報復と復讐
「何ごとなのです!」
アマリージェは咄嗟に詰るかのようにそう口にしてしまった。
口にしてしまってから、思いのほかきつい口調に唖然とする。
無理矢理つれていかれたリドリーが見え、地面から必死に立ち上がろうとする少年の姿にカっと自身の中で何かがはねあがる。
護衛は何をっ、と言いそうになった言葉が音にもならずに止まった。
護衛など要らないと護衛騎士を下がらせていたのはアマリージェだ。ルティアもいるのだからと楽観していたのは自分だ。
これは誰でない自分の失態だ。
体の痛みをおしてやっと身を起こした十一の少年が、口惜しさにぎゅっと拳を握って唇を噛む。
その手首にはこすれたような傷跡。ユリクスが用意した身奇麗な衣装が破け、のぞく素肌にも擦過傷がうかがえる。
「っくしょうっ、ちくしょうっ」
口から漏れる激しい焦燥に、アマリージェは顔を背けそうになるのを必死に堪えた。
「ふざっ、けるなっ!」
何に対しての慟哭か、その言葉と同時に石畳に拳を叩き付けそうになるから、アマリージェは慌ててその腕を抱きしめるようにして食い下がった。
「――大丈夫ですわ! リドリーはあの方の指輪をしていますもの。それに……」
水路の水は竜峰と水源を同じくする。
ルティアが言うように、リドリーが水に入ってくれるのが一番尊き人からの救いを手早く受けられる。
「オレは強くなるっ」
突然、アジスは呻くように言った。
「もう絶対にこんな思いはイヤだっ」
「……」
「大事な人を守れるように、俺は誰より強くなってやるっ」
どう声を掛けてよいか判らぬアマリージェだったが、桟橋へと視線を向け、息を飲んだ。
桟橋の端でリドリーへと必死に声をあげたルティアが、腕をあげたかと思えば右手にはいつの間にかナイフを持ち、何の躊躇もなく自らの左腕を切りつけたのだ。
研ぎ澄まされた銀色の煌きは、ひとなでだけでその腕に無残な傷を作り上げた。
「ルティア様っ!」
指一本分程にもなる切り口から、盛り上がり、つっと赤い血が流れ落ちて水路へとしたたっていく。それを見届けるとルティアはくるりと身を翻した。
「何をなさるのですかっ」
アマリージェの声にルティアは苦笑を見せた。
ルティアのメイド服、そのスカート部分にはっきりとした血の染みがひたひたと広がっていく。
「竜峰と続くこの水脈に私の血が流れれば公には判ります。異常事態にすぐに動いてくださるでしょう。それより、アジス? そちらは大丈夫?」
アマリージェはアジスの腕を抱きしめていた自らの手を慌てて離し、わたわたとハンカチを引き出してルティアの腕に押し当てた。
白いハンカチが瞬く間に血の朱に染まっていく。
そんなものを見るのははじめてで、アマリージェは泣きそうな顔をして必死にハンカチを押さえ込んだ。
普段は気丈な様子をみせているアマリージェも、本来は十四の小娘でしかなくこのような事態には対処しきれない。
血を流しているのはルティアだというのに、アマリージェは我が事のように身を震わせてそのままふらりと気を失ってしまいそうになった。
「しっかりしろっ」
慌ててアジスが身を起こしてアマリージェを支え、その視線をルティアへと向けた。
「ルティア様、いくらなんでもやりすぎだ」
その非難はアマリージェの心を揺さぶったことに対するものだったが、ルティアは半眼を伏せた。
「自らの失態は自らが負います。けれど決してこのままにはしないわ――あの男は何故あんなことをしたの?」
***
「せっかく公といたというのに! 愚か者めっ、そこに直れっ」
という、一般的に理解不能な台詞を吐き散らした髭の騎士を前にして、あたしの腕を掴んだままの男は唖然としていた。
突然船の上に人が現れればそりゃ驚くだろう。だが、男はきょろきょろと辺りを見回し、ちょうど近い場所に水路をまたぐ橋を見つけ、なんとか自分を納得させた様子で息をついた。
そう、たとえ水路の船の上に突然人が現れたとしても、降って湧いたとは普通は思わない。
けれどアレの関係者は突然降って湧くんですよ、ボウフラ並みにね!
「なんだか知らないが、勘違いだ」
極一般的な結論を出した、ある種普通の感覚の持ち主の男はまっすぐにエルディバルトさんを見て言う。
「誘拐とかじゃない。悪いがその剣は収めてくれ」
「その馬鹿女の手を離せ」
「いやっ、この馬鹿女の手は離せないっ」
……
「なんだとっ、この不届き者めっ」
「だから、誘拐とかじゃなくて、これは保護だっ。そう! 保護なんだよ」
保護、という言葉を吐き出し、ついで男はその言葉に納得するように大きくうなずいた。
「あー、だからさ。この馬鹿女は家出人なんだよ。ずっと探していてやっと見つけたんだ。さっきの子供が誘拐とか騒いだからあんたは人助けの為に来たんだろうがね、それは勘違いなんだ。この馬鹿女は家出人で、オレはそれを保護しただけなんだよ」
保護という言葉に、エルディバルトさんは眉間に皺を刻みこんだ。
じっくりと考えるように間をあけ、ちらりとその視線がこちらへと向けられる。
「怪力馬鹿女。おまえは家出人なのか?」
「って、何相手の話をきいちゃってるんですかっ」
しかも馬鹿馬鹿言いすぎではありませんか?
