狼さんとなめくじさん
人生とは何ぞや。
そは後悔の連続である――などと言った先人がいたかどうかは知らないけれど、あたしは現在ずぅーんと重いものにのしかかられていた。
窓から差し込む太陽の光とか、さらさらと揺れる紗のカーテンだとか、一見すると爽やかな良い朝ですね、今日も一日がんばろう!
そんな気持ちにさせてくれる朝ですが、生憎とあたしはその全てに背中を向けていた。
隣にナニかが寝てます。朝だというのに髭も生やさないあのナニかが。
やせている癖にたるんでいないその体は、絶対にナニか卑怯な手段を講じているのでしょう。髭と同様に。
あたしは膝を抱えて身を丸め、深い溜息と共に言葉を落とした。
「押し倒しちゃったよ……」
――もう何の言い逃れもできません。
***
あたしは自分の阿呆さ加減に辟易としていた。
阿呆さ加減、若しくは語彙力の無さ。考えたらず。この辺りはぽんぽんと出るのに。
よりにもよって出てきた言葉が「あなたに会いに来た」なんて、あたしがアレに対してよく使うあんぽんたん様とはまさに自分のことなんじゃあるまいか。
確実によくないものを踏みつけた、面前の男のスイッチ的なもの、もしくは踏んだら最後動けなくなるようなものを。そう感じていたというのに、しかしあんぽんたん改め、すかぽんたん様は淡い微笑を浮かべただ幸せそうに「ありがとう」と礼を口にして身を引いたのだ。
あたしは呆気に取られてしまった。
今までの経験上、ここは「リドリー!」と両手を広げてむぎゅっと抱きついてくるものと身構えていたというのに、身構えただけに自分がちょっと自意識過剰で馬鹿臭いような気持ちになってしまう。
……考えすぎ?
「ぼくが何をしていたかルティアに聞いた?」
すかぽんたん様は自分の為にセッティングされたテーブルに付き、穏やかな調子でそう切り出した。
拍子抜けしたあたしときたら、いったい何を言われたのか意味がつかめず、わたわたと相手の言葉をもう一度頭の中で組み立てなおす。
「どっかで台風が発生したとか?」
正確に言うのであれば、何をしていたのかは知らない。ただ、台風が発生したことによってうんたらとルティアは言っていた。それに対して確かあたしは「変態も真面目に仕事をするのだ」と感心したものだ。
「うん。本来ぼくは自然現象に手は出さないことになっているんだ。そういう大きな魔法に関しては歪みが生じやすいし、魔法の原動力だって無限という訳ではない。元々の仕事である竜を眠らせ続けることをおろそかにする訳にはいかないから、基本的にはぼくは魔法は使わないようになっているんだ」
並べられた食事は、あたしやルティアとが先ほど食べていたようなものではなかった。野菜をベースにしたスープとサラダと煮込み料理。あとは白くて手のひらサイズの丸いパン。
どこかで見たことがある気がしたあたしは、ぶっと噴出し、慌てて音をさせて「そのパン食べちゃ駄目っ」と声を張り上げた。
丁度パンに手を掛けた神官長は小首をかしげ「なに?」と問いかけてくる。あたしはせかせかと席を移動し、引きつった微笑でそのパン――皿の上にあるパンを二つとも取り上げた。
「これはあたしが貰っとく」
「食べたいの? 別に構わないけれど」
それは当然、食べたい訳ではありません。
何だってここで出てくるかな、このパンは? まさかマイラおばさんが届けに来た訳ではあるまい。ということは、ルティアがきっと親切心を出してエルディバルトさんのパンをおすそ分けしたというのがありそうな回答だけど、ルティア……――純粋な親切で神官長の顎を破壊しちゃ駄目です。
あたしはたそがれるような気持ちを抱きつつ、パンを二つ手に自分の席に戻った。
そしてあたしは取り繕うように「魔法の原動力って、何?」と先ほどの会話を引き戻すように尋ねてみた。
「はっきりとこうだ、というものは生憎とぼくにも判らない。ただぼくの使える魔力の大本は、竜峰に眠る竜――その媒体となる水脈、そして」
一旦口を閉ざし、グラスの水をゆっくりと喉に流してにっこりと微笑んだ。
「人の魂」
あたしの視線と、相手の視線とが絡まりあう。
ココロって何だろう。祈り? 思い? あたしはぐぐぐっと眉間に力が入るのを感じた。ご主人様がパンを奪われたことに対し、給仕係が元々用意されていたであろう茶色い綺麗な焼き色をしたパンを運んでくる。
あたしは頭の中をぐるぐるとさせながら、目の前でパンを食べる相手に合わせて自分も面前のパンを手に取り――無意識に齧った。
「ぐぅっ」
「リトル・リィ?」
また、また齧っちゃいましたよ。
馬鹿ですか、あたしは。
あたしは肩を震わせてうなだれた。なんだっけこういうの……人を呪わば穴二つとか、自業自得とかそんな言葉があった気が致しますよ。
それとも所謂呪い返し? エルディバルトさんへの呪いが成就されずに返されたとか?
