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深淵と侵食

 逃げられた。

逃げられました。

ええ、なんだかものの見事に。


 あたしは呆然としつつ、頭がふわふわとする現状でもう一つの個室に入り込み、ばったりとおかれている寝台に寝そべった。

 なんでしょうこのお腹の中にくすぶる激しいふつふつ感は。あたしってば振られた? なにこれ。もういい。もう知りません。変態のくせにっ。

 そう責任転嫁しつつ不貞寝を繰り広げようとしているというのに、感情の発露がなくていつまでも安穏とした眠りなど訪れてはくれなかった。

 そうこうしているうちにストーカーのストーカー――失礼、護衛騎士であるエルディバルトさんが隣の部屋で「公ぅぅぅ」と悲壮な声をあげ、ついでノックの一つもなくこの個室の扉を押し開いた。


「公はいづこか」

「知りません!」

 あたしは力いっぱい睨みつけた。寝台の上から上半身を起こして怒鳴ったあたしの姿に、エルディバルトさんは一瞬びくっとした様子を見せたが、すぐに嘆息を落とした。

「……判った」


 判った? は? 判るんですか?  今の説明でいったいぜんたい何が理解できるというのでしょう。

「居ないのであれば、良い。列車の到着はもうまもなくだ」

って、早くないですか?

と一瞬別のことを考えたが、この列車はもともと各駅停車ではないし、スピードも通常のものと違うのだろう。特権階級って色々ズルイ。

 エルディバルトさんが身を翻そうとするのに対し、あたしは慌てて言葉を投げかけた。


「居なくてもいいって、心当たりがあるってことですか?」

「……公は時折このように心の平静を失われる。そうすると他のものを避けて姿を消してしまわれる――聖水を求めていかれたのだろう」

 苦いものでも食むようにいいながら、ふとエルディバルトさんはその冷たい眼差しをひたりとあたしへと向けた。


「あの方は、贄を召されたのだろう?」


 冷たい口調で淡々と問われ、あたしは眉をひそめた。意味がつかめずに、問い返そうとしたのだが、軽く手を払われる。

「いや、何でもない。ただ食事が悪かっただけだろう――不浄のものを召されると心にふれる。あの方はとても繊細な方だから」


……食事?

は?


 あたしは相手の言葉をゆっくりと心の中でこねくりまわし、口の端を引きつらせた。

フクツウでも召されていたのですかね!?

は? 腹下しですか!?


そんなことであの不機嫌ですか? そんなことであたしは拒絶されましたか? 絶対に殴るよ?


 たかが食べ物であれだけの惨状になれるってどんだけセンサイなんだ?

それはセンサイという言葉を当てはめるべきなのか? まったく意味が判りませんよっ。変質者の分際で心がセンサイだと?

 乙女心のほうがよっぽど繊細ですよ。

あたしは寝台の枕を抱きかかえなおし、ふるふると身を震わせたがやがてゆっくりと呼吸を繰り返して嘆息した。


――心配して損した。

そう思いながら、そっと指輪に触れた。

理由はどうあれ……あれが苦しんでいたのは事実だ。ま、実際のところ極度の食あたりとかは苦しいというのは実体験として理解できる。だからといって破壊活動するほどのことではないのだけれど。

「大丈夫、かな?」

もしかしてマイラおばさんの腹痛のパンが効くかもよ?

