迷路と果て
にっこりと笑うあたしに、引きつった笑みで対応してくれたのは少しばかり小太りの警備隊の隊員さん。
駅馬車が乗り入れる、町の入り口の左側にある二階建ての赤レンガの建物は、平和な町を示すようにほんの一握りの警備隊員のみで構成されている。
こじんまりとした建物。入り口の二枚扉の脇に置かれている犬小屋には、耳の垂れた中型犬がいかにも「役に立ちません」という顔をしてだるんっと寝ている。
そして、あたしの知る限りこのちょっと小太りの隊員さん。やせてひょろりとして、いつも帽子を斜めに頭に乗せ、ついで膝の上には猫を乗せている隊長さん。他に二人の平隊員さんのみという構成だ。時々見巡りと称して【うさぎのパン屋】にも訪れる、気さくで人間的にもイイ人たちだが――あたしに言わせれば確実に役立たずだった。
そして、あたしの記憶が確かであるのであれば、この面前のちょっとぽてりとお腹の突き出た人は以前あの不法侵入者に金平糖という賄賂を貰いつつ一応苦情を言ってくれた人だが――あたしがあくまでもにっこりと「被害届を出したいのですが」と告げた言葉に一旦視線を逸らした。
まるで猫がしかられているのを承知で顔を逸らすのに似ているが、さすがに逸らしたままでいられなかったのだろう、つつっと視線を戻して引きつった笑みを浮かべ、額に浮いた汗を隊服の袖口でぬぐって、喉の奥がからむというように幾度が「あー、んっ」と空咳を繰り返してみせた。
なんともわざとらしく。
「あの、つかぬことを聞きますけどね」
「つかぬことでもつくことでも、いくらでも聞いて下さい」
バッチコイ。
「被害届というのは、いったい誰から、どんな被害を……」
聞くのもイヤだとありありと示す顔だが、もちろんあたしは容赦なく言いのけた。
「領主館の裏手に住む尊き人とか呼ばれている変人です」
「――いや、コーディロイは悪い人ではないですよ」
「以前もそれ聞きました」
却下です。
「悪い人じゃない人は勝手に人の家に入り込んだり致しません!」
不法侵入だけは本当にやめて下さい。
どこに訴えたところで無駄だとは理解していても、人間にはどうしてもやらなければならないことがあるのだ。
――そんなに、イヤ?
拒絶の言葉に肩を落とし、切なく囁かれる言葉に腹部がぞわりと内側からなぞられるような感触が走る。
耳によぎるのは、暗いあたしの部屋で囁かれる音。
抱かれた腰と、重ねられた指と指との間に入り込む神経質そうな細い指。
動揺するあたしに、畳み掛けるように言葉を連ねていく。
「初めての時にきつかった? ごめんね。手加減したつもりなんだけれど、でも嬉しくてちょっと性急すぎたかもしれない」
「……」
「それとも、本当にぼくとはもう二度としたくない?」
落とされる囁きと、そっと触れる唇――肌をなぞる指先に翻弄されて、下半身にぽっかりと空洞があくように力が入らなくなってくる。
「痛かった? 今度は痛くないようにリドリーの体をじっくりと導いてあげる。隅々まで舐め上げて、たっぷりと――」
ぞわぞわとよみがえる羞恥と苛立ちと、どうしてあの時下から力いっぱいあの馬鹿の顎を殴ってやらなかったかという後悔とが燃え上がり、あたしは思い切り面前の警邏隊員を睨みつけた。
「ここで駄目なら御領主様に嘆願しますっ」
「すみません……そうして下さい」
こぉの、役立たずっ。
***
ユリクス様の突然の来訪より三日目――【うさぎのパン屋】の休日にあたしの部屋を訪れたのは、ユリクス様のお使いと称する一人の青年だったが、彼があたしを導いたのはこともあろうにあのあんぽんたん様の白亜の屋敷だった。
「なんでここっ」と思わず声に出してしまったものの、彼が使用したいのはあくまでもソコにある扉であって、ここの主には用は無いらしい。
あわてるように自分の唇にびしりと人差し指をあて、静かにして下さいませと顔をこわばらせた。
目じりにじんわりと涙が浮かんでいたのを見てしまったことは、きっと誰にも知られたくないであろうから、あたしも口を噤むことにした。
お迎えに来ていただいて難ではありますが、なんだか相手が気の毒に感じて、まるでこちらが悪いことをしている気になってくる。
「公は本日所要がありますのでお気づきになられることは無いと思いますが……申し訳ありませんが、できるかぎりお静かに」
やたらとびくびくとしている青年に、あたしは引きつれるような笑みを浮かべてこくこくとうなずいた。
気の弱そうな青年は、裏手から屋敷の扉に手を掛けて中に入り込んだ。
――勝手に入っていいの?
