アルルの日記~朦朧編~③
「何? コレ?」
「お薬と、ガチで体調崩した時だけ飲むことを許される、すんげーたけー栄養ドリンクだ。お粥食べて豚汁飲んだ上にコレ飲んどきゃ完璧だ。風邪なんて明日にゃ吹っ飛ぶよ」
「……本当?」
「うん。少なくとも俺はそうだった」
「じゃあ……飲む」
そう言って、あたしは唯々諾々とソレらを口に運んだ。
「まっず……!」
「不味いよな。でも良薬口に苦しというか、いかにも効きそうな味だろ?」
「うん……」
「で、仕上げにこいつだ」
そう言って買い物袋から取り出されたのは、冷却シートだった。
「はーい、オデコ出してー」
「……ん」
こいつの、よく分からないけど従わなきゃならないような気がしてしまう妙なテンションのせいで、さっきからあたしは言われるがまま、されるがままだ。多分こういうのもこいつの才能なんだろう。
「ぴたー、とね」
「あ……冷たい」
「ふふん、だろう?」
別に冷却シートの性能はあんたの力じゃないでしょ、と言いたかったが何故か口には出せなかった。
もう少しあたしがひねくれていなくて、もう少し子供だったら、素直にこいつはすごい、こいつの言う通りにすれば大丈夫だ、なんて錯覚を起こしてしまうのだろう。
「妙に看病に慣れてるのね。あなた、妹とか……弟とか、いるの?」
あたしは、答えが分かりきった質問をした。
聞かなければ良かったとあとで後悔した。些かこいつと心が通じ合ったように錯覚したせいで、気が緩んでいた。
「いや、いないよ。末っ子の特権を貪ってる」
「……そう」
分かっている。分かっていた。
どんなにあいつと似通ったところがあっても、同じような魅力を持ち合わせていても、やはり目の前のこの人は彼ではないのだ。
「自分が具合悪い時にこうしてもらったら、すごい嬉しかったこととか、安心したことをやってるだけだよ」
「そう……」
「ん、次は首にいきまーす。ちょっと、髪退けといて」
そう言ってあたしの首筋に、保護シートを剥がした冷却シートを持ってくる。
「んっ……いい。自分でできるからっ……」
首筋に触れられる、その感覚がくすぐったくて、あたしはそう言ったのだが、
「いいから」
そう言ってそいつは、制止するあたしの手をやんわりと退ける。
何というか、お兄さんらしいというか男らしいというか、不思議と逆らえなくなる。
「……ん」
結局あたしは、言われるがままに自分の髪を邪魔にならないように退けてしまう。
何だかその姿勢が、こいつを受け入れてしまったように映るのでは、と複雑な気分になった。
「ふぅ……」
でも、身体の熱が吸い出されていくようで心地いい。こんなに楽になる方法があったなんて知らなかった。
「気持ちいいだろ」
「……うん」
「体調崩してる時って精神的にも堪えるんだよな。おまけに一人で寝てると、世界とか色んなモンに置いてかれてるような気がしたりさ」
「……!」
驚いた。ソレと同時に安心した。自分が感じていたことをこいつも同じだと言ってくれて。自分だけじゃないんだと、みんなそうなんだと安心した。
そして、よく分からない気持ちが溢れそうになった。
あたしが感じていたことを言葉にしてくれた。
あたしを理解してくれた。
あたしの心を──
「……っ」
──嫌だ。
「戸山くん……ありがとう」
嫌だ。
「……おう」
「ここまでしてくれて、嬉しい。本当よ? 感謝してる」
嫌だ……嫌だ……!
「うん」
「だから……もう十分だから、もう、大丈夫だから──」
……絶対に嫌だ。
「──もう、帰って」
「…………」
「…………」
「……いや、でも……せめて弟が帰ってくるまではいるよ?」
「迷惑」
「…………」
そいつはあたしに突き放されて、ショックを受けた表情をしていた。
あたしが、傷つけた。
「……そりゃ、いきなり大して話もしたことないようなヤツがやってきて、強引なことされたら迷惑だよな」
「…………」
「でもな、学校のヤツらはお前のこと、心配してた。お前に気があるヤツらやお前の弟は、発狂しそうなくらい様子がおかしかったし、文化祭を一緒に楽しめなかったらどうしようって、みんなへこんでた」
「…………」
「だから、迷惑でも嫌いでも、俺はお前を看病する。だからお前は、迷惑でも嫌いでも、我慢して安静にしろ。そんでさっさと治して、あいつらに元気なとこ見せてやれ。ソレがお前の責任であり義務だよ」
「~~っ!」
視界が滲む。堪えようと唇を噛んでしまう。
身体が弱ってるせいだろうか? ソレともあたしは弱くなってしまったのだろうか?
