予兆
プルルルル…
ゆかりは電話のディスプレイで番号を確認する。
ゆかり「天野主任、お疲れ様です。堂本です。」
天野「お疲れ様ですー。堂本さんに開いてほしいファイルがあるんですけど。今メールで送ったんですけど、見てもらえます?パスワードは…0909ですわ。僕の誕生日です(笑)大体パスワードついてるとしたら僕の誕生日で設定してますんで。」
ゆかり「えっ!(笑)まさかに誕生日をパスワードにしてるんですか?」
天野「ハハッ!皆に祝わせてやろうと思ってね(笑)」
ゆかり「ふふ、それどういう魂胆ですか(笑) でももうすぐですね。誕生日なのに寝込んでるなんて…」
天野「でももうすぐ復帰できそうですよ、待っててください!」
ゆかり「はい!」
当初は冷たかった天野だが、以前よりもゆかりと談笑することが増えてきた。
天野の体調は良さそうだが、店舗の数字はなかなか調子が上がらず。
オープンして2週間経過しても契約はいまだ1件も上がらなかった。
それは3週間、4週間経過しても1件も契約は上げられなかった。
来客は絶えなかったし、物件紹介やリフォーム提案も数は熟せているが、肝心の契約にまでたどり着かない為、全社からいろんな噂が漂っていた。
・ポンコツの寄せ集め
・世紀の赤字プロジェクト
・社内の金ドブ
などなど様々なネガティブシールが貼られてしまっていた新店舗のメンバー達。
毎朝の朝礼で、今日はどんなお客様の来店予定があり、営業のスケジュールや進捗が報告されるが、形式的なものになってしまっており本当に契約まで直結するルーティンなのかと疑うほどだった。
時折ゆかりの元に、本社に居た時によく世話を焼いてくれていた女性パート社員から連絡が入る。
田村「堂本さん、そっち大丈夫?すごい言われようだし、まだ誰も契約取れてないみたいだけど…」
ゆかり「うーん、あんまり大丈夫じゃないかもです。私もどうしたらいいか(苦笑)」
田村「安西店長や加瀬係長は結構契約取る人なんだけどね。まだ取れないんだ。川田君なんて今まで1っ件も契約取れたことないし、あの子が取れると思えないんだけど…」
ゆかり「川田さん、頑張ってると思います。目がギラギラしてるんで(笑)」
田村「あら、そう?でもこっちは社長がカンカンで何かにつけ店舗の事言ってるわよ。堂本さんからもお尻たたいてあげてね。」
息を吐きたい気分だったが、ぐっとこらえ受話器をそっと置くゆかり。
毎日、店長の安西は一休さんのように両サイドのこめかみに両手の人差し指を押し当て、頑張って何かを考えているようだがそれが実らない。
係長の加瀬は、無言でお客様アンケートを見つめため息ばかりつく。
川田はゆかりの隣の席で、両手で顔を覆うこともあったが、真剣な目でいつも何かを考えていた。
特に役職者である2人の表情には疲れと焦りが見えていた。
堂本「もうそろそろ、契約欲しいですね。」
ゆかりが隣席の川田に話しかける。
川田「そうですね。契約が取れたら堂本さんに新しいことをやってもらいたいと思っています。」
新店舗の営業メンバーの中で川田だけが冷静なのか、ゆかりへの新しい業務割り振りなどを考慮していたようだった。
川田「じゃぁ僕これからB様の物件案内なので…いってまいります!」
ゆかり「いってらっしゃい!頑張って!」
背筋を伸ばし、事務所にお辞儀をしてお客様との待ち合わせ場所へ向かう川田。
ゆかり(川田君頑張ってるな。あれ?加瀬係長担当のCさんの顧客アンケートがないな…?どこだろう?)
