勇気と過去と
あたしは勇気を振り絞ったと思う。
自分の中でひたすら考えないように、けれどずっと抜けない棘のように、溶けない鉛のように居座り続けた問題を、見てみぬふりにもうできなくて勇気を振り絞って口にしたのだ。
心臓が別のイキモノのように脈動して、あたしは唇がともすれば小刻みに震えそうになって必死で押さえつけていた。
――言った。
言ってしまった。
言ってしまった!
もう吐き出されてしまった言葉は取り消すことはできない。嘘とも、冗談とも訂正がきかない。
あたしは自分で告白したのだ。自分が――最低最悪な人間なのだと。
怖くて相手の顔が見れなくて、視線が落ちる。
狭い空間の中で、相手がどういう風に動くのか気になってあたしは緊張していた。
――軽蔑する?
他の男と婚約していたことを。いや、それは致し方ないことだとしても、結婚間近で逃げ出したことはあたしの……罪だ。
あたしのこと、嫌いに……
「でもほら、ぼくは逃がさないし」
しかし相手はふざけているのかと思えるくらい明るい口調でへろりと言った。
その口調には動揺も蔑みもなく、ただ普段と変わらぬ響きだけ。
あたしは身を固くしたまま、今自分の中に入り込んだ言葉――音の意味を飲み込むように幾度も幾度も頭の中で再生させた。
「ぼくから逃げられると思ったら大間違いだよ? ぼくってば魔法使いだから」
くすくすと笑い、あたしの膝の上にあるぎゅっと握った拳をぽんっと一度叩いて、ついで手首を引っつかむと勢いをのせて自分の方へと引き寄せた。
あたしの顔が相手の胸にぶつかるのと同時、お尻が膝の上に乗せられてしまう。
「あ、あたしのこと酷いとかって思わない訳?」
結婚式の三日前に逃げたのですよ?
一般的に考えて物凄い最低行為だ。軽蔑されておかしくない。逃げるなんて――投げ出すなんて。絶対に褒められた行為じゃ……
ねぇ、あたしの話を信じてないの?
それとも――
あたしが身じろぎするのも無視して、温かな体温があたしを包み込む。
「酷いって、いやだなぁリトル・リィ。ぼくの正直な感想を聞きたいの?」
「当たり前でしょっ!」
動揺のあまり舌がもつれた。
掴まれた手首、抱きこまれた背。
相手の膝の上という普通とは違う場で、そして男の微笑と首筋に顔が近づき、囁いた。
「ありがと」
「……」
「逃げ出してくれてありがとう。もう一度出会えたことにありがとう。今、こうしてここにいてくれてありがとう。君が君でありがとう」
耳元で優しく、宥めるように言葉を落としながらぽんぽんっと安心させるように背を叩かれた。
まるで小さな子供をあやすように優しくて、あたたかくて。
あたしの中でざわめきがうまれ、そして、はじけた。
自分から手を伸ばし、相手の首に両腕をまわして声を殺して泣いた。涙を流さずに感情だけをひたすらに流し続けた。
「産まれてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう――泣かないで、かなしまないで、きみがぼくのいちばんのひとなんだ」
とろとろと甘くあたしの身に染みとおる、愛しい音。
ああ、あなただ。
ずっとずっと、あたしが一人で辛かった時にあたしを支え続けたのは、あなた、だ。
あたしの心が落ち着くと、途端に照れくささが先にたってあたしは体を引き起こして、視線をそらしつつ「ごめんなさい、ありがとう」と消え入りそうな声で呟いた。
「惚れ直した?」
「――」
「キュンキュンきてキスしたいとか、もうこのまま抱かれたいって思った? いいんだよ! どんな欲望もぼくはちゃんと受け止めてあげるからっ」
きらきらとした眼差しで腐った言葉を吐き出す相手を前に、あたしは冷静さから更に温度の低いものに変化した。
実際惚れ直し、キュンキュン――なにそれ?――したとしても、それを指摘された途端に完全に覚めるものだと、なんという見事な見本だろうか。
おまえは瞬間冷却装置か。
「はい、ちょっとごめんなさいね」
あたしはおばさんのように平坦に言いつつ相手の肩を押し、その膝の上を辞去することに成功した。
わざと「どっこいしょ」と座席の反対側、窓側に張り付いて外を眺めて更に「はぁぁ」と溜息を吐き出す。
甘くてちょっとだけときめいてしまったあたしよさようなら。
おいでませ現実、だ。
「えええっ、リトル・リィっ」
「あなたは壁に向かって愛でも囁いてから出直してください」
「なんで、なんで? リトル・リィだって欲情したに違いないのに」
「そんなことしてないわよっ」
よ、よ、よぉぉぉ?