こいつの前でまで泣きたくない。そんな顔をこいつにまで見られたくない。
「…………」
「……っ」
頭を撫でられた。指があたしの髪を滑っていく。
すぐに振り払おうと思った……のに、怒られないだろうか、という不安が垣間見えるような、恐る恐るといった手つきのせいで、あたしはそのタイミングを逃した。
みんな、いつかあたしのこと忘れるのに……!
思い出なんか……作っても意味ないのに……!
何故か、口に出しては言えなかった。
前に口に出してしまった時に、こいつがあたしに手を上げ、自分だけは忘れない、と言ってきたのはいつだっただろうか。
今、口に出してしまったら、あの時とは違う言葉を返されてしまう。
ソレは嫌だ。絶対に嫌だ。
「どうせあんたは……罪魂の救済者でもブリング・オン・カタルシスでも、ヒロイックエゴイストでもないんでしょ」
「ざいこ……? は?」
「何が罪魂の救済者よ。ただのメサイア・コンプレックスじゃない。その気になればね、あんたなんか魅了できるんだから。一噛みすれば、ずっとあたしのことしか考えられない、あたしの為に死ぬのを躊躇わない恋奴隷にできるんだから」
「…………」
そいつはぽかーん、という表現が正しいような、口を開けたままアホな表情を晒していたが、やがて何か悟ったように優しい笑みを浮かべた。
「……そっかぁ。ソレは怖いなぁ」
むっかぁぁぁぁ……!!
「分かったからちょっと横になろうな? すぐ薬効いて眠くなるからソレまで──いってえぇぇっ!」
あたしの身体を寝かしつけようと伸ばしてきた腕を思い切り、もうほんっっと思いっ切り噛む。
「ふぐーっ!」
「いっててててマジいてぇ! 分かった! 俺が悪かったから離してぇぇぇぇぇっ!」
「……ぷはっ!」
「あいぃぃぃ~……っ!」
口を離すと、そいつは仰向けに倒れ込み、腕を抑えながら身体をよじった。
あたしは思い切り息を吸い込む。
「むかつくのよ! いっつもいっつも子供扱いしてっ! 可愛いって言え! 好きだって言え! あたしのこと一番大事にしなさいよ! バカぁっ!」
「…………」
「はぁっ……はあっ……」
「…………」
「……戸山くん?」
そいつは何も言わなかった。この角度からじゃ表情も窺えない。
うまくいったのだろうか? 実はこの魅了のプログラムを使うのは初めてなのだ。なんせ使うまでもなく、皆魅了されていたのだから。
そんなワケで、今一つ勝手が分からない。
「……っ!」
目の前の男ががばっと上半身を起き上がらせる。次いで、こちらに視線を送ってくる。
「えっと、戸山く──」
珍しく真剣な目で見つめられて、あたしが言葉に詰まっていると、そいつはあたしの両肩をガシっ! と掴んだ。
「アルル!」
「──ふえっ」
……アルル? アルルって呼んだ?
え、何で? という疑問が脳内に浮上したが、次のこいつの言葉でそんなモノは吹っ飛んだ。
「愛してるっ!!」
「ちょ、やだ……! 何言ってんのよ……もっと言いなさい」
あたしは心の中でガッツポーズを取りつつも、乙女の如く恥じらうような声を出す。
……成功だ! さすがあたし!
「愛してる! アルルしゅきしゅき大しゅきぃぃぃ!」
「あっはっはっは! アホじゃないの!」
あたしはお腹を抱えて笑った。
「今すぐキミが欲しい! 僕の童貞をキミに捧ぐ!」
……童貞だったのか。いやまぁ、知ってたけど。憐れそこまでは、上書きされても変わらなかったのだなぁ。
「へ?」
──なんて考えてる内に、押し倒されてしまった。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさい秋色!」
「もう待てない! 俺の子を産んでくれ!」
あたしの知っているこいつが絶対に言ってこない言葉と、雄を感じさせるその眼差しに、あたしは混乱した。
「うっそ、やば、マジ!? 制御に失敗した!?」
「お前がいけないんだ! そんなに可愛いのにそんな無防備に俺を誘って!」
「か、かわ……え?」
……何言ってんのこいつ?
