意思と矜持
「止めてっ、止めて下さい!」
血の気の失せた顔をしてぐったりと力を失っていたルティアだが、突如現れた神官服の青年の姿に狼狽するように身を震わせ、悲鳴のように叫んだ。
まるでその相手から害されるとでもいうように。
だから、アマリージェもアジスも困惑し、咄嗟に「大丈夫です。尊き人ですよっ」と声をかけたのだが、しかし二人の気持ちとは違う次元でルティアは訴えていた。
馬車で神殿へと向かいながら、せめてもとルティアの腕を強く縛ってそれ以上の血が流れないように適当に対処してみたが、それはどうやら正解であったようだ。
神殿についた途端に、従僕が先んじて呼び寄せた神官と医師とがすばやくルティアとアマリージェを運んでくれた。
医務室と思わせる一室に運ばれたアマリージェは、すぐに気付け薬の小瓶を鼻先に当てられ、そのつんと鼻の奥を刺激する香りにむせながら目を覚ました。
「手当ては悪くないが、また何かあった時はもう少し上のほうできつく縛るんだ」医師はルティアの傷の具合を確かめながらアジスにそう言っていた。
「傷は、残るんですか?」
相手が女性ということもあり、綺麗に血をぬぐわれて薬品を塗布されていく腕を見ながら問いかけた。
痛ましさに声がかすれた。
「残りませんわよっ」
途端に未だ小さく咳き込んでいるアマリージェが、まるで噛み付くように口にする。顔色の悪い表情で、こぶしを握り締めたその様子はまるでアジスが悪いとでも言うように。
「残ったりなど致しませんっ」
「でもっ」
何故アマリージェが自分に食ってかかるのか判らずに反論しかけ、そして口ごもった。
――オレが悪いのかよ!
その思いが口を出なくてよかった。
そう、オレが悪い。
何故なら、オレがいたのにみすみすリドリーを連れ去られた。結果としてルティアは怪我をする羽目に陥ったのだ。
たとえ彼女が自らそうしたのだとしても、元を正せば自分に非がある。
アジスがぐっと言葉を詰まらせると、やっと意識を取り戻したものの、未だぼんやりとした様子で天井を見上げていたルティアが不意に声を荒げたのだ。
「やめてっ、止めてくださいっ」
誰もが息をつめた。
突然その場にその人物が現れたのだ。
アジスはその姿に一瞬ぎょっとしたが、それだけだった。
何故なら、彼にとって尊き人は不思議の力に溢れた馴染み深い相手であったのだから。何があっても不思議でも何でもない。そういうモノ、なのだ。
竜峰で眠る竜を護り、不思議の能力を操る尊き人――竜守りにして神官長。
その姿を見て、ほっと息をついた。
そう、この人がいるのだからルティアの怪我など、どうということはない。
だからこそ、彼女はそんなことを容易くできるのだ。自らの体を傷つけたところで、何ほどのこともない。傷などあっという間に癒してくれる。
それは跡形もなく。
他の誰にできずとも、この相手にはできる筈。
それは絶対的な信頼だった。
そしてそのことをアマリージェも心得ていたのだ。
アジスとアマリージェは自然と安堵の吐息を落し、知らず数歩づつその場を離れた。自然と他者にそうさせる、それは絶対的な畏敬の念。
普段の相手とはまったく違う、本来アジスがよく知る神官長としての近寄りがたさをかもす青年は、顔にかかる髪を軽く払い、ルティアの言葉に反応した。
「ルティア?」
穏やかな面差しに眉を寄せて優しく名を呼ばれても、ルティアは頑なに唇を噛んだ。
まるきり頑是無い子供のようなしぐさで。
「公、竜公。これは罰です。手当てなどなさらなくて結構ですっ」
「ルティア」
「これは私が負うべき罰です。私は彼女を護ると誓ったのですもの。この怪我を消すなど、必要がありませんっ」
強い意志を叩き付けるルティアは、苦しげに喘いだ。
血が多く流れすぎ、止血と増血の為の薬草を施されていても未だ万全とは程遠い。
そんな状態だというのに、ルティアはまるで負った傷を相手から必死に隠すかのように身じろいでさえ見せる。
「公っ」
必死の懇願に、ルティアの面前の青年は吐息を落とした。
「それは自己犠牲? 自己満足?」
その言葉は辛辣に響き、アジスは目を見開いた。
相手が何を言おうとしているのか、十一歳の少年には難しい。
そもそも、ルティアが何故自らの傷の手当をするななどと、そんなことを言うのか、アジスには信じられなかった。
一瞬で傷を治療してしまえるはずの相手を前に、その治療を必死で拒む。その理由が理解できたとき、アジスは息苦しさを覚えた。
ついで、神官長の口から吐き出された言葉に、更に身が引き連れるような気持ちになった。
声音はあくまでも穏やかであったが、内容は決して穏やかなものではない。神事の折に見せる優しさなど微塵もない。
冷たく胸に突き刺さる刃のように。
「悪いですが、そんな傷を残されたら私のあの子が気に病む。
あの子を愚かだとでも思っているのですか?
