殺人兵器と嵐の前
ああ、帰って来たんだなぁとあたしがしみじみと実感したのは、マイラおばさんの新作パンを目の前にしてからだった。
「今回のは自信作だよ!」
というその言葉の通り、香りは食欲をそそる美味しそうなものだったが、何を目的として作られたパンであるのか、マイラおばさんはニヤニヤとした表情で言おうとはしなかった。
ちらちらとアジス君とあたしの視線が交差する。
言葉はなくとも今、あたし達は一卵性双生児並みに恐ろしい程の意思疎通を見せた。
――食べれば?
――食べろよ?
どちらが先に手を出すのか、じりじりとした緊迫感。
決闘を目前とした敵同士といったところで大げさではないだろう。
あたし達はこくりと喉を上下させ、裏切りは許さないという鬼気迫る雰囲気をかもしながら、二人同時にトレーに乗せられた白くて丸いパンを手にとった。
「何をぐずぐずしてるんだい? 早く食べて感想を言っておくれよ」
こちらの緊迫などそ知らぬ様子で、マイラおばさんはふっくらとした手を腰に押し当てて胸を張る。マイラおばさんの胸で横幅のあるうさぎのアップリケがなんとも愛らしい。
長年使われたエプロンは哀愁すら漂わせていたが、今はまったく関係が無かった。
マイラおばさんは本当に自信があるのだろう。
あたしはそれを心から信じたい。
あたしとアジス君はちらちらと相手をうかがいながら、一秒でも相手より先に食べる勇気は無いという様子で無言のやりとりを繰り広げていたけれど、最終的にうなずきあい、諦めの境地でもって、ばくりと同時にパンを齧った。
「――!」
そしてあたしもアジス君もおそらく同時にその衝撃に打ちのめされた。
「かたっ!」
いま、まさか今パンをかじろうとしただけなのに、がつんっていいましたか?
目の前に火花が散るほどの衝撃に、あたしは呻いた。
「かってぇよ! 何だよ、これはっ」
顎、やばい顎。
思い切り噛み付いたあたしとアジス君は、自分の顎をしっかりと押さえて悶絶した。
どうたとえたら理解してもらえるでしょうか。あともう一つ階段があると信じて足を踏みおろしたのに、すかんっと足は空を切るかのような衝撃。いや、逆? 逆ですか?
無いと思っていた階段がもう一段存在して、危うく階段ですっころびそうになったような……
「あんた達、もうちょっとゆっくり食べなよ」
しかし呆れた様子のマイラおばさんはこちらの悶絶などものともしなかった。
「このパンはね、最近の子供達は柔らかいものばかり食べて顎が弱いっていうから作った固パンなんだよ。表面は固いけど、中はバターたっぷりの美味しいパンなんだ」
まさにあんた達に丁度いいパンだろう。
言いながらマイラおばさんは肩をすくめ、パンをつまむとそれを二つに割ろうとした。
割れなかった。
もう一度両手で半分に割ろうとして、それでもできないと知るとマイラおばさんは眉を潜めながら直にパンを口にもっていった。
勿論簡単に食べれる訳はない。
マイラおばさんはこちらを伺うようにそっと視線を向け、三人の間に微妙な空気が広がった。
「食えるかぁ! ばぁちゃんの作ったソレは石かっ。武器かっ。嫌がらせかっ」
怒鳴るアジス君を押さえつけ、あたしは慌てた。
アジス君の気持ちも判るのですが、あたしにはマイラおばさんの気持ちだってわかる。マイラおばさんはいつだって悪気があっておかしなものを作成している訳じゃない。たとえそれが殺人兵器並みに破壊力、及び殺傷能力の高いものだったとしても、それはあくまでも結果であって、悪意では決してないのだ。
愛する孫息子に怒鳴られ、マイラおばさんが目に見えてしぼんでしまう。
豪快な体をもつおばさんがしゅんっと沈むと、この場の明かりすら落ちるかのようだ。
あたしは焦って口を開いた。
「スープで浸して食べてみたらいいんじゃないかな? ナイフでスライスして浸して食べたらきっと美味しいですよ。香りは凄くいいし、食欲そそるしっ」
