、今は居心地の良さを感じることはできないだろうと、既に俺は予知していた。
「結論から言って失敗です。厳密には秋色兄さんの助太刀で成功ですが、くるりさんへの合格点はなしです」
部屋に入って一息ついたかと思うと、リトラが口を開いた。
こちらが冷や冷やしてきてしまう程、淡々とした口調だ。もしかして殴られたことを怒っているのだろうかと思ったが、察するにこいつの場合は、個人的な怒りより『執行者への暴力行為に対する警告』の色が強いのだろう。
「そんなこと、言われないでも分かってるよ……」
感情の無い声でくるりが呟く。
「分かっていません。先程も言いましたが、あの状況下では、秋色兄さんの取った行動はベストでした。むしろソレに不満を抱く理由が分かりません」
「だからもういいって言ってるだろ! 次は上手くやるよ! やればいいんだろ!?」
「できるのですか? コレまでを見る限り、くるりさんが暴走すると、いい結果が出ていないように思うのですが」
「……! もう一発殴られたいの?」
「覚えておいてください。次、執行者へ手を上げた時は強制的に終了措置を取らせて──」
「待て、リトラ。俺が話すよ」
「──はい」
俺は二人の会話に割って入った。このままじゃまずいことになる。
「……ボクはあんたと話すことなんかない」
「くるり、今更何を言っても言い訳にしか聞こえないのは分かってる。ソレでも聞いてくれ」
俺はくるりの言葉を無視してそう言った。勿論意識的にだ。
人はどうしても耳を完全に塞ぐことはできない。声が聞こえてしまえば、遮断することはできない。
感情的になっているのなら尚更だ。
どんなに聞くことを拒む旨の言葉を口にしつつも、言ってさえしまえば、くるりは俺の言葉を無視できない。
我ながらずるいが、今はこちらが最優先だ。
「だから話すことなんか──」
「あの時俺が言った言葉は嘘だ。お前を殴ったのも、謝らせたのも、あの場を切り抜ける為の演技だ。本気でお前が悪いなんて思ってないし、お前を悪者にして誤魔化そうとした、なんてことは絶対にない!」
「──っ」
「だが、一方的に俺の考えを押しつけられたお前の気持ちを全く考えてなかった。察して合わせてくれると勝手に思ってたんだ。そこは完全に俺の落ち度だ。すまなかった」
俺はそう言って頭を下げた。
「そうですよ。アキーロだってソレに気づいて、自分が許せなくなって、こんな怪我したですよ……」
リライが続いてくれる。その悲しそうな顔を見て、結局俺は大バカなんだな、と再度自分を罵りたくなった。
前に愛理を助けた時に気がつき、決意した自分の心に、さっそく背いてしまったのだと、自分に呆れる気持ちでいっぱいだ。
「……だから、さ」
「ん?」
俯いていたくるりが顔を上げる。
「……何で、演技する必要があったの?」
……え。
「何でって、ソレは──」
「くるりを守る為ですよっ!」
「そして浄化を成功させる為です」
リライとリトラが口を挟む。
……その通りだ。俺が嘘を吐いたのは、くるりを守り、浄化を成功させる為。
「ボクを守りたいんだったらさ、もっと確実な方法があったじゃん……」
「……何?」
「あの時あのクソ女は丸腰だった。ソレにあんたは弱そうだけど一応男だ。あのヒョロい不健康女よりは、確実に強いだろ」
「くるり……何を言ってる?」
「力づくで止められたんじゃないのかって言ってるんだよ!」
くるりが俺を睨む。
俺には、こいつが何を言っているんだかさっぱり分からなかった。
……力づく?
