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ぽわんを守るために

作者: 木山花名美
掲載日:2026/04/11

 

「はじぃめましてぇ。ソフィア・ポレテと申ぅしますぅ」


 彼女と初めて会った時、衝撃が走った。

 美しすぎて……とかではない。

 何と言うか、『ぽわん』としていた。


 むしろ容姿は至って普通。

 小さく円らな目が、笑うと糸のように細くなるのだけは印象的だが、一度見ただけでは覚えられない部類の平凡な顔立ちだ。

 大抵の女性は、僕の顔を見てすぐに、頬を赤らめ好意を向けてくるというのに、彼女はただぽわんとこちらを見ていた。


 社交界の話をしてもぽわぽわ。

 流行りの舞台の話をしてもぽわぽわ。

 それなら……とガーデニングの話をするが、やはりぽわんとしていた。


 話が弾むことも広がることもなく、かといって退屈そうな訳でもない。

 ただ僕が発した言葉を、綿毛のようにぽわぽわと包んで、周りに漂わせているようなイメージだ。


 そのうち空気が綿毛でいっぱいになってきて、息を吸ううちに、こちらもぽわんとしてくる。

 両手では数えきれないほどの女性と交際してきた自分が、こんなふうに女性のペースに呑まれるのは初めてだった。



 気付けば僕は、ソフィアに交際を申し込み、婚約し、結婚していた。

 出会ってから僅か三ヵ月だった。


 子爵家の三男として生まれた僕は、家を継ぐ必要もないし、自分で立ち上げた事業が成功して既に独立している。

 ただ、三十歳を越えたのだから身を固めろと両親に言われ、両親よりももっとお節介な伯母から彼女を紹介され、渋々会っただけなのだ。


 それなのに……一体なぜ交際を申し込み、あれよあれよという間に結婚までしてしまったのだろう。


 庭で土いじりをする妻の、ぽわんとした横顔を見て考えるが、答えは出ない。

 一目惚れした訳でもないし、話が合った訳でもない。ただなんとなく、あのまま別れたら、うまく息ができない気がしたのだ。


 妻の元へ行き、ずり落ちた帽子を頭に被せてやれば、ぽわんと微笑まれた。


「ガーデニング、好きだったんだな」

「はぁい。今はぁ、トマトの苗を植えていますぅ」


 ぽわんの一因は、彼女のこの喋り方だろう。

 どこに行き着くのかわからない、波のように不安定な喋り方だ。

 試しに早口言葉を言わせてみたこともあるが、普段とあまり変わらなかった。


 そう、妻は動きも非常に遅い。

 僕が十歩進む間に半歩、僕がパンを二つ食べ終える間にまだ二口といったところだろうか。

 だから妻と歩く時は必ず抱き寄せて誘導するし、妻に合わせて自分もできるだけゆっくり食べるようになった。


 使用人もいるし、僕の要領がいいのだから、普段はぽわんでも構わない。

 だが、もし火事が起こったら、妻は間違いなく逃げ遅れて死ぬだろう。そういえば最近、隣街で放火事件があったらしいし……

 そんなことを考えて、背すじがゾッとした。


「……ねえソフィア、君は走れる?」

「はぁい」

「じゃあさ、そこからあそこの木まで走ってみて」

「わかりましたぁ」


 妻はシャベルを置いて立ち上がると、土で汚れたエプロンを、ぽわんぽわんと叩く。

 この調子ではスタート位置の『そこ』まで辿り着くのにも時間がかかると思い、僕は「おいで」と腕を広げる。こうすると、妻は慣れた様子で、ぽわんと僕の腕に飛び込んでくれるようになっていた。

