最後の回想 大切な思い出(前編)
私には、決して忘れたくない、大切な思い出がある。おそらくそれは、ユウマやフタバ、ビーにとっても同じように大切な思い出だと思う。
その日の朝は、いつも通り、なかなか起きてこないユウマに、ビーが飛び乗って起こすことから始まった。
そこからはいつもよりも騒々しい朝になった。
四人が四人とも、外出の準備に忙しかった。
魔族や魔獣のウィルクレスト村への襲撃がすっかり少なくなり、ユウマと私は休暇を取ることができた。その休暇を利用して、私たちは一家で初めての旅行に出かけることになったのだ。
勇者として、冒険者として、さまざまな場所に行ったことがあるであろうユウマでも、行ったことがなく、行きたい場所があると言った。
「冒険や魔王討伐の旅とは違うから、楽しみだよ。純粋に、自分の大好きな家族と旅自体を楽しむことができる日が来るとは思わなかった」
ユウマはとても嬉しそうだった。私にとっても同じように初めての体験で、それはフタバやビーにとっても一緒だったので、皆そわそわ落ち着かず、どのような計画で旅程を組むべきか、何を準備して持っていくべきか、出発当日まで議論の嵐は続いた。
未知の場所への未知の道のりになるため、私にとっては、食料確保が大きな課題だった。保存食がどれだけ必要か見当もつかないのだ。
途中、まったく町がないということはないはずだが、町と町の移動の間に野営の可能性もあり、そこで狩りができるかどうかもわからない。
フタバは着る服や、図鑑などの本、遊び道具などをどれだけ持っていくか決めかねているようで、ビーと話し合いを頻繁にしていた。
ユウマの主な悩みは、下着を何枚持っていくかだった。洗濯のできる水場がどれだけ確保できるのか予想できないとぶつぶつ言っていた。
ビーも私と似たような悩みで、おやつをどれだけ持っていくかが目下の悩みではあった。ビーにとって、おやつは単に食事の機能だけではなく、娯楽の一つでもあり、旅ではとても重要な要素なのだ。小型犬の形態で移動することを想定し、ビーには小さい荷物袋しか与えられていなかった。
皆それぞれが何かを忘れているのではないかと思いながらも、行ったことのない場所への旅において何が起きるかは正確に予測できるはずもなく、考えてもきりがないと、出発することにした。
予測ができないことも旅行の醍醐味なのだ。
特にビーは何度も家を振り返り、村を出てしまうと、村のほうを振り返って、落ち着かない様子だった。
いつもは誰よりも賢いビーが最も落ち着かない様子でおかしかった。
ベヒーモスにとっては旅行という行為自体があまりに馴染みのないもののはずで、自分だけでなく、自分以外の私たち三人が、必要なものを忘れずにきちんと持ったのかずっと不安だったようだ。
ビーのこの悪い予感は当たってしまうことになるのだが、それもよい思い出の一部になった。
「大丈夫だよ、ビー。忘れものをしたって死にはしないから」
普段とは逆に、フタバがビーのお姉さんのように振る舞うのもおかしかった。
私たちの目的地は、西の果て、世界樹や虚無樹のあるエルフ大森林と真逆の方向だ。
双樹の加護や影響力が薄まるはずなので、危険なのではないかとも思ったが、西側は魔族や魔獣もあまり活動的でないらしく、心配するほどではないとユウマは言った。
私はそこにどのようなものがあるのかまったく知らなかったので、むしろ好奇心に高揚していた。
ユウマとビーが一緒にいて、この世界で危険と言えるほどのことがそうそう起き得るはずもなかった。
旅は順調に進み、信じられないくらい楽しいものになった。
ヒト族の町を渡っていく道程になったので、マントのフードで角を隠しながらの移動にはなり、ときおり魔族についての非難も聞くことになったが、その窮屈さもまったく気にならなかった。
知らない場所で、見たことのないものを見て、食べたことのない料理を食べた。
中には虫を揚げたものや、得体の知れない卵の料理などもあり、私は無理だったが、ユウマとフタバとビーは何事も経験すべきだと食べたーーおいしくはないらしかった。ますます私には食べる理由がなくなったが、見ているだけで楽しかった。
私が特に気に入ったのは羊の肉料理で、柔らかい肉の滋味にすっかり魅了された。羊は毛を刈るものであって、食べるものだとは思っていなかった。
自然の景色も、見慣れないものをたくさん目にした。
見渡す限り地面に砂しかないような土地や、巨大化したビーよりも高く切り立った崖、崖の上から水が落ちてくる滝など、全てが新鮮で驚きに満ちていた。
「世界は広いね」とフタバが言い、私は心からそのことに賛同した。
四人で新しい体験が分かち合えることが何より嬉しかった。
町と町の間の距離が長いと、どうしても野営をしないといけないことも何度かあった。
野営での食料に関しては、狩りなどせずとも、直前に寄った町で調達をすればよかったので、あまり心配することはなかった。
