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悪夢とストレス

「私はお前に言われて髭を剃ったのではない! 公の命令に従ったまでだ!」


 びしりと突きつけられた言葉は、幾度反芻しようとも感想は一緒だった。

――そうですか。

はいはい、終了。

もう頼むから夢にまで出てこないで欲しい。


あたしはもぞりと狭い寝台の中で身じろぎし、あふりと欠伸を一つ。

「夢見最悪……」

せっかく自分の家の自分の寝台で寝ているというのに、何故こんな夢を見てしまうのか。あたしは顔をしかめながら身を起こし、狭くて薄暗い――でも自分の稼ぎで暮らしている自分だけの安息の地を眺め回した。

 たかが十歩程しかない狭い部屋。

レンガで造られた三階建てのアパート。小さな窓からはほんのささやかな光と小鳥の声が聞こえて、壁にひっつけてある寝台は多少手狭で、きっと母さんが見たら卒倒とかしちゃいそう。

小さな水場があって寝台があって、一人で食事をとるには十分なテーブルと一客だけの椅子がある、本当に小さな小さな……あたしの家。


「なごむー」


 あたしは伸びをしながら枕を抱きしめ、自分の自宅を堪能した。

何度も言うように、夢見は悪かったがこのさい寛容な心でもって流そう。


 髭の騎士にして王弟殿下の第三子息様――竜公の騎士にしてその忠実なる駄犬であるところのエルディバルトさんは、ご自慢の髭を綺麗さっぱりとそり落とした。


そうしてはじめて知りました。


……実は二十代らしいです。


 三十過ぎていると思っていたのですが、ぎりぎり二十代らしいですよ。

髭があると無いとでもまるきりイメージが変わる。意外に若い――ルティアが惚れてしまったのも無理らしからぬ立派な騎士だった。 

 黙って立たせて居れば、十人中六人くらいは見惚れてしまうかもしれない。ただし、中身はちっとも変わらないエルディバルトさんでしたが。


「いいか! 私はおまえに言われて髭を剃ったのではない。公のご命令に従っただけだからなっ」

 と、決してご主人様に聞こえないように声を潜めてぎりぎりと奥歯を噛み締めて叩き付けられた言葉は憎しみというアラザンで飾りつけられていた。

 それはそれはきらきらしくも。


「まぁ、エディ様ってば立派な負け犬の遠吠えですわぁ」

ルティアが心底嬉しそうに言っていた台詞もある意味忘れられない。

あたしはルティアを見てはじめて理解した。


愛って……複雑怪奇。いや、怪奇現象かもしれない。

人によっては、ルティアの愛は愛ではないと言うのではないだろうか。

 見ようによってはただたんにいじめっ子ですよ、ルティア。


あたしは朝から「やれやれ」と小さく呟き、ふと気付いてしまった。

エルディバルトさんがルティアの愛を疑うのはもしかして無理もないのではないか? 第三者であるあたしが「それは虐めじゃないの?」と思うくらいなのだから、やられているエルディバルトさんだって虐められていると感じるのかもしれない。


