ぽわんを守るために
「はじぃめましてぇ。ソフィア・ポレテと申ぅしますぅ」
彼女と初めて会った時、衝撃が走った。
美しすぎて……とかではない。
何と言うか、『ぽわん』としていた。
むしろ容姿は至って普通。
小さく円らな目が、笑うと糸のように細くなるのだけは印象的だが、一度見ただけでは覚えられない部類の平凡な顔立ちだ。
大抵の女性は、僕の顔を見てすぐに、頬を赤らめ好意を向けてくるというのに、彼女はただぽわんとこちらを見ていた。
社交界の話をしてもぽわぽわ。
流行りの舞台の話をしてもぽわぽわ。
それなら……とガーデニングの話をするが、やはりぽわんとしていた。
話が弾むことも広がることもなく、かといって退屈そうな訳でもない。
ただ僕が発した言葉を、綿毛のようにぽわぽわと包んで、周りに漂わせているようなイメージだ。
そのうち空気が綿毛でいっぱいになってきて、息を吸ううちに、こちらもぽわんとしてくる。
両手では数えきれないほどの女性と交際してきた自分が、こんなふうに女性のペースに呑まれるのは初めてだった。
気付けば僕は、ソフィアに交際を申し込み、婚約し、結婚していた。
出会ってから僅か三ヵ月だった。
子爵家の三男として生まれた僕は、家を継ぐ必要もないし、自分で立ち上げた事業が成功して既に独立している。
ただ、三十歳を越えたのだから身を固めろと両親に言われ、両親よりももっとお節介な伯母から彼女を紹介され、渋々会っただけなのだ。
それなのに……一体なぜ交際を申し込み、あれよあれよという間に結婚までしてしまったのだろう。
庭で土いじりをする妻の、ぽわんとした横顔を見て考えるが、答えは出ない。
一目惚れした訳でもないし、話が合った訳でもない。ただなんとなく、あのまま別れたら、うまく息ができない気がしたのだ。
妻の元へ行き、ずり落ちた帽子を頭に被せてやれば、ぽわんと微笑まれた。
「ガーデニング、好きだったんだな」
「はぁい。今はぁ、トマトの苗を植えていますぅ」
ぽわんの一因は、彼女のこの喋り方だろう。
どこに行き着くのかわからない、波のように不安定な喋り方だ。
試しに早口言葉を言わせてみたこともあるが、普段とあまり変わらなかった。
そう、妻は動きも非常に遅い。
僕が十歩進む間に半歩、僕がパンを二つ食べ終える間にまだ二口といったところだろうか。
だから妻と歩く時は必ず抱き寄せて誘導するし、妻に合わせて自分もできるだけゆっくり食べるようになった。
使用人もいるし、僕の要領がいいのだから、普段はぽわんでも構わない。
だが、もし火事が起こったら、妻は間違いなく逃げ遅れて死ぬだろう。そういえば最近、隣街で放火事件があったらしいし……
そんなことを考えて、背すじがゾッとした。
「……ねえソフィア、君は走れる?」
「はぁい」
「じゃあさ、そこからあそこの木まで走ってみて」
「わかりましたぁ」
妻はシャベルを置いて立ち上がると、土で汚れたエプロンを、ぽわんぽわんと叩く。
この調子ではスタート位置の『そこ』まで辿り着くのにも時間がかかると思い、僕は「おいで」と腕を広げる。こうすると、妻は慣れた様子で、ぽわんと僕の腕に飛び込んでくれるようになっていた。
妻は綿毛のように軽い。ぽわぽわとどこかへ飛んでいかないようにしっかりと抱き抱え、スタート位置に下ろした。
僕の合図で、ソフィアは走り……? 出す。
ぽわぽわと腕を振り、ぽわぽわと左右に漂いながら、ゴールの木まで到着した。
「はいっ」
ゴールした時の声は普段よりキリッとしているが、肝心の走りの方は、歩いている時とさほど変わらない。
早口言葉と一緒だな……これはどうしたものか。
ぽわっと笑う妻を見下ろし考える。
「じゃあソフィア、君はこうやって……少し姿勢を低くして歩ける? あ、こうしてハンカチで口と鼻を覆って、さっきのスタート地点まで戻ってごらん」
「はぁい」
妻は僕のハンカチを口元に当て、ぽわぽわと歩き出す。
本人は至って真面目なのだろうが……なぜか首をニュッと前に突き出し、なめくじのようにうねりながら進む姿に噴き出してしまう。
普段の倍以上の時間をかけ、妻はやっとスタート地点まで戻った。
「はぁぁぁい」
声までなめくじのようで可笑しいが、笑っている場合ではない。
せっかく煙を避けても、この速度では炎に巻かれてしまうではないかと、さらに怖くなる。
僕は妻の前へ立つと、真剣な顔で言った。
「ソフィア、今日から僕と避難訓練をしよう」
「訓練ですぅかぁ?」
「うん。この間、隣街の伯爵邸で放火事件があっただろう? 火事じゃなくても、いつ、どこで災害が起こるかわからない。だから、いざという時安全に避難できるように、一緒に訓練をしよう」
「はぁい」
ぽわんと答える妻からハンカチを受け取ると、丸い額にぽわぽわ滲む汗をぽわんと拭った。
それから僕たちは、休日のたびに避難訓練をした。
まずは屋敷の脱出ルートを確認し、できるだけ素早く外へ逃げられるように練習する。そして防災グッズを揃えて使い方を学んだり、防災に関するあらゆる本を読んで知識を身に付けたり。夫婦で街の防災訓練に参加したりもした。
