42話:聞いてくれるか?
レイはレストランに一人残されてしまった。シモンとジャンはシドの妹を追いかけてから、それっきり戻らず、シドは黙って部屋に戻ってしまった。妹の方はジャンとシモンが追いかけたから大丈夫だろうが、シドの方は何か思いつめた様子だった。突然いろいろなことが起こって何が何だかわからないが、このまま部屋に戻ってゆっくりするわけにもいかなかった。
レイは立ち上がりシドの部屋に向かった。確か自分の部屋の隣だったと思い出し、その部屋の前で木のドアを二回ノックした。返事はない。
もう一度叩こうとしたところで、中から物音がした。ドサッと、鞄か何かがテーブルの上から落ちるような音。
「······開けるぞ」
開けてみるとテーブルの前でシドが倒れていた。
「おい、大丈夫かっ······」
慌てて近づく。意識はあるが激しい痛みにこらえているようで、落ちた医療箱に手を伸ばすが掴めずにいた。
「くす······り······」
「薬? ここにあるのか!」
レイはシドが掴もうとしていた医療箱を開けるが、どれも似たような薬品の小瓶が入っており、どれがシドが取ろうとしていた薬なのか分からなかった。
「注······射······」
「注射器か!」
箱の隅に注射器が何本かあり、その中で大きく目立つものがあった。それをシドに見せると微かに頷く。これで間違いないようだ。
シドはうつ伏せから横向きになり、レイの持つ注射器を取って腕の血管が浮き出たところに震える手で注射する。しばらくすると治まってきたようで、荒い呼吸も元に戻り始める。
「大丈夫か」
「······ああ······何とか。悪いな、助かった」
シドはその場で上体を起こした。
「驚かせちまったな」
「今のは······病気の発作なのか?」
シドはレイの目を見てすぐにそらす。
「まあ、そんなところだな」
「ジャンには言ってないのか?」
「言ってない······まあ、バレるのも時間の問題だろうが。······ところで、何か用事があってここに来たんだろ?」
「ああ。妹は追いかけなくていいのかと思って」
「ジャンが行ったなら大丈夫だ」
「自分でどうにかしようとは思わないのか」
「そうだな。俺はずっと、ハルカの気持ちから逃げてきた。何か言いたそうにしてたら、敢えて忙しい素振りを見せてきた。今更向き合おうと思ったって、何て声をかけたらいいか分からないんだ」
「へたれだな」
「はは、そうだろ」
シドは自虐的な笑みを浮かべて立ち上がり、ベッドに腰かける。淡白で冷たい瞳だった。その瞳があまりにも自然な感じで、普段の高いテンションが演技なのではないかと思えた。
レイは一番気になっていることを聞く。
「シドは······ルゥの人間だったのか?」
「どうしてそう思う?」
「ルクナカーテに着いたとき、シャルロッテとの会話を聞いてしまったんだ。あいつはお前のことを裏切り者と言っていた」
「そうか。だが、俺はルゥの人間じゃない」
シドはしばらく黙っていたが、話すことを決心したようにレイの目を見る。その瞳は相変わらず冷たく感情がない。
「いずれは話さなきゃいけないことだが、こんなに早く話すことになるとはな。俺はルゥの人間じゃない······レジスタンスの人間だった」
「レジスタンス······さっき聞いた、反財閥組織のことだな」
「そうだ。俺は病院学校に入る前はレジスタンスで殺し屋をやっていた。少し長くなるが······聞いてくれるか?」
◇ ◇ ◇
これは、俺がまだ子供のときのことだ。
子供には似合わない大きな書斎。父の書斎は壁一面に医学関係の本が並べられていた。俺は物心がついた頃からずっと医学の本に夢中で、妹の面倒そっちのけで耽っていた。
「おにいちゃんー! 見て見て!」
突然、窓が勢い良く開けられた。静かな部屋に窓を開ける音が響いたので、びっくりして肩が震えた。
「ハルカ! 驚かせるなよ」
ハルカは窓から身を乗り出すと、窓辺の椅子に座る俺に何かを渡してきた。それは薬草だった。
「これは、栄養草じゃないか。どこから持ってきたんだ?」
ハルカは顔を綻ばせた。
「えへへ、ひみつ! それで、かんじゃさんを元気にしてあげたいの!」
薬草には泥がついており、それを触った自分の手まで泥がついてしまった。まさかと思いハルカの手を見ると、案の定、泥まみれだった。さらにはハルカが触った窓のあらゆるところが泥で汚れている。
