求婚と告白
なんだかもやもやとするものを抱え込んだあたしは昨夜あまり眠れなかった。
船とか妹と言う単語が重なりすぎてしまったのかもしれない。
これらの単語はある種の動悸・息切れ・眩暈などの作用をあたえ、更には不眠さえももたらすのかもしれない。あたし限定で。
――嫌いじゃないと思いたい。
けれど、あたしの本能が拒絶しようとする。どうしても嚥下することのできない不自然なものとしてあたしの中に居座るのだ。
朝の身支度を整えたのは、いつもより遅い時間だった。おそらく明け方近くにやっと眠れたのだろうけれど、今日は午前中にアレが来ると言っていたのだから悠長に寝ている場合ではない。寝ている間に母と二人で放置するなどあたしの胃に穴があく。
あたしはそのまま帰れるようにと一番質素なドレスを引き出して着替え、食堂へと足を向けたのだが食堂の扉の奥――聞こえてきたのは母の金切り声だった。
うわー、もう喧嘩しているのか?
正直そう思ったのだが、実は相手は変態痴漢男ではなく、伯父だった。
「わたくしは知りません! 兄さまが悪いのではありませんかっ」
「それはそうだが、少し落ち着け」
「リィは私の娘です! 兄さまの勝手にはさせませんっ」
「そうは言っても、このままにしておけばいずれはこの屋敷だとて手放す羽目になるんだぞっ。だったらよりよい相手との縁組をだなっ」
「この屋敷は私のものよ! 兄さまの馬鹿っ」
聞こえてくる声と、ぼすりという微妙な音。あたしは慌てて食堂室に入り、そこでクッシュンで伯父を叩いている母という物凄く珍しいものを発見してしまった。伯父は片手でクッションを受けながら逃げ惑うという有様だ。
「ちょっ、何の騒ぎ?」
「リドリー、助けてくれっ」
伯父さんが必死に助けを求めるから、あたしは慌てて母のもとへと駆けてその腕を引いた。
「どうしたの、母さん」
「どうしたもこうしたも!」
言葉を吐き出す母は顔色が悪い。あたしは母の腕を力ずくで引いてソファへと連れて行くと、伯父へと視線を向けた。
「リドリー、昨夜は楽しんだかね」
伯父はとりつくろうように口元に笑みを浮かべた。
なんとなく警戒心を与えるものだ。
ものすっごく胡散臭い微笑。
「……楽しんだけれど、どうしたの? 朝から何の騒ぎ?」
「いや、ただの意見の相違だよ。私はおまえにとってよりよい婚姻のことを話していただけなんだ。おまえも年頃だろう? 生憎と貴族ではないが、貴族に嫁ぐのであれば私が養父となればいい話だ――おまえは元々エレイズの娘なんだから何の不都合もない」
しどろもどろに出る言葉に、あたしは眉を潜め、母はふるふると小刻みに震えながら伯父を睨みつけた。
「リィは私の娘です! それを売り渡すような真似はさせませんからねっ」
なに、何の話?
あたしはまったく意味がつかめずに伯父を凝視し、伯父は決まり悪い様子でわざとらしくごほんっと咳をうった。
「おまえには是非、モルティバル卿と婚姻してもらいたい」
「無理」
却下。問題外。
え、なにそれ。突然何の話なの?
