回想1 勇者との対峙
魔族がヒト族を愛するなどということは聞いたこともなかった。しかし私は焦がれるほど彼を愛していた。
ときに燃えるほど胸が熱くなることがあった。魔界の業火でもここまで熱いだろうかと思うほどだった。
ヒト族が魔族の私と同じような気持ちになるのかはわからない。それでもユウマは同じような気持ちになってくれることがあったのではないかと思う。
私はユウマに向けて魔剣を一閃したーーあの日のことを忘れることはないだろう。あのとき斬られたのはユウマではなく、私のこれまでの価値観と生き方だった。
ユウマとの初めての出会いは二十年前、もちろん敵同士としてだった。
私はそれなりに名の通った魔族の戦士で、筆頭魔将として、無数のヒト族を葬っていた。相手が戦士であろうとただの民であろうと関係がなかった。
魔族とは破壊と略奪によって生きる者であり、それを疑うことさえなかった。
そんな折、ヒト族が勇者召喚に成功したとの報告があった。
勇者はヒト族の領土に侵攻していた魔族や魔獣を次々と撃退し、反転攻勢に出ると、戦況は一気にヒト族に傾き、その手は魔王城に迫っていた。
魔王に信頼されていた私は、魔王城前で勇者を討伐するよう命じられた。
古くからの相棒、ベヒーモスのビーを連れ、魔王城の城門前で勇者を待ち構えた。
やがて勇者はやってきた。幼い、と私は思った。少年とまでは言わないが、まだ青年になりたての年頃だろう。
特徴的なのは、まるで冥府の深淵を思わせるような漆黒の髪と瞳だった。
肉体もまだ成熟しきっているとは言えず、少し痩せ気味で、整った顔立ちは儚さすら感じさせた。
この勇者が対峙した魔族や魔獣の中には、すさまじい膂力や魔力を持った者もいたはずだが、とてもこの青年に倒されたとは信じられなかった。
私は冷たい鋭さを湛える魔剣デスブリンガーを構えた。
ビーが大きな咆哮をあげ、攻撃態勢をとる。
勇者はまずビーに向けて右手を掲げた。するとビーは後ずさった。
そして、信じられないことに、凶悪な牙と角を持つ、この巨体の魔獣が子犬のようにうずくまってしまったのだ。
そのときは何が起きたのかはわからなかったが、後にユウマは、テイムのスキルを使ったことを明かした。
私は少しうろたえたが、それでもこの優男に負ける気はしなかった。
いずれ魔王の側近になる野心を持っていた私は、魔王軍随一の暗黒剣士で、戦闘での強さのみで筆頭魔将にまで上り詰めていたのだ。
私は一息で決着をつけるべく、距離を一気に詰め、デスブリンガーを一閃する。ヒト族の身体では見極めることすら難しい速度だろう。
しかし、勇者は自らの剣で、簡単に私の一撃を払った。信じられないほどの膂力だった。膂力だけなら魔族でも同等の力を持つ者がいるだろうが、私が距離を詰め、剣を一閃する速度に対応できる者は、魔王様以外にいなかった。
いや、魔王様ですら、ここまで簡単に私の攻撃をいなすことはできないだろう、と思った。
勇者とはここまで規格外の力を持つ存在なのか。
その得物もおそらく聖剣デュランダルと呼ばれるものに違いなかった。でなければ、デスブリンガーで武器ごと破壊できたはずだ。
私はその最初の一太刀だけで、この男には絶対に勝てないことを悟った。
死を覚悟し、せめてビーだけでも逃がそうと考え、ビーをかばって背に隠し、「ビー、逃げろ」と叫んだ。
しかし、ビーはうずくまったまま、まったく動こうとしなかった。
私はそれでも何度も逃げるよう叫んだ。
目の前にいるのは、抵抗のしようもない、魔神のような強さの敵だ。
魔族の将校である以上、いつでも死ぬ覚悟はできていたが、ビーが苦痛とともに殺されることだけは耐えがたかった。
いっこうに動こうとしないビーに、私は取り乱し、涙を流した。
「やめましょう」と勇者が言った。
「なんだと?」
戦いをやめるということなのか? その言葉を聞いて、私はほっとするどころか怒りを覚えていた。負けた相手に生き恥をさらさせようというのか、と。
それは魔将としての誇りからだった。
「あなたの力では僕を倒すことはできない。でも、僕はあなたを殺したくない。もちろん、あなたのその大事な友達も」
