通じぬ言葉と届けぬ言葉
母が持参したお茶をあたしは自らカップに注ぎ落とし、行儀は悪いが椅子に横すわりしてたそがれるようにして飲んでいた。
「いい加減に出て行って下さい」
「一人で帰るつもりはありません」
二人の口論はもう半刻あまりも続いている。
そう、変態対母の舌戦はその場を冷却作業でもしているのかという程の冷ややかな微笑みと共に続いているのだった。
完全無欠にあたしを無視して。
「私が神殿官だから反対だというのであれば、どのような身分であれば承諾して頂けますか?」
「娘に結婚はまだ早いのです」
「十七の女性の結婚が早いとは到底思えません。失礼ですが、貴女だとて彼女の年齢ではすでにお子さんをお産みになっておられたと思いますが?」
「だから早いといっているのです。結婚など勢いでするものではありません」
――帰りたい。
マイラおばさんのトコに帰りたい。あの殺人パンすら懐かしい気がするくらい帰りたい。
柔らかでふんわりとした焼きたてのパンの香りと、豪快なマイラおばさんの笑いが恋しい。
幾度かこの二人の間に割って入ろうとしたものだが、生憎と二人はあたしの話など受け付けない。そしてお互いに微笑みあっているのが怖い。マイラさんと違い、この二人の笑いときたら殺伐としすぎです。
冷め切った紅茶は葉の苦味が際立ってしまい、すでに美味しいとは思えない。ただ喉を潤す為だけの存在に成り果てていた。
それでもあたしは親切心から二人の前にも紅茶を注いでやったし、更に親切心を発揮して椅子に座るようにも促してさしあげた。
ずっと喋りっぱなしなのできっと喉も渇いたことだろうし、立ちっぱなしもよくない。
だが気付いた。放置しておけばそれだけ早くこの舌戦も終わったのかもしれない。
今更言っても仕方アリマセンが。
「しかも貴方ときたら、何がリドリーは成人だから親元から離れるのも良いなどと白々しい。自分の近くにリドリーを置きたいが為の詭弁ではありませんか」
「その通りです」
……けろりとあっさり言いやがりましたね。
「信用なりません」
ごもっともです。
まぁ、信用してはいけません。そいつは詐欺師です。詐欺師で卑怯者で裏技野郎でよいところを列挙しろといわれても生憎とあたしにはそれが適いません。
かわりにエルディバルトさんでも連れて来ましょうか?
あの人ならそれこそ信じられない程の美人麗句を並べ立ててくれるでしょう。変態を変態と認識する能力もなくただひたすらに大好きっぽいですからね。
いや、冗談です。
あたし……あの人若干苦手ですから。
「リドリー!」
ばっと母の顔がこちらに向けられ、あたしは危うく白磁のカップを取り落としてしまいそうになった。
あたしの存在など忘れ去られていると思ってイマシタヨ?
「あなたはこの人と結婚したいなどと思っているの?」
「いやぁ、それは……」
思っているようないないような。
どう言えばいいでしょう。激しく微妙。
「ほらっ、この子も反対です。ですからこの話は無かったことに」
「リドリーは照れているだけですよ。何故そこまで反対されるのか理由をお聞かせ下さいとお尋ねしているのですよ。私の何がそんなに御気に障られたのでしょう」
そこはかとなく漂う胡散臭さ?
それとも明らかな変態臭とか。
爽やか好青年を演じつつも、明らかに怪しい。というかその爽やかさが怪しすぎる。
だがそんなあたしの予想を上回ることを母は突き付けた。
「結婚など必要がありません。人生の墓場に娘を追いやる親がどこにいますか」
もしもーし……それは親の台詞じゃないよ。
結婚が人生の墓場。
そんなこと言い出したら子供を結婚させる親が鬼畜になってしまいそうですよ、お母さん。それに、もうそういう話だと年齢が早いとかまったく関係ないですよね。
今までの時間は何ですか。
「男なんていうものは結婚してしまえば女の財産を食い物にして、挙句好き勝手に振舞って良いと思う下らない生き物よ。妻の心など踏みにじって他の女に手を出して。あなたもその口なのでしょう」
「――」
「とにかく。リドリーは結婚なんてしなくていいのです。自分の人生を歩むのに男なんて不要です!」
あいた口がふさがりませんよ。
あたしは母の結婚観がここまでいっていることをはじめて突き付けられてしまった。確かに父と母との結婚は幸せなものではないと知っているが、だからといってそこまで思い込み娘の結婚まで拒絶するとは思わなかった。
この見るからにオカシナ男だから反対しているのではない。
母が反対する理由は「結婚など不要、男など要らない」それだけだ。
呆然としたあたしと同様、口八丁手八丁で世の中をひょうひょうと渡りきる変質者は一旦大きく息をついて、やがてその視線をあたしへと向けた。
「リトル・リィ」
「なによ」
「とりあえず今日のところは帰ることにする」
うわっ、負けた。
この男が引き下がった。すごい、母強いっ!?
