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襲うものと救うもの

 ぐっと力強い大きな手が二の腕を掴み上げ、問いかけた言葉。

「リドリー、だよな?」

 戸惑うような声は、振り返った途端に眉を更に潜めた。

「リドリー・ナフサート?」

「……え?」

「随分と雰囲気が違うが、おまえだよな?」


 心臓が掴まれるような衝撃と同時、あたしの中で血の気が引くような奇妙な寒気が満ちた。

 面前にいたのは色の黒い大きな男で、低く野太い声は苛立ちを含んでいたが、まったく覚えの無い相手から突如名を呼ばれ、あまつさえ二の腕を背後から捕まれるという現状にあたしは卒倒しそうになっていた。

「チクショウっ、あーもぉっ。本当にあいつは間が悪いっつうか、運が無いというか!」

 罵るように言いながら、男の腕が更に強くあたしを引き寄せてそのまま無理やり歩き出そうとする。

「本当にあいつは馬鹿じゃねえのかっ」

 慌てるあたしより先に、近くにいたアジス君が相手の手首を掴み上げ「なんだよ、おまえ!」と怒鳴ったが、相手はちらりと視線を向け、はじめてその存在に気付いたとでも言うように顔をしかめただけだった。

「ああ、悪い。急用ができたから嬢ちゃんにはあとで商会で他のヤツに頼んでって言ってくれ」

「わけわかんねぇこと言うな! リドリーを離せよっ」

「離したら逃げられるだろ。阿呆か」

 邪魔臭そうに言う男があたしをちらりと見て、ふいに舌打ちをした。

「おまえ、俺のこと忘れてるだろ?」

「だ、誰……? あの、知り合い? デスカ?」

 あたしは記憶をフル回転させてみたが、体の大きなその男が判らずに不安と恐怖で言葉をもつれさせた。

 面前にいる男は浅黒く日焼けし、両の腕をむき出しにした体躯のいい大男だ。眼光は鋭く、ぼさぼさの髪を無造作に首の後ろで一つに束ねている。しかし、一見しただけで海の男だと思わせる空気が、あたしの記憶を激しく明滅させた。


誰だかちっとも出てこない。出てこないけれど、あたしの本能が告げている――相手は自分を知っていて、そして、彼は……


「おまえってそういうヤツだよな? 町の人間とかちっとも関係なくてよ。びくびくびくびく隅っこでおびえてる。

かーっ、本当に意味わかんないね。こんな女のどこがいいかね! まぁいいさ。来いよ。今ならまだ間に合うだろうから」


マーヴェルの関係者。

あたしの元婚約者にして海運商ランド商会の三男。マーヴェルの関係者に違いない。


 ふんっと鼻を鳴らし、ずるずるとひきずるように歩こうとしたが、アジス君が大きな声で「離せっつってんだろっ! このゆーかい魔っ」と蹴りを入れると、まるで獣の咆哮のように大きな声で怒鳴りつけた。


「うるせーっ、糞ガキ! この馬鹿女は知り合いなんだよ! 同郷なんだ。この糞女は忘れちまってるみたいだけどな! それに、俺はこいつの婚約者のダチなのっ。邪魔すんなっ」

 つかまれた腕が、きしきしと悲鳴をあげる。

遠慮も容赦も無い強い力が、さらに締め上げてあたしは恐怖に喉の奥が悲鳴すらあげらずにヒューヒューと奇妙な音をさせ、必死に足に力をこめようとするのに、ふいに相手の腕があたしの体を持ち上げ荷物のように肩に担ぎ上げた。