水場を探すのは難しかったが、ユウマが生活魔法を覚えていたおかげで、水を生成することができたため、その点も苦労をしなかった。
魔王や魔族の最も嫌な点は、ヒト族を容赦なく傷つけ殺すことだが、次に嫌なのが、差別的で、家事を低く見ている点だとユウマは言った。
特に、魔王を含めた上級魔族の間では、例外なく、家事は下級魔族や奴隷の召使いの仕事だった。私がユウマとの生活を始めた頃に、その話をしたことをずっと覚えていたようだった。
そして同じ理由で、ヒト族の王や貴族も嫌いらしい。彼らも平民や奴隷に家事をさせるらしかった。
ユウマが魔王討伐の冒険に出るにあたって、戦闘のスキルや魔法よりもまず生活魔法の習熟を優先したとのことだった。
「生活があっての冒険だ。だから僕は家事や生活魔法をとても重要視している」というのがユウマの持論だった。
このユウマの考えに従って、私も家事を覚え、ユウマと分担して家のこともすることになったのだが、魔力のない私は、もちろん生活魔法などは使えず、ユウマに頼ることも多かった。
野営において、少し不便だったのは寝床の確保だった。
なるべく日が当たらず、身を隠せそうな場所で、草などを集めて敷いて、横になる必要があった。
ユウマや私やビーは野宿の経験はあったが、フタバは屋外で寝たことがなかったので、皆で気を遣ったが、当の本人は非日常の経験に興奮すらしているようだった。
多少の問題はあったものの順調に目的地に向かって進んでいた。しかし、ついに私たちはこの旅で最大の試練を迎えることになった。
西に進み続け、もう何日かで目的地かというところで、大きな山脈に当たったのだ。
山脈は南北に長く伸びており、とても迂回などできそうになく、山越えは必至と判断せざるを得なかった。
覚悟を決め、私たちは進んだ。ユウマと私は体力に自信があったが、フタバは険しい登山道をそれほど長く歩けなかったので、たびたびビーが巨大化してフタバを背に乗せて運んだ。
ビーの背中で、ときおり気持ちよさそうに眠るフタバが可愛らしく感じる一方、フタバは本当にビーを信頼しているのだな、と少し嫉妬した。
登り進めるにつれ、私たちはある異変に気づいた。
進めば進むほど、明らかに寒くなってきたのだ。
そのときの季節は夏だったので、厚手の服など、防寒具を持ってきていなかった。
ビーは、「だから出発するときに忘れものを気にしていたんだ」という顔をした。
北に向かうと寒くなるという知識はあったのだが、高いところが寒くなるとは考えてもみなかった。太陽が近づく分、暑くなるくらいに考えていた。
ユウマには高所の気候についての知識があったようなので、「登山が必要になることを知っていれば」と悔しそうにしていた。
寒さはいっそう過酷になっていった。体温が徐々に下がっていく感覚があった。
「忘れものをしても死にはしない」というフタバの言葉は誤っていた。忘れもので死にかねない状況だった。
私たちはこの世界を侮っていたことに気づかされた。ユウマやビーがいても、危険はあるのだ。
フタバはなるべくビーの背に乗り、ビーの体温で温められるようにしてもらった。
私の脳裏に、引き返すという選択肢も浮かび始めていた。ユウマを目的地まで連れて行きたかったが、凍死してしまったらそれどころではない。
史上最強の勇者は寒さに震えて唇が真っ青になり、見たことのないような蒼白な顔色をしていた。
「氷属性の魔法なら防げるけれど、自然の寒さには勝てないな」と軽口を叩いてはいたが、明らかに余裕はなかった。
しかし、ここでもユウマの生活魔法が私たちを救った。
私がユウマのある魔法を思い出したのだ。
「そういえば火がなくても食べ物を温められる魔法があったよね?」
本来、冷めた料理を温めるための「無炎加熱」というユウマのオリジナル生活魔法があり、これを自身の服にかけると、かなりの暖房効果が出たようだった。
ユウマが同じように私の服に「無炎加熱」を施すと、体が暖房に包まれるかのように温まり、体温が戻るのを感じた。
フタバの服にも「無炎加熱」をかけることで、フタバも、そして背にフタバを乗せたビーも暖を取れるようになった。
「無炎加熱」の効果時間はそれほど長くはなかったのだが、無尽蔵の魔力を持つユウマが定期的に魔法を使うことで、何とか乗り切れそうだったので、私たちは休憩もせずにとにかく頂上を目指した。
そして、ついに私たちは山の頂に到達した。
眼前には息を飲むような景色が広がっていた。それはある種、衝撃に似た感動をもたらした。
前には広大な平原や森が一望でき、後ろには、私たちが登山前に立ち寄った麓の町も小さく見えた。広大な世界の広がりの前に、人々の営みがとても小さなものに感じられた。
少なくとも私はこんなに高いところに上がったことがなく、世界に対する認識を変えるほどの経験だった。
ユウマやフタバやビーも、それぞれ感じるところがあっただろう。
「苦労した分、感動もひとしおだね」
ユウマが感慨深そうに、そう口にした。