……一体何を言っているのこいつ!?
いや、あたしがそうリクエストしたんだけど!
「アレだろお前! 執行者は罪人を丸め込みやすいようにそいつの理想の姿で現れるんだろ。サキュバスみたいに! 正直もう我慢の限界なんだ! お前ら可愛い過ぎんだよぉぉぉぉ! 妹だから、恩人だからって必死にそういう目で見ないように無理してたけどもう無理だ! 俺はお兄ちゃんをやめるぞ! アルル──ッ!」
間違いない! ゲスの方しか知り得ない情報を口にしている。何故?
などという思考は一瞬で霧消した。何故ならそいつの指が、あたしのパジャマのボタンを外しにかかったからだ。
「ちょ、ちょーっ! ダメ! 今日あたしすっごい汗かいてるから! かつてないくらいに汗かいてるから!」
……あと今ノーブラ!!
「大丈夫だ! いい匂いだよ! いつも俺はお前が近くにいる度にいい香りだなって思ってた!」
「ふえっ!?」
「髪だってサラサラだし! クンカクンカしたいお! クンカクンカ! あぁあ、間違えた! モフモフしたいお!」
「キモチわるっ!! やめなさい! あたしの命令が聞けないの!?」
と、言ってから気付いた。考えてみれば、こいつあたしの命令を聞いた試しがない!
「アルルが本当に嫌ならやめるよ! でも心のどこかで望んでるなら、俺はお前を抱く!」
「ふえぇ!?」
「本当に……嫌? 俺じゃ……ダメ? やっぱり俺じゃ……そういう対象として、見れない?」
せつなそうな、辛うじて不安に抗うような弱い声。あたしの知らない声。
「え……いや、そんな……ことは……」
「アルルは俺のこと嫌い?」
今更だけど……近い。
この距離でないと聞き逃してしまう、あたしだけに届けているのだと分かるその囁き声に、あたしは心音が加速するのを感じていた。
「き、嫌いじゃないわよ」
ソレ以外の返答を許さないような雰囲気に抗えず、あたしはそう声に出した。
「じゃあ好き?」
……や、矢継ぎ早ね……! コレ、誘導尋問よ……。
そ、そうはいくか……!
「ま、前に言ったでしょ?」
「たまごかけご飯より、とかはなし」
ピシャリと逃げ道を塞がれる。
「うぅ……」
より、じゃなくて次に、って言ったのよ、という言葉が装填はされるのに、何故か発射されてくれない。
「俺はアルルが好き。大好き」
「…………」
……やばい。
この言葉は、あたしが魅了プログラムを使ったから。分かっている。
こいつがアホの方なら、制約がかかっているだろう。
しかしやばい。この流れはやばい。このままじゃ流される。
あたしは、自分の心がふわふわしているのに気づいていた。
正直あたしは喜んでる。自然と口許が弛みそうになっている。
そりゃそうだ。こいつがこんな風にあたしを、あたしだけを必死に口説いてくるのが望みであり、そう指定したのだから。
すぐ後悔すると思った。何故ならこいつはリトライの記憶を持ってない秋色だから。
ソレがどうだろう。完璧とは言えないまでも、あたしの知っている秋色の記憶を持ったこいつが、あたしを口説きにきているのだ。
「…………」
……あたしは、こいつをどう思っているんだろう?
愛情のようなモノは……ある。
でも恋人になりたいとか、結婚したいとか考えたことはない。
そういった『肩書き』が欲しいとは思わない。でもあたしのことを一番大事に思って欲しいとは、思わないでもない。
こいつが他の女といて、デレデレとだらしない顔をしているのは腹が立つ。
こいつの苦労や痛みを知らず、ただ助けられるだけのくせに、と相手の女に文句を言いたくなる。
あたしは知っているんだ。こいつの痛みも、苦悩も、葛藤も。
信頼されて、頼りにされて、一緒に戦ってくれと言われたんだ。あいつらとは違う。
一緒にいたいと思う……側にいたいと思う……!
