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忠犬とわんこ

 丘の上にある御領主様の館の後ろ――遠く北に連なる霊峰の白さが目立ち始めて、肌に触れる空気が冷たく変化していく。

 この町はあたしが産まれた町よりもずっと西北の位置に存在し、きっと冬には物語でしか見たことのない雪が降るのだろうと思っていたけれど、思う程冬は雪深い訳ではなくて、町の人たちに言わせるとそれはつまり、守り神である竜の恩寵なのだという。


 あたしはマイラおばさんが持っていた古い装丁の本を開いた。

「この辺りじゃ、一冊くらいは持ってるもんさ」

 端のほうのページは丸みを帯びて、丁寧に扱わないとぼろりと崩れてしまうのではないかとすら思える読み古した本は、ターニャさんが読み、そしてもっと小さな頃にアジス君も読んだことがあるのだとマイラおばさんが引っ張り出してくれた。


 眠り続ける竜。


むかしむかしではじまる物語は、一匹の竜が人々に意地悪をし、それを諫める一人の女神様――そして改心した竜は北の霊峰で人々を見守りながら眠りに付くという、単純な物語だった。

そしてこの物語は書き記されてはいないけれど、皆最後にある言葉を付け加えるのだという。


――竜はこの地を守る為に眠り続けている。決して起こしてはいけない。


 それは矛盾に満ちた言葉で、人々はそのことを承知しているのだ。

守る為に自らの意思でそこにいるのであれば、起きてしまったとしても問題は無い筈だというのに。けれど人々は竜が目覚めるのを恐れている。

 決して大言はされないけれど、そっと僅かな言葉で伝えられていく口伝。

それが現在も生きているのは、この町には神官長――竜守が代々存在しているからだ。

「先代様は見たことがないけどね」

 マイラおばさんは遠い記憶を掘り起こすように言った。


「代替わりなさったのもいつの間にかってところだねぇ。もともと雲の上の話だから、あたしらには関係が無いのさ。当代様は慈悲深い方だし、ユーモアもお持ちだから、子供の為に魔法を披露してくださることもあるから、町では好かれていらっしゃるけどね」

「魔法……そもそも、あたしは魔法とか竜とかに馴染みは無かったんですよねぇ」

 まさに御伽噺だ。

触れると少し指先にひっかかる本を撫でて、あたしは肩をすくめて見せた。


「そうかい? あたしらなんかは産まれた時から馴染んでるもんだからねぇ」

 魔法があるのも、そして竜が存在しているのもそういうものだと感じているだけだという。

「竜って見たことあるんですか?」

「馬鹿お言いで無いよ。竜は北の霊峰さ――ああして町からうっすらと連なる山脈は見えているけれど、その実あそこまで行くのは相当難儀なものさ。それに、霊峰は迷いの山だ。一般人が入れば迷って出られなくなるとも言われてる」

 マイラおばさんは肩をすくめ、椅子に引っ掛けていたエプロンを腰に巻きつけた。


「さあさ、お茶を飲み干しておしまいよ。後片付けをして店じまいにしよう」


 すっかりと暗くなってしまった町の様子に、アジス君が自宅まで送ってくれると請け負った。

「そんなに遠い訳じゃないし」

「いいんだよ。帰りに走るから遠慮すんな。それに体調悪いんだろ? 無理すんなよ」

 最近すっかり体を鍛えることを覚えたアジス君は、多少筋肉の付いた腕をさすりながら肩をすくめた。

 もともと可愛らしい顔立ちが精悍になっていくのを見るのは少しばかり物悲しい。鳶色の瞳とふわふわの髪の愛らしい少年よ――最近目つきがすっかり男になってしまった。

 舗装された石畳をゆっくりと歩きながら、あたしは口から白い息を吐き出した。


「アジス君の誕生日っていつだっけ?」

「春の終わり……十二歳までまだ遠い」

 ぼそりといやそうに言う様子が微笑ましい。

アジス君は十二歳になったら領主館にあがることになっているから、それが待ち遠しいのだろう。

 