必死の言葉に、一旦気を落とし始めたマイラおばさんはいつも通りあっけない程浮上した。
「そうだね。じゃあ、一杯あるからリドリー持ってお帰り」
……バスケット一杯の石パン、いや固パン。
あたしはそのパンの処遇に困り、アマリージェに分けようかと思ったのだが、それを察知した様子のアジス君にしっかりと釘をさされた。
「姫さんや御領主様に届けるのは禁止だからな」
アジス君は今や立派な領主館の守護神だった。
ギンっと三白眼であたしを睨み上げ、威嚇する様子は北部の犬そり用の犬のように雄々しい。
やがては狼の風格を漂わせそうだが、悲しいかな現在は身長もアマリージェより低い弱冠十一歳。ちょっと目つきの悪い子犬のようだ。
あたしは乾いた笑いを浮かべた。
アマリージェや御領主様が駄目なら、残るはつまり――ココだ。
あたしは仕事あがりに領主館の裏手にひっそりとたたずむ白亜の屋敷を訪れていた。
これはつまり、来たくて来た訳ではなくて、この大量にあるパンの行く末に困ったから来たからであって、あのあんぽんたん様に会いに来た訳ではありません。
あたしは自分の胸に手をあてて、三度程そう呪文を唱えた。
胸に当てた指が、洋服の下にぶらさげられた指輪に触れる。実は結局はずしてもらって以来指には通していない。こうやって首から提げているのだって、自宅に置き去りにでもしたら最後、また無理やり指にはめられそうだという恐怖の回避行動にほかならない。
「――だから、違うから」
あたしは好き好んで会いに来た訳じゃない。会いたくない訳じゃないけど……今回はたまたまパンを届けに来ただけです。
よし、これでいい。
あたしは決意を込めて、玄関ドアにあるノッカーに手をかけようとしたのだが、扉は内側からすっと音もさせずに開いた。
「長様はご不在です」
無表情な女性は淡々とおっしゃる。
「中でお待ちいただくことになりますが、どうぞお入り下さい」
あたしはいえいえと断ろうとしたのだが、相手は無表情だというのに威圧的な空気をかもし、気の弱いあたしは簡単に敗北した。
***
白を基調とした部屋は相変わらず寒々しい。
人が暮らすにはどうにも人間味の無い屋敷だ。あたしはあまり好きじゃない。
こんな場で毎日一人で暮らしていたら、気持ちがどんどん沈んでいってしまうような気がする。
それでなくともあたしときたら前向きなほうではないので、もっとこう人生を謳歌できそうな明るい色にかえてしまいたい。
すくなくとも、カーテンも白って……なんだかなぁ。
あたしが通された居間で居心地悪く身じろぎしていると、侍女さんが静かに頭を下げた。
「夕餉はいかがいたしましょうか。食堂にご用意致しましたが、こちらにご用意しなおしましょうか?」
その言葉にあたしはぴんっと背筋を伸ばした。
ものすごく魅力的なお誘い。
今日の夕食予定といえば、あの固いパン。スープつけるのはいかにももったいない。けどスープがなければ絶対に無理。
しかも今はおかしな人もいない。
だがしかし、あたしの中の常識が、主がいない家で勝手に食事するってどうなんだ? と言っている。
あたしは立ちあがり「いえ、もう帰ります!」と宣言するように声をあげたのだが、それにかぶせるようにのほんっとした声がかかった。
「一緒に食べましょうよぉ」
「……ルティア、来ていたの?」
居間の扉をひょこりとのぞきこんだルティアはにっこりと微笑んだ。しかも、今日の彼女は侍女服ではなかった。
「……なにそれ」
あたしは思わす素で問いかけた。
普段の侍女服に慣れたあたしだが、今日の衣装に関してはまったく理解ができなかった。
本日の彼女は白を基調としたドレス。そして腰の辺りには薄い青色のエプロン。つまるところレースたっぷりのエプロンドレス。
額には相変わらずのヘッドドレス。
侍女といえば侍女服の様だけれど、どちらかといえばそれは――
「看護婦です」
ああ、やっぱり?
