アルルの日記~朦朧編~②
「見りゃ分かるよ!とりあえず落ち着け」
そうだ落ち着け。落ち着け。
今ならまだごまかせる。落ち着け。
「ごめん。寝ぼけて弟と間違えたの……忘れて」
「いや、お兄ちゃんて言ってなかった?」
「ふ……双子だから、たまにお兄ちゃんなの」
「へぇ……でも、お前家族にはあんな感じなんだ。学校じゃお嬢さまみたいなのに」
「……!?」
……何でこいつが、ソレを知ってる……?
こいつは、あたし達に関することを記憶できないはずなのに。
たまたま消去がかかる前に蓄積した、僅かな澱のようなモノなのか? 分からない。謎だ。
あたしがグルグルと思考の回廊を巡っていると、ベッドに下ろされた。上半身だけ起こした形で座らされる。
「えーっと……」
「戸山くん、あたし大丈夫だから。もうすぐ弟も帰ってくるし」
何やら呟きながら振り返ったその背中に、慌てて言う。
「お前の弟、文化祭実行委員の仕事に追われて帰れなそうだったぞ。だからお前の弟がウチのクラスの委員長にお見舞いをお願いして、荷物持ちに俺が選ばれてしまったワケだ」
そう言って、先程部屋に入ってきた時に両手にぶら下げていた、ビニール袋を指差す。
「あんた──戸山くんが、買ってきてくれたの?」
「いや、割り勘。途中までは賢や委員長やケーツーもいたんだけど、なんだかんだと理由をつけて俺に買い物袋押し付けてどっか行った」
「……?」
……お金のことを言ってるんじゃないんだけど。まぁいいか。
「何かあいつら、勘違いしてんだよ。俺とお前がみんなには内緒で付き合ってる、みたいに」
「……そう」
「女子のお見舞いだから委員長にはいて欲しかったんだけど……ごめん。まぁケーツーはいなくてよかった。あいつやたら『座薬買おう座薬買おう』てうるさかったし。もしいたら『僕が手本を見せてやるwww』とか言って脱ぎそうだし」
あぁ……あの変態か。
「ちなみに座薬は買ってきてないぞ。だから『入れるとこ違うイベント』など起きようがない。安心しろ」
「何言ってるのか分からないのだけど」
どうせロクでもないことだろうな……とあたしが半目になって言うと、そいつはこちらに向き直り──
「ホラ、飲め」
──そう言ってあたしにスポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出してくる。あたしがキャップを開けるだけの力が入らないことを見越してだろう。パキっとキャップを半分程弛めてからなのがイケメンの気遣いみたいでやや勘に障る。
「……いらない」
何だか施しを受けるみたいで、抵抗を覚えてしまったあたしはそっぽを向く。
……あー。もう猫被らなくていいや。疲れる。多分こいつはニブいから気づかないだろう。
「バッカお前、脱水症状起こすぞ。人は寝てる間に二百リットルもの汗をかくんだぞ。しかもお前は熱あんだぞ」
「……二百ミリリットルね。二百リットルってお風呂にお湯貼れるわよ。てかそんな汗かいたらミイラよ。アホじゃないの」
……あぁ、シカトすればいいのについツッコんでしまう。こいつがアホなのが悪い。
「うるせー。とにかく飲め」
そう言って、ペットボトルをグイグイ押し付けてくる。
「い、ら、な、い!」
「な~にを意地張ってんだ! コレはお前の為に買ってきたんだぞ。俺の血と汗と涙と骨の結晶だぞ、飲めっ」
「骨は入ってないでしょ……塩化ナトリウムに鉄分とカルシウムが加わって栄養満点……ってバカじゃないの? そんなモンが入ってるとか言われたらますます気持ち悪くて飲む気が失せるわよ」
「何でそんなに嫌がる?」
「だって……あなたに優しくされる理由がないモノ」
「……はぁ?」
そいつが、眉間に皺を寄せながら不機嫌そうな声を出す。
一瞬、まずいことを言ったかと逡巡していると──
「姫抱っこまでさせといて、今さらワケ分かんねーこと言ってんじゃねー! 風邪引いた時と誕生日は王様待遇って戸山家では決まってんだよ!」
「んんっ!」
──そいつは怒鳴りながら、無理矢理ペットボトルの飲み口をあたしの口に押し当ててきた。
「んむーっ!」
