婿と舅
永久凍土といいながら、実際に触れればそれは氷ではないということがみてとれる。
ひたりと冷たい感触は、むしろ水晶に近い。
だがこれは溶けるのだ。ある一定の条件のもとでそれは急速に溶けていく。
冷たいその感触に手の平と額とを押し当てて目を伏せた男はゆっくり深く呼吸を繰り返した。
――刺すように冷たいというのに、それでも鼓動のようなものを感じることができる。
閉じ込められたソレは今なお、目覚める時を待っているのだから。
自らを閉じ込めた魔法使いを呪い、今なお代替わりを繰り返し自らを閉じ込め続ける魔法使いを憎みながら。
その鼓動を肌で感じ、口元に緩く笑みを刻んだ。
「……それでもおまえを嫌いになれないのは、誰の記憶なのだろうね」
眠り続ける竜の鼓動に触れながら、自嘲気味に微笑んだ。
微笑み、ついで吐息を落とす。
「御用ですか?」
あくまでも無視していたかったが、相手はこの冷たい室に居座るつもりのようで身震いをはじめてしまった。
さすがに放置もできず、苛立ちの含まれる言葉を向ければ、憮然とした言葉が返る。
分厚いローブに身を包んではいるが、この寒さは相当応える筈だ。この地で安息をえられるのは自分くらいしかいないだろう。
その身をこの寒さから守ってやることもできるが、あえてそれはしなかった。
「報告を受けたからな」
「――何もありませんよ」
「下賎な贄を食らったようだな? 具合はどうだ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべていわれ、どうやら心配されているのではなく面白がられているのだということに気付いた。
「あなたを殴り倒したいくらい絶好調です」
「それは良かった」
肩をすくめてニヤリと笑い、壮年の男は面白そうに瞳を細めた。
「男と女、どちらがいい?」
「――」
「帰る時に放り込んでやる」
「必要ありませんよ」
苛立ちが更に募った。
いらいらするのは未だに他人の意識が混濁しているからだろう。暴れだしてしまいそうな何かを必死で押さえ込む。
湧き上がる殺意は自分のものではない。
だというのにそれは吐き気のようにこみ上げてくる。そんな時に限ってわざわざ顔を出してくるのだから悪趣味としか言いようがない。
ある一定の期間は自分が不安定になり他者に対して脅威となりえることなど知っているというのに。
絶対の自信があるからこそ、この男はわざわざ試すように顔を出すのだろう。
「おまえの為に用意した精進潔斎を済ませた特別なモノだ。遠慮など要らん。ペットの餌やりは飼い主の責務だからな」
***
特別列車はその主を失ったまま聖都――しかもその停車駅は一般人が使用できない場所不明の隔離駅に到着した。
トンネルを通って現れたそこは地下なのか、それとも建物の中であるのかも判らない。
判るのは、やけに煌びやかな装飾を施された場であるということだけだった。
――さすが特別列車。
もうナニを見てもあたしは驚かない気がする。
驚きはしないがある種の憤りがある。つまりこれはあたし達のような一般市民がせっせと稼いだお金の一部であり、それを使えるのは特権階級のみ!
別に特権階級が使うのは色々と納得してもいい。それだけの功績だとか色々とあたしのような一庶民にはわからないことが一杯あるのだろうから。
だが! あの変態がそれに列せられると思えばなにかが納得できません!
