羞恥と接触
「あたしは、妊娠してませんからね」
あたしはゆっくりと丁寧な口調で言い切り、理解してくれたかどうかを確かめるように二人の顔を交互に見た。
その言葉に母はほっと息をつき、
「ええ、そうよね? それに……確か昼間のうちにまだ二人はそんな関係じゃないと言っていたよね? あら、いやだわ。私ったら」
ほほほほっとおかしな笑いをしながら扇で口元を押さえた母、ついでこほんっと一つ 咳をして恨めしげな視線を伯父へと向けた。
「兄さまがおかしなことをおっしゃるから……」と明らかに非難しているが、勝手に勘違いしたのは母も一緒だ。
ええ、あたしは忘れません。愛娘をふしだらな女のように言うなと実兄を非難したその口で、自らも我が娘をふしだらな女のように非難した事実を。
酷すぎる。
「なんだ、子供はいないのか。いや、だが――つまり、二人はいわゆる恋仲、ということでいいんだな?」
「まだ許した訳ではありませんっ」
「何故だ、エリー。こんな素晴らしい縁組! おまえが反対といったところで」
「だから! とりあえず黙ってっ」
勝手に二人で会話をするのは止めて。
しかも、明らかにおかしな会話をするのは止めて下さい。
あたしはギロリと二人を睨みつけた。一年前であればおそらくこんな風に二人に強く言葉を操ることなどできなかっただろう。
あたし偉い。よく成長した。がんばってる。誰も褒めてくれないのでせめて自分で自分だけは褒めておくことにする。
「それに、母さんと伯父さんの言うところの相手が食い違ってるから」
「は?」
伯父が言葉を落とし、母が眉を潜めた。
あたしはすでにくしゃくしゃになったエルディバルトさんからの招待状を拾い上げ、わざとらしくその表面を叩いた。
「伯父さんが言っているヒトはこっち。今夜の夕食に招いてくれたのは確かにエルディバルトさんだけど、あたしは別にエルディバルトさんと付き合いがある訳じゃないの。ただあたしの……」
ああああ、
あたしは言葉を上ずらせながらついっと視線をそらした。
「あたしの、恋人の、友人ってだけ!」
うわぁ、言った。言っちゃった。大丈夫だよね。聞いていませんよね。
あの神出鬼没な変質者は今確実にいませんよね!
あたしは意味不明なほどきょろきょろと周りを見回してみたが、幸いおかしな様子は微塵も無い。ここは聖都の母の家で、そして母があたしへとあてがってくれたあたしの部屋で、ヘンタイの気配は微塵もない。
それでもあたしはばくばくとあがる体温と心音にどこかにもぐりこんで、嘘です嘘です、死ねあたし!と頭を隠して叫びだしたい気持ちを必死に押さえ込んだ。
動揺に内心七転八倒中のあたしとは違い、伯父はあからさまにがっかりとした様子で息をついた。
伯父の野心に付き合ってやる義理は生憎とあたしには無い。しかも、自ら女癖が悪いと言ったエルディバルトさんとあたしとをくっつけようなどと何がどうしたらそんなことになりえるのだろうか。
とりあえずルティアさんが怖いです。
ルティアさんっていつもにこにこしているけれど、押しが強いというか妙な迫力がある。おそらく敵にまわすと怖いタイプに違いない。
影でこそこそと虐めるのではなくて、常に堂々と虐めるタイプだ。ルティアさんが男だったらもしかしてあたし惚れてしまう――訳はないな。あたしは平和主義です。
そこまで考えたあたしはそれまでの動揺をやっと沈めた。
はい、さっきのナシです。忘れてください。もうお終い。心臓よばくばくしてはいけません。
母はエルディバルトという名前を耳にしてもすぐに誰とは判らなかった様子だった。まぁ、エルディバルトなんて名前はそのへんにわんさかいそうですしね。
「ああ、確か……あの神殿官、あら、名前は何といったかしら……まぁいいわ。あの男が帰る時に言っていた正餐の招待ね? まったく失礼な男だこと。リィ、行かなくていいのよ」
憤慨する様子の母だったが、さすがに伯父さんは慌てた。