 妻は綿毛のように軽い。ぽわぽわとどこかへ飛んでいかないようにしっかりと抱き抱え、スタート位置に下ろした。


 僕の合図で、ソフィアは走り……? 出す。

 ぽわぽわと腕を振り、ぽわぽわと左右に漂いながら、ゴールの木まで到着した。


「はいっ」


 ゴールした時の声は普段よりキリッとしているが、肝心の走りの方は、歩いている時とさほど変わらない。

 早口言葉と一緒だな……これはどうしたものか。

 ぽわっと笑う妻を見下ろし考える。


「じゃあソフィア、君はこうやって……少し姿勢を低くして歩ける? あ、こうしてハンカチで口と鼻を覆って、さっきのスタート地点まで戻ってごらん」

「はぁい」


 妻は僕のハンカチを口元に当て、ぽわぽわと歩き出す。

 本人は至って真面目なのだろうが……なぜか首をニュッと前に突き出し、なめくじのようにうねりながら進む姿に噴き出してしまう。

 普段の倍以上の時間をかけ、妻はやっとスタート地点まで戻った。


「はぁぁぁい」


 声までなめくじのようで可笑しいが、笑っている場合ではない。

 せっかく煙を避けても、この速度では炎に巻かれてしまうではないかと、さらに怖くなる。

 僕は妻の前へ立つと、真剣な顔で言った。


「ソフィア、今日から僕と避難訓練をしよう」

「訓練ですぅかぁ?」

「うん。この間、隣街の伯爵邸で放火事件があっただろう? 火事じゃなくても、いつ、どこで災害が起こるかわからない。だから、いざという時安全に避難できるように、一緒に訓練をしよう」

「はぁい」


 ぽわんと答える妻からハンカチを受け取ると、丸い額にぽわぽわ滲む汗をぽわんと拭った。



 それから僕たちは、休日のたびに避難訓練をした。

 まずは屋敷の脱出ルートを確認し、できるだけ素早く外へ逃げられるように練習する。そして防災グッズを揃えて使い方を学んだり、防災に関するあらゆる本を読んで知識を身に付けたり。夫婦で街の防災訓練に参加したりもした。



