迷い子とデート
目じりに皺を浮かべ、柔和な笑顔を浮かべてみせる紳士はのたもうた。
「デートしよう」
――動悸息切れ眩暈が誘発されるすばらしいお誘い。
で、いいのか?
いいんでしょうか?
あたしはユリクス様にどう返すべきなのか判らなくなり、救いを求めるべく弱冠十一才の男前、頼れる少年アジス君を見たが、アジス君は少しも動揺していなかった。
あたしは一瞬真っ白になる程動揺したというのに。
「次のお休みはいつかな。その日の朝に迎えをよこすから」
確か、ユリクス様は当初物腰も柔らかに「きいてもらえるといいのだが」という単語を使っていらっしゃったように思うのですが、最終的には何故か「デート」は確定されていた。
物腰は柔らかいというのに、何故か押しは強い。
これが壮年の力とでもいうべきか。
いやいや、デートというのはただの単語だ。
男女の正しいお付き合いとかそういったものではなくて、ただ――ただ、何なのですかね、ユリクス様?
「ああ、公にはナイショでね」
あたしの混乱をよそに、実に楽しそうに無理やり約束を押し付け、ルティアの養い親であるところの神殿官長殿は穏やかに帰宅の為に元来た方向へと歩き出した。
完全に浮きまくった農夫姿で。
「なんか――なんだったんだろうな」
アジス君が掃除用の箒に寄りかかるようにしてぼそりと呟き、あたしは優雅に動く麦藁帽子を見つめながら「さぁ?」と魂の抜けたような声で返事をした。
爽やかなロマンスグレー――ただし農夫は優雅な足取りで歩いていたが、やがて道の往来でぴたりと足を止めたかと思うと、何やら懐から一枚の紙を出し、じっくりとそれを見つめ、
「あれ、なんか戻って来たぞ?」
アジス君の言葉の通りにこちらへと戻り、少し困ったように微笑を浮かべてその紙を差し出した。
「すまないが、ちょっとこの地図が判りづらくてね。
来る時も公の邸宅からずいぶんとかかってしまったんだ」
差し出された紙をあたしとアジス君が覗き込み、あたし達はちらちらと目線を合わせてある回答をはじき出した。
「オレ、送ります」
「いやいや、そんな迷惑を掛ける訳には……」
「大丈夫です。コーディロイの家まで二十分程度だから」
この町はそんなに広くないですよ。
パン屋から細道を進んで、大きな通りに出ましたら右手に行くと中央広場がございます。その広場を突っ切って丘のほうにあるいていくと、領主館が見えて参ります。それは見事なお城ですので目立ちます。間違いようはありません。それでもって、その館の後ろにひっそりとあんぽんたん様の白亜の邸宅がある訳です。
簡単に説明すると、白亜の館を出て坂道を下り、突き当たったら右に折れて、まっすぐ行くと三叉路です。その三叉路の左側の小道に入るとこのパン屋の前に出る訳です。
――という地図を、一本線でぐりぐりと書いたのは間違いなくルティアだ。
挙句紙の隅に愛らしい飾り文字で「お養父様お気をつけて」とイケシャアシャアと書いてあるところがまたすばらしい。
迷子にする気満々ではありませんか。
あたしは乾いた笑いで軽く手を振って二人を見送りながら「デートって……もしかしてはじめてだなぁ」と呟いていた。
デート……って、何だろ。
楽しそうな響きだが、果たしてユリクス様の真意が判らない。文面どおりのデートという訳では決して無いだろう。
あたしは無意識に首から下がる指輪をもてあそびながら、なんとなく眉を潜めて、遠く霞む竜峰へと視線を向けた。
――公にはナイショで。
おまけのように、茶目っ気さえ見せて付け足された言葉が、なんだかとても、怖いなんて言ったら、アジス君は笑うだろうか。
神殿と王宮とをつなぐ神殿官。
その長官を務めるユリクス様の知るあの男は、いったいどんな男なのだろう。
あたしの知らないあの男を知っているその人との約束に、あたしは不安と同時にほんの小さな淡い期待のようなものが広がるのを感じていた。
あたしの知らないあの人を、知ることができるような気がして。
だって、仕事中くらいはきっと真面目なのよね?
まさか神官長として働いている時はおかしな言動で皆さんをどん引きさせてないわよね?
そんな思いがちらりとよぎった途端、あたしは思わず指輪をぐぐっと握り締めていた。
――まさか神殿の人を困らせてるっなんてことないわよね?