ま、どうでもいいか。


あたしはもぞもぞと寝台から這い出て、歩いてテーブルの上にある水差しの水を水盆の上に落とし、ばしゃばしゃと顔を洗った。

冷たい水があたしの眠気をすっきりと洗い流す。片手を伸ばして椅子に引っ掛けてあるタオルを引き寄せると、あたしは「ぷはー」と声をあげながら顔を拭った。


「よし! 今日も一日がんばろー」


ぱしんと頬をたたいて気合を入れて、あたしはいつもと同じように玄関を出て階段をおりて――そしていつもと同じように謎の魔術師姿の男ははと時計のように顔を出した。

「おはよう、リトル・リィ! いい朝だね」

 途端にあたしは現実を思い出してしまった。

現実、それはすなわち自分の左手にずっしりと重く存在を示すアレな感じの指輪。そして広がるあたしの平和でささやかな幸せ生活。


 あたしは戦いに赴くような気持ちで腹部にぐっと力を込めた。


「おはよう――魔法使い」

「魔法使いじゃなくて魔術……あれ?」

 いつもと同じやりとりだと思った男は、いつもと同じように訂正しようとして言葉をとめ、ついで微笑んだ。

「君こそぼくの魔法使いだよ。リトル・リィ!」

 はいはい、朝から元気なのは判りました。

がばりと人を抱き込もうとするその腕から一歩離れて、あたしはつとめてにこやかに言った。


戦いは先手必勝。


「お願いがあるの。魔法使い」

「リトル・リィの頼みならどんなことでもきいてあげる」

「ありがとう。じゃあ、三つくらいあるんだけど聞いてね?」

「うんっ!」


あたしはびしりと指を一本たてた。

「お仕事中は指輪が外れるようにして欲しいの。粉がついてしまって汚れるし、水仕事もしなければならないから」

 あたしがにこにこと作り笑いで言う言葉に、面前の魔術師姿の男はステッキの先端で自分のトップハットを押し上げ、眉を潜めつつも了承した。


「じゃあ、はずして」

 あたしは相変わらずにこやかに左手を差し出し、ヤツがそれを掬い取るようにして一旦指の先端に口付けを落とし、ついで指輪に唇で触れるのを見つめた。

 手が触れることに慣れ始めた自分に驚く。

白手に包まれていてもわかる、冷たくて繊細そうな指先。あたしの手よりずっと華奢にすら思える。

だというのに、まるで壊れ物でも扱うようにあたしの手をそっと持ち上げ、触れる。そんな風にされるとあたしは胸の中にざわざわとざわめくものを感じて触れられたままの手を引っ込めてしまいたい気持ちになる。


 白手に包まれた逆の手の親指と中指とがゆっくりと指輪をはずしていく、そして完全に指から外れた時、その指輪には繊細そうな金鎖がしゃらりと揺れていた。

 魔法使いは微笑み、金鎖の華奢な留め金をはずして広げた。


「首に下げていて」

 そしてそのまま当然のように金鎖をあたしの首に添わせ、後ろ手でその留め金をかちりと嵌め込みながら、あたしの唇に口付けた。

「で、次は?」

「……」

 あたしはその腕の中で居心地の悪さに身じろぎした。


口付けされるのは判っていた。

けど、それをとめるでなく、あたしが思ったことといえば――ちゃんと歯も磨いたし、ミントを噛んだし、大丈夫! という全然ちっとも大丈夫でないもので、そんな自分の頭を咄嗟に壁に打ち付けたいくらい動揺していた。


何が大丈夫か?

あたしの頭がぜんぜん大丈夫じゃない!