「ほーら、段々ペットボトル傾けてっちゃうぞー? 飲まないと零れて顔とか服とか布団とかビッチャビチャのグッチャグチャになっちゃうぞー?」
あたしの抗議の声を無視して、そいつはサディスティックな笑みを浮かべる。
「んんーっ!」
恨みがましい視線を向けるが、全く意に介してくれない。後頭部とペットボトルを抑える手を掴むが、びくともしない。
「おや、何だいその目は? 分かってるんだぜ? 口じゃなんだかんだ言っても、本当はこいつが欲しくてたまらないんだろう!」
「んっ……んんっ……」
ぶっ飛ばしてやりたかったが、今は他にどうすることもできない、とあたしは観念してその液体を喉に送り込んだ。
……おいしい。むかつくけど冷たくて、滅茶苦茶においしかった。
「どんなに否定しても無駄さ! ソレだけの高熱の上に眠っていたんだ。いくら嫌がってもお前の身体はこいつを欲しがってしまっているんだよぉ! はっはっは! 飲めオラァっ!」
「んんんっっっ!!」
こいつうるさい! 何かさっきから言い方がすっごい鬱陶しくて腹立たしいけど、悔しいけど……こいつの言う通りだった。
「ぷはっ……はぁ……はぁ……けほっ」
「ふむ……一口で半分以上飲んだか。やっぱり渇いてたんだろ、喉」
「さ……最低……っ」
「知らんなぁ。お前が素直に欲しいって言わないのが悪い」
「変態……ゲス魔王っ!」
「その通り……俺はゲス魔王なのだよ。今さら悪評の一つや二つ増えたところで、痛くも痒くもない」
「むうぅ……!」
こいつって、普段女子には優柔不断で引っ込み思案なのに、時々妙に強気な行動に出る時があるのよね……特にあたしに。
「そしてそのスポーツドリンクには特殊なクスリが入れてある。今に効果が出るだろう」
「は、はぁ……っ!?」
まさか媚薬か何か盛った……!? ソレはさすがにシャレにならないわよ!?
「食欲がドンドン湧いてきて、俺の作るお粥が欲しくて堪らなくなるはずだっ! はーっはっは!」
「…………」
「あ、台所借ります」
「……アホ、じゃないの」
ずんずんとキッチンへと歩いて行く背中に、そう呟いてあたしは枕に倒れ込んだ。
ほんっと、こうすると決めたら人の言うこと聞かないんだから……もう勝手にすればいい。
「でも……すごいよなお前達。見知らぬ土地で二人だけでちゃんと生活できてるなんて」
キッチンの方から声がする。
「?」
あたしは返事をしなかった。
……何だろう。イマイチ距離感が掴めないというか。
あたしはこいつにはあまり優しくされたくない。だからあんな態度を取ってしまった。少し冷たい態度を取ってしまった。
なのに……あいつじゃないクセにあいつみたいなことを強引にしてきた。いや当たり前だけど。同じ人間なんだから。
ソレが嬉しいのか嫌なのか、自分でもゴチャゴチャしてて分からない。多分熱のせいもある。
何を言えばいいのか分からない。どう接していいか分からない。
「お互い姉と弟しか頼れるヤツいないんだよな。ソレで家のことも学校のこともちゃんと出来てるんだからすげーよ」
「別に……普通だと思うけど」
「いやすげーって、俺なんて朝起きたら朝メシがあって、着ていく服が洗濯されてるのが当たり前だからな。その二つがないだけでパニクる自信があるぞ」
「ソレは……あんたのママに感謝しなさいよ」
「そうだな。感謝しないと。母親は偉大だ」
「ちゃんと、いつもありがとうって言ってあげなさい」
多分……あの母親は喜んで両手を広げるだろう。目に浮かぶ。
「ああ。て俺の話はいいんだよ。そういう頼れる存在が!お前らには姉弟しかいないんだからって話だ」
「?」
「その片方が体調崩したり、実行委員で捕まっちまったら誰を頼るの? て話だ」
「……? 誰にも頼らないわよ」
「ソレがいけないって言ってんの。依存しろとまでは言わんが、何かお前はクラスのみんなと距離があるんだよ……出来た」
そう言ってそいつが部屋に戻ってくる。その手に持ったトレイにはお粥と……味噌汁? が置かれていた。
「……お味噌汁?」
