女の戦いと嫉妬心
夕刻――四頭の毛並みの良い駿馬に引かれた馬車を降り立ったのはあたしの予想通り、アマリージェとアジス君だった。というかアマリージェ以外は考えたくなかった。もし万が一、あの髭の騎士が来てしまった時にはあたしはその場で気を失いたい程の気持ちになっていただろう。
良かった、うん本当に良かった。
この人選だけはあのぼけなす様を褒めてあげてもいい。もしまかり間違って王弟殿下の第三子息サマがお迎えにみられでもしたら、母の屋敷は軽く恐慌状態に陥いってしまったことだろう。
迎えに訪れた伯爵家令嬢の姿に母は微妙な表情をし、ついで伯父は嬉しそうに「なんと美しいお嬢さんだろうか。私がもう少し若ければ――」という本気なのか冗談なのか判らない世辞をつらつらと吐き出し、アジス君に冷たい眼差しを向けられていた。
「娘の招待は了承いたしましたけれど、娘は帰してくださるのですよね?」
ぐすぐずと送り出そうとしない母は、アマリージェをしっかりと見据えてそう口にしたが、アマリージェは困ったように微笑んだ。
「わたくしがお約束できることは、リドリーの希望に沿うことしか致しませんということです」
その言葉に弾かれたように母はあたしを見た。
「リドリーっ」
不安と怒りさえ孕んだ眼差しにあたしは手を伸ばし、母の肩を抱きしめた。
「もう閉じ込めたりしないと約束してくれれば、今日この家に戻ってくるって約束する」
「リィ……」
「あたしはもう大人なのよ、母さん。母さんが心配してくれているのは十分判るけれど、あたしは自分の足でちゃんと立てるの」
あたしの言葉に母は息をつき、きゅっと一度あたしを抱いた。
「でも、結婚の話を認めた訳ではありませんからね」
「いや、それはもともとどうでもいいです」
あたしはさっさと手を振って、やはり一緒に行くべきだという伯父を無視してあわただしく馬車に乗り込んだが、その場ですっころびそうな程狼狽した。
「……いたの?」
普段であれば呼びもしなくとも顔をだす尊きあほんだらサマは広い馬車の一番奥の席で足を組んですわり、外の人間に気を遣っているのか心持ち身を縮めてにぎにぎと手を動かした。
「色々と困った事情がありまして」
「はい?」
馬車の入り口でもたもたしているあたしを、アジス君が無遠慮に押して中に入り込む。そこではじめて目を見開いた。
「尊き人っ」
「やぁ、アジス君。ごめんね、突然入り込んで」
どうやらもとからいた訳ではないらしい。
アジス君は多少驚いた様子だが、もともと彼はコレが不思議な力を持つ人間だと承知している為にさほどの動揺は見せなかった。
アマリージェが最後に馬車に乗り込めば、御者がぱたりと扉を閉ざした。そこでやっと身を縮めていた魔術師は、背筋を伸ばすようにして体を動かし、乾いた、というか疲れた笑いを浮かべて見せた。
「また逃げ出してまいりましたね」
アマリージェは馬車が動き出すのに慌てて席に座り、辛辣な調子で唇を尖らせた。長年この男と付き合いのある彼女は、何故かこの男にだけは厳しい。
「逃げ出したくもなるよ……もう本当に勘弁して欲しい」
「なに? 何かあったの?」
まったく意味がつかめずに中腰状態のあたしをふいに引き寄せ、他人の視線などまったく気にもかけない変質者はぎゅうっとあたしを抱きしめつつ、厚顔無恥に口を開いた。
「リトル・リィ、ルティアをどうにかして」
「ルティア様がどうかなさったのですか?」
ルティアさんの名前にアマリージェが慌てて口を挟みこむ。
「ぼくは気にしていないのに、あの子ときたら些細なことで恐慌状態だよ。まったく、意地の悪いおじさんにちょっと虐められただけなんだけどね。年寄りはどうしてああ性格がねじくれているのかな」
ぶつぶつといいながら人を撫で回すのは止めなさいよ。
あたしはぐぐぐっと腕に力を込めて相手をおしやりながら、
「あのルティアさんが虐め?」
「あの子ってば時々思い込みが激しいから。なんといってもエルが可愛いとか絶対に思い込みだよね」
虐めこそすれ虐められるところがまったく想像できずに、あたしは瞳を何度もまたたいてしまった。しかも、虐められて恐慌状態? 何がどうすればそんなじたいに陥るというのだろうか。
「ぼくが何を言ってもきかないからね。きっとリトル・リィの言うことなら効くと思うんだよ」
「いや、あんまり自信ないけど」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ショック療法とかあることだし。ね?」
いっそ無邪気に言うや、その手がぽんっとあたしの肩に触れた。
