第六話 魔王(後編)
どこかで覚悟はしていたが、魔王と戦うことは避けたかった。魔族として魔王に逆らうことほど愚かしい行為はない。
しかし事ここに至っては覚悟を決めるしかなかった。ユウマが生きている以上、そして死に向かおうというのであれば、私はまだ生きて彼を追わなければならない。
ヴァルゼインのこれまでの話から推察するに、ユウマはもうここにはいないはずだ。
魔王ヴァルゼインは魔力特化型で、もちろん魔族随一の魔力による魔法攻撃が主体だ。
通常、魔法使いと対峙した場合、詠唱中に倒すのだが、魔王は無詠唱での魔法の発動が可能なため、勝てる道筋は見えにくい。
一つだけ魔王に誤算があるとすれば、今の私にはフィオナの精霊の加護があることだ。私はヴァルゼインが思う以上に速く動ける。私が生き延びるために最も可能性が高いのは……
私は迷わず全速力で来た道を戻った。
逃げるしかない。ヴァルゼインも虚無樹から離れようとはしないだろう。
ただ真っ直ぐ前を見て、私は走った。ヴァルゼインが追ってきている気配はない。私が想定以上の速度で動けることに驚いて諦めてくれただろうか。
きっと逃げ切れるはずだ。
必死に走っていると違和感を覚えた。前方にあの深淵の黒を湛える虚無樹らしきものが見えたのだ。
虚無樹が複数あるなどということがあるはずがない。
虚無樹の傍らには……魔王ヴァルゼインがいた。
先ほどいた場所に戻ってきてしまったのだ。
真っ直ぐ走っていたはずなのになぜ? フィオナの精霊の加護もあるのに……
「結界を張った。おまえは逃げられん」
ヴァルゼインが抑えた冷たい声で答えた。
「勇者か大賢者に少しでも助力されるようでは気に食わん。おまえは必ずここで殺す」
ヴァルゼインは腕をかざし、こちらに向けた。
戦うしかない。少しでも迷った動きをしたらやられてしまう。
全力で走る勢いでヴァルゼインに接近し、そのままデスブリンガーを抜いた。
ヴァルゼインは少し怯んだように見えた。やはり私の今の速度にはついていけないのだ。
射程内。今回は以前のようなぼろぼろの剣ではない。確実に死をもたらす剣、デスブリンガーを一閃した。
手応えがない……私は確実にデスブリンガーを振り抜いた。その刃は魔王ヴァルゼインの首をとらえていたはずだった。
「デスブリンガーは俺には通らん。なぜ俺が俺を滅ぼすような剣を他人に授けるなどと思った?」
デスブリンガーは魔王ヴァルゼインから授かったものだ。あのときから、最初から魔王は私を信用していなかったというのか?
「誰であろうと信用するわけがなかろう。ましてや魔族など」
私は間を取るために後ずさった。
「虚界業炎」
魔王の掌から巨大な火柱が発せられた。
避けきれない。デスブリンガーを前に掲げる。魔法攻撃もデスブリンガーで弾いて防ぐことはできる。
火柱がデスブリンガーに触れた瞬間強い衝撃が伝わり、たまらず弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「ふむ、多少は威力を削いだようだが、そこまでだったな。もう少し出力を上げるか。あまり時間を無駄にもできん」
再びヴァルゼインが手を掲げるのが見えた。
体が言うことをきかない……避けなければ……せめてデスブリンガーを前に……
「虚界業炎」
何かが駆け寄り、私に覆いかぶさった。
それは深淵からの業炎を全身に受け、大きな呻き声を上げた。
以前もこんなことがあった。私はあの日のことを決して忘れたことはない。
「ビー!」
フィオナのもとにいたはずなのに。
意識が戻って私を追ってきたのだ。
業炎を受け切り、ベヒーモスとなったビーが詠唱を始める。それは私が数回聞いたダーク・メテオの詠唱と違った。
ヴァルゼインは構わず無詠唱で続けざまに虚界業炎をビー浴びせかけた。次第に炎の大きさが膨れ上がっていく。
ビーは詠唱をやめなかった。
「ビー! やめて!」
ビーが何をしようとしているのか、私にはわかった。
すべての光を奪う最悪の究極魔法「エクリプス・メテオ」。それは、ベヒーモスが死の淵の極限に際したときのみに使用し、生命の核を燃やし尽くすことで発動する魔法。
虚無樹の黒とまったく同じ黒に天空が染まり、一縷の光も許さない完全な闇に世界が包まれた。
音もなくそれは空から降ってきた。
そして地上に到達するや否や轟音が響き、光のない激しい熱を放った。様々なものが一度に壊れる音がした。
周囲の状況が確認できるようになると、漆黒の、途方もない大きさの隕石が魔王ヴァルゼインのいた場所に鎮座していた。
虚無樹は何ごともなかったかのように、変わらず深淵の闇を写し出して屹立していた。
だが、その周囲の生きた木々は消え去っていた。
私の傍らにはベヒーモスが、ビーが倒れていた。
その周囲では、ビーを弔うかのように木々の残骸が弱々しく燃えていた。
私はビーのもとに近づき、そっと焼けた毛並みに触れた。ひどい苦痛だったはずなのに、穏やかな顔をしていた。凶悪な幻獣ベヒーモスの顔とはとても思えなかった。その顔はいつもの人懐っこく、愛らしく、賢く、ひょうきんで、優しい、あの子犬のビーの表情だった。
大好きだったユウマに、そしてフタバに、もう一度会いたかったに違いない。
それなのに、愚かな私のせいで、ビーは……死んでしまった。
「ビー……ごめんなさい……」
かすかに風が吹き、私の顔を舐めた気がした。




