#38
俺は、母の言葉に適する場所に向かって走った。
いつかは忘れたが、前に、母と姉と訪れた崖。波の心地よい音がして、涼しい風が気持ちよかったあの場所。母はそこにいる気がしてならなかった。
――だが、着いた時にはもう遅かった。
崖の上には、母が愛用していた、踵の低い白のパンプスが。その眼下には、高い荒波が押し寄せていた。
「……湊、お母さんは……?」
後から追いついた姉が訊ねてくる。すると突然、姉はハッと口元を手で覆った。どうやら、母の靴を見て察したらしい。姉の目には、次第に涙が溜まっていった。
――もちろん、俺の目からも、一粒の雫が落ちた。
翌日の文化祭は休んだ。とても、行けるような状態ではなかったのだ。
その日から、俺達は二人で暮らすことになった。平日は、母を失った悲しみに耐えながら過ごし、休日は用がない限り家から一歩も出ない日々を送っていた。そんな休日のある日突然、電話がかかってきた。
どうやら相手は母の姉、つまり伯母からのようで、一緒に住まないかという話だった。なにも、死んだ母からの頼みのようで、その日から、俺と姉は伯母の家族に引き取られた。
伯母は母よりも少し早く結婚しており、『篠原』という大きな家に嫁いだようだった。
そんな篠原家には、優しくしてくれる伯母と、文句が多い義理父と、三人の姉弟がいた。
三姉弟には、姉と同い年の音歌、俺のふたつ上の恋歌、俺のひとつ上の陽汰がいた。三人とも、性格がいいとは言えないような奴らだった。
それは、大晦日の大掃除の時だった。
「それじゃ、音歌と恋歌と妃ちゃんはこの和室を、陽汰と湊君はその前の廊下をよろしくね」
伯母から、大掃除の分担をされた。俺達五人は、はーいと返事をする。大掃除が始まった。
――と思ったのが間違いだった。伯母が二階へ消えた後、掃除を始めるかと思いきや、三姉弟は掃除用具を手に取らなかった。
「もう、一年の最後の日に掃除とかあり得ないんだけど」
最初に愚痴をこぼしたのは、音歌だった。音歌は、どこからか取り出した手鏡を持ちながら続けた。
「私、明日カレとデートがあるんだよねぇ。なのに前日に掃除とか、全然やる気出ないし」
音歌の言葉に、恋歌はスマートフォンをいじりながら、「ホントホント」と便乗する。音歌も恋歌も、掃除は最初っからやる気無しといった様子だった。
「あのさ……手伝ってほしいんだけど……」
そこへ、熱心に掃除をしていた姉が口を挟んだ。すると、音歌の形相が変わった。
「はぁ? なに偉そうに言ってるの? あんた、ここに住まわせてもらってるってこと、わかってる?」
「そうよそうよ。あんた一人でやるのが、当然でしょ?」
音歌は、姉に向かってほうきを投げつけた。音歌と恋歌は、楽しそうに笑っていた。
「おらっ、なに見てんだよ!」
突然、横から雑巾が飛んできた。どうやら、姉と姉妹のやりとりを見ているのを、陽汰にバレてしまったようだった。
そんな陽汰の手には、ゲーム機が握られていた。廊下に座って楽しそうにやっている。だが俺は、何も言わなかった。口出しすると、きっと面倒なことになるだろう。
真剣に掃除をやっている時、誰かの足音が聞こえてきた。聞く限り、義理父だろう。
すると、姉妹はそれを察したのか、急に動き出した。音歌は姉の横に落ちているほうきを拾い上げ、恋歌は姉から雑巾を奪い取った。あたかも、今まできちんと掃除をしていたかのように見せている。
予測どおり、義理父が俺達の掃除場所にやって来た。まず、和室を覗く。義理父は、「ちゃんとやってるか?」と姉達に訊ねた。
「パパ、聞いてよぉ。妃がね、全然何もしてくれないの」
音歌は、何も持っていない姉を指さした。持っていなくても、仕方がない。ついさっき、恋歌に取られたのだから。何も掃除用具を持たない姉は、義理父の目にはサボっているように見えているだろう。
「さっきから私とお姉ちゃんでちゃんとやっているのに、酷いよねぇ、パパ?」
「そうだな。ちゃんとやんなくちゃダメだぞ」
最低な父親である。それ以前に、あの姉妹が最低であるが。
すると、義理父は廊下の俺達を見た。
「おい、陽汰。何でゲームしているんだ」
よくぞ訊いてくれた、と俺は思う。すると、陽汰はあり得ないことを口にした。
「だって、俺終わってんもん。ほら」
陽汰が指さしたのは、先ほどから俺が掃除していた所だった。
「俺達、担当の場所を分けたんだ。で、俺の担当の所は終わったから、ゲームしてたわけ」
もちろん、こんなのデタラメである。だが、義理父はそれを信じ、納得したようだった。
「お前も、姉と同じなのか。ちゃんとやれよ」
やはり、最低な父親である。もちろん、陽汰もズルいことを考える男だ。
義理父が去った後、三姉弟はしてやったり、という表情で笑っていた。