「いってらっしゃい!」
***
その次の瞬間、あたしは自分の意識やら感覚やらの全てを疑った。
突然身を包み込んだのは温かな室温。馬車の中もさほど寒くは無かったが、だからといってこんな風にほんわりとした温かさなど無かった。
突然投げ出されるような感覚でくらりと頭が揺さぶられ、呆然としながら辺りを見回せばそこは馬車とはまったく違う場所だった。
あたしは冷たい床の上にぺたりと座っている現状。
自分に起こる異常な出来事に、拒絶反応のようなぞくりとした奇妙な恐怖が腹部から競りあがる。
ありえない現象が理解できなくて上ずるような声が漏れそうになった途端、そんなあたしより先に悲鳴が上がっていた。
「リドリーさんっ」
慌てて視線を向ければ、その場が居間のような一室だと判る。
寝椅子にすがるようにして座っていたのは相変わらずの侍女服のルティアさんで、まるで幽霊でも見るようにあたしを凝視しながらゆるゆると首を振った。
「どうして……どうしてあなたがいらっしゃるのです」
その時の彼女は、普段の彼女とはまるきり違う女性だった。
恐怖を覚えるように身を震わせ、何かを抑えるように自らを抱きしめてあたしを凝視する。
「どうしているのかと問われれば、り、竜公?サマに聞いて欲しいのですが」
竜公という単語が自分の口になじまない。
あの男自身、あたしに言われたくないだろう。それでもあの男は彼女にとって竜公であろうと思われ、あたしは首をひねりつつそう口にした。
面前のルティアさんは今にも気を失ってしまいそうに顔色が悪かった。
「……あの方の心がわかりませんわ」
「いや、あたしも判りませんが。変態の心はあまり理解しないほうがいいと思いますよ?」
知りたいような気も確かに時々しますが、その成分の八十パーセントが不道徳ですからその内容をまざまざと見せ付けられた日には、明日の朝日を放棄してしまいたくなるくらい心に打撃を受けるものと思われます。
あたしはくらくらとする頭がやっと落ち着いてくるのを合図に、へたりと床に座ったままの現状を逃れるようにゆっくりと立ち上がった。
「なんというか突然押しかけてしまいましてすみません。ここは、エルディバルトさんの屋敷でしょうか?」
「いえ、ここは聖都の中央から北地に作られている神殿です」
ルティアさんは挙動不審に視線を泳がせた。
というか、ルティアさんってまともに喋れるんですね。そこ突っ込んでいいですか?
しかし、彼女はまるきりあたしが面前にいることが耐え難いという様子だった。
なんだか判らないけれど、もしかしてあたしは嫌われてしまったのだろうか? 数日会わない間に嫌われてしまった? それはとても残念だ。というか残念という言葉で流せないくらいちょっと辛い。だってあたし友達少ないのです。
やっとできた友人が、やけによそよそしいというのはあたしが何かしでかしてしまったのだろうか。
あたしはおそるおそるルティアさんに手を伸ばしたのだが、ルティアさんはハっと息をつめ、触れられたくも無いというように身を引いた。
うわー……
痛いなぁ。いや、どこかぶたれたとかではなくて、その、心が痛い。
あたしは行くあての失った手をわきわきと動かし、そろそろと一歩退いた。
「あの、あたし外に出てますね?」
「――あなたは、あの方には相応しくありません」
突然突きつけられた言葉に、さらにあたしは唖然として胸に痛みを覚えた。
とくとくと心臓が激しく鼓動する。耳がくわんくわんと痛みを訴えだし、あたしは泣きたいような気持ちになって眉を潜めた。
「あの方の、竜公の心を乱すような女性は相応しくないのです。あの方は泰然と分け隔てなく誰にでも同じように接するべき方だというのに、あなたを前にすればその全てを覆してしまわれます」
「……」
「あの方に相応しいのは、たとえ失っても心乱されぬ女性――」
刃のように言葉を紡ぎながら、ルティアさんは唇を噛んだ。
あたしは今にも泣き出してしまいそうな女性を見つめ、心がひんやりと冷たくなる感じを味わっていた。
耳が、言葉を拒絶するように痛む。
心が、悪意に染まりそうにくらくらする。
「やっぱり、あの人に似合うのはルティアさんという話ですか?」
自分の声とは思えない程、それは冷たく他人事のように口からこぼれた。
「――結局はそうなのでしょう。私に何があろうと、あの方は心を乱されることなどありません」
「何がいいたいんですか!」
ぶわりと膨らんだのは怒りだ。
認める。認めましょうとも。
ええ、嫉妬ですよ。これは嫉妬です。それも物凄い理不尽な。
ルティアさんは何を言いたいの?