「お待ちしてましたわー」
駅のプラットホームにはルティアさんと神官服の男性が一人。
あとは列車関係者があわただしく右往左往していた。
あたしはなんだか自分がこんなところにいる意味が判らなくて、どうしていいか判らずに思わず「うっ」と呻いたが、それよりも「げっ」という激しい音がその場を満たした。
自然と視線がその声の主であるエルディバルトさんへと向いたが、それを押し留めるようにルティアさんの隣の男性が一歩近づいて微笑んだ。
栗色の淡い髪を後ろに撫で付け、目じりに柔和な皺を刻んだ紳士。
思わずこちらが気恥ずかしさを覚えてしまうような穏やかで柔らかな物腰のロマンス・グレーな様相に、あたしは自分はもしかしたらおじさん趣味なのではないかと疑ってしまった。
自分の父親がぽってりしているから、こういういかにもなスレンダー系紳士に憧れるのかもしれない。
お父さん……太りすぎ。
「よくおいでくださった。私は神殿官のユリクス――ルティアの養父です。以後お見知りおきを。リドリー・ナフサート嬢」
神官服に多少似ているが確実に仕立ての良さと持つ雰囲気の違う衣装の男性は穏やかそうな口調で笑い、ついでその視線を無邪気なアジス君へと向けた。
目じりの小じわが更に深くなる。
「列車は楽しめたかな」
「すごく楽しかったです」
「それは良かった。お腹がすいてるだろう? 君等は戻るのかもしれないが、その前に私の家で食事をしてから帰りなさい」
言いながらぽんっとアジス君の頭を撫でる。
とても優しそうなユリクスさんは、あたし、アジス君、そしてアマリージェにも声を掛けて食事に誘ったが、その視線は力いっぱいエルディバルトさんを無視した。
彼等二人はあたし達の中に変態の姿が無いことにいささかの不都合も感じていない様子だった。あたしとしてはアレがいないことでものすごくバツが悪いのだが。
「さあ、馬車を用意している。おいでなさい」
穏やかな様子でうながすユリクスさんに、おいてけぼりを食らった様子のエルディバルトさんは戸惑うように声を掛けた。
慌てているのか、エルディバルトさんらしくなく足元をもつれさせたりもしている。
「ユリクス卿、あの、公は」
「ナフサート嬢、好き嫌いはありませんか? 先に言っていていただければ、うちの料理番も心置きなく腕がふるえるでしょう」
「あのー、卿」
エルディバルトさんの手が不自然に宙を泳ぐ。
「アジス君は何でも食べないと駄目だぞ。成長期なのだからね。騎士を目指すのであればなおさらどんなものでも食べないと」
あくまでも爽やかにユリクスさんはアジス君に言うのだが、さすがにアジス君もどうしてよいのか判らないという様子でその視線でもってアマリージェに救いを求めていた。
……無視、していますよね? ものすっごく意図的に。
あたしもアジス君に習って、ちらりとルティアさんとアマリージェへと視線を送ったが、二人とも平然としている。
慌てているのはエルディバルトさんだけで、まるきり彼という存在が――無駄に自己主張の激しかった騎士殿が、完全に閉め出しを食らっていた。
しかし、あんまりエルディバルトさんが「あの」とか「その」とか必死に言葉の間に入ろうとしているのがうざさを呼んだのか、限界に達したのか、ふいにユリクスさんはぴたりと足を止めて冷ややかな眼差しをエルディバルトさんへと向けた。
「おまえは仕事に戻れ。邪魔くさい――おまえが見失ったお方は竜峰におられる」
きっぱりと言い切る言葉に、あたしは複雑なものを感じた。
彼等は一行の中にアレがいないことを承知していたということだ。その事実が何故か奇妙にあたしの胸に沈んだ。
いないことも、そしてどこにいるかも彼等は知っているのだという事実。
やっと声を掛けてもらえたものの、ユリクスさんの口調はそれまでとまったく違うものだった。
威厳のある大人の男の声だ。
はっきりとした意思の強いその物言いは冷たく命令することに慣れたものだった。
「いや、竜峰ならそもそも私が行く意味が無いのだが」
「では自宅にでも帰れ。邪魔くさい。無能」
邪魔臭いを二度もいいました。
おまけに無能まで付きました。
柔和なロマンス・グレーの口から大嫌いオーラ駄々漏れです。