結婚してから数ヵ月が経ち──
僕が十歩進む間に半歩だった妻が、三歩も進めるようになった頃、ちょうど事業が閑散期を迎えたため、長期休暇を取れることになった。
新婚旅行も兼ねて、港町のホテルに泊まらないかと妻に提案したところ、ぽわんっと喜んでくれた。
最近は訓練のためにせかせかと移動することが多かったから、たまにはのんびりぽわぽわするのもいい。
運河でゆったりと舟に乗ったり、浜辺でまったりと夕陽を見たり、海鮮料理をもったりと食べたり。
訓練をがんばったご褒美に、妻を思う存分ぽわんとさせてやろうと思っていた。
それでも、旅先で何が起こるかはわからない。
僕がずっと傍に付いているとはいえ、妻はまだまだ綿毛だし、なめくじから亀になった程度なのだから。
僕は荷物の隙間に、防災グッズと手製のハンドブックをギュウギュウと押し込んだ。
こうしていよいよ迎えた旅行当日。
三日かけて辿り着いた国境の港町は、大変素晴らしかった。
妻が隣でぽわぽわとはしゃいでいるからか、若い頃に一度訪れた時よりも、何もかもが輝いて見えた。
予定どおり、運河でゆったりと舟に乗り、浜辺でまったりと夕陽を見て、海老も蟹も逃げてしまうのではと心配になるくらい、海鮮料理をもったりのんびり食べた。
夜になり、海が一望できる部屋で身を寄せ合えば、すぐに空気はぽわぽわと甘くなる。
気の済むまで妻を抱き締め、心地好い疲労感の中で眠りに就こうとしていた時──
不意に廊下が騒がしくなった。
やがて、ドンドンと激しくドアを叩かれる。
「火事です! お客様、すぐに避難してください!」
甘いぽわぽわから、一気に覚醒する。
胸に抱き寄せていた妻を揺すり、「ソフィア! 起きろ! 火事だ!」と呼び掛けるが、「んん~もぉぉ無理ですぅ~寝かせてぇ」と返されてしまう。
──これについては、自分に責任があるのだから仕方がない。
僕はベッドから飛び下りると、素早くガウンを羽織った。ぽわんを抱き起こし、防災用のケープを頭に被せると、薄い夜着を纏っただけの身体をブランケットで包む。
眠っていてもわかるのか、「おいで!」と腕を広げれば、ぽわんは目を閉じたまま、僕の腕に飛び込んできてくれた。
廊下に出ると、微かに焦げ臭いにおいが漂ってはいるものの、火や煙などは見られない。
従業員の誘導に従い、無事に避難することができた。
外へ出た客たちは、ホテル近くの広い公園へ集まっていた。皆疲れた顔で、ベンチや芝生の上に座り、身体を休ませている。
よかった……ぽわんを守れた……
腕の重みにホッとした途端、足が震え出す。……妻を落とす訳にはいかない。僕は深呼吸すると、気持ちを落ち着かせるため、その辺をぽわぽわと歩き出した。
高台にある公園のため見晴らしがよく、木々の間には夜の海が広がっている。壮大な景色を眺めていると、腕の中からぽわんと声がした。
「綺麗ぃ……」
いつの間にか起きていた妻が、海を見つめ、ぽわぽわと目を輝かせている。
「ほらぁ、お月様がぁ海に映ってぇ、上もぉ下もぉ空みたい~」
こんな非常時だというのに、相変わらずぽわんとしている妻が可笑しい。
僕は「そうだね」と答えると、妻を抱いたまま芝生の上に座り、綿毛みたいなふわふわの髪を撫でた。
……僕が妻を守っているのではなく、妻が僕を守ってくれているのかもしれないな。
もしも妻がいなかったら、僕はこんなにも必死に逃げたりなんかしないだろうから。
寝ぼけているのか、妻は僕の頬に勢いよく唇を落とすと、再び目を閉じ、ぽわぽわと寝息を立て始めた。
頬に穴が空きそうなこのキスは、ぽわんな妻の、なぜか唯一素早い行動。僕はひりひりする頬を押さえながら、くすりと笑った。
それから数時間後、厨房の一部が燃えただけで、怪我人もいないと聞かされ安堵した。原因は放火……ではなく、火の不始末だったらしい。
翌朝、ボヤ騒ぎで避難したことを妻に伝えるが、やはり全く覚えていないらしい。妻はぽわんとしながらも、避難訓練を活かせなかったわと、少し悔しそうな顔をしていた。
火でも煙でもなくて、僕と月夜の海に浮かぶ夢を見たと言う妻に、本当に海にいたんだよと言えば、ぽわぽわと楽しそうに笑ってくれた。
そんなハプニングはあれど、僕たちは無事に新婚旅行から帰って来た。
放火犯も捕まったとのことで、適度に避難訓練は続けつつも、ぽわんと穏やかに暮らしている。
今日は休日。
街の避難訓練……ではなく、流行りの舞台を観に行った。この後は、社交界のマダム御用達のスイーツを食べに行く予定だ。
二つの軒先の二つの看板を、ぽわんと見比べる妻。
どちらを見る表情も、ぽわんで変わらないようだけど──
「ソフィア、こっちが食べたい?」
苺の方を指差せば、「はぁい」と明るく返事をしてくれた。
ふふっ、さすが夫。
掴みづらい『ぽわん』を、大分理解してきたぞ。
嬉しくなって、妻の頬にチュッと唇を落とせば、妻も例の嘴みたいな切れ味抜群のキスを返してくれた。
そうだね。僕たちはこんな感じでいい。
焦らず、ぽわぽわと歩きながら、温かな綿毛を咲かせていこう。
ありがとうございました。