「判ってくれたか? 判ったらその剣を収めて船からおりてくれ」
男があからさまにほっと息をついたが、あたしはじたばたと暴れた。
なんということでしょう。救い手だと思われたエルディバルトさんは全然ちっともアテになりません。
「駄目だ」
あたしが諦めかけたところで、しかしエルディバルトさんはきっぱりと言った。
「その怪力馬鹿女を連れて行かせる訳にはいかない」
「オレはこいつの婚約者から頼まれてるんだよっ」
判らない男だなぁっと誘拐犯が苛々とした怒号を発すると、エルディバルトさんはまたしても明後日な言葉を撒き散らした。
「私はまだ認めておらんぞっ!」
「は?」
「何故、なぜその馬鹿女なのだ。まったく理解できぬ! 世の中にはもっとマシな女が山といるというのに。何故判ってくださらぬのか」
「……いや、それはオレも同意するが」
まて。
あたしは引きつった状態でエルディバルトさんと誘拐犯の話しを聞きたくも無いのに耳に入れていた。
「おおっ、おまえもそう思うか?」
「ああ! よりにもよってどうしてこの女がいいのかまったく理解できない」
「おまえとはいい酒が飲めそうだ」
リドリー・ナフサート大嫌い選手権はどこか別の場所でして下さい。
当人の居る前でなんということでしょう。あたしだって万人に好かれるなんてそんな傲慢なことは考えていませんが、だからといってこれはないのではなかろうか?
謎の意気投合を収めた男二人が、あたしの悪口に花を咲かせ、いい女とはどんな女かを定義しはじめたところで男の手がふっと緩んだ。
途端――
「だが、私は主の命に従うのみっ!」
エルディバルトさんは大きな声で言うや、突然身を伏せ――鋭く右足を踏み込んだかと思うと俊敏にあたしと男との面前に迫りぐいっとあたしの腕を乱暴に掴み、そのまま外側にぶんっと力任せに投げた。
投げ、投げた!
勢いよくあたしの体が空気を引き裂き「ぎっっっ」っと、咄嗟に悲鳴のようなものが歯の隙間からこぼれる。あたしがめいっぱい開いた両目の視界が大きくぶれて、そして、あたしの体は不安定な船の上から空中に踊り、そのまま――落下した。
「ばっ、リドリーは泳げないんだぞっ!」
「馬鹿女の心配など無用! おまえは自らの心配をするのだなっ」
エルディバルトさんの声を最後に、あたしの体は水の中に叩き付けられた。激しい水音と水柱とが辺りに響き渡る。
冷たい水があたしの体を一気に包み込む。目を見開いたあたしの視界に、幾つもの気泡が広がった。
慌てて開いた口から水が入り込み、鼻にツンっとした痛みが走る。はじめのうちにこそこぼごぼとした音を感じたというのに、それはやがて音すら感じなくなった。
いやっ、いやだ!
あたし泳げないのにっ。
足と手が必死に水の中で踊る。何かつかめないかと必死になった手が咄嗟に何かを掴んだと思った途端、ふっとその場の温度が変化した。
「ッッッヤァっ、だれ、誰かっ、誰かっっっ」
魔法使いっ!
喉を引き裂くように悲鳴をあげたところで、穏やかな声があたしの中に響いた。
――大丈夫。落ち着いて。
聞きなれたテノールにあたしは救いを求めたけれど、その声はあたしの内にだけ響く。
――力を抜いて。行けなくてごめん。ごめんね。少しだけ、待っていて。
何かがあたしの中に浸透していく。
ふわりと優しく、温かなもの。
清涼剤のように満ちるものに、すくめていた首が伸び、強張っていた体がとける。それと同時に、ふわりと柔らかなものがあたしを包み込んだ。
「お気をしっかりなさいませ」
柔らかな布地、そして向けられた声は静かで無機質な女のものだった。
ハっと両目を見開き、辺りを見回すとあたしは自分が巨大な寝台の上にいることに気付いた。
四方八方が水であったあの場ではなく、そこは一つの部屋。
白く、どこまでも白い部屋だった。
「え……あ……?」
「何かお飲みになられますか? 先に浴室へご案内いたしましょうか?」
静かな問いかけをする言葉は熱を持たぬもので、あたしは相手のあまりにも冷静な物言いに唖然としながら自分の現状を確かめるようにきょろきょろと首をめぐらせた。
簡素な部屋だった。
おそらく調度品は一級品だと思うのだが、その色彩はどこまでも白く無機質でいっそ寒々しい。無駄なものは置かれず、ただ目立つものがあるとすれば竜のレリーフがここにも置かれている。
目を伏せた竜。
だがここの竜は小さい――それとも、対比となるそれが大きいのだろうか?
ゆったりとしたワンピースドレスの美しい女性が、眠る竜を膝に抱いているレリーフ。
眠る竜を、守る女性の姿。
「こ、こ……?」
「神殿にある長殿の私室になります――長殿は宮殿にて陛下のお召しによりこちらに参ることは適いません。勤めを終えられましたらおいで下さいますので、どうぞご容赦を。
必要があればなんなりとご用意致します。命じつけ下さい」
――行けなくて、ごめんね。
悲痛で柔らかな声が耳元によみがえる。
まるで抱きしめられるような錯覚を覚えながら、竜のレリーフを見つめ、自らにかけられたタオルをぎゅっと抱きしめた。
あれだけ恐ろしかった気持ちが今はやけに落ち着いていて、これはきっと魔法の一種なのだろうとどこか遠い場所で思い、あたしはぎゅっと唇を引き結んだ。
数多のことが脳内を巡る。
あの男のこと、マーヴェルのこと。
そして何より……エルディバルトさんには復讐しても許されるはずだ。