ルティアの養父ということは、つまり婚約者の父親ということで――はて、もっと親しげな関係なのではないだろうか、一般的に。
あたしだってそれほど世情に詳しい訳ではないけれど、少なくともあたしの父とマーヴェルの父親は親しかった。めちゃくちゃ。ああ、違うか――この場合、あたしの父とマーヴェルが親しかったかどうかだから……そこそこ親しかった筈だ。少なくとも会話はしていた。
それとも、反対を押し切って婚約? いや、反対を押し切って結婚ならともかく、反対を押し切って婚約っておかしいか。ここも不思議だなー。
エルディバルトさんは人を殺しそうな恐ろしい目つきでユリクスさんを見やり、突然ルティアさんを呼んだ。
「ルティア」
「なんですかー?」
「私は帰る」
「お気をつけて」
「私は帰ると言っているんだぞっ」
「お疲れ様ですー」
のほんっとルティアさんは言い切り、ほえほえと微笑ながら養父の腕を引いた。
「ルティは牛タンの煮込みシチューが食べたいですー」
「勿論用意させている。では行こうか」
かくてエルディバルトさんは捨てられた。
情け容赦なく。
その時のエルディバルトさんは捨てられた子犬――ではなく巨大犬のようだった。でかい犬だけにいっそう哀れを誘いました。
誰もきっと拾ってくれそうにない。
あたしはユリクスさんの邸宅に行くまでの間に、こっそりとルティアさんに「いいんですか?」とおそるおそる尋ねた。尋ねてよいのか判らなかったが、あたしの知る限り彼女は婚約者に対してものすごーく心を向けていた筈ではなかったろうか。顔を合わせたのはほんの数度だが、その間に腐るほど「エディ様可愛い。エディ様スキー」を聞いてきたのだ。
彼女の感覚は絶対に理解できないと結論を出してはいたが、彼女がどれだけあのオソロシイ騎士殿を好きかは理解している。
何故かこちらがどきどきしてしまった。
二人の関係に亀裂とか入ったりしたらどうしよう。あたしが悪い訳では断じてないのだけれど、とてもどきどきして背中のあたりがもぞもぞとしてしまう。
何故ルティアさんはこんなことをするの?
「ふふふ、これは男と女の駆け引きなのですわー」
ルティアさんはこっそりと、ナイショ話でもするように声を潜めて笑みをこぼした。
「時にはこうして知らんふりをしてあげると、まるでご飯をお預けになってよだれをたらした駄犬のように求めてくださるのですよ! 確実ですっ」
聞かなきゃ良かった……
それに、何故にあなたは時折愛する方を猛獣だとか昆虫だとかさらには駄犬などと言うのか。
アマリージェなどは真っ赤になって隣のアジス君の耳をふさいでいたが、アジス君のほうがこの手の話は詳しそうで、笑いを堪えている様子が見て取れた。
あたしは唇がぎゅむぎゅむと奇妙な笑みを浮かべ、視線をさまよわせてしまった。
男と女のことに口出ししてはいけなかった。
「ふふ、リドリーさんも時には押したり引いたりしてみたら宜しいわー」
「押すも何も」
逃げられたばかりですよ。
あたしは思わず口にしてしまった。
途端にアマリージェとルティアががばりと身を寄せ、ついで思い出すようにアジス君の体をぐいーっと押した。
「なんだよっ」
「女の子の話に加わるのはよくありませんわよっ」
「狭い場所で話してるのが悪いだろ!」
「立派な男は聞かないフリをするものですわよっ」
「この狭さでどうしろってんだよっ」
途端にお子様二人が口げんかをはじめてしまったのでこの話はうやむやになってしまったが、だが女とは恐ろしいイキモノだったのです。
あたしは正直友達という友達がいなかった。だからこういうのはとても――とても、戸惑う。
夕食が済むと、今度は「遅いから部屋を用意させよう」と言う言葉に甘えたあたしだったが、入浴をすませて寝巻きに着替え、ノックの音に首をかしげつつ扉を開けば、そこには同じく寝巻き姿のアマリージェとルティアさん、その腕には枕まで抱えて立っていた。
瞳がらんらんと輝いておいでですが……
もしかして寝る気はないのだろうか。
先に言っておきますが、あたしは友達少ないのでこういうノリはちょっと馴染みがないのです。
逃げられ話をしろとイイマスか?
ムリ! 絶対にムリ!
こんな窮地に陥ることはもしかしてはじめてかもしれない。