「大丈夫だアルル。俺は身体だけ欲しいワケじゃない。嫌ならやめる」
「え?」
「俺は好きな人を抱く時は、心も一緒に抱きたいんだ」
「そ、そういうこと言うのは……ズルい……」
やばい。今のはなんか、キタ。
不覚にもキュンとしてしまった。これが『入る』というヤツだろうか。
何だ……今の、あたしの声……? いつもより高い、『女』の声が出た……?
「あ、あたし……あたしっ」
勝手に口が開く。勝手に言葉が出てしまう。
「あたし……多分、いつか消えちゃうかもしれないけど、あんたの記憶から、いなくなっちゃうかもしれないけど……ソレまでずっと一緒にいてくれる?」
やめろ。何言ってるんだあたしは。コレはちょっとしたお遊び。熱やら何やらで溜まった鬱憤を晴らす為の、あと何かカッコつけてるこいつに一泡吹かせる為のおふざけ。そのはずだ。
「うん」
「最近気付いたけど、あたし……多分ものすごく嫉妬深い。プライドも高いし。甘えたがりだし、甘えられたがりだし……」
なのに止まらない。勝手に言葉が紡ぎ出されてしまう。
「うん」
「他の女と話してもいいけど、その分あたしに優しくして。もし万が一他の女に触ったら、その十倍あたしに触ってくれる?」
「…………」
あたしの唾液を媒介に送り込んだプログラムはすぐに消える。一時的なモノなのだ。
だから、明日にでもなればこいつはこの会話も、下手をしたら今日ここに来たことすら忘れている。
「あたしが落ち込んでる時は百倍。泣いてる時は泣き止むまで無限にぎゅーして、頭を撫でるんだからね?」
「…………」
だから、こんなことを言っても仕方ないのに……!
「そ、ソレが約束できるんなら……怖いけど、正直……! 怖いけど……! そ、その……」
「…………」
「き、聞いてるの!? 乙女の一大決心なのよ!?」
「…………」
「……秋色?」
「……何か、頭がボーっとしてきた。アツい……煙出そう」
「へ?」
「あ、あ、あ、あ──も、ももも、もうも、もう我慢できない! 今すぐ◯◯◯◯して◯◯◯◯してお前を◯◯◯◯たい! ◯◯めアルルーーッ!!」
「ギャー! 変態!」
そう叫んだところで気がついた。いつの間にかボタン全部外されてる! こいつあんな紳士的な口説き方しながら、バレないように脱がしにかかってたの!?
って、そんなことより……! このままじゃ……!
「胸、見るなぁっ!」
「いや、見るよ! 今見るよ! まるでギリギリのところで助けが来ることを示唆するかの如く、タイミングを宣言してから見るよぉっ!」
「あはははっ! アホじゃないの!」
って笑ってる場合かあたし! こいつの言うことはイチイチあたしのツボに入る。
あぁ……もう……! 覚えてなさい……!
小さいとか言ったら絶対許さない……!
他の女と比べたら殺す……!
「アチい……身体が燃えるようだ……! 誘ったのはお前だからな! 出火原因は、お前だぜっ!」
「ぶはっ! もうやめて笑い死ぬ!」
「おっぱいちっちゃいの気にしてるのなら問題ない! 妊娠したらちょっとはマシになるよ!」
「……マシ?」
いらっ。
「ソレに、見た感じまひるよりはあるよ!」
……他の女の名前出した!
「大丈夫、俺は浮気はしない! 多分!」
「……は?」
「た、多分……しない。でも偶然他の女の子のおっぱい見ちゃったとか、ぶつかった拍子に股ぐらに顔を突っ込んじゃった、とかは事故ってかトラブルだからセーフだよね!? よしセーフ! はいソレではわたくしコレからおっぱいを見たいと思います! はいさーん! にー!」
「そんなこと言われて、セーフなワケないでしょおぉっ!」
あたしは全力で脚を振り上げた。人生最大の威力を持った蹴りが、こいつの股ぐらに突き刺さる。
「いいいぃぃぃぢっ!」
自分でも、気持ち悪いと思うくらいの感触に顔をしかめる。
結局あたしは自力で窮地を脱出した。というか、最初から本気で暴れたら振りほどけるくらいの力しか込められてなかった。
「あ、アイエぇぇ……」
目の前の痴漢は、泡を吹いてピクピク痙攣している。気絶しているようだ。
あたしは、そいつの前にゆっくりと立ち上がり──
「童貞の! くせに! 何を! 偉そうに!」
さらに蹴った。蹴った。蹴りまくった。暴力の雨を降らせた。怒りの嵐を叩きつけた。
「さっきの発言は! あたしにもまひるにも! 失礼すぎでしょ! そんなんだからあんたは童貞なのよ! 死んで反省しなさい!」
とどめを刺してやろうとテーブルを持ちあげ、振りかぶったその時──
「姉さん! 大丈夫!?」
──部屋のドアを開けて、エルが帰ってきた。遅い!