あたしは話の内容を吟味するまでもなく、まさに条件反射で即答した。
「リィ、聞くことはないわ! その男は自分が作った借金を貴女を売り払って解決しようとしているのよ」
低く冷たい母の言葉に、あたしは「はぁぁぁぁ?」と声をあげてしまった。
「売り払うなど人聞きの悪い。モルティバル卿ならば地位も財産もお持ちだ。婚家の援助だって惜しみなくしてくださる。婚約者がいるが、もう何年もの間婚姻には至っていない。おそらくろくな女ではないのだ。もとより卿を罠にはめるようにして婚約者の地位を得たという女だからな。卿はうんざりとしているに違いない! だから、おまえが――」
べらべらと吐き出される言葉に、ふっとルティアの言葉が耳をよぎった。
――私ぃ、宮廷では嫌われておりますのよぉ。
根も葉も無い(本当はある)噂や誹謗中傷に晒されている友人に、あたしは身が震える程腹がたった。
「伯父さんっ」
とりあえず相手の言葉をさえぎろうと声を荒げたあたしに、伯父は更に言葉を募らせる。
「私の屋敷が抵当に入っているのだ。領地の屋敷までもが。頼む。リドリー、この伯父を助けることはおまえの母を救うことにもなるんだ。この屋敷だっていずれ奪われることになる」
「エルディバルトさんはあたしを嫌ってるし、何より絶対にそんな話にはならないわよっ」
「そうよ。リィには婚約者がいるんですもの」
はいぃぃぃ――?
あたしが腕を支えている母が勢いづいて言うが、あたしはその言葉にも動きを止めてしまった。
「モルティバル卿ならまだあの男のほうがマシというものだわ」
ちょっ、母さん。話しが飛躍していますよっ。
「リィ、あの男はどこの家の出なの? 財産はどうなって」
まってまってまってよっ。
「財産目当ての結婚はしませんからねっ」
何この騒ぎ。どうなっているの?
どう収集をつけようかとあたし自身が判らなくなっているところで、ふいにのんびりとした声が部屋に満ちた。
「勿論、財産目当てだろうと体目当てだろうと私は構いませんが。朝から失礼。宜しいでしょうか?」
のほんっとした口調でこの三すくみに入り込んできた男は今日は普段とまったく違い、首筋にはピンでとめたクラバット、細かい彫刻の入った貝細工のボタンの上着。まるで紳士然という様相で大きめの封筒を手に現れ三人の視線が向くと、にっこりと微笑んだ。
食堂室の入り口、執事に案内された男はゆるりと三人の顔を眺めやる。一人ひとりの意識を一気に自分に集中させるように。
「ごきげんよう」
しかし、この乱入に慌てたのはあたしや母ではなく、伯父だった。
「なっ、何故ここに」
「そんなに驚かなくてもいいじゃありませんか」
くすりと微笑みをうかべるとエセ紳士は執事に紅茶を頼み、小首をかしげるようにして「とりあえず座りませんか?」などと提案してくる。
だが伯父はそれどころではないらしい。額はぶわりと汗を滲ませ、その瞳は食い入るように見開かれている。
まるで、恐怖の対象を目の当たりにしたかのように。
「待ってくれ。まだ、まずは話を……」
「待てませんよ。まぁ、それはどうでも宜しいのです。まずは座ったらどうです?」
まるで自分の家だとでもいうようにさっさと応接用におかれているソファにすわり、ばさりと封筒をテーブルに置いた。
「エレイズさん、どうやら私と彼女の婚姻を認めてくれるようでよかった」
この場の謎の雰囲気などものともせずに言い切る男に、母が「それはっ」と声をあげたが、男はしれっとした表情で封筒を示した。
「私の財産を心配されているようですが。とりあえず、リドリーと婚姻するにあたりまして、私からの贈り物です」
――封筒から吐き出された書類は、伯父の屋敷の権利書、伯父の領地の抵当権……
呆気にとられるあたし達に、面前の男は微笑んだ。
「これはほんの一部ですけどね?」
***
「伯父さんが賭け事が好きだというのはエルに調べてもらったからね。サロンで相当大きな賭け事をしているみたいだったから、ぼくも一緒に遊んでみたんだ」
はじめのうちは勝っていたのだと伯父は言っていた。
はじめは勝ったり負けたりを繰り返し、やがてこの男は「私の屋敷を賭けて勝負しませんか?」と言い出したのだという。どんな屋敷かは判らなかったが、聖都の大貴族ばかりが暮らす区域にあるという。大貴族のぼんくら息子だと思った伯父はその賭けに乗り、惨敗。 自らの家屋敷の権利を奪われ、冗談じゃないと――あろうことか領地の家屋、土地までも賭けの対象にしてしまったのだという。
その時、あたしはそれを聞きながら伯父を睨んでいたが必死にある言葉を飲み込んでいた。
――このイカサマ師!