あたしってば本当にお母さんの血を継いでるかしら? 物凄くその強さを分けて欲しい。
あたしが驚愕に瞳を見開くと、すっと立ち上がり丈の長い神官服に刻まれた皺を払うようなしぐさをした男は悠然と微笑んだ。
「よく考えて」
それはあたしへと向けられた言葉だった。
言葉というか、もう確実に警告。脅し。
冷たい冷笑は底冷えする力を持ち、口元に張り付いた歪んだ微笑は背筋に悪寒を走らせた。
「私が本気になる前に少しばかりお母さんの気持ちをほぐしておいて欲しいな。普通に説得したいと思っているんだ。できればね?」
あたしは背筋に冷たい汗が流れるような感覚を覚え、ひきつりつつこくこくと勢いにまかせてうなずいてしまったが、
だから、あたしはまだ結婚を承知してないんですが!
――あああ、もぉっ。聞いて、人の話っ。
***
あたしの部屋として通された部屋で、あたしは人生について思わず考えたくなった。
薄い桃色の壁紙だとか、レースのクッションだとか、それはそれは愛らしいというかオソロシイ硝子の目が光るドレスを着用した人形だとか。
「……前より凄いことになってる」
以前も随分と可愛らしい部屋だった記憶がある。幾度か泊まった時に「素敵」という言葉よりも「冗談?」という言葉を必死で飲み込んだ部屋だ。
「クロゼットの中に替えの御衣装がございます。お食事の時にはお召し替えを――もしサイズに不備がございましたら手直しする者を用意致しますから」
と執事さんに穏やかに言われたが、おそるおそる開いたクロゼットの中身はおそろしい桃色と愛らしいドレープの洪水でした。
……ティナなら似合うかもしれませんが。
お母さん、あなたはあたしにどんな夢を見ていらっしゃるのか。
絶対に着替えないな。あたしはうんうんとうなずきながらクロゼットの扉を閉ざしたが、その決意はあっけなく覆された。母が満面の笑みでその中からひらっひらのオソロシイ薄紅色の衣装を引き出し、無理やりあたしに合わせ、あげく髪の毛にブラシをかけはじめたのは、ほんの四半刻後のことだった。
トイレ休憩並みの自由よさようなら。
「髪の毛の手入れが良くないわ。毎日光沢がでるように丁寧にブラシをかけているの? オイルは?」
パン屋の店員にそんなものは必要がありません。
「お肌もちょっと乾燥しているのではないかしら? かわいそうに。きちんとお手入れをしなければね?」
母はまるであたしを相手に人形遊びをするように実に楽しそうに語りかけてくるが、先ほどまで彼女の怒りを買いまくっていた男の話はついぞその唇から漏れてこないことにあたしは眉をひそめた。
「あの、母さん?」
「なぁに?」
「……さっきの神殿官のことなんだけど」
「顔がいいからといって騙されてはいけないわ。ああいう男は遊び人なのよ。神殿官なんて高潔そうな職種に見えてきっととても女癖が悪かったりするものなのよ。あなたは男の人への免疫が少ないから、ああいった顔だけの男性に騙されてしまうのよ。可愛そうに」
免疫。
確かに免疫はないけれど、あたしはこれでも結婚間近までいったことがあるので、一応婚約者なんかも――
「あ、そもそもあたしの婚約ってもう解消されてるのよね? マーヴェルはティナと結婚したの? お母さん、何か知ってる?」
あたしはおとなしく母に髪を何度もすき上げられながら、今回の訪問で聞いておきたかったことを思い出した。
母はあたしの髪を梳く手をとめて首をかしげた。
「婚約の話は破談されているわ。私があなたの婚姻の為に出向いて――あなたがいなくなった折りにその話はきちんと済ませておいたから。いつまでもあんな男との縁があるなんて冗談ではないわ」
母の冷たい単調な言い方にあたしは少しだけ心を痛めたが、あたしの結婚式にわざわざ来てくれた筈の母を思えば致し方ない。
何より、母の言葉の冷たさにあたしは瞼を伏せた。
どうして結婚間直で逃げ出してしまったのか、その理由をあたしは言っていない。ただ、結婚したくないということだけを母には告げたのだけれど、母はその理由を知っているのだろうか。
――ティナとマーヴェルのことを。
勇気のないあたしはそのことを今まで母に問いかけることができなかった。
けれど、彼女の言葉の冷たさが如実にそれをあらわしていた。
母は、知っているのだと。
「じゃあ、ティナとマーヴェルは今頃は夫婦になっているかしらね」
さりげなく、なにげない口調で――あたしは言えただろうか?