あたしは支離滅裂なことを頭の中で躍らせた。
「どうしたの? 舌でも噛んだ?」
「いや、あたしが噛んだのは恐怖の固パンです」
うぅぅと呻きつつ何とか言葉にし、口元を押さえつつ身を起こした。
思わず正直に言ってしまったあたしの横に回りこみ、あたしの手元から問題のパンをひょいっと取り上げて、高潔な神官長様はとんとんっとそれを指先でたたいた。
爪が当たるのか、パンからはそれはそれは耳に心地よいコツコツという音が返る。
「これは、食べ物なの?」
「食べ物で作られているから食べ物です!」
思わず我が事のように言い張ってしまった。
自分で作ったものでは決してないのだけれど、なんとなくマイラおばさんを馬鹿にされたような気がしたのだ。
マイラおばさんが作るパンは美味しいんです! 普通に作れば。ただ、趣味かどうか判らないが、時々彼女が作り出す新作パンはある意味錬金術かといいたいくらいスバラシイのです。
――反対の意味で捉えていただければ正解。
あたしが赤くなりながら言うと、パンとあたしとを交互に見てすかぽんたん様はぷっと噴出した。
「つまり、君はこれをぼくに届けに来たんだね?」
「そうだけどっ、そうじゃ……ないの」
あたしは慌てていい訳した。
悪事が露見してしまった気まずさだ。
「そりゃ、当初はそのつもりだったけど……なんか、真面目にきちんと仕事しているみたいだし、だから」
「だから?」
「だから流石にちょっと悪いかなって反省したの。このパンはマイラおばさんの新作パンで、昼間アジス君と二人で食べようとしたんだけど、二人とも顎痛めるし! だから」
「だから?」
だから……あたしは視線をそらした。
面前で、物凄く楽しそうに見つめている相手がいるのが物凄く恥ずかしい。
「だから、ルティアにエルディバルトさんにあげてねって――そりゃ当初はあなたにたべさせてやれって思ったけど、後半はそんなつもりは全然ちっとも無かったのよ? あなたの食卓に並ぶなんて、本当に予想外だったんだから」
だからもう勘弁して下さい。
「エルにあげたの?」
困惑の混じる言葉に、あたしはちらりと上目遣いで相手を見た。
「もちろん、あたしからって言ったって食べないと思ったから――あなたからって言ったんだけど……ごめんなさい」
正直に全て吐き出すと、相変わらず指の爪先でこつこつとパンを弾いていた指をぴたりと止めた。
「君からのものならどんなものでも食べるけどな」
「食べ物?って聞いた癖に?」
からかう口調に安堵して、あたしは同じくからかうように言った。
「原料が食べ物なら、食べられるようにすればいいだけ。ほら」
いうや、手の中のパンを指先でぱふりと千切り、あたしの口元へと示した。
あたしは相変わらず上目遣いで相手を見ていたけれど、おそるおそる口を開いてそのパンの欠片を口に入れた。
たっぷりとしたバターの香りと甘み。
鼻を付きぬけるうまみにあたしは笑った。
「美味しい」
そう、マイラおばさんのパンは基本的には美味しいのだ。
あたしが笑みを湛えて言えば、面前の男は突然肺の中の酸素を全て吐き出すような、特大の溜息を吐き出した。
その勢いのままにその場にしゃがみこむ。
「なに、その反応?」
「ぼくもいい加減判ってるんだよ。ここでリトル・リィの可愛さにくらくらっときて抱きしめてぎゅうっとしてキスしたりとかするでしょ? すると、何かしらの邪魔が入るんだよ。絶対に。ぼくはそういう呪いが掛かってるんだと思うね。きっと」
まるで独り言のようにぶつぶつと言い出し、床をぐりぐりとほじくるように指先で丸を描く神官長様に、あたしは思い切り間抜けな視線を向けてしまった。
「そうだよ、どうせぼくは呪われてるんだ。一杯色々と嫌われているし、きっと幸せなんてこないんだよ。さっきだってまた邪魔されるだろうなって思ってぐっと我慢したんだから」
「もしもーし?」
突然暗雲を背負ったように根暗くぼそぼそと呟く男があまりにも馬鹿らしく、あたしこそ溜息を吐き出した。
「呪いなんてある訳ないでしょ。馬鹿ですか?」
「だって。今までどれだけ邪魔されてきたと思う? エルが飛び込んできたり」
どういう記憶中枢をしているのか、今までにどれだけ自分が不幸だったかをぐじぐじじめじめ言うナメクジ男に、あたしはどんどんと苛立ちを募らせた。
ああそうですか。
あたしがナニかを踏みつけたと思ったその時に、この男は呪われてるだの何だの訳の判らないことを思って自分をセーブしていたのですか。
おかげで逆になんだか自分が物凄い思い上がりで自意識過剰で恥ずかしい気持ちに陥ってしまったではありませんか。
身構えた自分がどれだけ図々しい女かと反省までしそうになったというのに。
「いっておきますけど、あたしがいいかなって思った時に逃げたのはあなたですからね!」
何が呪いか、馬鹿らしい。
あたしがあきれ返って言い切ると、面前でぐりぐりと丸を描いていた魔法使いはぴたりと動きを止めてあたしを見た。
「――」
「――」
また、またやった。
今、あたしまたやったよね。
かぁぁぁぁっと体中を血液が巡り、耳が痛いくらい熱く感じる。
しゃがんでいた男があたしをじっと見つめている。
すごくむかつくくらい間抜けな顔で。
あたしは、あたしは――言い訳が枯渇して、もう自棄になって、相手の襟首を掴みあげて、馬鹿みたいにぽかんっと開いているその唇に自分の口を押し付けた。
「呪いなんて無いってば!」