相手は魔法使いだ。そんな相手と賭け事などして勝てる訳がない。
「すんなり話しが進んでよかったね」
「……」
すんなり?
物凄くうちの母には更に嫌われているようにみえましたけれど、それをすんなりと表現しますか?
母は卒倒し「こんなだまし討ちみたいなこと! ありえないわっ」と訴えたが、伯父は一生懸命母をとりなすし、このあんぽんたんイカサマ師は冷ややかな微笑を湛えて「別にこの権利書でリドリーを買おうなんて思っていませんよ? ただ、これはささやかな私の気持ちだと言っているだけです」と、明らかに挑発的な様子で二人の大人を交互に見ていた。
どうしてもうちょっと正攻法で来なかったか。
それでも最終的に母はあたしを送り出してくれた。結婚云々でなく、とりあえず自分の町へと帰ることを許諾したのだ。
もしかしたら考えることを放棄したのかもしれない……
「いつでも帰って来なさい」
とあたしに言い、神殿官を名乗っている物凄く胡散臭い男には冷たい一瞥をくれ「認めた訳ではありませんからね」と最後まで忌々しそうに言っていたが、言われている男はへらへらとしていた。
伯父は……――どうもおかしな方向に行ってしまった。
「強さの秘密を教えてくれたまえ」
などと明後日なことを言っていたくらいだから、どこかネジが弾け飛んだのかもしれない。
あたしはぐったりとしつつ、馬車のクッシュンに埋もれ、小窓から見える町並みを眺めやった。
楡の街路樹、煉瓦作りの美しい町並み――綺麗だけど……ああ、早くマイラさんのいるあの町に帰りたい。
まぁその前に、アマリージェとの約束があるのだけれど。
「市場から一番近い運河の船着場で待ち合わせだって聞いてるけど、何をするの?」
「舟遊びだって言ってた」
あたしがぐったりと言うと、馬車の反対側の男は「へー?」と微妙な返事を返す。
「ぼくも付き合っていいんだよね?」
「仕事はどうなってるの?」
「ぼくってば基本的に生きていればいいひとだから。神殿の仕事は神官達がしてくれるしね」
この役立たず。
「午後は遊んで、あちらに帰ろう」
言いながら、すっと手を差出してくる。あたしはそれを睨みつけた。
「なに?」
「ほんの少しの時間だけど、抱っこしたい」
「いやです」
「いいじゃないか。ぼくと君は晴れて婚約者になれた訳だし」
――物凄く恐喝とか脅迫とかいう類の感じでしたが。
「ま・だ。そこまでちゃんと話はすすんでませんよ! それに、ああいうのは卑怯だと思う」
「君の為ならいくらでも卑怯になるよ」
さらりと言われた言葉は最悪の部類だというのに、あたしは思わず顔が赤くなるのを感じた。
「正攻法でやるほうが良かった? 神官長として花嫁を迎える為に? でもそうすると色々と面倒くさいよ? 神官長の花嫁は神女だから。三年間も神殿内に閉じ込められてしまうし。その間ずぅっと精進潔斎。男と接触できなくなって、当然夫であるぼくとも会えない。それよりもコンコディアでのんびり暮らせるほうがずっといい」
「――」
「尊き人でも竜公でも神官長でもない、このままのぼくのところにお嫁においで」
言われた言葉が、溶けた。
今まで幾度も似たようなことは言われていた筈なのに、何故かはじめて求婚されたつもりになって、あたしは動揺してふいっと顔をそむけた。
そうしないとそのまま抱きついてしまいそうな気持ちだったからだ。
でもそうする前に、あたしにはきちとん言わなければならないせりふがある。
「そんな風に言うけど、本当のあたしを知ったら――嫌いになるかもよ」
「どんな君?」
「あたし……婚約者がいたの」
それは罪を告白するくらい、あたしには苦くて飲み込めない辛い台詞だった。
「あたし、結婚式の三日前に婚約者から逃げたのよ」