脳裏で踊る変態様の姿に、あたしは肩を小さく震わせた。
「いやいやいや?」
聞きたいような、聞きたくないような……聞きたく、ないかなぁ。
***
――はじめてのデートと呼べるデートは、きっとあの沈んでしまった船遊び。
ティナが寝込んでいたものだから、リドリーははじめ出かけることを渋ったものだ。
けれど、はじめてもらった小型の船――たかが小さなカヌーでも嬉しくて、挙句お邪魔虫なティナもいないという最高のシュチュエーション。
かっこよく決めたかったというのに、リドリーはカヌーに乗ることを拒否したし、カヌーはいともあっけなく沈んでしまった。
真っ青になったリドリーに「手を貸して」と川の中から声をかけ、心配している彼女を勢いよく川に道連れにしてやったのは良い思い出だ。
びしょぬれになって、そんなに深い川でもないのにリドリーはえらく慌てて溺れ掛けていたっけ。
必死にしがみついてくるから、危うく泳ぎの達者なマーヴェル自身も溺れかけてしまった程だ。
笑ったマーヴェルに、やっと岸にあがったリドリーは泣きべそをかきながら「マーヴェル酷いっ」と甲高い声で言っていたのが、とても可愛かった。
そう、リドリーはそんな時の顔がとても可愛い。
普段はあまり感情を見せないで、そっとはにかむように笑うから、だから子供の頃はよくそうやって彼女を困らせることでその表情を引き出した。
やがて大きくなる頃には、できるだけ笑顔を見せて欲しくて努力した。
それが実るかのように、リドリーは時々とても綺麗な笑みを浮かべてくれて、それが嬉しくて優しく接するように勤めたものだ。
一度、母親に連れられて聖都に行ってしまったリドリーは、その後性格が変わってしまったように塞ぎ込みがちになって笑わなくなった。
マーヴェルが話しかけても、今まで一歩引いていたものが三歩程も引くような感覚にたいそう焦ったものだ。
だから更に努力した。
優しく、優しく――からかったり、苛めたりしないように。
外洋船から小船に乗り換えてそんなことを思い出し、マーヴェルはふと小さく笑った。
「なーに、にやけてんだよ」
「いや……ちょっと昔のことを思い出してた」
「悠長なヤツだなぁ。今回の嵐でどれだけうちの商会が損害だしたと思ってるんだよ? また親父さんにこっぴどくやられるからな」
呆れるドーザの言葉に、ぐっと喉の奥で言葉を詰まらせた。
今回の船出は少しばかり無理を通した。
その為に嵐にかちあったといっても過言ではないだろう。それは船主として当然笑える話ではない。
それでなくとも最近の風当たりは強いのだ。
潮でぱりぱりと張り付いた髪を無理やりかきあげて、マーヴェルは吐息を落とした。
「船の発着所の料金は安くなってる。それでなんとか押し通すさ」
「使用料程度じゃ弱いだろうに」
「――なんとかするさ」
ドーザと忌々しい会話を続けている最中、港の桟橋の近くまで来ればドーザが船の綱を手に桟橋へとうつる。それを合図にしたように、桟橋の先端の方につけられている小屋から見慣れた男が顔を出した。
「お帰りなさい、マーヴェルさん」
「ただいま。何かかわったことは?」
お決まりの台詞にはたいてい「いつも通りですよ」と返される。だが、今日ばかりは違っていた。
「聖都からお帰りのとこ悪いんですが、あっちから鷹が飛びました」
鷹、という単語に船の綱を桟橋の縁にくくりつけていたドーザも顔をあげる。大抵の連絡に使われるのは鳩だ。しかし、緊急を要するものの場合通信用に鷹を使う――鳩とはまったく速度が違うその通達は、船を追い越して届いていたのだろう。
「何だ?」
「ダグのやろうがあっちで何かしでかしたようで――ちょっと面倒事になってるようなんです」
ダグ?
その名を口の中で転がし、差し出された手紙を受け取る。中に書かれているのは鷹を飛ばした割りにはあやふやな文面であった。
脳裏に聖都を出る時に見た幼馴染が浮かぶ。
確か、あの日は舟遊びをしたいという子供達が来て――彼等のことはダグに頼んだのだ。一番小船の扱いが上手く、多少粗暴だが仲の良い友人の一人。
【ダグ客とトラブル。聖都水路内商業停止。ダグ行方不明】
二度、目を通し、三度目に突入する頃にはドーザがその紙を引ったくり、
「なんだこりゃっ。どういうこった」
ドーザは無遠慮な声で叫んだが、言われた相手も困ったように首を振った。
「すぐに鷹を戻しましたが、その後のことは判りません。船長が、マーヴェルさんが戻ったらそのまま船で聖都に戻って確認し、ダグを探すようにと」
早口で言われる言葉に、マーヴェルはぐっと唇を噛んだ。
――郷里に行けばティナがいる。
この港町から川を遡り、二日。
その場所に行けばティナがいて、そして――ティナであればリドリーの居場所を知っているかもしれないのだ。
強く噛んだ奥歯がぎりりと音をさせ、口の中に鉄さびでも噛んでしまったかのような味がじわじわと広がる。
リドリー……
肩を僅かに震わせ、マーヴェルはぐっと拳を握りこんだ。
「ドーザ、船を戻せ」
魂がイヤだと叫ぶ。
あと二日。あと二日で彼女の行く先の欠片が拾えるかもしれない。一日でも一刻でも早く会って、そしてその無事を確かめたい。
全ての事柄を謝りたい。
そう切望しながら、
「いいのかよ」
ドーザが言う言葉に、マーヴェルはくるりと体の向きをかえて桟橋を小船へと戻りながら硬い表情でうなずいた。
「ダグは友人だ。戻ろう」
そんな頑なな背中を見せるマーヴェルに、ドーザはすぐに満足気な笑みを浮かべた。
「俺が行く」
「ドーザ?」
「商会はおまえの仕事だ。そっちは肩代わりなんざできねぇ。だから、ティナのところには俺が行ってやるよ。ま、俺が行ったところで無駄足になっちまうかもしれないが……おまえが何をしたいのかは俺が一番理解してるからよ。こっちの用件が済んだら俺もそっちに行く。ダグの野郎はおまえに頼む」
親しげに肩を叩かれ、マーヴェルは硬い表情のままこくりとうなずいた。
――切望しながら、少し……怖い。
会いたい。会いたい。会いたい。
けれど、リドリー。
君は今も、君なのだろうか。
そんな風に思う俺は、酷く臆病で、愚かで、最低だ。




