別れ1
絶望。
あの時感じたのは、確かにそれで自分の力などちっぽけでしかないことを初めて知った瞬間だ。この世は理不尽に溢れ、けれども希望を失わないのは大切な何かを誰しもが持っているからだ。
眼下を埋め尽くすのは、覚悟を持って集まった者達である。失敗すれば待っているのは悲惨な死だけだが、それでも明るい未来を信じて集まったのだ。一度火が着けば、留まる事なく全土に飛び火するだろう。新たな未来はここから始まるのだ。
演説台へと男が姿を現す。
リアナは胸中に燻る不安から目を背け、演説を静かに聴き入った。
「あんのくそったれ共が!おい行くぞ」
既に幾度と見慣れた光景が目に飛び込んでくる。自国の旗を掲げている軍勢が本来守るべき民を襲っていることなどさして珍しいことでは無い。税収は減る一方で徴兵される数は変わらず、国は最早兵士達を養うことすら困難になっているのだ。特に地方から無理矢理徴兵された末端の兵士達には配給も満足に与えられず、だからといって飢え死ぬのを待っていられるわけもない。ただ生きる為に奪う、そこに人としての理性はなかった。
盗賊以上に逼迫している兵士達は手負いの獣と同じだ。戦場に駆り出されて間もない兵士ならば兎も角、日々死線をくぐり抜けた兵士達の手強さは恐ろしいものがある。最悪なことに今回の襲撃者は後者であった。数は辛うじて勝っているが彼等の背後には守るべき者達がいる。防戦一方のまま何とか均衡を保っていたが、それも第三者によってすぐに破られることになった。
「康毅!」
真っ先に気付いたのはリアナだった。加減を誤って切り捨ててしまったが、今はそれどころでは無く別の兵士と切り結んでいた康毅を屋根の上に放り投げる。
「ってぇ!何だってんだ……」
突然襲った全身の衝撃に束の間息が詰まるも、箇所をさすりながら立ち上がる。今更リアナの人外な力には驚きこそしないが、彼が驚いたのはもっと他のことだった。土煙を上げながらどんどん近づいてくるその数は50を超え、一直線に此方へ向かってくるではないか。しかも、掲げられた旗の色は白ではなく黒、つまり長年争い合っている雲母国の御旗である。この辺りは国境に近いとはいえ両国の交える戦端からは外れているはずで、本来なら敵影がここまでやって来ることなどあり得ない。康毅は目を疑ったが擦っても瞬いても光景が変わることはない。これは現実なのだ。
「くそったれが!」
何故よりにもよって見つけたのが自分達だったのかと不運を嘆く。このまま村を見捨てて自分達だけでも逃げればいいじゃないか。傭兵は命あっての物種だ、国への義理など猫の額程もないし、この村とて同じ事である。
そう、結論を出しているにも関わらず、仲間達に撤退を促そうと指示を出す康毅の口は唇を噛み締めたまま動かなかった。
自分じゃ無くても誰かがやってくれる。
その考えこそが間違いだったと気付いた時には既に何もかも無くした後だった。忘れられるわけがない。無残なままうち捨てられた故郷を、散々嬲られた上に斬り殺された恋人の姿を。見て見ぬ振りをするのは沢山だと決めたからこそ、康毅は傭兵団を立ち上げたのだ。今ここで逃げるという選択肢はその信念から反するのでは無いだろうか。
「雲母の騎兵隊だ!」
「おいおい冗談だろう……?」
康毅が迷っている間に他の者達も次々と異変に気付いていた。村の端にいた連中から伝播し、納屋で閉じこもっていた村人達も少ない私財を手に逃げていく。
「あ~あ。最悪だぜ」
畑から引っこ抜いたであろう土の付いたガレッポを囓りながら、いつの間にか隣に座っていた男が呟いた。康毅は即座に得物を構えるが、相手は意に返した様子も無く騎馬の一団を眺めている。
「あんたも早く逃げなよ。ここは俺達の場所さぁ~」
「……お前達こそ逃げないのか?」
「まぁ~、あいつらをぶっ殺すのは俺達の仕事だし?最後にこんなうめぇもんにありつけたんだから文句ねぇよ」
男は懐から生のガレッポを取り出すと再び食べ始める。つい先程まで剣を交わしていた筈の者達は、大小の傷を作りながらも康毅と男のいる家の周りに集まっていた。
「ほ~ら、おめぇら狩りの時間だぜぇ~。腹もいっぱいんなったしいっちょやるぜぃ」
「うぃ~す」
「しゃぁねぇなぁ」
だらだらと緊張感の欠片も無いまま、兵士達は騎馬隊の方へ向かっていく。それを見送りつつ屋根を降りた康毅は、仲間達に向かってどうするか問いかけた。
「どうするっつってもなぁ。俺達は兵士じゃねぇんだから逃げようぜ?っていっても、何処まで逃げられるかわかんねぇけどな」
例え逃げても軍馬に追いつかれるのは時間の問題だ。どのみち食い止めなければ被害はこのまま広がるばかりだろう。
「貧乏くじを引かされたと思うしかないね」
「マジで最近ツイてないわ~」
「そういや、俺お前にまだ貸した金返して貰ってないんだけど?」
「あ~また今度な」
「とかいってまた踏み倒したらただじゃおかねぇからな」
いまいち収拾がつかなくなっているが、どうやら既に覚悟は決まっているらしい。
「揃いも揃って馬鹿しか居ないのか……」
「今頃気付いたのか、頭?」
「ついでにその馬鹿筆頭は頭だからなぁ!」
「冗談じゃ無いぜ!?俺はっ」
「脳筋、でしょ?」
リアナの一言にどっと笑いの渦が巻き起こる。小さな身体は直ぐにもみくちゃにされ、最後は馬の背に乗せられた。目を瞬かせるリアナに、康毅が軽く頭を小突く。
「そういうこった。だから、お前とはここでさよならだ」
「何で?」
「ガキが死ぬには早ぇんだよ。お前一人くらい生き残る時間分くらいは稼いでやるから行け」
「康毅」
「じゃあな、リアナ。結構楽しかったぜ」
頭を撫でていた乱暴な手が馬の尻を強く叩く。合図によるものか痛みによるものか、馬は嘶きを上げて駆けていく。見る間にその背は遠くなっていった。