「あのさ、リドリー?」

「うん?」

 あたしの手にあるマイラおばさんから借りたバスケットを取り上げるアジス君は、ふいに足を止めて、しっかりとした眼差しであたしを見た。

「姫さんに俺はすげーガキに見えてるのかな?」


 ぶふっ。


あたしは危うく思い切り噴出してしまいそうになったのを無理やり押さえ込んだ。

どうしよう。なんだろう、この可愛い生き物。

「マリーが大好きなのね」

 不用意に言ってしまった言葉に、アジス君はむっとした様子で眉を潜めた。


「違うっ」

 駄目、からかってはいけない。いけないと思うのに、もう何故かあたしは浮かれてしまっていて、どうにもアジス君の頭を撫で回してしまいたくて仕方ない。

「ちげーよ。俺は――姫様を、けーあい、してんだよ」

 うわっ。凄い難しい言葉が出た。

敬愛。

勤勉な将来騎士になろうとしている少年は唇を尖らせ、ぷいっと顔をそむけた。


「もういいっ」

「ごめんっ。ごめんってば――マリーがアジス君を子供と思ってるか、だっけ? でもマリーだってまだ十四だよ?」

「俺は姫さんより三つも年下なんだよっ」


 三つの年齢を激しく気にするアジス君に、あたしは笑いながら手をはたはたと動かした。

「あたしとアレの年齢差なんて確か七つか八つだし」

「男が上なら別にいいんだよ!……ってか」

 勢いのままにいい、ふとアジス君は更に眉を潜めてあたしを見た。

「――俺の記憶が正しければ、確か……リドリーと尊き人はずっと昔に出会ってたよな?」

「……」

「俺しつこい程聞かされたもん。えっと?……あの方が十八だったか十七だったか」

 止めて。

それ以上考えないで。

あたしは手のひらを開いたり閉じたりしながら呻いた。


「リドリーが十七で、七つ――八つ年上で、それで、十八で」

 最近計算スピードが上がったという少年はそれでもぶつぶつといいながら、どうやら一つの結論を導きだした。


「それってつまり、オレが四つか五つのチビに惚れるようなもんだよな?」


――その純真無垢な眼差しだけで「変態(ねぇよ)」と訴えるのは止めて。


***


「やはり沖に出たままの船が四隻――航海予定では沖合150、100海里を航行していると予想されています」

 水盆に映し出される港の様子を淡々と見つめている主に向けられる報告を耳にいれ、ユリクスは嘆息した。


「公、聞いて楽しい話題ではありますまい。お休みなさるといい。自然災害は貴方様の領域を外れる――盟約にもない」

「判っているよ、ユリクス」

 小さく微笑を落とし、彼等の主はそっとその指先で水盆の水面に触れた。

言葉を重ねようとユリクスは口を開きかけ、そのまま嘆息した。

「あまり世情になど顔を出されるな。批判が増えていることにお気付きか?」

「この顔を見たい物好きは少ないからね。まるで私と目が合っただけで呪われるとでもいうように動揺されるものだから、さすがにちょっと心が傷つく」


 淡々と言う相手にユリクスは苦笑した。

「新たな候補者をたてよというものもいる。最近の貴方は活動的過ぎて、愚かにも貴方が先代をなぞるのではと言うものまでいる始末だ」

「それはそれで構わないけど、あんまり不穏なことを言うと、あの人の怒りを買うだろうに」

「このままいけば、そのようになるでしょう」

 これではどちらが守護者かわからないですね。

吐息を落とし、水から手を引き抜くと青年は淡く微笑んだ。


「ところで、うちの婿の姿が見えないのですが」

「目に付くところにはいませんよ。気配はするからその辺りにいますが。呼べば来ると思うけれど」

「別に呼ばなくとも構いません」

 ふんっと視線をそらしたユリクスの内部に苛立ちを認め、黒髪の青年は微笑んだ。


「エル、出ておいで」 


 穏やかな声で言えば、すぐに嬉々とした空気をかもして上背の高い騎士が現れ、主の前で膝を折った。

「お召しにより参じました」

 その額には、いいの?いいの? と書いてあるようだ。

しかし、ユリクスは久しぶり見た婿の姿に思い切り顔をしかめた。


――何かがおかしい。

一見していつもの腹立たしい程の馬鹿面だが、何かが……

ユリクスはじわじわと眉を潜ませ、その正体に気付いた途端に鼻で笑った。


「なんだその間抜け面は」

髭が無い――ならともかく、ちょろっとあるところがミソだった。

現在進行形で髭を育てている(・・・・・)エルディバルトはムッとユリクスを睨みつけた。


「卿、私は主のお召しにて参ったのだ。あなたのお相手をするつもりはない」

 突如勃発した舅婿戦争を微笑ましいとでもいうように瞳を細めた麗人だったが、ふっと二人を放置して自らの脇にある水盆へと視線を戻した。

港は嵐を前にあわただしく船を海上へと引き上げ、人々が右往左往している様子をみせる。外洋船隻の幾つかはとうの昔に内海を嫌い沖へと出ている。

 季節を外れた台風がその速度を上げて港を襲えば、その損害は激しい傷跡となって残ることだろう。

 半眼を伏せて更に意識を飛ばし、大気中に散る霊峰の水脈の果てを宥めるように組み立てていく。


やがて浮かんだ沖合の一隻――外洋貨物帆船の姿に口元に笑みが浮かんだ。

「公?」

「――どうやら無事らしい」

 嵐で翻弄されることを恐れて沖合いへと逃れた船の様子に、吐息を落としぱしゃりと指先を弾いた。


「良かった」


「何が良いのですか!」

 口げんかをはじめていたエルディバルトの切なげな声に意識を引き戻された青年は、水本の映像を消し去ると嬉しそうにその表情を変えた。


「そうだ、エル、エルも聞きたい?」

 突如その頭に花を咲かせてしまった相手を前に、ユリクスは嘆息してその部屋にいた他の神官達を片手で下がらせた。

 彼等の主は基本的には理性的であり理想的だが――ある一点においてその基本を逸脱する。ユリクスとしてもその事実に気づいたのはつい最近のことだったが、できれば神殿にいる神官達にはそんな姿を曝して欲しくは無い。

 心から。


「リトル・リィに押し倒されちゃった。

凄い、もうぼくってば実はめちゃくちゃ愛されてない?」


ユリクスはエルディバルトの尻でぶんぶんと揺れていた尻尾が力なくはたっと止まるのを感じながら、この場にはいない「押し倒した」女性の不憫さにそっと涙した。

 

 彼の人が言う言葉を丸々信じる訳ではないが、とにかく相手の女性は不憫すぎる……

いや。

 ふっとユリクスは養い子の将来の夫であり、自らの婿となる男にはじめて憐憫の気持ちを抱いた。


魂を粉砕されていないといいが。





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