「いや、豚汁。豚汁はすごいぞ。栄養価に優れている上に低カロリーなので女性にもオススメ! 何よりその温かさと懐かしい味は心に染み入るモノがある。被災地とかでもよく振舞われる一品ですね。仮に精神ポイントなるステータスがあるならば回復すること間違いなしでしょう」
「そんなモノ作る時間あったの?」
何だか解説に熱を入れ始めたそいつにボソっとあたしが呟く。
「いや……レトルト素材だけど……でも一工夫として生姜を加えてあるぞ」
「?」
「俺カップラーメンとかレトルト料理に、何か一品加えて美味くするの、好きなんだよね」
「……へぇ」
「そんなワケで今度は『いらない』とか言わないで欲しいな」
「…………」
……先に言われてしまった。
「……さすがにコレは無理矢理食べさせて零したら火傷しちゃうし。あ、でも嫌ならフーフーしてあーんてしてやるの刑に処すのも──」
「──いただきますっ!」
何だか気味の悪いことを言いだしたこいつを遮って、あたしはお粥の注がれた茶碗を手に取った。
そう。ここがむかつくのだ。相手が他の女だったらフーフーとか絶対に嫌がるくせに、相手がリライとかまひるとかあたしだったらやってくるのだ。
つまり、こいつはあたしを子供扱いしているのだ。ソレが腹立たしい。
「フー……フー……」
「…………」
「……はむ」
あたしはお粥を口に運ぶ。傍らの男が固唾を呑んでその様子を窺っていた。
「……どう? 熱で味覚とかおかしくなってることもありえるし、食欲ないかもしれないけど、少しでも、ほんの少しでもお腹に何か入れた方がいいから」
「…………」
「だから、まぁ何だ。一口ずつでもいいから口に──」
「……おいしい」
あたしは吐息にそんな言葉を乗せた。
「──そうか」
心底ホッとした顔でそいつが言う。こういうところが、ずるいというのだ……。
「料理……上手なのね」
「そうか? まぁ、この歳の男にしては、ってくらいだけどな」
「どうして?」
「んー……母さんの料理が美味いからかな」
「……どうして? ソレで覚えようと思ったの? ママが美味い料理作ってくれるなら、覚えなくてもいいじゃない」
「どうしてって……」
そこでそいつは腕を組んで、首を捻りながら考え込むように唸り出す。
「男のガキってなぁ……すごいと認めたモノは習得したくなるんだよ」
「?」
……男のガキ?
「例えば父親が川に小石を何回も跳ねさせるのを見ると『父さんすげー! 俺も覚えたい!』ってなる。兄貴がサッカーとかですごいプレイをしたのを見ると『兄ちゃんすげー! 俺も覚えたい!』ってな具合に」
「うん」
「……ソレが『母さんの料理うめー! 俺も覚えたい』ってなっただけだよ。まぁ、さっき言ったドレもオリジナルを超えるに至ってないんだけど」
そいつは気まずそうに目を逸らしながら、そう言った。
「……ふふ」
ソレが何だか可愛く思えたあたしは、笑みをこぼしてしまった。
「……何で笑う?」
「んーん、別に」
「だから、ソレも母さんの作ったモノに比べて……決して絶品ではないだろうけど──」
「美味いわよ。美味いかどうか決めるのはあたし。作ったあんたじゃないわ」
「…………」
「……ふぅ。今度はそっち。取って」
そう言ってあたしは、目を丸くさせてるそいつに空になったお茶碗を差し出した。
「……おうっ!」
どこか嬉しそうに口許を弛めながら、そいつがお茶碗を受け取り、代わりに豚汁を差し出してくる。
「…………」
ずずっと音を立ててスープを呑みこむ。何て言うんだろう。身体中にポカポカが広がっていくような気がした。
「……おいしい」
見るからに感想待ちをしていたそいつに、あたしがそう言うと──
「そうか」
──そいつは見るからに嬉しそうに、そう言った。
「……ふ、ふふふ」
「な、何だよ」
「べっつにー。ホラ、飲み物取って。口の中が脂っこいのよ」
「お、おう」
いつの間にかあたしがイニシアチブを握っていた。いつの間にやらあたしは自発的に、能動的にソレを食べようとしていた。
あたしはソレに自分で気づいていて、ソレが不思議と不愉快でないことがおかしくて、自然と笑みを浮かべてしまっていた。
もう世界に置いてかれているような孤独感はどこにもなかった。