消えた過去と消された罪
あたしの問いかけに、アマリージェの表情はみるみるうちに強張りをみせ、あえぐように小さく喉を動かした。
「リドリー……」
かすれた声があたしを呼び、あたしは咄嗟に「いい。ごめん――ごめんなさい。あたしの勘違いっ。いくら魔法使いだからってそんなことできないわよね」と早口に言い切り、逃げ出すように自ら使っていた昼食の食器を慌しく片付けにかかった。
心臓が鼓動を激しくして、手にはじっとり汗をかんじる。
アマリージェにあんな風に言ってしまったのは、言ってはいけないことを自分が――いや、アマリージェが口にしてしまったことを後悔しているのを感じたからだ。
アマリージェの表情は明らかに動揺していて、どうしたらよいのかと物語っていた。
あたしはパン屋の流しに食器を置き、水桶の水面を見つめながら耳の脈動すら感じていた。
アマリージェと出会った当初、アマリージェはあの男の事柄はあまり言えないのだと口を噤んでいた。ならばきっと今問いかけたこと――記憶を奪えることについても言えない事柄の一つだったに違いない。
まさかそれを口にしてしまったアマリージェに対してあのぼけなすが何かしたりはしないだろうけれど、でも自分がそのことをアマリージェに問い詰めることはきっと良いことでは無いということは、思慮深くないあたしにも理解できた。
「ルティア……」
救いを求めるようにかすれた声でその名を呼んだけれど、ふるりと首をふる。
駄目。
ルティアに聞いても駄目だ。じゃあ誰に尋ねればいい? 魔法使いは記憶を奪える――魔法使いはあたしの記憶を奪ったことがあるの?
あたしがあの男と出会った時のことを忘れていたのは、あたしの記憶をあの男が奪ったから?
「違う……違うわよね?」
だって、だって――忘れられて悲しかったと言ったじゃないの!
何より、あたしの記憶を奪うことに何の意味があるの? 八つの子供の記憶を奪って、何か意味があるとでも?
あたしは強く目をつむり、ぎゅっと唇を噛んだ。
***
その日の午後、あたしがどう仕事をしていたのかははっきりと覚えていない。
ともすれば不安に押しつぶされてしまいそうな気持ちを封じ込めて、どこか空虚な笑みでお客さんに対応して――アマリージェのことを、避けて過ごした。
極力普通に接しなければと思うのに、あたしの心が畏れのようなものを抱え込み、アマリージェの物問いたげな視線や口元が怖くて。
判っている。
自分だけで考えているとどうしたって良くない風に考えてしまう。
人の記憶を奪う理由って何? どうしてそんなことをするの? もし、あの人があたしの記憶を奪ったというのであれば、どうしてそんなことをする意味があるの?
あたしはかろうじて取り戻していた子供の頃の幾つかの記憶を必死になぞりながら、理解ができなくて何度も行き詰まり、首を振った。
出会いこそ冷たい口調であたしに対したあの人は、けれど数日後にはまるで兄妹のように接してくれていた。
幼いあたしが喜ぶようにと、小さなうさぎやリスを見せ、菓子を与えて。そんなささやかな記憶を奪う意味など無いだろう――奪い去らなければならないような記憶なんて……ない、筈?
あたしはふっと真顔になった。
誰にだって消したい過去があるように、あたしにだって消したい過去がある。
その一つに、思い出したくなかった記憶があったりして、あたしはその存在に口元を引きつらせた。
――あるじゃあ、ありませんか!
十八歳が八歳児にしたら犯罪的にまずいコトが。
アレか。
アレの抹殺か!
無かったことにしやがりましたかっ。
人の初キスをあの阿呆はっ。
突然明滅するように脳裏に描き出された情景と、その時に口移ししされた甘い菓子の味を思い出してしまい、あたしが拳に力を込めて呻いていると、突然――思い切るような口調で背後から名を呼ばれた。
「リドリー」
あたしはもうすでに帰宅したと思っていたアマリージェの突然の呼びかけに、危うく「うわぁ」と声を上げてしまい、あまりの無様な自分に無意味に手の平で宙をかいてしまった。
なんといっても、今現在ものすごく不都合な記憶を掘り起こしていたものだから、その動揺は激しい。
滅びされ変態っ。ロリコン。人類の敵!
でもあの当時のほうがまっとうそうだったのが腹立たしい。
穏やかな雰囲気を身に纏い、憂えるような眼差しで――やっていることと言えば、より酷いのではありませんか?
