第一話
忘れる……ということは、結構幸せなことだと思う。
俺の知り合いに、妙に記憶力がないヤツがいるんだが、一度見た小説や、物語の内容を何度でも楽しめる、とか言っててお得な体質だな、とか思ったモノだ。
忘れるということは、幸せなことだ。ソレと同時に失礼なことでもあると思う。と言っても物語を忘れるなんて制作者に失礼だ、なんて類いの話ではない。
そんなモン、記憶に残れない作品を作ったのだから次は覚えてもらえるように精進すべきだ、と辛口な意見を述べるヤツだっているだろう。
まぁ……自分の作品に絶対の自信を得てしまって、満足してしまったら、そいつはそこで終わりなので、そう言った方がそいつの為だという見方もあるか。
すまん、話が逸れた。よく逸れるんだ俺は。
では、どんな類いの話が、失礼かと言うとだ。
自分を育ててくれた料理、いわゆるお袋の味を忘れていた、なんてのは失礼な部類に該当するのではないだろうか?
或いは……好きになった人を忘れていた、なんてのは失礼極まりないのではないか?
……今、『いや、そんな大事なこと、忘れないだろ普通』と思った人。そうでもないんだよ。
そもそも俺がこんなことを考えるに至ったのも、大切に思っていた最愛の人のことを、自分が忘れていたことがあるという事実に負い目を感じたからなんだ。
精神を壊されかねない事実を脳が消去した、ということらしい。勿論簡単なことではなかったろう。
実際記憶の所々に穴があるし、青春の何割かを犠牲にしてしまったのは間違いない。
そんな犠牲を払いながらも、何とか俺の脳は自分の宿主を守ったということだ。
でも、ソレでも俺は、最愛の人を忘れてしまった自分に憤りを感じた。自分自身を情けないと責めたくなった。
記憶の取捨選択を自分の意思でできたら、例え心がぶっ壊れても、俺は彼女との思い出を捨てやしなかった。
勿論、ソレは取り返しが付いた今だから言えることだろうが、とは自分でも思う。
思い出せないだけで、下手をしたら俺は自分を裏切って他の男とのことで勝手に胸を痛め、勝手に傷つき、勝手に俺を置いていってしまった彼女のことを恨んでいた可能性だってある。
潜在意識が取った命の選択だから、ソレが最善手なんだろう。生命を保持する為に、肉体的には確かにそうかもしれない。
忘れる、ということは幸せなことだ。世間一般的には。
忘れたことすら忘れたのなら。思い出さないのなら。
忘れるということは、つまりその忘れられた記憶は大したことではないんだよ、と信じていられるのなら、な。
「……ふぅ」
そんな声と一緒に、俺は煙を勢いよく吐き出した。外灯から注がれる光が煙の隙間からキラキラと輝いて見える。
「…………」
やがて紫煙は闇に溶け込むように薄まっていき、見えなくなった。いびつなオーロラが消え去り、向こう側に星空が見える。
自分はこの煙のように、知らず知らずの内に何か重要なことを忘れているんじゃないか? なんて不安になる。
あの煙のように、もしかしたらきらびやかで大切な思い出を靄で覆ってしまっているのではないか、と。
幸せな何かが、意識の外の闇に呑み込まれていることに気づいていないんじゃないか?