ゆかり「加瀬係長、C様のアンケートどこにあるかご存じですか?」
ハッとした表情で慌てて探し始める加瀬。
もし見つからず紛失となった場合は、顧客情報流出の可能性もあるため大問題に発展してしまう為、ゆかりも協力して探し始める。
ゆかり「もし見つからんかったら社長に何言われるかわかんないですよぉ、加瀬係長」
加瀬「あ、あった!」
なんと加瀬のビジネスバッグのそこからクシャクシャになったアンケート用紙が出てきた。
管理の杜撰さに、冷や汗がたらりと滴り落ちるゆかり。
ゆかり「あ、あの。入ったばかりの私がお話しするのもよくないと思うんですが、さすがにこれは…管理酷くないですか?」
加瀬「ご、ごめん!」
その様子を傍目で見ていた安西店長。
安西「加瀬、それはダメだろ?顧客情報はしっかり管理しないと。必ず鍵付きのロッカーに施錠して保管しないと」
加瀬「申し訳ありません。」
ゆかりはホッとする。
なぜなら最近の安西は社長からの叱責と、数字をあげないという責任と重圧で周囲の状況に気づかないことが多かったからだ。
その流れで
安西「堂本さん」
可愛い声で仏のような微笑みでゆかりの苗字を呼ぶ安西。
堂本「なんでしょうか?」
安西「明日から、天野が戻ってきます。しばらく天野は本社と店舗の往復になるので、しっかり業務を教えてもらってください!」
堂本「え、往復になるって…腰を痛めてるんじゃないですか?大丈夫なんですか?」
安西「本社と店舗の往復は、社長直々の計らいでタクシー移動になるそうです。」
堂本「ならよかったです。やっと復帰されるんですね。無理されないといいですけど…」
タクシー移動を容認していることからも社長が天野を目にかけているのが、よく理解できる。
それくらい天野は数字やデータ管理、現在のプロジェクト進捗や過去のプロジェクト管理、人事面など管理部門の全業務に精通し、秀でていた。
川田「ただいま戻りました!堂本さん、お客様にアイスコーヒーをお願いします!あと、PCお借りします。」
堂本「了解です!」
アイスコーヒーを淹れながら、川田の表情を確認する。
いつもよりも精悍で、笑みがあふれる川田。
川田「店長、教えていただきたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
安西は川田の後ろに着き、何かを教えている様子。
ゆかりは不思議そうな顔だが、何かの期待が溢れる事務所を背に、お客様にアイスコーヒーを出すため接客テーブルに向かう。
堂本「お待たせいたしました、アイスコーヒーでございます。物件見学お疲れさまでした。」
女性客に満面の笑みを捧げ、事務所に戻ってくるゆかり。
安西「よし、川田。行ってこい!」
川田「はい!行ってきます!」
自信に満ち溢れた表情で接客テーブルに向かう川田の背を見守るように見送るゆかり。
その日の終礼。
まだ接客中の川田を除いて、安西、加瀬、ゆかりの3人で終礼が行われる。
安西「お疲れ様です。今、川田は契約中なので加瀬、今日の進捗共有を!」
ゆかり「えっ!契約中…ですか?川田さんが?えー、嘘ーーーー!」
今まで1件も契約が取れていない事を社内全員から指摘を受けてきた川田。
挙句社長から”1年も契約取れん営業は人間ではない”呼ばわりされてきた川田。
ただ、川田は不在の天野に代わり色々な事をきめ細やかに指導してくれていた上に
誰よりも真摯にお客様を分析し、そのお客様にマリアージュする物件とリフォームプランを誰よりも考え、頭の中でシミュレーションしていたことを、ゆかりは知っていた。
ゆかり「・・・っ。川田さんが。よかった・・・」
終礼中にも関わらず、胸にこみあげてくる熱い感情のせいか、ゆかりの頬を涙が伝う。
その様子をみてにっこり微笑む安西店長。
安西「川田は頑張ってましたからね。堂本さんも、いつも士気を上げてくれてありがとうございます!加瀬、俺らも負けずに契約あげるぞ!」
そして再開する終礼ミーティング。
止まらない涙を拭きながらその内容をメモする。
その日の議事録は、文字が震え、ところどころインクが滲んでしまっている箇所があった。