「あ、あのね。その……」

「なぁに?」

「パン屋に来ないでね? ここであんたは有名人だし、マイラおばさんも驚くし!」

 仕事の邪魔をしないで下さい。

あたしはせつせつと訴える。

職場はあたしの心のオアシスです。

自分の部屋も当然そうですが、一階下におりると謎の世界が広がっていると思うと、そこはかとなく安心できない。


「リドリーがぼくのところに顔を出してくれれば約束する」

 あたしはこくこくとうなずいた。

毎日顔を出すとは言ってない。言ってませんよ。

 あたしが口付けを受け入れたことで調子に乗ったのか、もう一度身を伏せようとするのを押しとどめた。


「それと、これが一番大事なんだけど」

「うん?」

「――人前で抱きついたり、キスしたりしない! 変態発言も禁止っ」

 よし、言ったぞ。

この旅の間にあたしは十分理解しました。この馬鹿モノ様ときたら他人のことなどちっとも気にしない。誰がいようとどこにいようと自分のしたいことをしたいようにするのだ。


「そんなっ、今だってすんごい我慢しているのにっ」

 信じられないというように大仰に目を見開いてふるふる首を振る男に、あたしは引きつった笑いを浮かべた。

……我慢してアレですか、そうですか。

一生我慢して過ごして欲しい。ぜひとも。


「でもそれってつまり人前じゃなければ何してもいいってことだよね?」


 絶望の淵に落とされたようにふるふると身を震わせていた腐った思考回路の男は、突然息を吸い込み、今度は逆にきらきらと瞳を輝かせた。

 まるで純粋無垢な子供のような微笑を浮かべ、魔術師姿の成人男子は両手を合わせて幸せそうにのたもうたのだ。


「人がいなければ何でもやり放題?」


 あたしは今日は自らの身を犠牲にしてもこの町で暮らす為の大事な約束を取り付けようと思っておりました。

 にこやかに笑顔を絶やさず、たとえ口付けされても抱きしめられても強い信念で我慢して神官長の言質を勝ち取るのだと。

 まさに根本から腐っていようとも神官長。約束さえとりつけてしまえばきっとあたしは幸せになれると……平穏な生活を送る為の我慢なのだと。


我慢我慢。


「いやだな、実はリトル・リィもぼくが欲しくて我慢できないならそういってくれればいいのにっ」

「――」


 ふ、ふふふふふ。

殴ったら駄目よ、リドリー・ナフサート。


「リトル・リィってば照れ屋さん。でもぼくってばリトル・リィが一緒にいるっていうだけでもう触りたいしキスしたいし、色々我慢できなくなっちゃうんだよ」

 魔法使いってば腐れ頭さん。

あたしは引きつった笑いで肩を震わせ「……約束、してくれる?」ともう一度言葉を重ねた。


「これはある種の本能みたいなものなんだよ、リトル・リィ。我慢してどうにかなるものではないんだよ。だからここは諦めてもらうしかないよ」


 しょうがないよね!

と何がしょうがないのか判らない言葉を吐く男に、あたしはぐぐっと拳を固めた。

「それに、リトル・リィだって我慢しなくていいんだよ。君にはぼくの体の隅々まで触る権利がある。さぁ遠慮しないで! あんなところやこんなところもリトル・リィなら大歓迎。むしろ思い切り恥ずかしい――」


作戦終了の鐘が華々しく脳裏に響いた。


***



 久しぶりに【うさぎのパン屋】にはりきって出勤したあたしを、マイラおばさんはそれはそれは嬉しそうにぎゅっと抱きしめて迎え入れてくれた。

「お帰り、リドリー」

 隠すことの無い好意を向けられ、あたしは照れくさいような気持ちでマイラおばさんを抱きしめ返して、少しだけ滲んだ涙を隠した。


――マイラおばさん、本当に会いたかった。

 実の母親に会うよりずっと安堵感を与えてくれる人がいるとは思わなかった。


 なつかしい豪快な笑い声とパンのほわんとした美味しそうな香り。アジス君は庭で薪割りなんぞをしながら「おはよー」と気楽に声を掛けてくれる。

 あたしは上機嫌で朝の準備を整えたが、あたしを歓迎してくれたのは、残念なことにマイラおばさんとアジス君だけだった。


「あああ、もぉっ。どうしてリドリーがいるのっ」


 という台詞を耳に入れたのはすでに一度や二度じゃなかった。

「スミマセンネ」

 あたしは乾いた笑みを浮かべながらうさぎのアップリケのついているエプロンを引っ張った。そして、もうお客さんから言われる次の台詞も判っている。


「リドリーが居ない間、御領主様がパン屋で働いていてくれたのにっ」

 そう……あたしとアジス君がいない間、なんとアマリージェの兄にしてこの町の御領主様であらせられるジェルドさんが【うさぎのパン屋】で働いていたのだと聞かされた時、あたしは思わずジェルドさんの屋敷の方角にぺこぺこと頭を下げまくってしまった。


「そもそも、どうしてリドリーが居ないってことで御領主様がリドリーのかわりに働いてくれてたのよ? まさか、まさか、もしかしてリドリーってば御領主様と親密な関係とか言わないわよね?」

「とんでも無いこと言わないで下さい! 御領主様に申し訳ないですよっ」

 あたしは慌ててぶんぶんと首と手を振った。

あたしと御領主様が何ですと? あまりおかしな噂をたててジェルドさんに迷惑がかかったらどうしてくれますか。

 ま、所詮一般人リドリー・ナフサートと御領主様ではただの悪意の無い戯言でしかないですけどね。

 あたしは常連さんの不満そうな言葉に適当に相槌を打ち、ジェルドさんがどれだけ素晴らしい人であり、またなおかつどのようにパン屋で仕事をしていたかを延々と聞かされつつ午前中の仕事をこなしていた。


 それにしたって、確かにパン屋の人手は足りなくなってしまっただろうが、そこで何故ジェルドさんがパン屋で働くなどという珍事が起こったのかは理解できない。

 いや、あの人って物凄く人が良さそうだから――いやいや、だが領主ですよ? 誰か他の人間を差し向けるとか色々と手立てはあったと思うのだが。


 実はジェルドさんは色々とストレスを抱えていて、その発散の為に心から楽しくパン屋で働いていたらしいことまでは、さすがのあたしでもこの時は判らなかった為、ただひたすら「ジェルドさんって本当にいい人だなー」と関心しまくっていたが、この噂が元でジェルドさんが更にストレスで寝込むなんて、その時のあたしは勿論知らなかった。




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