困惑とお花畑
それにしても、本当に爽やかな朝ですね……
あたしの心以外は。
人間勢いで行動しちゃいけないという見本のような朝。
時々酔っ払って朝起きたら異性の寝台の中で、記憶は無いなんていう話をオトシゴロになると耳に入れてしまったり致しますが。
記憶は無いって言い張ってみたいです。
食堂にいたのが、いつの間にか寝台の柔らかな感触の上にいたとか、触れられる感覚とかしなやかな指の動きとか――痛み、とか。
くぅっ。きっと昨夜の食事のメニューにはたっぷりとお酒が使われていたに違いない。若しくは、飲んでいた果実水は水ではなくて酒だった。
そうじゃなければ昨夜食べた食材には媚薬が混じっていた!
ないか。
ないですね。
そんな阿呆なことある訳ありませんよね。
だってルティアも食べてたし。いやっ。ルテイアが入れたとか。
ない、なー。
はははははは、は、は、はぁぁ……は。
あたしはだらだらと背筋を汗が伝い落ちるのを感じながら、自分のしでかしたことをなんとか「誤魔化せないか」と考えた。
言い逃れができない?
いやいや、そんなことは無い。
夢とか幻とか。
世の中はご都合主義の結晶でできている。
この場からそそくさと逃げ出し、そ知らぬ顔で「おはよう魔法使い」といつものようにあたしのあのアパートの階段で元気一杯に言えば、すかぽんたん様は「あれー、夢だったかな?」と思ってくれるに違いない。普段からへんな妄想垂れ流しているのだから、これくらいの夢は見ている。
ってそれはそれでイヤなんですが。
まぁいいっ。
よし、この作戦で行こう。
あたしは足元に丸まっていたシーツを自分の体に巻きつけ、アレ言うところの大人が五・六人寝ても大丈夫という寝台の上をそろりそろりと移動しようと前かがみになり、できるだけ振動を与えないように逃げ出そうと試みた。
あたしの寝台であれば、ちょっと体重をかけただけでギシリと音をさせるというのにこの寝台はがっしりとしていてクッション性もよろしく不快な音など欠片もない。
あれだけ動いていたのにちっとも……そう思った途端に、あたしは「うわーっ」と叫び声をあげてしまった。
あれだけ動いてたって何、ナニさっ。
あたしの馬鹿っ。変態っ。もう穴掘って埋まってしまいなさいっ。冬眠でも昇天でもしてしまえぃっ。
あたしはかぁっとあがる体温と同時、自分のしでかしたことにのしかかられた。
自分から口付けることじたいは最近では幾度かあった。
そこまでは問題無かった筈なのに、ナニがどうしてこうなったのかと問われれば――やっぱりこれはあたしが襲ったという話だと思います。
だってあんまり馬鹿なことばかり言うから。
うじうじとしているのを見ていたら、なんというか「邪魔されるまでやってやろうじゃないか」という気持ちになってしまって、あの、気付いたらもう後戻りができない感じで、誰もとめてくれないし!
あああ、あたしも本当に何言ってるかな。馬鹿ですかっ。
あたしはぶるりと首を振り、そこらかしこに落ちている自分の服を目で確認しつつそろそりそろりと寝台からおりると、一番目立つシャツへと手を伸ばした。
「やりにげ」
途端、ぼそりと背後から音が流れた。
「目覚めたら愛しいハニーが腕の中、小さな身じろぎで目を覚まして、視線が合えば頬を染めてぎこちなくキスしておはようって――」
「……」
あたしの心臓がばくばくと鼓動を早めて、手のひらにじっとりと汗を感じる。
「でも現実はぼくが起きる前にこそこそと逃げようって、そういうのやり逃げって言うんだよ」
ぼく悲しいぃぃぃ。
あたしは呻きながらやっと引っつかんだシャツをぐしゃりと握りつぶした。
起きる前に逃げ出す計画、夢オチ大作戦失敗。
ぶ、ぶんなぐったらまだいけるかもしれませんが。
「やり逃げって、人聞きの悪いこと言わないでよっ」
「んじゃ、乗り逃げ?」
「乗ってないしっ、逃げてないでしょっ」
逃げようとしていたことはちょっとそのへんの棚の上に乗せておいて下さい。現実としてまだあたしはこの部屋にいる訳ですし。
「だねー、乗ってたのはぼくでしたー」
いやぁっ。
もう黙れぇいっ。
あたしは半泣きで唇を戦慄かせた。
「目、覚めたから着替えて帰ろうと思っただけですっ」
寝台の上で肩肘をたてて右頬を支える格好で、こちらを見ているエロ魔人は口元にうすーい笑みを浮かべて「へぇぇぇ?」といかにも信じていませんという返事を返して寄こす。
「とにかく、帰る。仕事あるし」
なんとか言葉を搾り出すと、まるで捨てられた子犬のような目をして上目遣いに見上げながら、
「帰る前に一つだけ聞かせて」
と、何故か愁傷な口調で問いかける。
あたしは拾い上げた衣装を抱きながらじりじりと後退し、確か左の扉が洗面室だったと目で確認しつつ「なに?」と聞き返した。
「後悔しているの?」
この、卑怯者!