「……おかえり」
あたしは荒い息を吐きながらも、頭に昇った血がどこかに落ち着いてしまったのを感じて、テーブルを床に置く。
ち。命拾いしたな。下等な人間め。
「た、ただいま……姉さん。立ち上がって大丈夫なの?」
……む? そういえばあたしは自分の足で立っている。まだ万全とは言い難いが、ふらつきもないし、身体も軽い。
「……何か、治ったみたい」
「……よ、良かった」
弟が胸を撫で下ろして、心から安心した顔をする──のも一瞬、あたしの足元に横たわった産業廃棄物を目にした途端、鬼のような形相になる。
「貴様、何しにきた! まさか僕の部屋にあるペアチケットを狙って弱ってる姉さんとネズミの王国に……!? このコソ泥が──っ!」
何だか想像力を逞しく働かせているようだ……でも可愛い考え方か? 実際にされたことを知られたらこの家畜は本気で絶命させられかねない。ボタンを直しておいて良かった。
「ここから出ていけー!」
横たわる虫けらの襟を掴んで、玄関に向かおうとするエル。そこであたしは未だに意識のないそいつの顔が真っ赤なことに気付いた。
「ちょっと待ってエル」
さらにそこであたしは、自分を苛んでいた熱がどこかにいってしまっているのに気付き、枕元に置いてあった体温計を自分の耳に突っ込み、スイッチを押す。
「……三十六度五分」
呆気に取られるエルを尻目に、あたしは床に膝をつき、今度は気を失っているレイパーの耳に体温計を当て、スイッチを押す。
「……三十八度九分」
「…………」
……うん、コレは、間違いないな。
「……移してやった」
未だに唖然としているエルに、あたしはさも最初からそのつもりだったかのようにブイサインをしてみた。
「すごい……さすが姉さんだ! 確かにこいつなら何の問題もないね!」
……この子は、あたしが間違った道に進んでも咎めることなく肯定しそうだな、とちょっと心配になる。以前はそうでもなかった気がするんだけど。
「ホラ! 出ていけ! 姉さんの為にその身を犠牲にできて光栄だろ!」
そう言ってエル、は玄関の外にソレを放り出して、どこから用意したのか塩までぶっかける。
「エル……送ってあげなくちゃ」
ドアを閉じ、鍵を閉めた弟にあたしは言う。
「あんなヤツをかい? その辺で野垂れ死ねばいいんだ!」
「お見舞いに来てくれたのよ? ソレにウチの前で死なれたら困るわ」
「ソレは……そうだけど」
行かないのならあたしが行く──と言ったらこの子は渋々行くだろうけど、しかし今のこの子と今のあいつを二人にするのも危険か。
「どうしても嫌なら……せめてあいつの友達が迎えに来れるように連絡してあげて。ね?」
「……分かったよ」
そう言って弟は携帯電話を取り出す。コレで死なれるような心配はないだろう。
「姉さん……何もされてない? 本当に何もなかったの?」
「あるワケないでしょ。いや、むしろ一方的に熱を移して蹴り飛ばして……あたしの方が悪者よコレ。大丈夫かしら……?」
「大丈夫だよ! 姉さんが元気になる為の生け贄になれたのなら十分すぎる! 姉さんが気に病むことじゃないよ!」
「うん……早く、連絡してあげて」
生け贄て……とツッコみたかったが、随分と心配を掛けてしまったのだろう。本当に安心したような顔をしている弟の気をコレ以上乱すのもと、あまり強くは言えなかった。
その日は久し振りにご飯がおいしかったし、ゆっくりお風呂に入れた。今回の一件で健康のありがたみを思い知ったあたしなのだった。