こんなことを考えてしまうのは今が充実しているからだろうか? 実感している幸せが知らない間に失われやしないかと不安になっているのかもな。
……あ、自己紹介してなかった。俺は戸山秋色。何だか最近幸せな二十五歳。
この言い方だと、何だか頭がお花畑なヤツみたいに聞こえてしまう気もするが、気にしないことだ。
俺が紫煙越しに夜空を見上げていると、寄りかかっていた壁の向こう側から、がたんっ! と大きな音が聞こえる。
「…………」
……さっき幸せだと言ったが、幸せというのは決して悩みと縁がないというワケではないんだ。
吸殻を携帯灰皿に放り込み、音を立てないようにゆっくりと玄関のドアを空け、中に入る。
「……グス、アキーロ……」
「……リライ」
後ろ手にドアを施錠しながら、俺は灯りの消えた部屋の中で、枕を抱え泣いている妹に声を掛ける。
「アキーロぉ……」
枕を放り出し、とてとてと妹が駆け寄って来る合間に俺は靴を脱いで、廊下に上がる。
「……っ」
「どすこいっ」
両手を広げ、飛び込んで来る妹を受け止める。ふざけてみたが、効果は期待できないみたいだ。
「どこ……行ってたですかぁ……」
「お前の嫌いな煙草だよ。部屋で吸ったら、お前起きちゃうだろ」
「やー……」
「俺、煙草臭くない?」
「くせーです」
「じゃあ離れろよ」
「やー……」
「……また、怖い夢見た?」
「……ん」
臭いと言ったばかりの俺の胸に、顔を埋めながらリライが頷く。
「……そうか」
「……起きたら、アキーロがいなくて、リライ一人で……アキーロわあの時死んぢゃってて……」
「……うん」
「……自分わもう一人ぼっちなんだ、って思ったら目が覚めるですよ。そしたら本当にアキーロがいねーですよぉ……」
「大丈夫だよ。ここにいるって」
「んん……」
またも俺の胸に顔を埋めて鼻を啜るリライ。やはりさっきの音は、こいつが寝床であるロフトから飛び降りた音だったみたいだ。
俺の最近の悩みはコレだ。
俺は一ヶ月半ほど前に、死にかけたんだ。
刺されて、血の海を作った。
ソレを見たリライは……絶叫していた。そして号泣していた。自分のせいだと泣き続けていた。
結果として俺は死にかけただけで死ななかったのだが、リライはそのことが大分ショックだったようで……。
ソレ以来、起きた時に俺がいないと泣いてしまうくらいに、俺の姿を見つけると、しがみついてくるくらいに甘えん坊になってしまった。幼児退行……とはちょっと違うか。
「夢でもないし、幽霊でもないぞ。俺はここにいます」
「ユーレイ、こわいです……」
「幽霊じゃないし、もう出掛けないから、自分の布団に戻って寝よう?」
「やー……」
「やー……って。俺はもう寝るぞ」
「リライも寝るですよ」
「じゃあ、さっさと自分の布団に戻れ」
「やー!」
「……あのなぁリライ。いつまでも俺の布団で一緒に寝るワケにはいかないぞ」
「何でですかぁ……」
離す意志がないことを見せつけるかのように、リライが俺のシャツをギュっと掴み、目に涙を浮かべながら唇を尖らせ、恨みがましい視線を送ってくる。こら、シワになるでしょ!
「ベタベタあっちーし気持ち悪いからだよ。もうすぐ夏がくる。そしたら汗だくだぞ」
「リライ気持ち悪くねーです。我慢できるですよ?」
「俺が我慢できん!」
「何でですかー!」
リライが俺の胸の中から出ない範囲で、小さく身体を暴れさせる。所謂だだっ子モードってヤツだ。
「兄妹ってのは、そこまでベタベタしないモンなの!」
「リライわくっついてるほーが寝れるです」
「そんなこと言ったら、胴長にゃんこが可哀想だぞ。せっかく抱き枕買ってやったのに」
「ぢゃーにゃんこも一緒に寝るですよ」
「汗かいたら臭いだってスゴいぞ。もう四捨五入で三十路なんだから」
「へーきです。アキーロの匂いがあるほーが寝れるです」
「くらえっ! 煙草吸ったばかりの口の臭い!」
「ニャー! くせーですよ!」
「じゃあ離れろよ!」
「やー! 一緒に寝るですよー!」
「な~んで毎夜毎夜そんなに一緒に寝たがるんだよ~?」
「アキーロの、しんぞーの音を聞いてねーと、安心できねーですよぉ……」
あ、やばい。
多分あの時のことを思い出してる。そしてこんな顔でこんな声を出されたら、俺は何も言えなくなる。
「…………」
「…………」
「なぁリライ。仮にだ。誰かに……例えばアルルに、俺達が『兄妹でいつもくっついてる。寝る時も一緒だ』と言ったとしよう」
何とか反撃の糸口を探してた俺は、苦し紛れに話し始めた。
「はいですよ」
「あいつはどんな反応をするだろう?」
「んー……」
「…………」
「こう、眉間にシワを寄せて」
「うん」
「眼を細くして」
「うんうん」
「……『気持ちわるっ』」
「似てる!」
俺は反射的に、賞賛の言葉を口にしてしまった。
「……『あんたアホぢゃないの。逮捕されるわよ。容疑者わ、妹と寝ただけだと容疑を否認しておりますとかニュースになるわよ』」
「似てんなおい! つまりそういうことだよ! そんなワケで自分の布団行け!」
「やー!」
言えば言う程、リライは離れまいとしがみついてくるのだった。
「……んー……ぬふふぅ……」
「……はぁ」
枕にした俺の腕に、早速涎を垂らさんばかりに眠るリライの寝顔を見ながら、俺は小さく溜め息を漏らす。
悩みの種は、ドンドン膨らむばかりだ。
リライが俺に依存していること。
最近は買い物や仕事はおろか、トイレや風呂にまでついてこようとする。親ガモについていく子ガモ状態だ。買い物手伝ってくれるのは助かるけどね。
いや、まぁ思春期を迎えた娘を持つ、最近お父さんの視線が気持ち悪いとか、最近お父さんが臭い、お父さんの後のお風呂はやだ、お父さんの服と一緒に洗濯しないでよ、なんて言われてる方々に聞かれたら妬まれそうだが。
いつか嫌でも反抗期がきて離れていくんだから、とも思ったが、こいつは最初から今の、大体十三か十四歳くらいの見た目で俺の前に現れたので、頭の中が何歳なのか分からない。
てか、便宜上十八歳ってことにしたけど、我ながら無理あることを言ったなと思ってる。コレで優乃先輩を騙し通せると思った俺はバカなんじゃないか?