勇者は剣を地面に放り出した。
私は愕然とした。今なら勇者を倒すことができるかもしれないが、それをすることができないのも、誇りゆえだった。
「どうするつもりだ? 魔王様のところに向かうというなら、私は死ぬまでここを守り抜かねばならない」
「わかりました。では、魔王討伐もやめます」
「……どういうつもりだ? 勇者は魔王討伐のために存在するのではないのか?」
「僕にはその使命が受け入れられないんです……勇者失格ですね」
「何を言っているんだ? 魔族はおまえたちにとって天敵だろう? 私も何人もヒト族を殺してきた。おまえが私を殺さないなら、私がおまえを殺すぞ」
「僕があなたを殺すよりはそのほうがいい」
「弱い者が強い者を殺すなどあってはならない。それは理に反する!」
勇者は大きなため息をついた。
「僕はその理というやつが嫌いなんです。この世界に召喚されて、ヒト族の王に請われ、僕もここにたどり着くまでに何人もの魔族を殺してきました。ヒト族の罪のない人々を殺め、町を破壊する彼らを倒すのに理由などいらないと思っていました。ですが、彼らは死ぬときに苦悶の表情を見せるのです。それでも、非道な行いをする彼らには心などないと、無理やり自分に言い聞かせてここまで来たんです」
何を言っているのだ、この男は? 話の趣旨が見えない。
「ですが、あなたと対峙して確信しました。魔族にも心があり、どうしても守りたいものがあるのでしょう。おそらく魔王であろうと同じなのだと思います。確信してしまった以上、僕はあなたを殺めることは絶対にできない。その魔獣を殺すこともできません。友達なんでしょう?」
友達……ビーは友達以上の存在だ。
私は少し冷静になり、ビーが死なずに済むことについては安堵した。
不意にまた涙があふれる。
私はやはり恐怖していたのだ。ビーが苦悶して死ぬことをとても恐ろしく思っていたのだ。
「あなたは美しい人だ。さしでがましいでしょうが、あなたも戦いに身を置かず、あなた自身の幸せを考えたほうがいいと思います」
彼は私を殺さず、それどころか私を「美しい」とさえ言った。
そのときに私の中の何かが壊れた。
強い者に無条件に服従するのは魔族の性ではある。だが、それだけではない、この青年に何か強い気持ちが芽生えた。
勇者は踵を返し、歩き去ろうとした。
するとビーが立ち上がり、勇者を追いかけた。私も思わずその後を追った。
今となっては、ビーの行動はテイムのためだったのか、単に勇者のことが気に入ったのかはわからないが、その後のビーの態度を考えると、おそらく後者だと思う。
ビーの大きな足音にすぐに気づき、勇者は振り返る。ビーの姿を認めた彼は柔らかい笑みを浮かべていた。
その顔を見て、私はある決心をした。
「おまえについていく」
「え?」
「おまえは私の命も、ビーの命も奪わなかった。もう私たちの命はおまえのものだ」
「まいったな」
そう言った勇者は笑っていた。
「実はこれからどうしようかと考えていたところでした。魔王討伐をやめて、王都に戻るわけにもいかないですしね。一人でないのは心強いです」
そのとき、私は笑ったと思う。あれほど強い男が一人を心細く思っているのが、何かおかしかった。
人前で笑ったのは初めてだったと思う。
「ただ、その子はちょっと目立ちすぎますね」
その言葉もおかしくて、また声をあげて笑った。
「ビー、小さくなって」
私がそう言うと、ビーの体がみるみる縮んでいき、子犬ほどの大きさになった。
勇者が驚いた表情を見せ、また私は笑った。
「すごいな。賢い子なんだね」
ビーが得意そうな顔をして、それを見た勇者も笑った。小さくなったビーは本当にかわいらしい子犬のようで愛嬌があった。
「僕はユウマ、ユウマ・サクラギと言います。これからよろしくお願いします」
「そんな堅苦しい言葉づかいをしなくていい。私はアナだ」
「君の口調も何か堅いよ」
そう言われて、二人で笑った。
こんな楽しい気持ちになったことがあるだろうか?
私の全てが、世界の全てが、完全に違ったものになったように思えた。