まるで勝者は自分だと示すように言うくせに、まるきりその内容は敗者のそれだ。
――自分は竜公の心を乱さないから自分のほうが相応しいのだと。
何それ気持ち悪い。
「あの方を好きですか?」
ルティアさんはひきつれるような奇妙な笑いを浮かべて問いかける。
腹立たしさが一杯のあたしは怒鳴り散らしていた。
「悪いですか?」
喧嘩なら買いますよ!
今までまともに喧嘩などしたことは無いですが、めちゃくちゃ買いますよ。
そんなあたしの意気込みの前で、ルティアさんはつっと涙を一筋流した。
好きですよ。貴女が――元婚約者という立場の貴女が、今更あの人が好きだと言っても、あたしはもう引かない。
「あなたはあの方に相応しくない。けれど、あなたにあの方と共にいて欲しいのです」
はい?
「私は決して貴女を傷つけたりしません。できない……でも公も、あの方も私を許しては下さらない」
ルティアさんはふいに片手をひらめかせ、ついであたしはギョッと目を見開いた。
その手には銀の細長いナイフが握られ、そして彼女はそれを自らの首筋に押し当てたのだ。
「公に、エディ様を頼みますとお伝え下さいませ――あの方に咎が向けられませんようにと」
て、ちょっ、何それっ。
あたしは慌てて手を伸ばそうとしたが、それより早くルティアさんの背後から伸びた手がそのナイフをやんわりと押さえ込んだ。
「だから、年寄りの冗談を真に受けないように。ああやって時々底意地の悪いことを言っては遊んでいるだけなんだよ。エルだって断っただろう?」
「公っ。けれど私は引き受けたのですっ」
「――貴女が引き受けざるを得ないことなんてあの場の誰だって判っていますよ。けれどそうしないことを私は知っているし、あの年寄りだって心得ている。年寄りの戯言なのだから、そんな愚かな真似をしたら貴女のエルディバルトが謀反を起こしてしまうよ」
ふわりと微笑み、黒髪の青年は慈愛を込めてその額にそっと口付けた。
「貴女の心を疑ったこともない。気にしていないと言ったろうに」
「ですがっ」
「私の言葉が信じられないですか?」
ルティアさんがその腕の中で涙を落とし、あの男が背後から抱きすくめて優しく囁く。
その姿にあたしはぎゅっと自分の手を握りこんだ。
何より、今現在自分の胸の内をかけめぐるのは激しい苛立ちだ。
まったく意味が判らない! どうしてこんなことになるのか理解できないし、どうして彼女がそんなに心を乱しているのかも判らない。
ここで怒鳴るのは物凄く大人気ないことだけは判るけれど、でも、それでも。
あたしはぎゅっと手を握りこんで、喉許にせりあがるものを必死に押さえ込んでいた。
抱きすくめられているのが自分でないことが。
その優しさを向けられているのが自分でないことがあたしの中でぐちゃぐちゃとめぐり、あたしは自分の醜さに顔を背けたのに、あの馬鹿男ときたらルティアさんをソファに座らせ「正餐の支度をしておいで。楽しみにしているから」とその前髪をかきあげると、ルティアさんはちらりとあたしに視線を向け、儚く一度微笑んで「ごめんなさい」の言葉を最後にふわりと大気に溶けて消えた。
面前で見せ付けられる魔法にも心が麻痺しているあたしは反応できなかった。
だって今のあたしときたらそれどころじゃないくらいの感情に翻弄されていたのだから。
苛々とぐるぐると駆け巡る根の暗い消化不良のものを抱えるあたしの前で、高潔と慈愛に満ちた男は途端に悪戯っぽく瞳を輝かせ、両手を大仰に開いてみせる。
「ぼくのことが好きだって言った?」
「言ってません!」
馬鹿っ。