「馬鹿を言うんじゃない、エリー。この招待を断ることはできない」
「当日に届くような無礼な招待を受ける必要はありませんわ」
「おまえこそ無礼なことを言うな。相手はモルティバル卿なのだぞ」
伯父が身震いするように言えば、母はしばらく伯父の顔を見つめ、ついで毛嫌いするように冷ややかな視線をあたしの手の封書に向けた。
「……そう、あの男ときたら虎の威を借るような品の無い真似をするのね」
本当に、なんて下らない。
冷たく吐き出される言葉に、あたしは胃の辺りが痛むような気がした。
「エリー?」
「――それにしても、モルティバル卿は友人を選ぶべきね」
母は悪意の棘を撒き散らすように言いながら口元に当てた扇をぱちりと閉ざした。
母さん、それは色々と誤解です。
だって、虎の威も何も、アレ自身が虎なんだもの。
それに、エルディバルトさんはアレが大好きだから、そんな辛辣な台詞をエルディバルトさんの前で言ったら最後どんな恐ろしい事態になるかあたしにはもう判りません。本気で腰の剣を引き抜きそう。
言うべきかいわざるべきか……――も、もうちょっと先に延ばしてもいいですかね?
二人が言う王弟殿下の第三令息モルティバル卿は、あの変態の忠実な犬でございます。いや、だから人のことを犬だなんて言っちゃだめだ、あたし。
あたしはぶるりと身をふるわせた。考えたくないけど、ルティアさんの口癖がうつっている気がする。
だって、ルティアさんってば物凄く嬉しそうに言うんだもの。
――エディ様ってば竜公の忠実な駄犬ですものぉっ。
耳に残るんですよね、あの言葉。
「そんなことはどうでもいい。リドリー、早く準備を!」
そわそわしている伯父があんまり滑稽で、あたしは乾いた笑いを浮かべた。
まだ時間はたっぷりあるというのに、まるで一大イベントのようだが正餐ってつまり、ただの夕食会ってことなのに。
***
「姫さんっ、あっちの建物は?」
中央広場の右手に見えている建物を示して振り返るアジスに、アマリージェが応えるより先に彼等の後ろを歩いていた青年が応えていた。
「あれは音楽堂。聖歌隊が歌を披露してくれる場だ」
そつなく端的に言うのは、夕方にリドリーを迎えに行くまでのあいだ聖都を見物するというアマリージェとアジスの為にエルディバルトがつけた警護役の従騎士であったが、ふいにその厳しい眼差しをアジスへと向けた。
「アジス・トルセア。いくら君がまだ幼い少年といえども伯爵家の姫君に対する礼儀がなってないにも程がある。騎士を目指しているならばなおさら言葉や自らの行いに――」
「申し訳ありません」
相手の言葉をさえぎるようにアマリージェは声をあげ、ひたりとその視線を重ね合わせた。
「アジスはわたくしの家の家人です。そしてわたくしの友人でもあり、また彼の教育を担っているのもわたくしです。彼に何か落ち度があるのであればそれはわたくしが責めを負うべき事柄です。どうぞアジスにではなくわたくしにおっしゃって下さい」
よどみなく言いつけると、アマリージェは自分よりも随分と大きな男をしっかりと見つめ、ついで微笑んだ。
「いや、あの――アマリージェ様」
「何かございますか?」
「ありません」
「さようですか。もう何もないのでしたら、どうぞお戻り下さい。
もともと護衛など必要ではありません」
「しかし、私は――」
職務だと口にしようとしたが、アマリージェはゆっくりと相手の言葉をさえぎった。
「それでも護衛として付いていらっしゃるとおっしゃるなら、どうぞわたくしの目に付かない場にお行き下さい」
相手の言葉を待たずに一礼すると、アマリージェは絶句しているアジスの手を掴んだ。
「アジス、広場の入り口に市がたっている筈ですわ。行きましょう」
「……」
くんっとつかまれた手をアジスは見つめ、ついで嘆息した。
子供扱いされるのは腹がたつ。従騎士に子ども扱いされるのは腹立たしいが、だがこうやってアマリージェに迷惑がかかるのもアジスの心を塞いだ。