「……何言ってんだ? お前」
「ボクを殴って謝らせて、ややこしい嘘吐いて連絡先貰って……なんてまどろっこしいことしないでも確実な手段があったって言ってんだよ!」
「……くるりさんの言うように、力づくで取り押さえては彼女の浄化にはなりません。むしろ自殺や他殺の危険度が増すだけです」
リトラが予測される事態を説明する。確かにそうだろう。俺もそう思ったからああいう形を取ったんだ。
「……そうだよ。けどソレが何だよ! あの女……ボクを殺そうとしたんだよ!? いきなり全裸でへばりついてきやがって……寒気がした……! ソレを拒んだら『ぶっ殺す』って……!」
「…………」
俺はワケが分からず口を挟めなかった。リライとリトラも黙って先を促す。
「浄化しようと、助けてやろうと色々やってるボクを、殺そうとしたんだよ!? どうしてそんなヤツを助けるの? 放っておけばいいじゃないか! あの時点で見捨てるべきじゃないか……ソレなのにどうして!?」
「…………」
俺が呆けた顔で、取り乱すくるりを眺めていると、彼女がトドメの一言を口にした。
「あんなヤツ……死ねばいいんだよっ!!」
「…………」
……煙草が吸いたい。
俺は唐突に、以前リライが口にした似たような言葉を思い出していた。
──だから……そんな! 守ろうとするアキーロを殺すかもしれねー罪人なんて! 放っとけばいいですよっ!
アレはいつだったろうか? 確か俺が本当は愛理を助けたいと思っていることを見抜かれた時だ。
チラとリライを見ると、彼女は真っ青な顔をしていた。
……いや。だけどあの時のリライの言葉は、俺を心配しての発言だ。俺の身を案じたが故の言葉だ。
今くるりが言っているのとは根本が違う……!
「……お前、本気で言ってんのかソレ」
思ったよりドスの利いた声が出た。俺は自分で感じていた以上に、頭に血が上っているらしい。
「……っ。そう……だよ」
一瞬気押されたかのように見えたくるりだが、撤回はしないと意志表示するように俺を睨んできた。
「じゃあお前はっ! あそこでイリスを救うのを諦めて、殴り倒すべきだったって言うのか!?」
「そうだよ……! 悪い!?」
開き直るようなくるりの態度を見て、頭が熱くなる。
「くるりさんソレでは──」
「黙ってろリトラ……! 俺がくるりと話してるんだ……!」
「──はい」
八つ当たりに近い対応でリトラを黙らせる。俺は間違いなく怒り心頭に発していた。
「自分が何言ってるのか分かってんのか、くるり……! そもそもあそこで殴り倒したところで、ああいう手合いは絶対にお前を執念深く探すだろうよ。探して見つかったら最後だ。声を掛けるより先に刺される。俺は一度体験済みだ」
発散したい。喚き散らしてしまいたい……!
そんな自分の心を無理矢理抑え込むように、俺は淡々とした口調を意識した。
……だが、無駄な努力だった。
「だったら……二度と近づかないように徹底的にやるか、殺しちゃえばよかったんだよっ!!」
俺はキレた。
「くるりぃっ!!」
「ひ……っ」
キレて……腕を振り被っていた。
「アキーロっ!!」
「──っ」
リライの悲鳴にも似た声を聞いた俺は、寸前で踏み止まる。
……何の寸前かって? 分かるだろ。
俺は……くるりを殴ろうとした。
窮地を脱する為の嘘や演技でもなく、自分の意思で。
「アキーロ……! 落ち着くですよ……! くるりも本気で言ってるワケぢゃねーです……!」
リライが俺を諌める。
そんなこと分かっている。ここでくるりを殴ったら完全に俺達の関係は修復不可能だ。二度とくるりは俺を頼ろうとはしないだろう。
そんなことは分かっている……ソレでも。
「ソレでもだ……バカなこと言ってんじゃねぇぞ!! 次にそんなことを言ったらぶん殴って叩き出す!! 分かったか!」
……ソレでも、俺の怒りは収まらなかった。
「言っていいことと悪いことがあるんだ! もう少し考えてモノを言え! お前の親はそんなことも教えてくれなかったのかっ!!」
……後から思えば、殴らないでもこの言葉を叩きつけた時点で、くるりが反発してくれば完全に俺達の関係は修復不可能になっていただろう。
だが、そうはならなかった。
しかし……しかしである。
「ひっく……ひ……」
俺は結果的にそうなった時以上に、
先程壁に頭を打ちつけた時以上に、
自分をぶん殴りたくなった。
「もう……やだぁ……! 男の人の怒鳴り声……怖いよ……!」
くるりは自分の顔を両腕で守るようにして、号泣していた。
全部……。
斜に構えて、ヒネたことを言って、素直にならないのは……全部、こいつが年相応の、いや……ソレよりも子供なのだからだと、ここにきて俺はようやく思い知った。




