肉食ウサギと草食ライオン⑩
屋上へと続く階段を登ると、古ぼけていながらも頑丈であることが窺える、重厚な扉が見える。
施錠されていないのは、今この高校に通う生徒ならみんな知っていることだ。
僕が入学するまでは入ることはできなかったらしいが、今期生徒会長に当選確実と言われている副会長を中心とした生徒会メンバーの働きかけにより、今では自由に出入りできるようになったそうだ。
僕はその人達については詳しく知らないが、ソレくらいのことは噂で聞いたことがある。
おかげで暖かい季節の昼休みなどは、屋上は生徒でいっぱいになるそうだ。
もっとも今の季節に屋上を縄張りにする生徒はほとんどいない。必然的に高いところは風が強いし、肌寒いからね。
この季節にそんな場所を縄張りに選ぶのは、よほどの変わり者か、他人に邪魔されたくない何かをしている者なのだろう。
そして彼は、そのどちらも当てはまる人物だと思う。
ソレを分かっていながら邪魔をしに行くのはどうなんだ、と心の声が訴えてくるが、もう今くらいしか時間がない。どうしてもすぐに答えが欲しい。いつになく僕の心は頑なだった。
ソレに、あまり人目に着きたくない格好をしている今の僕としては、先輩がここにいてくれてるのは正直助かる。
「ん……しょっ」
ほんの少し扉を開けると、気圧差のせいか風が吹き抜け、僕の髪を撫でる。
猫耳カチューシャが落ちるのでは、と咄嗟に抑える自分がひどく滑稽に思えた。
やはり少し肌寒い。風は今なお僕の身体を煽る。
耳を澄ませば、その風に乗って歌声とギターの音が聞こえることに気づいた。
「……っ」
扉を完全に開け、屋上へと足を踏み入れる。
「…………」
歌は僕の真上、給水塔の方から聞こえてくるようだ。上階へとハシゴが続いている。
「んっ……んぅ」
どういうワケだか一段目がやたらと高い位置にあるハシゴに飛び付く。背の低いヤツのことも考えて欲しい。
「…………」
いた。ハシゴを昇り頭を覗かせると、そこにはあぐらをかいてギターを抱えた背中が見えた。景色を眺めながら歌ってるのか。気持ち良さそうだな。ていうか……
「……っ」
……歌、上手いなぁ……!
こんな高いところから、コレだけの声で景色を見ながら思いきり歌う。さぞかし気持ちがいいことだろう。ハッキリ言って羨ましい。僕にはコレといった特技も、自分を解放する方法もないから。
歌が終わるまで、たっぷり二分間は僕はその背中を見て呆けていた。
「ふむ……」
今の自分の出来を自己採点でもしているのだろうか。先輩が小さく唸る。僕は今の歌への賛辞と、自分の存在を知らせる意味も込めて、ぱちぱちとその背中に拍手を送った。
「……っ!?」
瞬間、先輩がガバっとこちらに振り返る。ちょっと驚くくらいに俊敏な動きだ。
「…………」
「……あ」
「……だ、誰?」
「い、一年の獅子堂凛音と申します」
「……リオン……ちゃん?」
「お、男です……僕」
「えっ!?」
「この間はぶつかって五十円玉落とさせてしまってすみませんでした!」
「…………」
「…………」
「あーっ! お前あの時のショタっ子か!」
「は、はい!」
「へー! すげーな! 女の子にしか見えねーよ。特技だなソレ」
特技……か。先輩のソレに比べて随分と情けない特技だ。
「練習の邪魔しちゃってすみません……今ちょっと聞いてましたけど……歌、うまいんですね」
僕は先輩の正面、コンクリートの床に正座しながらそう言った。
「ん? おー、サンキュ」
何てことなしに答える戸山先輩……言われ慣れているだろうことが窺える反応だ。
「ライブって……ステージに立って、色んな人の視線を浴びるんですよね」
「うん」
「そんな中で歌うなんて、僕だったら……う、考えただけで……吐きそうです。緊張……しないんですか?」
「するよ。超する。最初のワンフレーズ歌い終わるまでいつも脚震えてるよ」
スポーツ選手が最初のワンプレイまで緊張する、みたいなモノなのだろうか?
「どうやって乗り越えるんですか?」
「……特殊能力」
「……は?」
何言ってるんだこの人は?