「時々すっげーキツイよな」
「あら、何かありまして?」
「俺が口調を改めないと、やっぱ姫さんに何か問題がでるんじゃねぇの?」
自分達がそれでよくとも、世間的に見れば身分だ何だと煩わしいものが多くある。それを無視できない程度にはアジスは子供ではなかった。
声のトーンを低くしていう相手に、アマリージェは足を止めて小首をかしげた。
「では言葉を改めてみます? 聖都にいる間」
「姫さんがそうしたほうがいいって言うなら」
「そう。でしたら。そうなさるといいわ。わたくし返事いたしませんけど」
さらりと言ったあとに、くすくすと笑うアマリージェにアジスは肩を落とした。
アマリージェは時々とても頑固になることがある。今もきっとそうなのだろう。
「女ってめんどくせぇ」
真実そう思っている訳ではないが、すでに口癖となっている言葉がするりと口からこぼれてしまう。それを聞きとがめたアマリージェは憤慨するように身を翻したが、丁度道が交差する場で、危うく行き交う男とぶつかりそうになった。
「うわっ、だいじょうぶか?」
乱暴な声と大きな手がアマリージェを支える。
アジスも慌ててアマリージェに手を伸ばそうとしたが、相手は色の黒い大きな男で、アマリージェの体を容易く支え、きちんと立たせた。
「すまんね、痛くなかったか?」
「ええ、わたくしこそ申し訳ありません」
「いやいや、俺もちょっと余所見してたからなぁ。悪い悪い」
にっと笑った男の後ろ、もう一人の青年が呆れた様子で言った。
「ドーザ、おまえがきちんと前を向いて歩かないからだ」
藍色の瞳に赤茶色の髪の青年はドーザと呼ばれる青年の肩を叩き、少し疲れたような笑みを浮かべてアマリージェに微笑んだ。
「うちの人間が失礼しました。怪我はなかった?」
「ありませんわ」
応えてアマリージェはスカートを軽く払った。
背後から騎士が近づいてくる気配が煩わしい。
面前に立つドーザと呼ばれた男は随分と大きく手足が太い。ぱっと見て海の男だと思わせる男だが、隣にいる青年はドーザと並んでいる為にか優男という印象が強い。
「もし後で何かあれば、海運商のランド商会を尋ねてくれよ。俺はドーザ。こっちの優男がマーヴェル」
ドーザが決まり悪気に頭をかいているところで、離れていろと言った従騎士がかけつけて「何事ですか?」と割ってはいる。
アマリージェはあきれ果てながら、それでも「転びそうになってしまっただけです」と相手を黙らせ、藍色の瞳の優男が差し出した手に触れずに一礼した。
「怪我はありません。気になさる必要はありませんわ。ご丁寧にありがとうございます」
「いや、こちらこそ失礼しました」
「わたくしも余所見をしていたのですから、どちらが良い悪いということはありません」
丁寧にアマリージェが言いながら微笑むと、相手の青年はちらりと従騎士を一瞥し、苦笑した。
「もし、貴女が船を使うことがあれば、気軽にオレの名を出してくれればいい。ランド商会はオレの父の会社で、オレはそこの三男だから少しは便宜が図れる」
使う予定はまったく見えないが、アマリージェは礼儀正しく微笑んでみせた。
「ありがとうございます。ではわたくしどもは失礼させていただきます」
大きな男二人に見送られるようにアマリージェとアジスは歩き出したが、やがてアジスは唇を尖らせた。
「ああいうのをナンパっていうのか? ここぞとばかりにアピールしやがって。あー、やだやだ」
「……違うのではないかしら?」
「ったく、姫さんはもうちょっと気をつけないと。ぼけぼけしてっと絶対に痛い目みるからな」
ぶつぶつと言い出したアジスに呆れ、アマリージェは「ナンパってそもそもなんですの?」と小首をかしげた為に、更にアジスに小言をくらう羽目に陥った。
「ったく! 女ってやつはめんどうくせぇなっ」
「それは何か違うのではないかしら」
「ちがくねーよ!」