純粋な問いかけに「神殿に勤める者の幾人かはこの屋敷に出入りが許されていますから。そうでなければ入ることなどとても無理です」ひそひそと応える言葉に、あたしはまたこくこくとうなずいた。
そうか、この屋敷はだから鍵なんてものが無いのだ。
なんて便利。
うちのアパートも是非そう改良して欲しい――この先も勝手に入り込むのがいると思うと、自分の小さな城がちっとも安住の地では無い。
ニンニクを吊るすとか、杭をおいておくと撃退できるとか、何かいい手はないだろうか。あたしは夜を思って暗澹たる気持ちを抱いた。
最悪アマリージェに泣きついて一緒に寝てもらえるよう頼むべきだろうか? ああ、でもアマリージェはまだ子供だしそんな風に迷惑を掛けるのよろしくありませんが。
ではルティ……――は、やめておこう。
ルティアは大好きですが、にっこり微笑を浮かべてアレと裏取引しているような想像ができてしまう。
そうして転移の扉を通り、連れてこられた場所に、あたしは我知らず自分の体をぎゅっと抱きしめていた。
ぶるりと背筋から振るえが走る。
体内を巡る血液の温度が一気に下がるような感覚に身震いし、あたしは自分の中で呪文のように小さく唱えていた。
――アレハ、ユメ……
「どうか?」
案内しようにも、相手が足を止めてしまった為にいぶかる青年に、あたしは口を開こうとしたけれど、喉の奥が乾いて思うように喋れずにあわてて咳を落とした。
「ここ、聖都の――」
「はい、ヴァシュラスの庭園と呼ばれる王宮の敷地内です。生垣の迷路を抜けた場で神殿官長様がお待ちでいらっしゃいます」
耳の細い血管までもが脈打つのを感じる。
面前に広がる樹木で作られた迷路の入り口で、あたしはぎゅっと強く自分の体を更に抱きしめて自分の体温と、脈動とを強く意識しながら乾いた笑いを浮かべた。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ、いいえ」
アレハ、ユメだ――
足を貫いた矢など、無い。
流された血など無い。
「気分がすぐれませんか?」
ゆっくりと浅い呼吸を繰り返し、最後に一度、腹にある酸素を全て吐き出すようにしてその中身を全て入れ替えた。
耳鳴りがしているような気がしてぱしりと両耳を挟むようにして叩き、あたしはふるふると首を振った。
追いかけられる夢は不安の現れ。
ただそれだけ。
更に心配気に覗き込んでくる相手に、あたしはなんとか微笑を作りあげてひとつうなずいた。
「迷うと出られなくなります。どうぞついてきてください」
低い低木からはじまり、ゆっくりとその高さをかえて作り出される迷路。
時には花を、時には実すらつける樹木の道を、あたしは自分の胸に手を当ててゆっくりと歩んだ。
足元には石畳。時には芝生。時にはタマリュウ――砂利。
迷ってしまったら、落ち着いて周りの状況を確認してごらん。木々の名に、足元にヒントをちりばめた迷路は、決して君を飲み込んだりしないから。
胸元を超える高さにまで樹木が高くなると、案内役の青年の眉間に皺がよる。ゆっくりとあせらないように進む足に不安を滲ませるものだから、あたしはその袖を引いた。
「こっちのほうが、早いですよ」
「ちょっ、迷ったら出れないんですよっ」
慌てる案内人に、あたしは悪戯を打ち明けるように囁く男の顔を思い出す。
――仕掛けがわかると単純だけれど、ナイショだよ。
『ナイショ? 手品の種みたいに?』
『そう、ナイショ。この迷路は錯覚に満ちている――おかれている小物に惑わされないで。置物に意識を取られないで。君を導くのは、迷路そのもの。けれどその秘密が暴かれたら、ここは危険な場所になる。だからナイショ――ここはね』
