#35
姉が言ったとおり、つらいことの後には幸せが待っていた。
いつもどおり、遅く帰ってくる母を待っていた。すると、「ただいま」という声が玄関から聞こえてくる。その声がいつもと違っていた。いつもは疲れはてた声。今日もやはりそうだが、どこか喜びのようなものが混ざっていた。
何故か気になり、玄関へ駆ける。俺の目には、母と、隣に見慣れない男の姿が映った。
「どうも、はじめまして。速水です」
その男は口を開いた。俺と姉が首をかしげていると、母が補足説明をしてくれた。
「この速水さんは、お母さんがお付き合いさせていただいている方なの」
どうやら、今の母のカレシらしい。速水は、よろしくねと微笑んだ。その笑顔は純粋なもので、柔らかな雰囲気を漂わせていた。
その日から、速水は頻繁に家を訪ねるようになった。
母は帰宅してすぐに、速水とリビングで会話をしていた。二人のいい雰囲気に、俺と姉は邪魔してはいけないとリビングから去った。
二人は、リビングで仲良さそうに話していた。次第に、『結婚』という単語が、二人の会話から出てきた。
「ねぇねぇ、お母さんと速水さん、いつか結婚するのかな?」
姉が楽しそうに訊ねてくる。もし二人が結婚したら、速水は父親になるのか。なんだか新鮮で、想像するだけで楽しい毎日が浮かんできた。
姉の言葉に、「そうだといいね」と微笑んだ。
ある日、母から嬉しい報告があった。
「お母さん、速水さんと結婚することにしたの」
その報告に、俺達は喜びの声しか出なかった。これで、俺達の生活費の負担は少しは軽くなるだろう。何より、母が物凄く嬉しそうだった。
「色々払うお金とかあって、今までより大変になっちゃうけど、お母さん、速水さんと頑張るからね」
母のその笑顔を見て、ずっと応援したいと思った。
だが、その喜劇が、悲劇に変わるのは早かった。
母も姉も帰ってきていなかったある日。独りテレビを見ていると、慌ただしく玄関のドアが開いた。この時間は姉だろう。姉は、バタバタ走りながらこちらへ向かってくる。バンッとリビングのドアが開かれたと同時に、息を荒らげた姉が入ってきた。
「お母さんは!?」
「まだ仕事だろ?」
「速水さんは!?」
「速水さんもだろ?」
普通わかるような質問をしてくる姉を怪訝そうに見る。すると、姉は「大変なの!」と焦った様子で言った。
「私、見ちゃったの!」
「何を?」
「速水さんが、お母さんじゃない他の女性と歩いているところ!」
一瞬、静止する。しばらくして冷静になると、「友達じゃねぇの?」という疑問が浮かんできた。
「違う違う! 絶対違う! だって、手繋いで、すごく仲良さそうにしていたし……」
姉の言い分を聞く限り、その女性はただの女性ではなさそうだ。まさか、とは思ったが、俺達の中であるひとつの考えが浮かんだ。
すると、母が帰ってきた。
姉がすかさず玄関へ向かって走り出す。そのあとをついていく。玄関にいた母は、なんだかとても疲れきっていた。
姉は躊躇せずに訊ねた。
「お母さん、あのね! 私、街中で見ちゃって。速水さんが――」
そこまで言って、母は姉を止めた。一度頷いたその目は、「わかってる」と言っているように見えた。
「お母さん……」
靴を脱いだ母は、猫背の状態で重たい身体をリビングまで運んでいた。
後から知った話だが、どうやら姉が見た女性は、速水の本当の交際相手らしい。母と結婚するという話は真っ赤な嘘で、結婚を餌に大金を手に入れる、つまり結婚詐欺だったということだ。
その事実を知った母は、失望した。仕事はうまくいかなくなり、帰ってきてからは酒に頼る日々。なかなか寝付けず、睡眠薬を服用しているらしかった。
毎晩、酒を飲みながら泣いている母。その姿を見るのは、とても苦しかった。
母は、どんどん壊れていったのだ。