 結婚してから数ヵ月が経ち──

 僕が十歩進む間に半歩だった妻が、三歩も進めるようになった頃、ちょうど事業が閑散期を迎えたため、長期休暇を取れることになった。

 新婚旅行も兼ねて、港町のホテルに泊まらないかと妻に提案したところ、ぽわんっと喜んでくれた。


 最近は訓練のためにせかせかと移動することが多かったから、たまにはのんびりぽわぽわするのもいい。

 運河でゆったりと舟に乗ったり、浜辺でまったりと夕陽を見たり、海鮮料理をもったりと食べたり。

 訓練をがんばったご褒美に、妻を思う存分ぽわんとさせてやろうと思っていた。


 それでも、旅先で何が起こるかはわからない。

 僕がずっと傍に付いているとはいえ、妻はまだまだ綿毛だし、なめくじから亀になった程度なのだから。

 僕は荷物の隙間に、防災グッズと手製のハンドブックをギュウギュウと押し込んだ。



 こうしていよいよ迎えた旅行当日。

 三日かけて辿り着いた国境の港町は、大変素晴らしかった。

 妻が隣でぽわぽわとはしゃいでいるからか、若い頃に一度訪れた時よりも、何もかもが輝いて見えた。


 予定どおり、運河でゆったりと舟に乗り、浜辺でまったりと夕陽を見て、海老も蟹も逃げてしまうのではと心配になるくらい、海鮮料理をもったりのんびり食べた。


 夜になり、海が一望できる部屋で身を寄せ合えば、すぐに空気はぽわぽわと甘くなる。

 気の済むまで妻を抱き締め、心地好い疲労感の中で眠りに就こうとしていた時──

 不意に廊下が騒がしくなった。

 やがて、ドンドンと激しくドアを叩かれる。


「火事です! お客様、すぐに避難してください!」


 甘いぽわぽわから、一気に覚醒する。

 胸に抱き寄せていた妻を揺すり、「ソフィア! 起きろ! 火事だ!」と呼び掛けるが、「んん~もぉぉ無理ですぅ~寝かせてぇ」と返されてしまう。


 ──これについては、自分に責任があるのだから仕方がない。

 僕はベッドから飛び下りると、素早くガウンを羽織った。ぽわんを抱き起こし、防災用のケープを頭に被せると、薄い夜着を纏っただけの身体をブランケットで包む。

 眠っていてもわかるのか、「おいで!」と腕を広げれば、ぽわんは目を閉じたまま、僕の腕に飛び込んできてくれた。


 廊下に出ると、微かに焦げ臭いにおいが漂ってはいるものの、火や煙などは見られない。

 従業員の誘導に従い、無事に避難することができた。


 外へ出た客たちは、ホテル近くの広い公園へ集まっていた。皆疲れた顔で、ベンチや芝生の上に座り、身体を休ませている。


 よかった……ぽわんを守れた……


 腕の重みにホッとした途端、足が震え出す。……妻を落とす訳にはいかない。僕は深呼吸すると、気持ちを落ち着かせるため、その辺をぽわぽわと歩き出した。

 高台にある公園のため見晴らしがよく、木々の間には夜の海が広がっている。壮大な景色を眺めていると、腕の中からぽわんと声がした。


「綺麗ぃ……」


 いつの間にか起きていた妻が、海を見つめ、ぽわぽわと目を輝かせている。


「ほらぁ、お月様がぁ海に映ってぇ、上もぉ下もぉ空みたい~」


 こんな非常時だというのに、相変わらずぽわんとしている妻が可笑しい。

 僕は「そうだね」と答えると、妻を抱いたまま芝生の上に座り、綿毛みたいなふわふわの髪を撫でた。


 ……僕が妻を守っているのではなく、妻が僕を守ってくれているのかもしれないな。

 もしも妻がいなかったら、僕はこんなにも必死に逃げたりなんかしないだろうから。


 寝ぼけているのか、妻は僕の頬に勢いよく唇を落とすと、再び目を閉じ、ぽわぽわと寝息を立て始めた。

 頬に穴が空きそうなこのキスは、ぽわんな妻の、なぜか唯一素早い行動。僕はひりひりする頬を押さえながら、くすりと笑った。



 それから数時間後、厨房の一部が燃えただけで、怪我人もいないと聞かされ安堵した。原因は放火……ではなく、火の不始末だったらしい。

 翌朝、ボヤ騒ぎで避難したことを妻に伝えるが、やはり全く覚えていないらしい。妻はぽわんとしながらも、避難訓練を活かせなかったわと、少し悔しそうな顔をしていた。

 火でも煙でもなくて、僕と月夜の海に浮かぶ夢を見たと言う妻に、本当に海にいたんだよと言えば、ぽわぽわと楽しそうに笑ってくれた。



 そんなハプニングはあれど、僕たちは無事に新婚旅行から帰って来た。

 放火犯も捕まったとのことで、適度に避難訓練は続けつつも、ぽわんと穏やかに暮らしている。



 今日は休日。

 街の避難訓練……ではなく、流行りの舞台を観に行った。この後は、社交界のマダム御用達のスイーツを食べに行く予定だ。


 二つの軒先の二つの看板を、ぽわんと見比べる妻。

 どちらを見る表情も、ぽわんで変わらないようだけど──

「ソフィア、こっちが食べたい?」

 苺の方を指差せば、「はぁい」と明るく返事をしてくれた。


 ふふっ、さすが夫。

 掴みづらい『ぽわん』を、大分理解してきたぞ。


 嬉しくなって、妻の頬にチュッと唇を落とせば、妻も例のくちばしみたいな切れ味抜群のキスを返してくれた。



 そうだね。僕たちはこんな感じでいい。

 焦らず、ぽわぽわと歩きながら、温かな綿毛を咲かせていこう。


ありがとうございました。

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旦那さまは、外でバリバリ働いて家でソフィアさんの“ぽわん”に解される、幸せな毎日なんだろうなぁ。凸と凹がぴったり合ったお似合いな二人、胸がホカホカする素敵なお話でした(^-^)
夫婦も歳を重ねると、互いが『空気』みたいになる、なんて言いますが、この旦那様、ソフィアさんの纏う『空気』が余程心地良かったんでしょうね(*´ω`*) そんな相手に巡り合う奇跡みたいなのを感じました。 …
いつもほわほわぽわぽわなソフィアさん。 ぽわんとした空気や仕種は、旦那さんにとってこの何かと急ぎ足になりつつある世の清涼剤の様に感じるんだろうな。 「そんなに急がなくてもいいんですよ」と、肩の力を解し…
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