 ぐっと腹部に肩骨が押し付けられてくぐもった悲鳴が零れ落ちる。


「ふっざけんなっ」

 アジス君がくってかかるが、その体躯の違いでどうにもならない。相手の腕がアジス君をたやすく押さえ込み、引き剥がし、乱暴に突き飛ばした。

「アジス君っ」

 強かに石畳に尻餅をついたアジス君が苦痛の呻き声を歯の隙間からこぼし、それでも必死に身を起こそうとするのが視界の端にちらちらと見えていた。

「くそったれっ」

 アジス君の激しい焦燥の声が胸に響く。

 あたしはどうすることもできずに必死に身じろぎしたけれど、そんな抵抗など相手の力の前に完全に無力だった。

 どんどんと血の気が下がり、担ぎ上げられて下がる頭が力を失っていく。

「や、な……なにっ離してっ」

 抵抗を示す言葉はかすれてろくに音にならず、じたばたと足を動かそうとしてもそれはどこかむなしく宙をかいた。


 何これ?

何、なんでこんなことになっているの?

 面前に広がるさかさまの背中を叩いて「離してっ」必死に訴えても、その声には力が入らない。

 完全に混乱するあたしを担ぎ上げたまま船着場の小さな船に乗り込んだ男は、桟橋と船とをつなぐロープをひょいとはずし、その勢いのままどんっと桟橋を蹴った。

「ったく、周遊用のこんなちっさい船じゃ追いつけねぇかもなっ」

 忌々しいというように吐き捨て、船の櫂に手をかけた男は、どさりと乱暴にあたしをその場に落とした。


 優しさなど少しも見せぬその所作にあたしの臀部が船板にぶち当たって悲鳴をあげ、あたしは恐怖に駆られながら必死に怒鳴った。

「何するのっ。船を戻してっ」

「今から水路を下っていけばうまくすれば追いつける。ってもあっちは船足が早い大型だからな。あー、無理かもしれんが、そん時は安心しろ。俺がきっちり連れてってやる」

 言いながら、ペっと唾を水面へと吐き捨て、冷たい目で男は言った。


「マーヴェルのところに」

「なんっ……」


――かろうじて出た音のあと、あたしは言葉を続けることができなかった。

 なぜ、どうして?

今更マーヴェルの許につれて行こうとするのか理解できない。

百歩譲って、マーヴェルがあたしに恨み言を言いたい気持ちは判らないでもない。もしかして、今は幸せに暮らしているという報告かもしれないけれど。ってかそれってあたしにする報告か? 実質上フラレ女であるあたしに? しかも、そんなことの為にこんな風に無理矢理つれて行かれるのはまったく理解できない。

 緩く首を振りながら、あたしはハっと息を詰めて、今となっては遥か後方になった桟橋にアマリージェとルティアを認めた。


 小さくなったアジス君の傍らにしゃがむアマリージェと、そして桟橋の端で必死に声を張り上げるルティア。

 口元に手を当てて悲鳴のような高い声でルティアがあたしを呼ぶ。


「リドリーっ、水に飛び込みなさいっ」


 叫ぶ声に、男が応えた。

「わりぃな嬢ちゃんっ! 船遊びはちょっと別でやってくれやっ――て、あの嬢ちゃんとおまえは知り合いか?」

 胡散臭いものでも見るようにあたしへと視線を戻す。

あたしは揺れる小船の上で、必死に縁につかまりながらどうしていいのか判らなかった。


 船は嫌い。嫌いっ。船は大嫌い!

激しい揺れも、泳ぐこともできない水も、あたしの心が拒絶する。

 震えるからだを必死に鼓舞し、ルティアが叫ぶように水に身を投じようにもあたしはそれが怖くて腰に力が入らない。

 子供の頃におぼれた記憶が、どうしても水の中に身を落とすことに恐怖を与えていた。

マーヴェルの扱う船から落ちそうになるたびにもうイヤだと言ったことがまざまざとよみがえってきて、あたしは吐き気のように競りあがるものを堪えていた。

「あたしを帰してっ、かえし、てっ」

 舌がもつれて、唇からはたよりない悲痛な音が零れ落ちる。

「だーかーら、帰してやるっつってんだろうに! おとなしくしてろよ。あー、本当にオレおまえは苦手だ。イラつくっ」

 周遊用の小船だというのに、男の力強い腕が櫂をあやつりどんどんと船は水路を下っていく。ルティアの声が今は風に掻き消えて、小さなその姿が見えなくなることに更に恐怖が募った。