思わず自分の胸元に手を当て、あたしはとりつくろうような引きつった笑みを浮かべて振り返った。
「マリー、まだ、いたの?」
あたしの言葉はさぞかし跳ね上がり、その動きは笑う程挙動不審にうつったことだろう。だが、先ほどまでの自分からは少なくとも浮上している。
あの卑怯であんぽんたんな阿呆男ならば、それくらいするという理由を掘り起こした今であれば。
あたしの中でうまれた余裕が、アマリージェへの配慮へと向かわせた。
あたしときたらもうオトナなのに、十四歳の少女にずっと気を使わせているなんて、なんて情けない。
アマリージェは思いつめたような表情であたしを見つめ、長い睫毛を振るわせた。
「もう帰宅の時間ですわよね? ご一緒してよろしいですか?」
両手の指を組むようにして言う姫君の様子に、あたしの心がつきつきと痛む。あたしはぎゅっと彼女を抱きしめたい衝動を覚えながら、内心で囁いていた。
――ごめんなさい。いつもいつも、なさけないあたしで、ごめんなさい。
「もちろん」
「じゃあ俺も」
洗い終わったトレイを布巾で拭いていたアジス君が声をあげると、アマリージェは「必要ありません」とすげなく断り、彼女の心を察知したあたしは「女には女の話があったりするのよ。男の子は立ち入り禁止」とからかうように付け加えた。
あたしの発言にアジス君は途端に顔を顰め、唇を尖らせた。
「男の子とか言うな」
十一歳の少年はとっても繊細です。
片眉をあげて物問いたげな少年だったが、アマリージェにきつく言われて引き下がり、あたし達は少しばかり空が夕焼けから深い闇色ににじむ頃合にパン屋を出た。
「リドリー、昼間の質問ですけど」
綺麗に整えられた石畳の上をぎこちない雰囲気で歩きながら、ふいにアマリージェは一歩あたしの前に踏み出した。
カツリとアマリージェの靴が石畳を打ち鳴らす。
自分よりもずっと年下の少女が、思いつめたような口調と眼差しとであたしを見上げてくるものだから、あたしはまたしても相手の言葉をさえぎっていた。
「ごめんなさい。忘れてください」
「できるかできないかで言えば、記憶を奪うことはあの方にとって簡単な魔法だと思います」
判っていたことだとしても、突きつけられるとそれは思いのほか大きなダメージとなってあたしの胸に落ちた。
昼間のアマリージェの様子で予想をつけていたことだとしても。
あたしは口元が歪みそうになるのを堪えて「そう、なんだ……」と力なく口にした。
「じゃあ、やっぱり。あたしの子供の頃の記憶って、あの人に消されてしまったって、ことでいいのかなぁ」
やばい。
泣きそう――
もう本当に、人として駄目駄目だって判っていたけど、どうしてここまで駄目かなぁ。
自分の都合の悪いことをそんなに簡単に消してしまえるなんて……
「忘れられてしまうのはイヤだったのですって」
アマリージェはぎゅっと自分の手を組み合わせ、彼女こそ泣きそうな顔で言った。
「郷里に戻ってしまうあなたに、もうずっと会えないであろう貴女に――そのまま生活していくなかで、ゆっくりと記憶の海の果てに忘れ去られてしまうであろうことが、耐えられなかったと言っていたのです」
切羽詰るように吐き出される言葉を耳にいれ、あたしはしばらく無言でアマリージェを見つめてしまった。
「悪意でもって記憶を奪った訳ではないのです。自分の立場や、あなたの幸せすら思慮に入れて、自分のことなど忘れてしまったほうが幸せだろうと――そのほうが貴女の為だって!」
「あの……忘れられたくないって、自分で記憶を奪っている訳ですよね?」
とりあえず、後半部分はおいておくとして。
あたしは軽く額に触れて眉を潜めた。
「冷静に聞き返さないで下さいませ。わたくしにも実はちょっと理解できないのです」
すすっとアマリージェの視線がそれる。
あたしはそんなアマリージェを、何故か「ああ、やっぱり可愛いなぁ」とか訳判らない視点で眺めながら、また別の場所では違うことを考えていた。
――……変態の思考回路が判りません。
ああ、でもそう、そうですか。
あの犯罪一歩手前な記憶を誤魔化そうとした訳では無いわけですか、へぇぇぇぇ?
あたしは引きつったままの微笑で両手をぽんっとアマリージェの肩に掛けた。
「ココは一つ直談判という直接話法で乗り切るつもりですから、マリーはもう心配しないで領主館にお帰り下さい」
「……大丈夫、ですか?」
それでも不安そうに見上げてくる姫君をぎゅうっと抱きしめ、あたしはぽんぽんっと彼女の肩甲骨の辺りを親しげにたたいた。
「大丈夫ですよー、悪いのはいつなんどき、どんな場面であろうともアレですからね」
あの変態の思考回路を理解しようというのがまず間違い。
うだうだ考えるだけ無駄というものですよ。とっつかまえて全部吐かせるのが正解です。
あたしはにっこりとアマリージェに笑ってみせ、ついで声をあげた。
「アジス君、マリー送ってあげてね?」
こっそり建物の影からのぞいているちびっ子よ。
君は本当に男前で素晴らしいと思うのだけれど、一歩間違えるとストーカーです。