あたしは窓の外に向けた視線を元通り大馬鹿者に戻し、ぎろりと睨みつけた。
なんという単語を口にするんだこの変態っ。あたしは自分の顔に熱が集中して真っ赤になるのを自覚しつつ、馬車の座席に一杯用意されているクッションの一つをがしりと掴んで投げつけた。
欲情なんてしてないわよ。変態と一緒にするな。
どっかの誰かが過保護に育てたのでしょうか。余計な言葉さえなければあのまま相手の腕の中でその体温に守られていたいと思うのに。
あたしはもしかしてまったく無関係かもしれない過保護な姑にして忠犬エルディバルトさんに向け呪いの呪文を呟いていた。
ええ、そう。その通り――ただの八つ当たりです。
馬車が速度を落とし、馬が嘶いてかつかつと石畳を叩く音が耳に入る。
完全に馬車が止まるとみるや、クッションに埋もれていた男は「ああ、ついたね」とあたしに微笑んだ。
箱型の馬車の中、クッションと羽根とが舞っている。
あたしは確かに相手にクッションを投げつけたけれど、それが相手から返されるとは思っていなかった。
はじめのうちこそ「なにをっ」とやり返していたが、そのうちクッションの一つが破れて中の白い羽根が舞い飛べば、二人で顔を見合わせて笑いながらお互いにクッションを投げ合うという――いいですよ、馬鹿っプルと言いたいのであればどうぞ。
あたしだってそう思うよ。
ふわふわと白い羽根が未だ舞う狭い箱馬車の扉が、外側から開かれて「公っ、お待ちしておりました」と嬉しそうに言うエルディバルトさんは、馬車の中の惨状に一瞬あっけにとられ、ついで「公っ、体調がすぐれぬのか? また具合がっ」と声をあげて身を乗り出し、大好きな公の腕を引っつかんでじろじろとその体を見回し、べたべたと触りだした。
「エル、何でもないよ。それよりどうして貴方がいるのかな。護衛は要らないと言ってあるでしょうに」
苦笑しながら相手の手をやんわりと引き剥がし、小首をかしげて肩についている羽根を払った男に、エルディバルトさんは逡巡するように声をかけた。
「申し訳ありません。お呼び出しでございます」
「え、聞こえない」
「公、お呼び出しでございます」
「聞きたくない」
「公っ」
再度言葉を続けるエルディバルトさんに、魔法使いは大仰に溜息を吐き出してあたしへと手を差出した。
「お仕事が入ったみたいだ。君は皆と楽しんでおいで」
相手の手に導かれて馬車をおり、とられたままの手をうやうやしく持ち上げ指の付け根に口付けが落とされる。
そんな何気ないしぐさにお腹の底のあたりがざわつきながら、あたしはなんでもないことだというように装った。
「手袋をしている君も悪くないけれど、いつものように素手の君に触れたいよ」
囁きを残し、馬車に乗り込めばエルディバルトさんが冷たい目であたしを一瞥して後に続く。その場に残されたあたしはどういう顔をしていいのか判らないまま相手を見送った。
なんだかちょっと寂しいとか――思ってませんよ。
思ってないです。
ちょっとだけしか!
「リドリー、遅い!」
アジス君の声がはじけるように耳に入り、あたしは慌てて振り返った。
馬車があたしをおろしたのは、運河の横にある船着場で、石畳の隅には運搬用の箱が幾つも置かれていた。
運河と言っても広い川幅をほこる為に、桟橋には幾つかのゴンドラが付けられ、一つだけ大きな船には人が二・三人動いているのが判る。
あたしは船を視界にいれ、小さく息を吸い込んだ。
――船は、あたしにとってトラウマか。
やれやれと自分に呆れて空を見上げると、あたしは呼んでいるアジス君の方に手を振った。
「マリーとルティアは?」
「花摘み」
ざっくりと言われた言葉に、あたしは呻いて「そういうことは小声で言って」と少年を諫めたが、アジス君は唇を尖らせた。
「便所って言わないだけマシだろうが」
「……そうかもしれないけど!」
確かに、花摘みという単語を彼が使ったことだけ称賛に値するというべきか。アマリージェの教育の賜物か。
いやしかし。
あたしがげんなりとしつつ「とにかく、大きな声で言わないように」アマリージェに怒られますよ。紳士はそんなことを大きな声で言ってはいけません! とアマリージェが怒る口調まで耳に届くようだ。
あたしはきっちりとアジス君に理解を求め、うなずいた相手の素直さに褒める言葉を載せようとして思い出した。
「そういえば、アジス君。昨日、あたしの妹の話をしていたけど、妹の話なんてしたっけ?」
さりげない口調で切り出せば、アジス君はあたしを見上げた。
その瞳が無機質にあたしをじっくりと見上げ、しばらくして口にした。
「あー、了解」
なにが?
「気にスンナ」
気になるでしょっ。
むしろ物凄く気になりますが。
あたしが相手の腕を掴もうとした途端、強い力があたしの二の腕を背後から引っつかみ、男の声が「リドリー?」とあたしの名を呼んだ。
「リドリー、だよな?」