あの子が連れ去られた後にあなたに傷ができて、自分とはまったく無関係だと思うと?
そう思っているのですか?」
冷たく向けられる言葉に、ルティアは唇を噛んでいた。
「……」
「それを消されることであなたの気持ちがおさまらないといわれても、悪いですがあなたの願いはかなえてあげられません」
淡々と言いながら、左手の中指と親指とを弾くように音をさせた。
それだけで全てが終わることが、この場の誰にも明らかであった。
ルティアはいっそう泣きそうな表情を浮かべ、すでに傷跡一つ失われ、ただ手当ての跡だけを残すのみとなった自らの腕を反対側の手でなぞり、唇をかんだ。
強くつむいだ唇から、漂わせる威厳から、ルティアがどれほど自分自身に対して憤りを抑えているのかはひしひしと感じることができる。
その強さはアジスを圧倒した。
今、彼女の矜持は踏み潰された。
頑なに拒んだところで相手はものともしない。
自らの矜持で傷を放置しろというルティア。
それをリドリーの為に無視する男。
――アジスは正直貴族というものが好きでは無かった。
特権階級というものに対するのは、畏敬の念でもなければ畏怖でもない。ただ自分とは違う生き物であるというだけ。別種のモノ。
その時はじめて、相手が自分とは違うイキモノであるかもしれずとも、同じヒトであり、また自分とは違う高い場にいるべき意味を感じ取ることができた。
その強い意志を、気高さを、尊きものだと感じて寒気すら背をなぞる。
アマリージェに対する気持ちが、途端に恥ずかしいものに感じた。
自分の口にする「守る」とルティアが口にする「護る」の違い。
守りたいと思っているこの気持ちは、ただの「言葉」でしかないような恥ずかしさ。まるで母親に簡単に告げる口約束のようだ。
たとえ破ったとしても「そんなもの」と笑える。
それくらい軽々しい「言葉」だったような気がして、アジスは穴があれば入りたいような、突然叫び声をあげてこの場から逃げ出してしまいたいような気持ちになった。
「公っ」
ルティアは悲鳴のように声を荒げたが、面前の相手は奇妙な微笑を称えた。
「もういくよ。まだやることが残っているから――ルティア」
声音が変化した。
ただゆっくりと確かめるように。
「あの子のことを、頼めるね?」
「言われるまでもありません」
ルティアの瞳は、まるで面前の青年を憎んでいるかのように見返していた。
――その緊迫が途切れたのは、尊き人がその姿をまるで冗談のように消し去ってからのことで、アジスは喉の奥に溜まった唾液をやっとのことで嚥下することができた。
しゅるりという音が辺りに響き、気づけば顔色の悪いアマリージェがルティアの腕に巻かれた包帯を解いているところだった。
「いやです」
「……」
「いやですからね」
アマリージェは黙々と白い包帯を見ながらいった。
「あんな尊き人は……いやです」
「マリィ、ごめんなさいね」
ルティアは苦笑し、アマリージェの前髪をそっとかきあげた。
「ルティア様もいやっ。あんな風に自らを傷つけることも、こんな風に怖いことをおっしゃるのもいやですわっ」
アマリージェはうつむき、言葉を震わせていた。
「わたくしはっ、いつものルティアさまが、好きですっ」
その背中を見つめながら、アジスは自分の手を握りこんだ。
――もっと、もっと強く。
どんなことからも大事な人を守りぬけるように。
ルティアのような強い意思と高潔な心を持つ騎士に。
面前で見せ付けられたその激しさを決して忘れないと心に誓ったものの、ルティアは次の瞬間にはふにゃりと顔をほころばせ、身を震わせるアマリージェの頭を抱き寄せ「そうですわよねぇ、公はちょっとねじがゆるゆるって感じが一番ですわよねぇ。でも大丈夫ですわよぉ。リドリーをロープでぐるぐる巻きにしてお皿に盛り付けて差し上げれば、途端にこわーい公はいなくなりますからねぇ。マリィ手伝って下さいますぅ?」
と、途端に高潔さががらがらと音をさせて崩れ落ちるようなことを言う。
「いくらルティア様の頼みでも、そんな悪事には手はお貸しできませんからねっ」
アマリージェが真っ赤になって噛み付くように言えば、ルティアは「あらぁー?」と奇妙な声をあげ、ちらりとアジスへと意味ありげな視線を向けてくる。
アジスは思い切り視線をそらした。
――御領主様、もう心を惑わされたりしません。立派なのは御領主様だけです。オレはきっと御領主様のような男になってみせます。
アジスは、コンコディアの領主に新たな誓いを捧げたが、唯一立派な人物と思っている御領主は、今頃アジスのかわりとして祖母マイラのパン屋でうさぎのアップリケ付きエプロンをして嬉々としてパンを焼いていたりするのだが、もちろんそんなことは欠片も知らない。