「ハルカ、手を洗っておいで」
ため息をついてそう言うのと同時に、書斎のドアが開いた。驚いてドアの方を見ると長身の男が立っていた。大きな白衣に無造作に結んだ金髪、痩せた頬にがらんどうの目。父だった。
「こんなところにいたのか」
俺たちのことは一切見ずに、父は本棚の中から一冊取り出した。そして、何かを思い出したかのようにポケットから財布を取り出し、一枚の紙幣を抜き取って俺に渡してきた。
「今夜の飯代だ。それで何か食べてきなさい」
「······どうも」
それを受け取ると、父は何も言わずに書斎から出ていこうとした。
「おとうさん見て! わたしね、おくすりの草とってきたの」
ハルカは俺の手の中にある薬草を指差しながら、父の背中に向けて無邪気に言った。父はそれを一瞥し、「そうか、後で庭に捨ててきなさい」と言って出ていってしまった。
ハルカは呆然として閉まったドアを見つめている。
「ハルカ。これは俺が調合して患者さんに渡すから」
ハルカはゆっくりと俺の方を見ると、へらっと笑った。
「······うん、おにいちゃんありがとう!」
ルーファシスは医者の名家だ。父は王都にあるルーファシス中央病院の院長だった。俺は子供ながらに、父が俺たちのことが目障りだってことは分かっていた。だからこそ、ハルカが父に褒めてもらおうと健気に頑張る姿を見ると胸が苦しかった。
母はハルカが生まれたときに亡くなった。それから父は一変して冷酷な人間になったように見えた。虐待を受けたり罵倒されたりすることはなかったが、構ってもらえたことなんて一度もなかった。父にとって愛する人は母だけで、その子供は邪魔でしかなかった。それでも俺は父の背中をよく見ていた。父としては問題のある人だったが医者としては優秀で、医者を目指す自分はこっそりと父の様子を見に行くのだ。
ある夜のことだった。俺がいつものように父の様子を見に行くために中央病院に行くと、父の部屋の前で黒服の男が立っていた。男はノックもせずに中に入ってドアを閉める。俺は父と男の会話を聞こうと思い、ドアに耳をぺったりとつける。
『······では、我々に協力するということで?』
男の低い声が部屋に響く。
『そうだ。後任はすでに俺の優秀な部下を選んだ。あとは俺がお前たちの研究所に行くだけだ』
後任? 研究所? どういうことだ、父は院長を辞めるのだろうか。
『そう返事していただけると思っていましたよ。もし実験が成功したなら、財閥が急激に成長することはもちろん、あなたの願いも叶うことでしょう。······あっ、すでに部下たちを息子さんたちの迎えに行かせています。あとはあなたが我々と研究所に向かうだけです』
ゆっくりとドアから耳を離す。家にはハルカが一人でいるはずだ。何だか胸騒ぎがする。部屋の内側から足音が聞こえたので、慌てて駆け出して、そのまま病院の外まで疾走する。
──ハルカが危ない。
直感的にそう思い、すぐに家に戻った。家の前には見たことのない馬車が何台も停まっており、正門が開けっ放しになっていた。きっと、何かよからぬ事が起こっている。急いでドアを開けようとすると、先に内側から開けられた。中からは黒服の男たちが次々と出てくる。
「······ハルカ!」
黒服の男の腕の中にハルカがいる。手足は力なく垂れて気を失っていた。
「おまえっ、何をしたんだ!」
男に向けて怒鳴ると、男は「やれ」と合図した。その瞬間、首筋にちくりと痛みが走った。
痛い。何だこれは。俺たちを連れていくって一体どういうことなんだよ、俺たちが何をしたっていうんだよ。ハルカ、目を覚ませよ、頼むから目を覚ましてくれよ。
「ハル──」
視界がかすんでいく。最後に見たものは気を失ったハルカの弱々しい横顔だった。
それから何度か目を覚ました。暗闇の中で、馬車に揺られていることだけは分かった。
気持ち悪い。吐きそうだ。きっとさっきの首に刺されたやつのせいだ。馬車の揺れのせいで頭の中がかき乱されているみたいに気持ち悪い。
再び意識を手放し、また目が覚めて気持ち悪くなる。延々とこれを繰り返しているように思えてくる。何回か吐いたかもしれない。何度繰り返したか分からないが、次に目が覚めたときには暗闇の中ではなかった。鉄格子に、薄暗い灯り、小汚い毛布。牢屋の中のようだった。