***
卑怯者は誰かと問われれば――それはつまりあたしでございます。
あたしはマイラおばさんのパン屋の台所でトングとトレーとを洗いながら、若干下半身が痛い現実を無視していた。
「だらしねぇぞ。しゃんと背筋伸ばして立たねぇと、姫さんにこっぴどく叱られるぞ」
心持猫背になって働いているあたしに、呆れたようなアジス君の声が飛んだ。
アマリージェにこっぴどく叱られるのはアジス君だけです。という軽口が出るほどの元気が生憎とあたしには無い。
苦笑だけを浮かべ、それでもあたしはなんとか背筋を伸ばそうとしたが、まぁ色々と不都合があってやっぱりちょっぴりと猫背で午前中を耐え抜いた。
「リドリー、腰痛いのか?」
幾度か顔をしかめていたアジス君だったが、最終的に諦めから心配に切り替わり、洗い物をしているあたしの顔を横から覗き込んだ。
「寝違えたの」とあたしは咄嗟に笑い「寝違えって首じゃね? 腰にも通用すんのか?」と彼の心に謎を一つこしらえてしまった。
すみません。腰の寝違えがあるのかあたしにも判らないですが。
「いいよ、俺がやるから。座ってろよ」
「腰が痛いのかい? 痛み止めのパンでもこしらえてあげようか?」
マイラおばさんがパン生地をこねまわしながら口を挟むと、あたしとアジス君はほぼ同時に口を開いていた。
「薬の原材料にしてやれよ」
「薬そのものでお願いします」
もう薬関係のパンは作成を断念して頂きたい。
そもそも、マイラおばさんのオリジナルパンは、もともとは惣菜パンが主で比較的失敗は無かった。ニガヨモギとか使ってしまって痛い目見たこともあるけれど、本当に時々だったのに。いったいいつからそんな悪魔の発想を植えつけられたのだろうかと眉根を寄せたあたしだったが、やがて一つの事実に気付いてしまった。
あたしか……
便秘に効くとか言うあの花だ。あのパンが比較的成功してしまったものだから、マイラおばさんの方向性がちょっとおかしなことになってしまったのだ。
あたしがマイラおばさんから薬草を頂き、煎じて白湯で飲んでいると、店舗の裏手にあたる扉が開いた。
「おや、いらっしゃい」
もはやマイラおばさんも慣れたもので、領主館の令嬢の出現にも卒倒することなく対応している。
「よお、姫さん。今日は来ないかと思ってた」
食器を洗いながら視線だけを向けて言うアジス君に軽く会釈し、アマリージェは眉根を潜めて自らの指と指とをからめ、困ったようにあたしを見つめた。
「……」
「……なに、かな?」
あたしは口の中に含んだ苦い液体を無理やり飲み込み、ひきつり笑顔で問いかけた。途端、それはそれは見事にアマリージェの顔は真っ赤に染まり、慌てて視線をそらしたのだ。
まるで見てはいけないものを見てしまったとでも言うように。
え、何それ。
「あ、あの……アジス。遅くなりましたけれど、外で勉強致しましょうか」
そそくさと視線をそらしたアマリージェは、思いっきりわたわたとした動きであたしから意識を引き離そうとするのだが、それでもちらちらとあたしを伺っている。
まるで耐えられない程の好奇心を胸に秘めるように。
「言われていた本は読んだ。次の課題は?」
「次は――」
アジス君に説明しながらも、ちらちらとこちらを気に掛けているアマリージェの様子に、あたしはだんだんと不安を覚え、おそるおそるアマリージェに問いかけた。
なんだか不自然に心臓がばくばくいいはじめる。
血の気が下がってくような、微妙にいやな感覚だ。
「あの、マリー?」
「えっ、あっ、ハイ!」
アマリージェはびくんと見事に跳ね上がり、こちらへと視線を向けたものの、更に顔を赤らめてその瞳を彼女らしくなく左右に揺らした。
「あのっ、あ、お体……大丈夫、です、か?」
好奇心と気恥ずかしさ一杯のご令嬢の表情は、見ようによっては物凄く可愛いのですが、あたしの脳内ときたら現状それどころではありません。
「なに? 姫さんもリドリーが調子悪いの知ってたのか? 腰が痛ぇんだってよ。寝違えだって。リドリーってば何気に寝相悪いんだな」
「アジス、女の子の体のことを口にする男は嫌われるからね」
マイラおばさんにぴしゃりと窘められたが、アジス君は意味がつかめないというように唇を尖らせ、肩をすくめてまた別の話題を口にしだす。
アジス君の話し声をどこか遠くで聞きながら、あたしは手にしたグラスが小刻みに震えるのを感じた。
「マリィ」
自分の声音が僅かに震え、いつものマリーではなくルティアが言うようになんだか間延びした声が漏れたが、自分の声とは思えない程低いその声音の訂正はできなかった。
「……頭に花を咲かせた阿呆と遭遇した?」
――あんのすかぽんたんっ。何を言いふらしてんのよっ。
この場にいたら確実に首を絞めている自信がある。
というか完全に息の根をとめるっ。