一応髪とか爪も伸びるし、普通の人間と変わらないと本人は言っていたが、俺は毎日見てるからなのかイマイチ成長しているかどうか分からない。
おっぱいが大きくなってきたから確かめて欲しいとか言ってくるし。以前のおっぱいを揉んでないから比べようがないと泣く泣く辞退したが。
一緒に暮らし始めた頃、初めて月のモノが来た時は、リライは泣きじゃくるし、俺もてんてこ舞いで、結局優乃先輩に電話で助けを求める始末だったし。
あぁ……多分あの時、嘘がバレたな。今までは死んだ母親が全てやってくれていたとか言って誤魔化したが。
十八歳で初めて生理が来た常識知らずの妹。そんなんいるワケねーだろ、と思われただろうな。
ソレでも、優しい彼女は何も言ってこない。俺はドレだけ彼女の気遣いに救われているのか分からない。
そんな彼女の優しさに報いる為にも、バタバタしながらでもいいから、リライには身体だけでなく精神的にも成長して欲しい。俺に引っ付くばかりでなく、もっと色々なことを知って欲しい。
もしかしたら、今に俺に愛想を尽かして離れていく可能性も充分に有り得るのだが、ソレでも俺はもう少しリライの世界を広げてやりたいと思ってる。
元々こいつは人見知りするワケでも、内向的な性格というワケでもない。
でもこいつの知ってる人間はみんな年上ばかりだ。そのせいか、知らず知らずの内に他人に頼る癖ができてしまっていたらと思うと少し困った気分になる。
……兄弟の上の子は、下の子ができると面倒を見ることでしっかりするっていうよな。
……誰かいたっけな? 知り合い関係でリライより小さい子供……?
あ、リライよりキャリアの短い執行者をもう何人かつけてもらうのはどうだろう?
そうすれば、リライも先輩として後輩の前でしっかりしようとするだろうし、何より疲弊しないで済む。
俺の記憶を吸い出し、過去の俺の身体に同期させるとリライはメチャメチャ憔悴する。倒れるんじゃないかってくらいにだ。
しかし以前アルルともリンクをして負担を軽減してもらった時はその現象は起きなかった。休憩も必要なかったしな。
ふむ、執行者を増やしてもらう……か。コレは中々名案なんじゃなかろうか。
執行者……リライが増えるってことだよな。
……俺はその場景を思い浮かべてみる。
「アキーロ。おしっこー」
「アキーロ。背中流すですよ!」
「アキーロ。一緒に寝るですよ」
「アキーロ。ニャーがウンチしたですよ」
「「「「アキーロ! お腹すいたですよー!!」」」」
……うん。無理。
身震いがしたぞ。身を粉にしてどころか微粒子レベルにして働かないと養えないな。
一つ言っておくが、こいつの面倒を見るのが嫌になったとかそういうことではない。
なんなら俺は一生こいつの面倒を見るつもりでいるし、こいつがいなくなるのはむしろ俺が嫌だ。
正直なところ、悩みはあれど俺はリライとの暮らしに幸せを感じている。
実際俺の携帯のフォルダは色々な表情のリライの写真で溢れている。まるで幸せを切り抜いたかのようにだ。
初めてネズミの王国に連れて行った時の弾けるような笑顔、迷って帰り際には泣き疲れて眠っていた寝顔。
ご飯を食べに行った時のいただきますが待ちきれない垂涎顔。
花見に行った時の幻想的な光景に目を奪われている横顔。
喧嘩した後の涙を浮かべ唇を尖らせて拗ねていた顔。
全てが俺の宝物だ。
そう、俺は今幸せなんだ。例えバカみたいに食費がかさもうが隙あらば布団に潜り込まれ噛み付かれようが開放的なオナ○ーライフが送れなくても、だ。