何で俺はこんなところにいるんだ。俺は今日も立派な医者になるために書斎で本を読んで、その後にハルカと一緒に庭で遊んで、家から広場に向かう道の途中にあるパン屋でパンを買って、ハルカと一緒にそのパンを食べて、ハルカに絵本を読んでやって寝かしつけるはずだったんだ。こんな、薄汚い牢屋に閉じ込められる意味がわからない。
そうだ、ハルカはどこだ、ハルカはどうなったんだ。
「ハルカ!」
なぁに、といういつもの優しい返事はなかった。
薄暗くて視界が悪いが、よく見てみると、同じ牢屋に入れられた子供が何人もいた。その隅の方に見覚えのある小さな身体が丸まっている。
「おい! しっかりしろ!」
近くに駆け寄り肩を揺さぶる。
「······ん······おにい······ちゃん······?」
ハルカは自身の親指を唇に当て、眠たそうな返事をする。どこか悪いのかと思ったが、どうやら眠っていただけのようで、返事をすると再び眠ってしまった。
「よかった······」
近くにあった毛布をハルカにかけて、辺りを観察する。大きな牢屋に俺と同じような年齢の子供が九人いる。眠っているやつもいれば、気持ち悪そうに俯いているやつもいて、話をするやつは誰もいなかった。中でも目立つのは、両隣に二人の子分のようなものを付けた、太って身体のでかいやつだ。その太ったやつは辺りを見回して、同じ牢にいるやつらを一人ずつ睨んでいる。ここでは俺がリーダーだ、とでも言いたいのだろうか。
もう一人目立つやつがいた。鉄格子の前に座っている背が高くて痩せたやつで、たぶんこの中で一番年上だろう。藍色の髪からのぞく耳は子供のくせにピアスだらけで、少しかっこいいと思った。ピアスのやつは、俺が見ていることに気づき「よっ」と言って不敵な笑みを浮かべた。
あとは俺と同年か、少し年上の子供しかいなかった。おそらくこの中ではハルカが一番年下だろう。鉄格子の向こう側には同じような牢屋があり、俺たちより上の年代の人たちが何人もいた。他にも同じような牢屋があるようで、大体の年齢ごとに集められているみたいだった。
誰かが出してくれる気配もないみたいだし、俺たちは今日からここで暮らしていくみたいだ。そう理解することで不思議と冷静でいられた。もしかしたら今までの生活と、そう大差ないのかもしれない。今までの俺の役目は父からハルカを護ることで、これからの役目は、多分あの太ったやつからハルカを護ることになるのだろう。ハルカを護るという役目は今までと変わりはなく、ただ、誰から護るのかということと、護る手段が変わるだけのことだ。護る手段は、これからもっと残酷なものになっていくのかもしれない。それでも俺は、実行していかなければならない。
それから一ヶ月ほど経った。特に何かさせられるでもなく、毎日白衣を着た男がやってきて水と味気のないパンと濡れた布を配給してくるだけだったが、その一ヶ月は最悪だった。濡れた布は身体を拭くためのもので、女の子は毛布で身体を隠しながら拭いていた。あの太ったやつがジロジロ見てくるからだ。ハルカが身体を拭くときも見てくるので、俺は毛布で見えないように隠してやった。
あの太ったやつはロイドというらしい。ロイドは身体が大きいせいかすぐにお腹が空くようで、配給が来たときは、他の弱いやつを殴り倒してパンを横取りする。それも次第にひどくなっていき、身体が小さく喧嘩が弱いやつを狙って毎回の配給で殴って奪う。そのたびに俺はハルカに毛布を被せて見えないようにし、両手で耳を塞いで喧嘩の音が聞こえないようにした。その弱いやつは日に日に衰弱していったが、誰も助けようとはしなかった。自分たちの分を分け与えれば、自分たちが弱っていくからだ。弱ってしまえばロイドに殴られてしまう。それが毎日続くうちに、衰弱したやつは死んだ。幸い死体は白衣の男がどこかに持っていったので腐臭に悩まされることはなかったが、ロイドのターゲットが次のやつに移ってしまった。次のターゲットも日に日に弱っていった。