実の色、花の色、名前にちりばめられた色や数字を拾い上げて足を向け、あたしは子供の頃の遊びの延長で迷路を攻略しながら一気に広がるその空間で、息の呑むように瞳を見開いた。
さやさやと流れる水の音。
見覚えのある円形の噴水の中央には竜ではなく一人の女性の石像が座っている。白い石像の女性はドレス姿で細かいドレープの作られたスカートの膝には、子供が二人。女性の膝に手を掛け、幸せそうに見上げるその様子は微笑ましい。
何故かその石像が竜でなかったことに驚きながら、あたしはその噴水の前に立つユリクス様に声をかけた。
「ユリクスさ――」
ま……
と声が尻つぼみになり、そしてあたしはユリクス様が振り返ったその向こう――噴水に尊大に座る壮年の男性の姿に、思い切り目を見開いて叫んでいた。
「うわっ、変なおじさんっ」
あたしの言葉に、あたしを案内していた青年は蒼白で三歩確実にあたしから離れ、そしてユリクス様は真顔になり――
問題の変なおじさん。
肩から分厚いローブを羽織るがしりと恰幅のよい白髪の目立つ男性は、眉間にしっかりと皺を刻みつけた。
***
地方領主としてジョルド・スオンにとって何が大事かといえば領地の平定である。
幸い、ジョルドの納める領地に限って言えば特別地区として優遇され、その税率は二割に過ぎない。農耕をしている民も少なく、多くのものが自給自足に近い生活を送っている。食物を作る為にはこの辺りの土は適さず、その多くが粘土質で水はけが悪い。町を出れば逆に砂漠が広がるというなんとも複雑なつくりをしているのは――もちろん、作為である。
この場所は竜峰への足がかり、監視地でしかない。
そんな領地であるが、ジョルド・スオンにとっては勿論愛すべき地であるし、心を砕くべき場だ。
領民のことを想い、その生活を見守り――税を計算し、治水を憂いる。
そのジョルドの腹部がちりちりと痛む。
その痛みの源がどこであるのか、ジョルドは正確に言える。
その部分は、胃だ。確実に胃が蝕まれている。薄い内膜がじりじりとストレスという名の攻撃を受け、今にもぷつりと穴をあけてしまうのではないだろうか。
「お戻りになられましたか」
「ただいま。そんなことより、顔色がよくないね」
心配そうな問いかけに、ジョルドは目元がぴくぴくと動くのを感じた。
「たまには休んだほうがいい」
「――休ませていただきますが、その前に、コーディロイ。この書類にサインを頂いてよろしいでしょうか?」
隣の屋敷とは庭を挟んで繋がっている。
何故繋がっているのかといえば、ありていに言えば――スオンの名を冠するものは、遥か昔から竜の名を持つ相手の手足な為だろう。
そう、どんな言葉で言いつくろったところで変わらない。
代々補佐官――下働き。奴隷。
そして……監視者。
「また新しい提――」
差し向けられた書類に、途端に相手の眉が寄った。
「――禁止事項?」
「ありていに説明申し上げますと、ある特定の女性の家へと侵入を禁止するという告知書と、同意書になります」
勇気を振り絞るようにジョルドが言うと、にっこりと面前の青年は微笑みを称え、そしてぽうっと、その手にある書類の端にオレンジ色の炎が紙を舐めあげ、みるみるうちに炭となり散った。
「……」
「……」
キイキイと痛む胃が、なんだかこんどはぎりぎりと感じてくる。
胃液がものすごく内壁を攻撃している。
「ほんのちょっとの間だけだよ。目をつむって」
黒ずんだ指先をこすり合わせながら、面前の青年は肩をすくめて見せた。
「そう、こんなことは長くは続かないから」