回想2 存在しない勇者
二十年前、私の運命を変えたユウマとの出会いの後、私たちは魔王城を後にし、ヒト族の領地に向かっていた。
本能的にヒト族を襲うような魔族の社会で、ユウマが平穏に暮らせるような場所などないことは、魔族の私が一番わかっていた。
ユウマも、ヒト族社会のほうがましだと認めつつも、小さい姿であれば子犬のように愛らしいビーはともかく、魔族の私がヒト族からどんな扱いを受けるかと心配していた。
しかし、当の私はそんなことはどうでもよかった。
このヒト族の男とただどうしようもなく一緒にいたいだけであった。そのときはただの強い好奇心なのだと思っていたのだが、今思えばすでに私は恋に落ちていたのだ。
魔族社会では、ユウマだけではなく、裏切り者の私も生きていくことは困難だが、ヒト族社会であれば生きていくこともできるだろうという自信もあった。
実際にそれは間違いではなく、ユウマとの生活は、私が受けた差別やちょっとした諍いのささいな不快感をはるかに上回る喜びをもたらすことになった。
ヒト族領に向けて南下し、魔族領を出るまでの間、たびたび魔族や魔獣に遭遇することがあった。
魔族に遭遇したときは、私がユウマを「勇者の関係者」の捕虜として連行しているのだとごまかした。
魔獣はビーが咆哮だけで追い払った。
私たちの逃避行は順調に思えた。
ヒトの領地に入る前に、ユウマは彼のマントを私に渡した。私の頭にはすぐに魔族のものと判別がついてしまう角が二本あり、それを隠したほうがよいということだった。
マントについたフードを頭から被り、「角を隠せばヒト族に見える?」とユウマに聞くと、「ヒト族で君ほどきれいな人は見たことがないからどうだろうな」と真顔で答えるので、おかしくなって笑ってしまった。ユウマも私につられて破顔する。
そうした一つ一つのやり取りが楽しくて仕方がなかった。
ユウマが過去に拠点とした町に戻ると素性がわかってしまい、魔王討伐から引き返したことを知られてしまうと言うので、彼も行ったことがないヒト族の町を目指すことにした。
最初にたどり着いたのは、国境沿いにあるブリットモアという大きな町だった。
町は高い城壁と見張り台となっている塔に囲われており、魔族侵攻の防衛の最前線のようだった。
町の中に入るための門の前には、四人のヒト族の兵士が立っているのが遠目からも確認できた。
門に近づこうとすると、突然ユウマが前のめりに倒れた。
あまりに突然のことに驚き、かがみ込んでユウマの背に手を置く。息はしているようだった。
ビーもユウマに駆け寄り、彼の顔を舐めた。
「ユウマ! どうしたの!?」
するとユウマは苦悶に歪めた顔をこちらに向けた。
「大丈夫だ……勇者だとわかってしまうから、僕の名前は呼ばないでくれ。これから、あの門兵と話すことになるけれど、僕が何を話しても黙っていてくれ」
「わかったからしっかりして……ほら、町はすぐそこだから。きっと治癒師がいるはず」
私はユウマの腕を取り、肩を貸して、歩けるよう補助をした。
そうして門に向かうと、門兵の一人が気づき、近づいてくる。
「どうした? なぜ魔族領から来た」
門兵は怪訝そうな顔をして尋ねてきた。
「勇者が……死んだ」
息も絶え絶えに、苦しそうにユウマが答えた。
何を言っているんだ。ユウマは勇者ではなかったのか? 私が勝手にそう思い込んでいただけなのか?