そんなふざけたことを思いながら、あたしは窓の外を眺めた。

雨は相変わらず列車の窓を叩き続ける。季節はずれの嵐のように。


***


「婿殿の役立たずぶりと言えば類をみない。いい加減に婚約を破棄してはどうだ」

 神殿と王宮とをつなぐ役割を果たす神殿官という役職につくユリクス卿が、自分の気を落ち着けるように、巨大な竜のレリーフを磨いている。

 そういったものの清掃は年若い神官見習いの仕事だが、その仕事のツメが甘いと磨きはじめてからは、何故かそれがユリクスの趣味となっていた。

 それを呆れた様子でながめながら、彼の養い子であるところのルティアは溜息を落とした。

 相変わらずの侍女姿で。


「エディ様は役立たずではありませんわよー?」

「どこがだ? 今回だとて自分の護衛対象を完全に見失っていたではないか」

「一晩で三回はできます」

 さらりと年頃――を過ぎてはいるが、いまだ未婚の娘から出た言葉に、ユリクスは危うく竜のレリーフに額を打ち付けそうになった。

「時間をおけば四回もできるかもしれません!」

「……そのわりにはおまえの腹が膨らまんのはやっぱり役立たずではないか」

 忌々しげに言い切り、ふと視線をルティアの腹へとむけていた。

そこから産まれ出でる筈の子供は娘でなければいけない。そうして早い段階で良い相手と婚約させるのだ。ルティアの娘であれば麗しい娘になる筈だ。そしてその孫娘は高位貴族、果ては他国との縁故として激しく役立つことだろう。

 男孫は要らない。エルディバルトの家など絶えてしまえ!

ついで養父は体制を整えなおした。

「まったくおまえときたらどうしてそんな馬鹿みたいなことをへらへらと言う娘になってしまったのか。以前のおまえはとても聡明でしとやかな理想的な娘であったというのに」

「まぁ、お義父さま。あほな娘は役立ちますのにー?」

「……確かにな。だが時々本当に阿呆になってしまったのではないかと心が痛む。とりあえずその侍女服はいかがなものだろうか?」

「ふふふ、これを着てるとエディ様の力の入りようが違います」

 こすちゅーむ・ぷれいですわ。

などという娘にユリクスは絶望的な表情を浮かべた。

「今ならまだやり直せる……おまえが望むなら他国の者との縁組を考えないか? 乙女でないのはこのさい仕方がないが、だが」

 嘆息しつつハっとユリクスは息をつめた。

部屋の中央にすえられた聖水の泉。その上空に突然人の姿が現れ、ついで勢いを付けてそのまま落下した。


 激しい水音と同時にしぶきが竜のレリーフにかかり、また自分達も水をかぶった。

ルティアは瞳を瞬き、そしてユリクスはせっかく磨いていた竜をもう一度磨きなおすことに嘆息した。

「竜公……身を清める時は服をお脱ぎになったほうがよろしいですわよー?」

軽口を叩いてみたが、相手からの反応は無い。

ルティアは咄嗟に養父の横腹に手をかけた。

「お義父さま、出ていらして」

「ああ。気をつけなさい」

 ユリクスはちらりと水の中にいる男を一瞥したが、そそくさとその部屋を出ていった。


 ルティアはゆっくりと唇の間から息をつき、それまでのふざけた雰囲気を払拭するようにつめたい眼差しで問いかけた。

「贄の用意は整ってございましたのよ? あなたの負担を軽くする哀れなココロナイ生贄の準備は整っていたわ。それ以外を召されれば心が容易く侵食されると理解なさっている筈ですのに」

「――」

 ビシリと壁に亀裂が入り、聖水を湛えた泉の縁が音をさせて砕ける。

決して狭くはない場であるというのに、泉の中心部から風が渦巻き見えない刃のように場を蹂躙した。

 ルティアの髪が風に巻き上げられ、頬に小さな石礫が当たり痛みを覚える。


 ルティアは嘆息した。

呆れるように口を開こうとした途端、ばさりと水から浮き上がった男は口元に品の無い笑みを浮かべ、その瞳に欲望をみなぎらせている。纏う雰囲気はまったく異質。まったくの別人のものだ。

 麗しいといわれる表情が浅ましい表情に歪んでいるのを見てとるとルティアはいっそう冴え冴えとした視線を向けた。

「ルティア……」

 低い声音で語られ、ルティアはいっそう瞳に険しさを滲ませた。

「おいで」

「ご命令であれば」

 口元を歪ませる男の言葉に、ルティアは平坦な言葉で応えた。

聖水に身を浸しても尚正気を失うような「贄」など想像もしたくない。それとも多量の「贄」を身に宿したのか。神殿が用意するそれとは違うものを取り入れることは初めてのことだろう。今までも清浄な「贄」でさえ心を乱されてきたものだが、今の男はそのココロを完全に「贄」に侵されている。