 櫂をせわしなくこぐ水音と、流れる景色に呆然としていたあたしは、やがてゆるゆると首を振った。

 胸元に当てた手が心臓の音を伝えてくる。

いつもとははっきりと違う恐怖とともに、理不尽さによる怒りがゆるりと湧き上がり。まるで泣き叫ぶかのように怒鳴りつけていた。


「どうして! なんでこんなことをするのよっ」

「どっかの馬鹿が逃げ出したからだろうが!」


 吐き捨てられる言葉にぐりんっと顔を向け、あたしは唇を噛んだ。

相手が言う「逃げ出した」の意味なら承知している。

あたしは確かに逃げ出した。自らの結婚から――マーヴェルから、ティナから。

 あたしの過去から。

「だからって、どうして今更あたしを連れ戻そうなんて! こんな、こんなことして……」

 まるで誘拐まがいに乱暴に!


「うっせぇなっ。おまえだっていつまでも逃げ回ってんじゃねぇ! ああっ、たくよぉ。面倒くせぇなぁっ」

 あたしはばくばくと鼓動する胸元を必死に押さえ込み、喘いだ。

そんな半泣きのあたしを見下ろし、男がまるで苦いものを口にするように顔をしかめ、舌打ちした。

「オレだって正直言えば、おまえが逃げ出したのはある意味しかたねぇと思うよ。あいつがヘタうったのは認めるさ。だけどあの馬鹿がどうしてもお前の――」


 水路の流れに乗った船に安堵するように、男は櫂から手を離してしゃがみこんだまま動けないあたしの手首を掴み上げ、無理やり自分の方へと向かせようとする。あたしは不安定な船が恐ろしく、面前の男が怖く、吐き出される悪意に旋律しながら、


「離してっ、触らないでっ」


 相手の腕から逃れようと腕に力を込めた。

「はなしを、きけっ!」

「イヤだって言ってるでしょっ!」


――ああっ、魔法使い! どうしてこんなことにっ。


 ぐいっと顔を近づけて更に怒鳴ろうとしてくる男を殴ってやろうと手を振り上げた途端、ダンっという重い音と同時、あたしの腕を掴んでいる男の体がびしりと強張り固まった。


「なんだ、これは?」


 低く呻いた男は、あたしの腕を掴んだままきょろきょろと周りを見回した。


 相手の突然の緊張の意味がつかめずに戸惑うあたしの前で、屈強なその男は緩い流れを持つその川と自分達の乗る小さな船とを交互に見て幾度も首をかしげてみせる。

「船が、止まった?」

 掠れるようなその呟きの意味が脳内に浸透するより先に、あたしは突如として自分の本能を揺さぶる別の恐怖に声をあげていた。


「に、ニゲタほうが、宜しいト思いマスよ?」


 思い切り音をはずしてしまった楽器のように甲高く裏返った声が出てしまったけれど、それはきっと仕方ないと思います。

 だがしかし、あたしの畏れは杞憂であった。

何故ならそのダンっという音と共にその場――男の背後に突然現れたのはあたしが畏れた相手ではなく、その忠犬エルディバルトさんであったから。


突如船上に現れた今時珍しい騎士姿の髭面男の出現に、あたしを掴んだままの男は更に驚いた様子で一歩退いた。

 驚いた、というかドンビキか。

安心して欲しい。あたしもその気持ちは良く判る。


 腰の剣をするりと抜き放ち、エルディバルトさんはただでさえ目つきの悪い眼差しを更に険悪にして怒号を発した。


「せっかく公といたというのに! この愚か者がっ、そこに直れっ!」


……そんなにご主人さま好きですか?

その好き好きメーター、実は壊れてませんかね?






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