「ライブに限ったことじゃないけど、乗り越えられるかどうか分からない、困難な場面に遭遇した時、俺はいつもソレを発動させる」
「……はい?」
「自分の度胸が足りないと思ったら、ソレを乗り越えられそうなヤツを頭に浮かべるんだ。主に父さんと兄貴が多いな。そんで、自分の心に問い掛ける。あいつのアレは俺の中にあるか? そこで心が『ある』と答えたら発動するんだ。名付けて『人格模倣』」
……え、本当にそういう能力があるのか?
「欠点はよく知ってる相手じゃないと成功率がガクっと下がることだな」
「…………」
「……いや、ねーよそんな能力。と言うよりは特殊でも何でもない、誰でも使える能力と言うべきか?」
戸山先輩は僕が本気で信じ掛けてるのを察したのか、少しバツの悪そうな顔で言った。
「ほ、本当にあるのかと思いました……」
「お前素直だなぁ。純真系が好きそうな女の子と話す時にお前の人格は使えそうだ。で、何の用だ?」
「あ、はい……」
僕は数秒間黙考する。何て切り出すべきだろうか?
「……男らしさって何で決まるんですかね?」
「……ち○この大きさじゃね?」
「…………」
……僕は人選を誤ったのかもしれない。
「というのは冗談だが、いきなり『男らしさとは?』なんて言われてもな。話がフワフワしてて分かんねーよ」
「……え」
「今まで相談してきたヤツらは優しかったから聞けばホイホイ答えてくれたか? 生憎俺は優しくないんだ。特に男にはな」
意地悪な口調だが、ただ嫌がらせがしたいだけではないのが見て取れた。
彼は今『男には』と言った。ついさっきまで女の子に見えるのを特技だと言ったばかりなのにだ。
つまり、今の僕の男らしさを求める質問を聞いただけで、僕のコンプレックスを見破り、さりげなく気を遣ったのだ。多分以前の僕だったらソレに気付けなかっただろうけど。
「見たところ、適当に相談にきたワケじゃないんだろ? なら俺もぶっちゃけトークで答えてやりたいさ」
「…………」
「何かを得たいのなら何かを失うかもしれないリスクを背負え。覚悟を見せな。自分の都合の悪い部分は隠して、いい部分だけ持ってこうなんて、ソレこそ都合が良すぎるぜ?」
「…………」
全くもって彼の言う通りだ。井上先輩……エルク先輩……アルテマ先輩。みんなは優しすぎるくらい優しかったのだ。相談事の内容を話さないヤツに応えてくれるくらいに。
僕は甘かったんだ。戸山先輩がソレを指摘してきたことで初めて分かった。
「絶対に、内緒にすると約束してくれますか?」
僕は深呼吸をし、先輩を真っ直ぐ見据えてから言った。
「最近記憶喪失気味だから大丈夫だ……ソレがなくても、誰にも言わない。男の約束だ」
「……はい」
「──といったことが、ありまして」
僕は放課後の教室であったこと、採寸の時にあったこと、兎川さんの名前を除いて事の顛末を全て話した。
「というワケで、すごい、思い出すのも辛いことだったのに、何故か、僕の……、あの、アレが……その、そんなことに……」
「俺も……今おっきくなっちゃったんだけど」
戸山先輩が前屈みの態勢で不覚、と言いたげな声で呟く。
「ええぇぇっ!?」
「自分の好きな人で置き換えて考えたら……つい……」
「す、すみません」
「いや、こちらこそ……てか、男なら普通たつわ!」
開き直った先輩が異議ありと言いたげに叫ぶ。
「ふ、普通ですかね?」
「普通だよ。でもお前の話に興奮したんじゃねーからな! お前の話すシチュエーションで好きな人を動かしてみたら興奮したんだ!」
「は、はい。分かってます」
「……ちょうどイジワルな顔してる時の笑顔が一番色っぽい人なんだよ」
うわ……多分、アルテマ先輩だよな。あの人ドエスっぽいし。何か顔を知ってる人だと複雑な気分になるな。
でも好きなら何で中庭に放置してるんだろ……秘密の仲、なのかな?
