第六話 魔王(前編)
やがて虚無樹の暗黒から何者かがぼんやりと浮かび上がってきた。
しっかりと目を凝らすと、その姿が次第に明確な輪郭を得てきた。
漆黒の長髪に深淵を覗き込むような真っ黒な瞳。忘れようもない魔王ヴァルゼインその人だった。
周囲を見回したが、ユウマの姿はなかった。
最悪の想像をしてしまう。
「勇者は……勇者はどこですか?」
魔王は答えず、私に近づいてきた。
「誰かと思えばアナか。しばらくぶりだな。と言っても二十年程度か」
「教えてください。勇者はどこなんですか?」
「なんだ、今さら勇者討伐か? 今世の勇者は弱いと聞いているから、おまえなら問題なく倒せるだろうが」
「違います! 前勇者です」
ヴァルゼインが眉をぴくりと動かした。
「前勇者か。あれは相当な手練だったな。なぜ同じ勇者でここまでの差が出るのか、おまえはわからんだろうな」
どうしても話をはぐらかしたいようだ。じれったい。
「あなたは勇者と戦ったのですか? ここに勇者が来ましたよね?」
「なんだ、魔族にもかかわらず、魔王への敬意はもうないのか? なぜ俺ばかりが問われなければならない?」
「あなたのことは今でも尊敬しています……」
「ほう、だがその敬意よりも勇者の行方……いや、生死が気になるといったところか。俺が無事でいるからには、勇者がここに来たのであれば、すでに俺の手にかかって死んでいる可能性もあるだろうな。しかし、なぜあの勇者にそこまで気を揉むんだ?」
ヴァルゼインはすべてわかって問うてきているのではないか? ただ私を焦らせるために。裏切りの代償を少しでも払えということなのか?
「私はあの勇者を愛しています」
ヴァルゼインは吹き出し、大笑いした。
こんなに感情を表に出す魔王を見たことがなく、恐怖すら感じた。
「まさか魔族からそんな冗談を聞く日が来るとはな。何千年生きても新鮮な驚きというのはあるものだ。歳は取るものだな。魔界から世界にやってきた甲斐もあるというものだ」
「私は正直に答えました。魔王様も答えてください」
「いや、そうだな。いいだろう。おまえの勇者様はここに来た。つい先ほどな。勇者といい、おまえといい、俺の貴重な時間を取ってくれる。今、俺は大賢者サイランデルとの戦闘中なのだ。俺がこうして手を緩めている間にもせっかく削った奴の結界が修復されてしまうのだ」
「……勇者をどうしたのですか?」
自分の声が震えているのがわかった。
ユウマはやはりここに来た。
そして今はここにいない。
「人の話を聞かん奴だな。腑抜けの勇者よりも、大賢者と戦っていることのほうが興味をそそるかと思ったが」
「生きているんですか!?」
私の必死な様子がおかしいのか、またヴァルゼインが笑い出した。
「まあ、聞け。大賢者の件も、あの勇者とまったく無関係というわけじゃない」
「どういうことですか?」
「勇者と話をした。奴も喧嘩腰ではなくてな、話し合いで問題を解決しようとしたらしい。それが無理なことがわかっていながらな」
「問題とは何のことです?」
その「問題」がユウマが家を出た理由と関係するはずだ。
「魔王も勇者もこの世界の贄だということだ」
贄? 魔王は何のことを言っているのだ。
「はっきり言ってやろう。勇者討伐も、魔王討伐も、なされなければならない儀式なのだ。俺も、あの男も、殺されて世界の肥やしにならねばならん運命なのだ」
「何を言っているのかわからない……」
ユウマが犠牲にならなければならない? 世界のために? なぜそんなことがなされなければならないのだ。ユウマが死ななくてもここに世界はしっかり存在し続けているではないか。