確かに自ら勇者だと名乗ってはいなかったが……あの強さは何だったのだ。
「何だと?」
「僕たちは勇者の従者だ。勇者は魔族の幹部を討ち取ったんだが、その魔族が死の間際に『呪詛・自爆』を発動して、直撃した勇者は呪い殺されてしまった。彼女は離れたところにいたんだが、僕は魔族が死んでいると油断して近づいてしまって呪詛の爆風の一部を受けてこのざまだ。彼女のおかげで何とかここまで戻ってこられた。この町には信頼できる司祭がいるから入らせてくれ。その人にしか解呪を頼めない。報告のために王都にも帰らなければならないんだ」
懸命にユウマが説明する。そんなことがあったとは……私は離れていたどころか、そもそもその場にはいなかったから呪詛など受けたはずがない。
門兵はどうしたものかといった思案顔をした。
「何か証明するものはあるか?」
ユウマは苦しそうにしながら、懐に手を入れる。
何かを取り出して門兵に渡した。それが門兵の手に落ちたときに軽い金属音がした。
「王から授けられた勇者のメダルだ。世界樹の刻印がされているだろう? 万が一のために勇者から預かっていたんだ。その万が一は起こってしまった。
それと少しばかりの心付けだ」
門兵がメダルと「心付け」を受け取ると、初めは深刻そうな顔をし、次に口角をあげて笑みを浮かべた。
「ちょっとそこで待っていろ」
門兵は門に戻り、他の者たちにも世界樹のメダルと心付けとやらを見せて話をしているようだった。
待っている間も、ユウマは苦しそうにしたままで、私は祈るような気持ちだった。
そして、やがて先ほどの門兵が戻ってきた。
「いいぞ。町に入れ」
私は安堵した。やっと町に入れる。早くユウマの解呪をしてもらわなければ。
ユウマの体を支えながら、門に向かって歩を進めた。
そして門をくぐろうかとしたとき、「ちょっと待て」と一人の門兵に呼び止められた。
「その女の顔を見せてもらえるか?」
門兵が、私が目深くかぶったフードに手をかけ、引き上げた。そして前から顔を覗き込まれた。そのままさらにフードが引き上げられていった。
まずい……角を見られる。門兵を殺すことはたやすいが、騒ぎを起こしたらユウマがこの町で解呪できなくなってしまうかもしれない。
どうすればいい?
そのとき私の足元の後ろから何かが前に出た。
ビーだ。
門兵の足に体当たりして私から引き離し、低いうめき声をあげて威嚇した。
フードは私の頭に戻った。
「なんだ、この犬は? もういい! 早くこの犬を連れて行け!」
助かった。ありがとう、ビー。
私たちは無事に城壁の内側に入ることができた。
そこには建物が立ち並び、ヒト族が行き交っていた。
しかし、もちろん私はユウマの言っていた司祭の居場所など知らない。
「どこに向かえばいいの?」
「そこの路地裏に入ってくれ」
ユウマが指差した先に、建物の間の小道が見えた。
私は彼を支えて懸命に歩いた。
路地裏に入ると、ユウマが私の肩から腕を下ろし、まっすぐ立った。呼吸も整っていたようだった。
私は何が起きているのかわからず混乱してしまった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。呪詛・自爆は作り話さ」
「え? そうなの? 勇者の従者っていうのは?」
「それも嘘だよ。勇者は僕だ。でもこれで勇者は死んだことになったし、あわよくば、君も死んだことにできるだろう。僕たちは別の存在になって新しい生活を始めるんだ」
冷静に考えれば、ユウマが門兵にした話はおかしな点が多かった。しかし、あのときの私にはそんな冷静な判断などできなかった。
「私を騙したのね」
「ごめん。でも君も騙したほうがうまくいくと思ったんだ」
「もう二度とこんなことしないで!」
殺してやりたいと思うほど怒りが込み上げてきたが、何ごともなくて本当に安堵した気持ちも入り乱れて、なぜか涙が溢れてきた。
私の涙を見て、ユウマはひどく狼狽し、困惑した顔を見せた。
「本当にごめん……もうこんなことはしないよ」
あの豪胆で誰よりも強い勇者が、私が涙を流すだけでこんな姿を見せるとは。
ユウマが涙を手で拭おうと、私の顔に手を当てた。私はその手の上に自分の手を重ねた。
「なんて愚かなの」
「本当にごめん……」
私はユウマの首に手を回し、強く抱きしめた。
強いくせに愚かで弱い元勇者。愛おしいヒト族の男。
私はこの人を失いたくないんだと自覚した。
ユウマがフードに手をかけ、少し引き上げた。
そして私の顔を見つめると、不意に唇を重ねてきた。
私は驚きとともに、味わったことのない甘美な気持ちを覚えた。
この幸せのまま、死んでしまいたいとさえ思った。そうすればこの甘美な陶酔が永遠に続くのではないかと思った。