「てか、健康な男子なら元気にならない方が問題あるだろ。好きな女の人に男として反応しない方が問題だよ。うん」
先輩が腕を組み、あぐらをかきながらふてぶてしく言う。
「そ、そうですか?」
「そうだよ。将来結婚して子供とか欲しくなった時にそこで初めて反応しないのが発覚したら大ショックだろ」
「は、はぁ」
……結婚して、って……何か、スケベなくせに、変なとこ純粋な発言をするなぁ。
「……ぶっちゃけ、俺は好きな人と初めてデートして手を繋いだ時、ギンギンだった」
「手、手で、ですかっ!?」
「そうだよ! 手なんかでだよ! いやでも俺が中坊だったのを差し引いてもやべーぞアレ、マジで! 自分の手汗が妙に気になって、『俺なんかと手ぇ繋いで恥ずかしくないんですか!?』って気分になって妙に照れくさくって嬉しくて!」
「は、はい……!」
「どうもお前はそんな風になっちゃった自分がショックだったみたいだけど」
「は、はい……」
「性欲も恋もどっちも相手を欲する素直な欲望だ。ソレの何が悪い」
「…………」
そうか、そうなんだ、と鵜呑みにすることは僕にはできなかったが、先輩が僕を肯定してくれたことで、少なからず救われたような気がしないでもなかった。少し心が軽くなったような気がする。
「俺なんて好きな人のおっぱい触りたいから球技大会でナリフリ構わなかったんだぞ」
「え……」
「いや、ホラ、球技大会の時さ、俺超ド汚い手を使いまくって、その果てにゲス魔王なんて呼ばれることになっちゃったんだけどさ」
「ソレが、その……触りたいからだった……と?」
「そう。『優勝して、ネズミの王国連れて行ってくれたら何でも言うこと聞いてあげる』なんて言われちゃってなははは……!」
「ソレで先輩は触らせてくれ……と?」
「そう、勇気振り絞ったぜー?」
……ダメだ。アルテマ先輩の顔を浮かべるな。不謹慎だぞ! ソレより──
「──ソレって、『付き合って下さい』って言えばよかったんじゃ……?」
「……!?」
先輩が雷に打たれたかのように硬直する。ガクガクと震え、油の切れたロボットのようにぎこちなくこちらを向く。
「……天才か?」
「……い、いえ」
「そうか、付き合ってしまえばおっぱいなんて揉み放題だモンな! そこまで考えが至らなかったぞこの策士め! 真のゲス魔王がここに!」
そう言って先輩がボスボス僕の肩にパンチする、いててっ。
「で、でも、そんな理由があったんですね。僕達のチームにバット投げたりしたのも」
「え……お前のチームと戦ったの、俺ら?」
「はい」
やっぱり覚えてないんだな。
「バット投げたの? お前らに?」
「はい」
「……お前にも?」
「はい」
「ご、ごめん……!」
先輩は一瞬であぐらから正座になり、できる限りの角度まで頭を下げた。
「い、いえ、先輩という人間が少しは分かった今なら、納得できるというか……」
「お、おう……? と、とにかく、すまんかった」
「いえ、ソレで、話の続きなんですけど」
「あ、ああ……」
「その人は……何で……僕にそんなことをしてきたんでしょう?」
「女の子だってそういう気分になる時もあるんじゃねーの?」
「……そうなんでしょうか」
「そうだと思うよ。てかそうであって欲しい。そう信じたい」
先輩はうんうんと噛み締めるように、そう言った。
「だって自分ばっか悶々とそんなこと考えて、相手は仕方ないなーって、しょうがないから合わせてくれてるだけだったら悲しすぎるぞ!」
「……まぁ、そうですけど」
「男女でムラムラ度の差はあるかもしれんけど、そういう気分になることもあるんじゃない? そう信じたい」
「…………」
「お前、大人しそうなその子がそんなことしてきたのがショックだったんだな」
「…………」
「そこは呑みこんでやれよ。自分が勝手に抱いていたイメージと違うからってショックを受けるな。いや、ショックを受けるのはいい。でもソレを相手に分かるように顔に出しちゃダメだ。失望を表に出して、相手に押し付けちゃダメだ。清濁併せ呑む、てヤツだな」
「……はい」
「お前純粋なんだな。俺だったら女の子が自分にムラムラしてたら嬉しいけどな」
「え、じゃあ高橋さんは?」
「お前……何で知ってるんだ。あ……! お前その格好……同じクラスか」
「はい。ソレに高橋さん、すごいオープンにアピールしてるの見てますから」
僕がそう言うと、先輩は頭をかいたあと、意を決したかのように咳払いをした。
「んん……絶対に本人に言うなよ?」
「……はい」
「正直……嬉しいよ。下半身が暴走しないように頭の中で必死にお経とか唱えてんだぞ俺!」
お。お経……?