 過去には「その行為」を楽しむ竜公もいたという。

自らの体内に穢れた魂を取り入れ、自らとは違う残虐性に一時の快楽を覚えた者も。他人の魂を自らに取り入れるというのはそれだけ苦痛なのだ。

 ルティアには想像もつかない。他人のココロが自分のココロを侵食し、入り乱れることなど。挙句それを楽しむなど。だがほんの少しの理解はできる。

――ある種の逃避行為。

 そうでもしなければ他人の魂を奪う行為に自らの心が完全に壊れてしまうのだろう。

いや、もうその時の竜公は完全に壊れていたのだろうが。


 そういう意味では、当代は理想的だった。

苦痛でしかない行いを、それでも粛々と受け入れて自らの殻に閉じこもり一人で耐えていた。確かに苛立ちや気性の荒さもあったが、極力他人との接触を避けてそれを一人で乗りきろうとしていたのだから立派なものだ。

 男の手がルティアを引き寄せる。

荒い息を身近で感じながら、これで正気を取り戻したらまたこの男は絶望するだろうとひそかに笑ってしまった。

 口付けを赦し、それ以上の行いを赦し、あとで激しく虐めてやるのも楽しそうだが、心優しく弱いこの男が自分にした行いで使い物にならなくなっても困る。

他人のココロと自分のココロが交じり合い、欲望が渇望が侵食される。そしてその悪行を、まるでたった一人で寸劇を見るように感じ続けるのだとルティアの祖父が昔教えてくれたものだ。

――必死に自己を守りながら。

 面前の男は完全にタガを外しているようだが。


 唇が触れそうになる瞬間、ルティアはにっこりと口元に笑みを刻んだ。

ぐいっと相手の胸倉を掴み、逆に引き寄せるかのように動かしたがルティアはそのまま相手の急所を膝で蹴り上げ、ついで身が沈んだところでその背に両手を組み合わせた拳を炊き落とした。

怒声をあげた男の体が沈んでばったりと倒れると、膝頭でのしかかるようにして押さえ込んだ。ついでするりとどこからか銀色のナイフを引き抜いて苦しさに喘ぐ男の首筋に押し当て、ルティアは暢気そうな口調で囁いた。


「公、起きてくださいませー?」

 軽く言いつつも警戒は忘れなかった。

もっと強い衝撃が必要ならば、ナイフで刺してみよう――そう思ったところで、膝頭で押さえ込んだ相手から応えが返った。

「……なんだか色々ありがとう」

 泣いているような気もするが、ルティアは気にしなかった。

――少し痙攣しているようにも感じるがまったく気にしなかった。

「しばらくは一人にしておくれ」

「そのように致します。まずはきちんと身を清めてくださいませねー?」

「竜峰に行くよ。ここより……早く落ち着くだろうから」


 苦痛に呻きながら言う言葉に、ルティアは嘆息した。

「時折、あなたはとても自虐的でいらっしゃるわねー。そういう男は嫌いですわー」

「ルティア」

 肩で息をしながら床に伏した男は、苦しげに言葉を続けた。

「……あの子と一緒なら大丈夫だと思ったんだよ。実際、離れるまでは平気だった……少し気を緩めたら、途端にからめとられてしまった。普段通りの贄であれば、今度は確実に押さえ込めるさ」

 深い後悔の言葉を吐き出し、更に苦痛のように呻いた。


「あああっ、でももったいなかったかな? でもあの時は絶対に駄目だったんだ。だってぼくであってぼくじゃない! そんなのは絶対に許容できないっ――」


 呻きながらずるずると聖水の中に入り込むみっともない生き物を、これはいったいナニかしら? とルティアは瞳を瞬いて観察してしまった。



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