あたしは言葉を飲み込んだ。
そうかなと思いました。思いたくなかったけど。
「……えっと……理由は聞かないほうがいいのかな?」
あたしは思わず脱力しながら言った。
「エディ様ときたら看護婦に鼻の下を伸ばしてましたのよぉぉぉ」
侍女服とやっぱり似たような理由なんですね、そうですか。
あなたはいつも楽しそうで何よりです。
それにしても――エルディバルトさん……看護婦って。
「あれ、エルディバルトさん怪我とかしたんですか?」
まったく関心はないですが、一応聞いてみる。
あの人が怪我をしようが寝込もうがあたしには一切関心はありません。関心があるとすれば、あの人への報復活動があまりにも中途半端であったこと。
何より、あたしはあたし自身の手でエルディバルトさんにやりかえしてやりたかったのだけれど、結果としてあたしでは無くて魔法使いの手をかりてしまったことが悔まれてならないのだ。
虎の意を狩る狐のような真似は良くないです。
「ちょっと堀に落ちましたのぉ」
ルティアは嬉しそうにいいながらひょこひょことあたしのもとに近寄り、あたしの腕を引いた。
「……堀?」
「公が、しばらく顔を見たくないとおっしゃるものだから反省の意味を込めて川に飛び込みました! 人間って丈夫ですわよねぇ」
自分からそんな試練を。なんて阿呆な人だろう。
「その後で公にご機嫌伺いに顔を出して、更に顔を出すなといわれたものだから足にすがりましたのぉ。それで足蹴にされてまして……いつもよりちょっとしつこかったものですから、鼻血を出す羽目に」
……泣ける。
ルティアもその時のことを思い出すのか、半眼を伏せて口元に手を当て――笑いを押し殺していた。
「それより、食事にしましょ? 今日は公ってばお忙しいのですぅ」
「いや、当人がいない家でくつろぐのはちょっと」
あたしは愛想笑いで言いながら、先ほどから何度か聞いた「忙しい」を尋ねた。
「忙しいって?」
ルティアは一旦ふっと真顔を浮かべ、すぐに微笑した。
「台風が発生したのですって。普段でしたら自然の摂理に公はお手を煩わせることもありませんけど、今回は本人の希望でしばらく様子を見たいのですってぇ」
くすくすと笑うルティアは、更にあたしの腕を抱くようにして引いた。
「食事くらいいいじゃありませんかぁ。無駄に捨てることになってしまいますものぉ」
捨てる、という単語にあたしの中のもったい無いおばけがむくむくと反応し、あたしはルティアに引かれるままに食堂へと足を向けることを承諾し、ほんの少しだけ魔法使いのことを考えた。
台風――普段はただのあんぽんたんで変質者で痴漢行為しか考えていないようにしか見えないのに、アレでちゃんと神官長だとか竜公だったりして慈悲深い行動なんてされちゃうと、あたしはアレに対してどう接していいのか困ってしまう。
とりあえず……次に会った時にはちょっとくらい褒めてあげてもいいかもしれない。
「あら、このバスケットは何ですのぉ?」
ルティアがふとあたしが持ってきたバスケットに気付き、あたしはどうやらきちんと仕事をしているらしいアレにコレを差し入れするのは無体であることに気付いた。
「エルディバルトさんにあげてくれる?」
ルティアは不思議そうに瞳をまたたいていたが、あたしは無理やり彼女の腕にバスケットを押し付けることにした。
一応コレだって食べ物で作られた食べられる物だ。たとえソレが凶器のように固くて顎が酷い目にあってしまうとしても、間違いなく食料。
しかも美味しそうな香りだけは漂わせている。
「あ、あたしからって言ったら食べないかな。じゃあご主人様からって言っておいて」
ほんのちょっと罪悪感が浮かんだが、嬉々として食べようとするその姿をルティアはきっと存分に楽しんでくれるだろう……結果的には。