「ソレ、高橋さんが知ったら喜びそうですけど」
「……でも俺はあいつの気持ちには答えられないから。だから何てことない顔をしてなきゃならんのよ。鼻血出そうになってもな。たまに無意識にありがとうございますとか言っちまうけど」
……なるほど。
「で、お前は? まぁそういう女の子が嫌ってヤツもいないでもないか……お前はどうなの? 嫌だった?」
「僕は……分かりません。でも、怖かったけど、ショックだったけど……嫌……では……」
「そうか」
「どう接していいのか分からなくなっただけで……。先輩は……アルテマ先輩とそうなる時ってないんですか?」
「アルテマ? あぁ、留学生?」
一瞬誰の事だか分からない、と言いたげに先輩が呆けた顔をする。
「そうですよ。風邪引いてるみたいでしたけど、大丈夫なんですか?」
……とぼけてるのかな? でもそんな人じゃないと思うんだけど。もしかして、先輩の意中の相手って違う人なのか?
「そういえば今日姿が見えないな……休みか」
休みかって……!
「辛いなそりゃ……あいつの国の文化祭がどんなんだかは知らんが学校の文化祭って独特の楽しさだからな。ソレに出れないのは辛い」
誰のせいだと思ってるんだろう。
……アレ? もしかして戸山先輩はアルテマ先輩が自分を待ってるの知らないのか?
「アレ? あいつら何年生の時からいたっけ? 去年の文化祭には……いたっけ?」
「ドレだけ眼中にないんですか」
「う……おぉ、何か迫力あったな、今のお前」
「お見舞いに行ってあげたらどうです? 彼女……きっと先輩を待ってますよ」
恩返しのつもりはないけど、アレだけキレイな人でも思い通りに過ごせてるワケじゃないんだと知ると、応援したくなる。
コレくらいならいいよね? ごめん。高橋さん。
「ふむ……考えておく。……で、何の話だっけ?」
「先輩は……女の人と、どう接したらいいか分からなくなることって、ないんですか?」
「あるよ。ありまくる。残念ながら女心は俺には分からん。分かんないことだらけだ」
「…………」
「例えば何でお前らは怒ってることを猛烈にアピールしてくるのに理由を聞いても『怒ってませんけど?』とかしか返してこねーんだ、とかな」
「はぁ」
「情けないけど、もうそういう時は素直に降参しちゃうね。『鈍感で本当ごめんなさい。降参するんで教えてください』って」
「降参……ですか」
「そうだよ。男は女が自分の為に泣いたり怒ったり、心を動かしてくれてる時には、負けを認めるんだ。勝っちゃいけないのさ」
……そもそも勝負じゃないか、と先輩は付け加えた。
「さっきも言ったけど、俺、鈍感だからさ。ちょっと前まで鋭いと思ってたんだが、その認識も最近覆った」
「そうなんですか?」
「うん。だから特別なアドバイスはしてやれないよ。思っていることや自分の気持ちが分からないことも含めてそのまんま全部ぶつければいい」
「……え、そのまま、ですか」
「ああ、相手と向き合って話してから初めて分かることもあるよ。そもそも、一回きりの答え合わせじゃないんだから、何回でもいきゃいいんだよ」
「何回でも……」
「おう。そうやって一歩ずつ進んでってお互いに満足できる答えを二人で出せばいいじゃねーか。お前一人で悩んでてもしょうがないだろ」
……そうか。結局僕は問題を先伸ばしにしていただけなんだな。
何だかんだと理由をつけて、彼女と向き合うのを怖がっていただけなんだ。
彼女と話をして、また問題が起こったらその時考えればいいんだ。
もう十分に考えた。今僕がすることは分からない気持ちも含めて彼女に伝えることなんだ。
「ありがとうございます。戸山先輩」
僕は頭を下げながら言った。
「お、何か腹が据わったみたいだな。さっきまでとは別人の顔つきだのう」
「はい、先輩のおかげです」
「うむ。りおんはレベルが1上がった! 愛しさとせつなさと心強さが1上がった!」
「せ、せつなさはどうなんでしょう……?」
「細かいこたいいんだよ。俺のおかげだと言うんなら、当然ライブには、来てくれるかな~?」
「い、いいとも~」
……ノってみた。恥ずかしいけど。
「よし行けリオン! 男には避けれ得ぬ戦いというモノがある! さっき勝負じゃないって言ったけど!」
「はい! ありがとうございました!」
僕は立ち上がり、梯子に足を掛ける。
校舎へと続くドアに手を掛けたその時、頭上から声がした。
「頑張れリオン! お前の人生の主人公はお前だけだ!」
「……はいっ!」
負けじと僕は、今までで一番大きな声を空へと返した。