「だがな、少なくとも俺はその運命に抗おうとしている。問題は大賢者サイランデルだ。奴が虚無樹と世界樹を管理している以上、俺たちは贄であり続けなければならなくなっているのだ。だから俺は奴を倒さなければならない。虚無樹が力を増している今が千載一遇の機会なのだ」
「……それが成功すれば、勇者も助かるのですか?」
エルフ族を、エルフの大賢者を敵にして、万が一、彼らを破滅させたとしたら、世界が不安定になることは間違いないだろうという考えは拭いきれなかった。
しかし、それでも、もしそのことでユウマが助かるのであれば、私は迷わず魔王の手先となるだろう。
「ほう、大賢者殺しを手伝うか? もし成功すれば、おまえは新世界で世界を支配する俺の右腕となるだろう」
「そんなものはいいんです。勇者さえ助かれば何でもします」
「そういった発言はもう飽きたな」
「お願いですから……」
するとヴァルゼインは値踏みするように私を見た。
「実を言うとな、俺もあの勇者が何をしようとしているか知りたいのだ。奴の動きが戦況に影響を与えかねんと思ってな。おまえはあの勇者から何を聞いた?」
「彼は生きているんですね?」
「生きているかどうかはわからん。だが、おまえが俺の問いに答えればわかるかもしれん」
「どういうことですか?」
魔王はユウマを手にかけていないのだろうか? あるいは手にかけたがまだ息があるということなのか?
「いいから思い出してみろ。奴は何を言っていた?」
「どうしても果たさないといけないことがある、と言っていました」
「他には?」
置き手紙には他に何も手がかりになるようなことは書いていなかった。
「最近のことだけでなく、遡って思い出せ。何か重要な言葉をおまえは忘れているんじゃないか?」
そんなことを言われても、ヴァルゼインが求める言葉はわからない。
「私にとっては、あの人のすべての言葉が大切でした。その言葉が重要かなんてわかりません。ただ、あの人はいつでも私たちのことを守ろうとしていました。今回もそのことを一番に考えていると思います」
「私たちというのはおまえとベヒーモスのことか?」
「私と勇者の間にできた娘もです」
ヴァルゼインはまた小さく笑った。
「まだそんな冗談を思いつくか」
「冗談? 私と勇者は本当に愛し合って、子供ができたんです」
「ふむ」と言って、魔王が少し考え込んでから、再び口を開いた。
「今回の千載一遇の機会は、前勇者が魔王討伐をやめたことでもたらされたと言っていいだろう……二十年前、私はおまえとベヒーモスが勇者と対峙するところを見ていた。おまえたちが簡単に勇者に敗れたときに、俺は死を覚悟した。それだけ俺はおまえを買っていたのだ。そしてつい先ほど、当の勇者と対峙して、確信した。俺はあれと戦っていれば確実に殺されていた。あそこまで強い勇者はいまだかつていなかったのではないかと思う。だが、どんな手を使ったのか知らんが、おまえはあの勇者を無力化した。そのおかげで世界樹が弱体化し、虚無樹が力を得た。そのことを俺はとても感謝している」
そこでヴァルゼインがため息をついた。
「感謝の分、何か有用な話でもあればと思って話に付き合ったが、これ以上大したものは出てこないだろう。あの勇者はまだ生きてはいるが、まもなく死ぬ。おまえと話してそのことがわかったことだけは収穫だった。俺は奴が死ぬ前に大賢者の結界を破らねばならん」
「なぜ勇者が死なねばならないのですか?」
「おまえと話すことはもうない。裏切り者には死を与えるしかない。私は魔王だ。魔族の長として、規律は厳格に守らねばならん。そしてこの会話の時間によって、大賢者に結界修復の猶予を与えてしまったことも俺には大きな損失だ。代償を払え。おまえの命程度では割に合わんが、それしか俺と虚無樹が得られるものがないのでな。あの勇者も死ぬのだから、おまえも死んでおいたほうがよかろう」