心臓が少しだけ早くなり、体温の上昇を感じる。何の感情も交えずにさらりと言い切りたいのに。何故、それができないのだろう。
母の顔を見ることができなくて、あたしは後ろを振り返らずに正面だけを向いて言葉にした。一拍、小さな息を呑む声が背後から聞こえたけれど、母はやがて穏やかな調子で口を開いた。
「……さぁ、知らないわ。けれど、前の手紙で書いたわね。一月以上前の話しになるけれど、ティナがあなたを探してここまで来たのよ?」
「ああ、手紙届いたわよ? 聖都からうちのほうまでって結構日数がかかるみたい。手紙届いたのってほんの数日前なんだから」
その手紙がもとでここまで来たのだ。
「あなた、ティナには会った?」
小さな囁くような声に、あたしは首をかしげた。
「あたしの住所教えたの?」
――確か手紙には教えてないとあったと思うのだが。
あたしは数日前に受け取った文面を一度しか読んではいないが、それでも忘れてはいなかった。
ほんの少し心臓がどきどきする。
今更、ティナはあたしに会いたいのだろうか? 幸せになったことを報告? でもそれって何かおかしいわよね?
あたしを探すことでティナに何かいいことってあるかしら。いや、たった二人の姉妹だから、会いたいという純粋な気持ち?
――あたしは、できれば会いたくないなぁ。
そのうちに、数年たてばお互い笑って話せるようになるのかもしれないけれど、たかが一年ちょっとの今はまだ会いたいという気持ちにはなれそうもない。
あたし、心狭い、もしくは弱い?
笑って二人を祝福する! それだけはずっと決めているのに。あたしは未だにその場面がもっと遠い未来であるようにと祈っているのだ。
「教えてはいないのだけれど、ティナが来た時――あの子ときたら私の書斎に入り込んだようなのよ。あそこにはあなたの手紙がおかれていて、その中の一通が無くなっていたものだから心配していたの。いいのよ、顔を出していないのであれば、きっと私の杞憂だったのね。手紙は読み返している時になくなってしまったのかしら。ごめんなさいね」
ほっと息をつく母は「あと……――」と言葉を続けようとしたが、その言葉はそのまま落とされはしなかった。
「母さん?」
「いいえ。何でもないわ。逢いに来てくれて本当に嬉しいわ。けれど、ちょっと時期が悪かったわ。最近この辺りにはおかしな変質者がでるのよ。一人で外に行ったりしては駄目よ?」
おかしな変質者ならさっき部屋にもいましたよ。やけに堂々として爽やか好青年を演じまくってましたが、あれほどおかしな変質者をあたしは他に知りません。
あたしは内心でそう付け加えておいた。
「ほら、リボンをつけてあげましょうね」
どこか強張るような硬い口調をムリに微笑みに変えるように、母はふるふると首を振り、あたしの髪を結わいた。
「まあ、可愛い」
……右と左で揺れるツイン・テールに赤いリボン。
お母さん、あたしもう子供じゃないのでコレは本当に勘弁して下さい。