俺とハルカは運良くターゲットになることはなかった。ピアスのやつと少し仲良くなったからだ。ピアスのやつはキースという名前で、俺が少しだけ医術が使えることに興味を持ち、よく話しかけてくるようになった。キースは恐ろしいやつで、ロイドがキースのパンを奪おうとすると、キースは威嚇する獣のような表情でロイドに馬乗りになりロイドの顔面を殴りまくった。ロイドが謝ったことでキースはやめ、それ以降ロイドはキースを恐れるようになった。ロイドより強いのなら、ロイドが弱いやつを殴るのを止められるはずであるが、キースはそうしなかった。理由を聞いてみると「弱いやつが死ぬのは仕方ないだろ」と気味の悪い笑みを浮かべた。まるでそういう世界に慣れているような口ぶりだった。
キースの言葉は初めは理解できなかったが、次第に俺もそう思うようになっていった。他人を助けようとすれば、身内を守るのがおろそかになる。俺がむやみやたらに弱ったやつにパンを与えれば、俺は衰弱していきハルカを守れなくなる。それと、俺は強いやつの後ろに隠れるのが恥ずかしいことだとは思わなかった。自分たちが生きるためには汚いことも酷いことも手段を選ばずしなければならない。こんな状況で、自分を犠牲にしてまで正しいことを貫いて生きているやつの方がおかしいのだ。
ある日、ハルカが俺の隣で寝静まったときにキースが話しかけてきた。
「お前、これから何されるか知ってるか」
当然知らない。俺は首を横に振った。
「これはな、強い者を選抜するためのゲームなんだよ。ここにずっと閉じ込められてるってのも意味があることなんだぜ? 敢えて少ない食事を与えられる極限状態で、力のないやつと生命力のないやつは死んでいくから、自然と割と強いやつが生き残る」
「生き残ったら······どうなるんだ?」
「次のステージへ上がれる。悪魔の血を身体に入れる資格が得られる」
「悪魔の血······?」
「力の源さ。悪魔の血を身体に入れて、適合すれば力を得られる。適合しなければ死ぬ。面白そうだろ? 俺は力を得るために被験者に志願した」
キースは不気味な声で笑った。
「······全然面白くねぇよ。だって、お前だって適合しなかったら死ぬだろ」
「ハハハ! そんときは俺も負け組だったってことだ、しょうがないさ」
「おかしいだろ、何で志願してない俺たちまでこんなことになってるんだ」
俺がうつむき加減でいると、キースは嘲るような目で見てきた。
「お前、いいとこの人間だろ。自分の不条理をおかしいと思うやつは裕福なやつだけだぜ」
キースはそれだけ言うと自分の定位置に戻っていった。
どういうことだ。こんな状況をおかしいと思うのが変なのか。俺がおかしいのか?
俺はキースの言うことが上手く消化できないまま、その日は眠りについた。
そのうち弱いやつが死んでいって、生き残ったのが俺、ハルカ、キース、ロイドだけになった。他の牢屋も似たような状況のようで、向こう側の牢屋から死体が運び出されるのを何度も見た。いや、ここの牢屋は一番ましだったかもしれない。あるとき眠っていると、女のつんざくような叫び声で起こされたことがある。暗くてよく見えなかったが、向こうの牢屋で男が女に覆いかぶさって無理やり何かしているのだけは分かった。キースがつまらなさそうに「大人は大変だな」と呟いていた。こんな極限状態の中であるので、あの大人たちが何をしていたのかは容易に想像できた。
俺は恐ろしくてたまらなかった。もし、あれに感化されて同じことをロイドがハルカにしようとしたら。キースは弱いやつを助けないだろうから、そうなったときは俺がロイドと戦わなければいけなくなる。この体格差で勝てる見込みはないだろう。
いや、何としてでも護らなければならない。かなわなくても、致命傷を負ったとしても、ハルカだけは絶対に。
だが、ハルカを護りぬいても問題がある。キースが言っていた次のステージってやつだ。悪魔の血をハルカの身体に入れないようにするためにはどうしたらいいのか。それだけは考えても答えは出なかったので、俺はキースに聞いてみた。
「はあ? 妹に実験を受けさせないようにしたいだって?」
キースは思いっきり怪訝そうな顔をした。
「そんなの簡単だろ。お前が先に受けて生き残って、邪魔なやつを全部殺せばいい」
「全部······殺す······?」
「なんだよ、ためらってるのか」
「別に、殺さなくたっていいだろ。俺はハルカとここから出られればいいんだ」
「そう甘いこと言ってられるのも今のうちだ」
キースは白けた顔でそっぽを向いたので、これ以上何を聞いても無駄だった。